婚約破棄のショックよりも「本日のメインディッシュ」が気になりますわ

萩月

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王宮を追い出され、夜の静寂に包まれたベルガモット公爵邸へと戻ったカナメアを待っていたのは、雷のような父の怒声だった。


「カナメア! 貴様、一体何を考えているんだ!」


公爵邸の重厚な玄関ホールに、父・ベルガモット公爵の声が響き渡る。


傍らでは、母がハンカチを握りしめて「ああ、なんてこと……」と嘆き、使用人たちは壁際で石像のように固まっていた。


「何って、お父様。見ての通り、夜風に吹かれて帰宅したところですわ。あ、ついでに婚約も破棄されてきました」


カナメアは、まるで「明日の天気は晴れですね」とでも言うような軽やかさで答えた。


「『ついでに』だと!? 王家との婚約がどれほど重要か分かっているのか! しかも、あんな公衆の面前で食事を優先して追い出されるなど、我が家の恥だ!」


「お言葉ですがお父様。恥よりも先に、私には救済が訪れたのです」


カナメアは一歩前に出ると、自分のウエストを両手で示した。


「見てください、このコルセットで締め上げられた窮屈な体。これまでは『王妃たるもの、柳のような腰つきでなければならない』というお父様の厳しい教育により、私は霜降りのステーキを何枚諦めてきたことか!」


「それは貴族としての嗜みだろうが!」


「いいえ、それは食への冒涜ですわ。あぶら身……。あぶら身こそが、魂を震わせる悦びなのです。赤身の旨味も否定しませんが、あの熱で溶け出した脂が舌の上で甘く広がる瞬間こそ、神の慈悲というもの!」


カナメアの瞳が、狂気にも似た情熱で爛々と輝き始めた。


「もう我慢する必要はありません。私は今日、ジュリアス王子から自由を贈られたのです。お父様、私を追放してくださって構いませんわ。いえ、むしろ今すぐ追放してください!」


「……貴様、本当に正気か?」


あまりの勢いに、公爵は怒りを通り越して引き気味に問いかけた。


「これ以上なく正気ですわ。さあ、身一つで放り出される準備はできています。……あ、身一つと言いましたが、私の私物である『特注のスパイスセット』と『燻製用チップ』だけは持っていきますわね」


「待ちなさい、カナメア! 女の子が夜中に家を飛び出して、一体どこへ行くつもりなの!」


母がようやく口を開いたが、カナメアの決意は揺るがない。


「お母様、ご安心を。私には目指すべき聖地があります。王都の北、美食家たちの間でささやかれる伝説の裏通り……通称『ギトギト小路』ですわ」


「名前からして不吉すぎるでしょう!」


「そこには、注文を受けてからラードで二度揚げする骨付き肉の店があるのです。王妃教育を受けていた私には、決して踏み込めなかった禁断の地……。ですが今の私は、ただの食いしん坊なカナメア! 怖いものなどありません!」


カナメアはドレスの裾を自ら引きちぎり、動きやすいように膝丈まで短くした。


その手際の良さに、周囲はもはや止める言葉も失っていた。


「お父様、今まで育ててくれてありがとうございました。この二十年間、私が最も感謝しているのは、最高級の料理人を雇ってくれたことです。おかげで私の舌は、どんな微妙な味付けも見逃さない最強の武器となりました」


「……勝手にしろ。もう好きにするがいい。だが、二度とこの家の敷居を跨げると思うなよ!」


「はい! 美味しいお土産が手に入った時だけ、塀の向こうから投げ入れておきますわ!」


カナメアはにっこりと微笑むと、事前に用意していた旅行鞄(中身の八割は乾燥食材と調味料である)を掴んだ。


「それでは皆様、ご機嫌よう! 私の胃袋に幸あれ!」


軽快な足取りで、カナメアは夜の街へと駆け出していった。


公爵邸の門をくぐり、自由な空気を吸い込んだ彼女が最初に向かったのは、宣言通りの『ギトギト小路』。


街灯もまばらな路地裏に、その店はあった。


看板には大きく『脂の暴力』と書かれている。


「……これよ。この、店の外まで漂ってくる、焦げたラードとニンニクの暴力的な香り。これこそが自由の味だわ」


カナメアは迷うことなく、店の暖簾をくぐった。


カウンターだけの狭い店内には、荒々しい身なりの男たちが数人、無言で肉に食らいついている。


場違いなドレス姿(しかもボロボロ)の令嬢が現れたことに、店内の空気は一瞬凍りついたが、カナメアは動じない。


「親父さん。一番脂の乗った部位を、特大サイズで。あと、ガーリックライスも多めでお願いします」


「……おう。お嬢ちゃん、金は持ってるんだろうな?」


「もちろんです。婚約破棄の慰謝料として、王子の財布からくすねた金貨がありますから」


カナメアはカウンターに金貨を叩きつけた。


やがて運ばれてきたのは、もはや肉というよりは、脂の塊のようなステーキ。


カナメアはナイフも使わず、フォークでその塊を突き刺すと、大きな口を開けて食らいついた。


「っ……! 美味しい……! 舌の上で脂が爆発して、脳を直接殴ってくるような……なんて背徳的な味なのかしら!」


彼女の頬を、涙が伝った。


それは失恋の涙ではなく、長年の空腹(食事制限)から解放された歓喜の涙だった。


その時。


隣の席に座っていた、フードを深く被った大柄な男が、ポツリと呟いた。


「……いい食いっぷりだ。だが、その肉なら岩塩よりも、東方の黒胡椒を試すべきだったな」


カナメアは咀嚼を止め、隣の男を凝視した。


「黒胡椒……? いいえ、この脂の甘みを引き立てるなら、山葵(わさび)に近いツーンとした刺激の方が合うはずですわ。親父さん、ここへ薬味を!」


「ほう、分かっているな」


男がフードを脱ぐ。


そこには、王宮の夜会でカナメアをじっと見つめていたあの男、ヴィンセント・ハルバードの顔があった。


「あ……。あなたは、確か、不愛想で怖そうな辺境伯様?」


「ヴィンセントだ。……まさか公爵令嬢が、夜中にこんな店で肉の脂に感動しているとはな」


二人の美食家が、脂ぎったカウンター越しに運命の再会を果たした瞬間であった。
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