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王都の朝は早い。
特に西門近くに広がる市場は、地方から運び込まれたばかりの新鮮な食材と、それを求める料理人たちの熱気で、夜明け前から沸き立っている。
昨夜、公爵家を飛び出し、場末の宿で泥のように眠ったカナメアは、胃袋からの「燃料を投下せよ」という力強い信号によって目を覚ました。
「……ふふ、お父様の顔色を伺わなくていい朝が、これほどまでに清々しいなんて」
彼女は昨日ちぎったドレスを、さらに動きやすく改造していた。
余った布地を腰に巻き、即席のスパイスポーチをぶら下げる。
鏡に映るのは、公爵令嬢としての品位をどこかに置き忘れた、食欲の権化のような娘の姿だ。
「さて、記念すべき『自由の初陣』、朝食は何にしましょうか」
カナメアが鼻をひくつかせながら市場を歩くと、数多の香りが彼女の感覚を刺激した。
焼き立てのパンの香ばしさ、新鮮な魚介の磯の香り、そしてどこからか漂ってくる、鼻腔をくすぐるスパイシーな刺激。
「……見つけた。あれこそが今日の私の胃袋を統治するにふさわしいメインディッシュだわ」
彼女が突き進んだ先にあったのは、市場の端に店を構える、煤(すす)けた屋台だった。
そこでは無骨な店主が、鉄板の上で厚切りの『黒豚のベーコン』と『地鶏の有精卵』を豪快に焼き上げている。
「おじ様、それを一つ。パンは全粒粉のものを、カリカリに焼いて挟んでちょうだい。あ、あとその横で焼いているハーブソーセージも二本追加で」
「おう、お嬢ちゃん。景気がいいな。……ん? その服、どっかの貴族様じゃないのか?」
店主が不審そうにカナメアのボロボロのドレスを見たが、彼女は王子の財布から取り出した銀貨を指先で弾いて見せた。
「今はただの腹ペコな旅人よ。それより早く、その卵の黄身が固まりすぎる前に仕上げて!」
「ははっ、分かったよ!」
ジューッ、という心地よい音と共に、肉の焼ける脂の香りが爆発する。
カナメアが涎を堪えながら完成を待っていると、不意に背後に巨大な影が差した。
市場の喧騒が、その影の主が現れた瞬間にスッと引いていく。
「……店主、私にも同じものを。ただし、ソーセージは三本だ」
地響きのような低い声。
カナメアが振り向くと、そこには昨日『ギトギト小路』で出会ったはずの男、ヴィンセント・ハルバードが立っていた。
彼は今日も今日とて、周囲の人間を怯えさせるほどの強面(こわもて)を隠そうともせずに立っている。
「あら、ヴィンセント様。辺境伯ともあろうお方が、このような庶民的な場所で朝食を?」
「カナメア殿か。……言ったはずだ、私は現場の味を重んじると。それに、ハルバード領への出発を前に、この王都で唯一『まともな火入れ』をするこの店の味を叩き込んでおきたかった」
「まあ、気が合いますわね。私もここの店主の鉄板捌きには一目置いていたところですの」
二人が平然と会話を交わしている間も、周囲の商人や客たちは「死神と、その仲間の魔女か?」と言わんばかりの距離を保っている。
「はいよ、二人分だ! 焼きたてだ、火傷しなさんなよ!」
紙に包まれたアツアツのサンドイッチが差し出される。
カナメアはそれを受け取ると、我慢できずにその場で大きく口を開けた。
「……いただきますっ!」
ガブリ、と噛み付いた瞬間、カリッとしたパンの食感に続き、溢れ出すベーコンの濃厚な脂と、半熟卵のまろやかな黄身が口の中で渾然一体となった。
「っ……! 美味しい……! このベーコン、燻製の香りがしっかりしているわ。それでいて塩気が強すぎず、卵の甘みを引き立てている。何より、この野生味溢れるソーセージの肉感……最高だわ!」
「ふん、合格点だな」
ヴィンセントもまた、大きな口でサンドイッチを半分ほど一気に平らげた。
「だがカナメア殿、このサンドイッチを完成させる最後のピースが足りないとは思わないか?」
「最後の、ピース……?」
カナメアが首を傾げると、ヴィンセントは懐から小さな小瓶を取り出した。
「これを使ってみろ。我が領で採れる『雪解け山わさび』を加工した特製ソースだ」
「わさびのソース……?」
カナメアは半信半疑で、自分の食べかけのサンドイッチにその緑色のソースを数滴垂らした。
そして、再び一口。
「……っ!? な、何これ……!?」
鼻に抜ける爽やかな辛味。
それがベーコンのしつこい脂を一瞬で洗い流し、肉の旨味だけを鮮烈に際立たせている。
「素晴らしいわ! 脂の重たさが消えて、いくらでも食べられそうな錯覚に陥る……。辛味の後に来るほのかな甘み、これが辺境の味なのね!?」
「そうだ。これこそが私の領地の力の一端だ」
ヴィンセントは満足げに頷くと、残りのサンドイッチを口に放り込んだ。
「カナメア殿、準備はいいか。私の馬車はもう北門に待機させている」
「ええ、もちろんよ! このソースの正体を突き止めるためなら、世界の果てまでだって付いていくわ!」
カナメアは最後の一口を飲み込み、指に付いたソースまで名残惜しそうに舐めとった。
市場の喧騒の中、一人の令嬢と一人の辺境伯が、パンの屑を散らしながら歩き出す。
その向かう先には、まだ誰も知らない美食のフロンティアが広がっているのだ。
「あ、ヴィンセント様! 馬車の中での間食は用意してありますの? なければ今すぐ市場を一周して買い込みますわよ!」
「……三日分は積み込ませてある。安心しろ、私を誰だと思っている」
「さすが辺境伯様、話が早くて助かりますわ!」
高らかな笑い声を上げながら、カナメアの新たな冒険が、朝食の香りとともに始まった。
特に西門近くに広がる市場は、地方から運び込まれたばかりの新鮮な食材と、それを求める料理人たちの熱気で、夜明け前から沸き立っている。
昨夜、公爵家を飛び出し、場末の宿で泥のように眠ったカナメアは、胃袋からの「燃料を投下せよ」という力強い信号によって目を覚ました。
「……ふふ、お父様の顔色を伺わなくていい朝が、これほどまでに清々しいなんて」
彼女は昨日ちぎったドレスを、さらに動きやすく改造していた。
余った布地を腰に巻き、即席のスパイスポーチをぶら下げる。
鏡に映るのは、公爵令嬢としての品位をどこかに置き忘れた、食欲の権化のような娘の姿だ。
「さて、記念すべき『自由の初陣』、朝食は何にしましょうか」
カナメアが鼻をひくつかせながら市場を歩くと、数多の香りが彼女の感覚を刺激した。
焼き立てのパンの香ばしさ、新鮮な魚介の磯の香り、そしてどこからか漂ってくる、鼻腔をくすぐるスパイシーな刺激。
「……見つけた。あれこそが今日の私の胃袋を統治するにふさわしいメインディッシュだわ」
彼女が突き進んだ先にあったのは、市場の端に店を構える、煤(すす)けた屋台だった。
そこでは無骨な店主が、鉄板の上で厚切りの『黒豚のベーコン』と『地鶏の有精卵』を豪快に焼き上げている。
「おじ様、それを一つ。パンは全粒粉のものを、カリカリに焼いて挟んでちょうだい。あ、あとその横で焼いているハーブソーセージも二本追加で」
「おう、お嬢ちゃん。景気がいいな。……ん? その服、どっかの貴族様じゃないのか?」
店主が不審そうにカナメアのボロボロのドレスを見たが、彼女は王子の財布から取り出した銀貨を指先で弾いて見せた。
「今はただの腹ペコな旅人よ。それより早く、その卵の黄身が固まりすぎる前に仕上げて!」
「ははっ、分かったよ!」
ジューッ、という心地よい音と共に、肉の焼ける脂の香りが爆発する。
カナメアが涎を堪えながら完成を待っていると、不意に背後に巨大な影が差した。
市場の喧騒が、その影の主が現れた瞬間にスッと引いていく。
「……店主、私にも同じものを。ただし、ソーセージは三本だ」
地響きのような低い声。
カナメアが振り向くと、そこには昨日『ギトギト小路』で出会ったはずの男、ヴィンセント・ハルバードが立っていた。
彼は今日も今日とて、周囲の人間を怯えさせるほどの強面(こわもて)を隠そうともせずに立っている。
「あら、ヴィンセント様。辺境伯ともあろうお方が、このような庶民的な場所で朝食を?」
「カナメア殿か。……言ったはずだ、私は現場の味を重んじると。それに、ハルバード領への出発を前に、この王都で唯一『まともな火入れ』をするこの店の味を叩き込んでおきたかった」
「まあ、気が合いますわね。私もここの店主の鉄板捌きには一目置いていたところですの」
二人が平然と会話を交わしている間も、周囲の商人や客たちは「死神と、その仲間の魔女か?」と言わんばかりの距離を保っている。
「はいよ、二人分だ! 焼きたてだ、火傷しなさんなよ!」
紙に包まれたアツアツのサンドイッチが差し出される。
カナメアはそれを受け取ると、我慢できずにその場で大きく口を開けた。
「……いただきますっ!」
ガブリ、と噛み付いた瞬間、カリッとしたパンの食感に続き、溢れ出すベーコンの濃厚な脂と、半熟卵のまろやかな黄身が口の中で渾然一体となった。
「っ……! 美味しい……! このベーコン、燻製の香りがしっかりしているわ。それでいて塩気が強すぎず、卵の甘みを引き立てている。何より、この野生味溢れるソーセージの肉感……最高だわ!」
「ふん、合格点だな」
ヴィンセントもまた、大きな口でサンドイッチを半分ほど一気に平らげた。
「だがカナメア殿、このサンドイッチを完成させる最後のピースが足りないとは思わないか?」
「最後の、ピース……?」
カナメアが首を傾げると、ヴィンセントは懐から小さな小瓶を取り出した。
「これを使ってみろ。我が領で採れる『雪解け山わさび』を加工した特製ソースだ」
「わさびのソース……?」
カナメアは半信半疑で、自分の食べかけのサンドイッチにその緑色のソースを数滴垂らした。
そして、再び一口。
「……っ!? な、何これ……!?」
鼻に抜ける爽やかな辛味。
それがベーコンのしつこい脂を一瞬で洗い流し、肉の旨味だけを鮮烈に際立たせている。
「素晴らしいわ! 脂の重たさが消えて、いくらでも食べられそうな錯覚に陥る……。辛味の後に来るほのかな甘み、これが辺境の味なのね!?」
「そうだ。これこそが私の領地の力の一端だ」
ヴィンセントは満足げに頷くと、残りのサンドイッチを口に放り込んだ。
「カナメア殿、準備はいいか。私の馬車はもう北門に待機させている」
「ええ、もちろんよ! このソースの正体を突き止めるためなら、世界の果てまでだって付いていくわ!」
カナメアは最後の一口を飲み込み、指に付いたソースまで名残惜しそうに舐めとった。
市場の喧騒の中、一人の令嬢と一人の辺境伯が、パンの屑を散らしながら歩き出す。
その向かう先には、まだ誰も知らない美食のフロンティアが広がっているのだ。
「あ、ヴィンセント様! 馬車の中での間食は用意してありますの? なければ今すぐ市場を一周して買い込みますわよ!」
「……三日分は積み込ませてある。安心しろ、私を誰だと思っている」
「さすが辺境伯様、話が早くて助かりますわ!」
高らかな笑い声を上げながら、カナメアの新たな冒険が、朝食の香りとともに始まった。
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