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第13話 前妻は、完璧な奥方ではなかった
その日の午後、屋敷の庭はよく晴れていた。
冬の入口らしい薄い陽射しが、刈り込まれた低木の先へ静かに落ちている。鮮やかではないが、冷えた空気の中ではそれだけで十分に明るかった。
私は温室へ続く石畳の途中で立ち止まり、肩に掛けたショールを少しだけ引き寄せる。
午前のやり取りが、まだ胸の中に残っていた。
――私は代わりではありません。
ああ言い切れたことに後悔はない。
ないのだけれど、あまりにもはっきり言葉にしたせいか、今さら自分の声が耳の奥で反響しているようだった。
あの部屋で、グレンは否定しなかった。
ルイスも怒鳴らなかった。
それだけで十分なはずなのに、胸の内は思ったより落ち着かない。
今まで曖昧にしていたものへ、ようやく自分で線を引いたからだろう。
「こんなところにいらしたんですね」
背後から声がして振り返ると、ルイスが立っていた。
今朝と同じ上着姿だが、執務室にいた時ほど肩に力は入っていない。とはいえ、親しげな顔ではない。まだ私を完全に受け入れていないのは、立ち方一つで分かる。
「少し、頭を冷やしたくて」
「冷えすぎるでしょう、この庭では」
「ルイス様こそ」
そう返すと、彼はわずかに口元を歪めた。
笑ったのではなく、笑い損ねたような顔だった。
「姉も、気分が沈むと外へ出たがりました」
彼は私の隣に並ぶでもなく、少し距離を置いた場所で立ち止まる。
「温室か、ここです。寒い時期でも」
私は庭へ視線を戻した。
「意外です」
「何が」
「もっと、部屋できちんと過ごす方かと思っていました」
「そう見えますよね」
ルイスは肩をすくめる。
「皆そう言います。姉は優雅で、落ち着いていて、いつも余裕があって――」
そこで彼は小さく息を吐いた。
「でも、本当はそうでもありませんでした」
その言い方には棘がなかった。
ただ、長く胸の中へ抱えていた事実を、少し疲れた手つきで取り出すような響きがあった。
私はすぐに口を挟まず、黙って待つ。
ルイスもすぐには続きを言わなかった。
白く曇る息が、二人のあいだを短く横切る。
「姉は昔から、“きちんとしている人”でいたがるところがあったんです」
やがて彼は言った。
「家でも、社交でも、誰かの前でも」
「……」
「頼られるのは平気なのに、自分が頼るのは下手でした」
私はその言葉を、静かに胸へ落とす。
分かる、と簡単に言うのは違う気がした。
でも、まったく知らない感覚でもなかった。
「周りは姉を褒めました。しっかりしている、気が利く、立派だって」
ルイスの視線は、私ではなく冬薔薇の剪定跡に向けられている。
「姉も、それを裏切らないようにした。たぶん無意識に」
「期待されていたのね」
「ええ。期待されるのは嫌いじゃなかったと思います。でも」
彼は一度だけ、乾いた笑いを漏らした。
「期待されるって、案外、逃げ道をなくしますよね」
その言葉が、思いのほか真っ直ぐ刺さった。
私は指先をショールの端に埋める。
冷えた布地の感触で、ようやく自分が少しだけ息を止めていたことに気づく。
「姉は、困った時ほど平気な顔をしました」
ルイスは続ける。
「疲れている時ほど、余計に綺麗に笑っていた」
「どうして」
「さあ」
彼は少し考えてから、肩を落とす。
「迷惑をかけたくなかったのかもしれないし、弱って見られるのが嫌だったのかもしれない。あるいは、その両方か」
私は思わず小さく呟く。
「好きだったから、かもしれませんね」
ルイスがこちらを見た。
「誰を」
「グレン様を」
自分でも、ずいぶん踏み込んだことを言ったと思う。
けれど今は、そう口にするのが自然だった。
「好きな相手には、弱っているところを見せにくいことがあります」
「あなたは、そうなんですか」
問い返されて、私は少し困った。
すぐに答えられないのが、ある意味では答えだったのだろう。
「……どうでしょう」
結局そう返すと、ルイスはほんの少しだけ目を細めた。
「姉は、たぶんそうでした」
彼は言う。
「義兄上のことを、ちゃんと大切にしていた。だから余計に、何でもない顔ばかりしていたのかもしれない」
そこまで言ってから、彼は小石をつま先で軽く弾く。
子供っぽい仕草なのに、その横顔は思った以上に疲れて見えた。
「俺はずっと、姉は強いんだと思っていました」
「……」
「困っても何とかできる人だと。だから、少し無理をしていても大丈夫だろうって」
その声が少しだけ低くなる。
「でも違った」
私は何も言わない。
慰めのような言葉を差し挟む気にはなれなかった。
あれこれ言うより、沈黙の方が正しい時もある。
それは最近、少しだけ分かるようになったことだった。
「あなたと話していると」
不意にルイスが言う。
「変な気分になります」
「悪い意味で?」
「半分は」
「半分は?」
「……姉を、ただの完璧な人のままにしておく方が楽だった気がしてくるんです」
私はその言葉に、ゆっくり瞬きをした。
「完璧な人なら」
ルイスが続ける。
「苦しまないでしょう。迷わないし、弱らないし、見落としもない」
「ええ」
「でもそんな人じゃなかったって認めたら、俺も、義兄上も、イレーネも、もっと早く気づけたことがあったんじゃないかってことになる」
その一言で、胸の中にあったいくつかの点が、一本の線でつながる。
イレーネがあの部屋を閉ざしていた理由。
グレンが手紙を受け取れなかった理由。
ルイスが私へぶつける怒り。
みんな、それぞれ違う形で、アデルを“完璧なまま”にしておく方がまだ耐えられたのだ。
完璧な人が不運に失われたのだと思う方が、ずっと楽だ。
その人が苦しんでいたかもしれない、助けを求められなかったかもしれない、間に合わなかった何かを抱えたままだったかもしれないと考えるよりは。
庭の向こうで、風が裸木を鳴らした。
私は小さく息を吐く。
「……私も、似たようなところがあります」
気づけば、そう口にしていた。
ルイスが少しだけ意外そうな顔をする。
「私も、平気な顔をしてしまうことが多いので」
「あなたも?」
「ええ。困っていても、つい」
私は苦笑する。
「その方が、場が荒れないと思ってしまうんです」
ルイスはしばらく黙っていたが、やがてぽつりとこぼす。
「姉もそうでした」
「そう」
たったそれだけの返事なのに、なぜか胸の奥が少しだけあたたかくなった。
前妻と張り合いたいわけではない。
似ていると言われたいわけでもない。
でも“遠すぎる人”ではないと分かるだけで、息がしやすくなることがある。
その時、廊下側から足音がした。
振り返ると、イレーネが少し早足でこちらへ来るところだった。いつもの整った足取りではあるが、今日はわずかに硬い。
「奥様、ルイス様」
彼女は二人の前で一礼する。
「お捜ししました。帳面の件で、旦那様が書庫へと」
「すぐ行きます」
ルイスが答えかけた時、私はふと尋ねた。
「イレーネ」
「はい」
「アデル様は、昔からああいう方だったの?」
ああいう、では曖昧すぎるかもしれない。
けれどイレーネには通じたらしい。
彼女の表情が一瞬だけ揺らいだ。
それから、いつもよりほんの少し低い声で言う。
「奥様は、立派な方でした」
「ええ」
「誰より気がつき、誰よりよく働かれました」
「それは分かるわ」
「では」
「でも」
今度は私が言葉を重ねた。
「完璧だったわけでは、なかったのでしょう?」
イレーネの目が、はっきりと私を見た。
拒絶。
戸惑い。
そして、その奥にある強い執着。
「……奥様は」
彼女はゆっくりと口を開く。
「何をお聞きになりたいのですか」
「本当のことを」
「本当?」
「アデル様が、どういう方だったのか」
イレーネはすぐには答えなかった。
代わりに、傍らのルイスが低く言う。
「イレーネ」
「ルイス様」
「もうやめた方がいい」
「何を、でございますか」
「姉を、都合のいい完璧な人のままにしておくのを」
その言い方は、昨日までのルイスとは違った。
怒りではなく、痛みを含んだ声だった。
イレーネの顔色が変わる。
「私は、都合よくなど」
「してるよ」
ルイスは珍しくはっきり言い切った。
「皆そうしてる。俺も、義兄上も、あなただって」
「……」
「姉が強かったことにしておけば、自分が気づけなかったことを考えなくて済むからだろう」
その一言が落ちた瞬間、庭の空気まで張りつめた気がした。
イレーネの唇が細く引き結ばれる。
反論しようとするのに、言葉が見つからないのだと分かった。
「奥様は」
彼女はようやく絞り出すように言う。
「弱い方ではありませんでした」
「ええ」
私は頷く。
「でも、弱くないことと、助けがいらないことは別でしょう」
イレーネは息を呑む。
私はそれ以上責めるつもりはなかった。
責めたところで、たぶん彼女はもっと固く閉じるだけだ。
けれどルイスは違った。
「立派だったから、死んだんじゃない」
彼が言う。
声音は低いのに、妙にはっきり響いた。
「姉が立派だったことと、苦しまなかったことは別だ」
イレーネが目を見開く。
その表情には傷ついた色もあった。
けれど、否定しきれない苦しさも同じだけ見えた。
誰もすぐには言葉を継げない。
風が吹き、ショールの端を揺らす。
私はそれを押さえながら、自分の胸の内を確かめていた。
前妻アデルは、完璧な奥方ではなかった。
それは彼女の価値を下げることではない。
むしろ逆だ。
ようやく、手の届かない偶像ではなく、一人の人間としてここに立ち上がるのだ。
その時、廊下の奥からもう一つ足音が近づいた。
グレンだった。
彼は庭先の張りつめた空気を一目で察したらしく、すぐには何も言わない。ただ、私たち三人を順に見たあと、視線を少しだけ落とす。
「……何の話を」
「姉の話です」
ルイスが答える。
「完璧な人ではなかった、という話」
グレンの表情が、ほんのわずかに動いた。
否定もしない。
肯定もできない。
そんな揺れ方だった。
「私は」
彼は静かに言う。
「彼女が平気ではない時にも、そう見えてしまっていたのかもしれません」
それは言い訳ではなかった。
ただ、自分の中へ向けた確認のような言葉だった。
ルイスは兄を見る。
イレーネは何も言わず、唇を噛むように伏せ目がちになる。
私は三人のあいだに立つ空気を感じながら、ようやくはっきり理解する。
この家で解かなければならないのは、前妻の影そのものではない。
その影に、それぞれが自分の後悔や痛みを預けてしまっていることなのだ。
だから簡単には終わらない。
でも、今ようやく、皆が同じ方角を見始めている気もした。
完璧ではなかった。
だからこそ、ちゃんと見なければならない。
私は無意識に、自分の指をきゅっと握る。
この話は、きっとまだ途中だ。
けれど少なくとも今日、アデルはまた少しだけ“遠い人”ではなくなった。
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