婚約破棄のショックよりも「本日のメインディッシュ」が気になりますわ

萩月

文字の大きさ
5 / 28

5

王都の朝は早い。


特に西門近くに広がる市場は、地方から運び込まれたばかりの新鮮な食材と、それを求める料理人たちの熱気で、夜明け前から沸き立っている。


昨夜、公爵家を飛び出し、場末の宿で泥のように眠ったカナメアは、胃袋からの「燃料を投下せよ」という力強い信号によって目を覚ました。


「……ふふ、お父様の顔色を伺わなくていい朝が、これほどまでに清々しいなんて」


彼女は昨日ちぎったドレスを、さらに動きやすく改造していた。


余った布地を腰に巻き、即席のスパイスポーチをぶら下げる。


鏡に映るのは、公爵令嬢としての品位をどこかに置き忘れた、食欲の権化のような娘の姿だ。


「さて、記念すべき『自由の初陣』、朝食は何にしましょうか」


カナメアが鼻をひくつかせながら市場を歩くと、数多の香りが彼女の感覚を刺激した。


焼き立てのパンの香ばしさ、新鮮な魚介の磯の香り、そしてどこからか漂ってくる、鼻腔をくすぐるスパイシーな刺激。


「……見つけた。あれこそが今日の私の胃袋を統治するにふさわしいメインディッシュだわ」


彼女が突き進んだ先にあったのは、市場の端に店を構える、煤(すす)けた屋台だった。


そこでは無骨な店主が、鉄板の上で厚切りの『黒豚のベーコン』と『地鶏の有精卵』を豪快に焼き上げている。


「おじ様、それを一つ。パンは全粒粉のものを、カリカリに焼いて挟んでちょうだい。あ、あとその横で焼いているハーブソーセージも二本追加で」


「おう、お嬢ちゃん。景気がいいな。……ん? その服、どっかの貴族様じゃないのか?」


店主が不審そうにカナメアのボロボロのドレスを見たが、彼女は王子の財布から取り出した銀貨を指先で弾いて見せた。


「今はただの腹ペコな旅人よ。それより早く、その卵の黄身が固まりすぎる前に仕上げて!」


「ははっ、分かったよ!」


ジューッ、という心地よい音と共に、肉の焼ける脂の香りが爆発する。


カナメアが涎を堪えながら完成を待っていると、不意に背後に巨大な影が差した。


市場の喧騒が、その影の主が現れた瞬間にスッと引いていく。


「……店主、私にも同じものを。ただし、ソーセージは三本だ」


地響きのような低い声。


カナメアが振り向くと、そこには昨日『ギトギト小路』で出会ったはずの男、ヴィンセント・ハルバードが立っていた。


彼は今日も今日とて、周囲の人間を怯えさせるほどの強面(こわもて)を隠そうともせずに立っている。


「あら、ヴィンセント様。辺境伯ともあろうお方が、このような庶民的な場所で朝食を?」


「カナメア殿か。……言ったはずだ、私は現場の味を重んじると。それに、ハルバード領への出発を前に、この王都で唯一『まともな火入れ』をするこの店の味を叩き込んでおきたかった」


「まあ、気が合いますわね。私もここの店主の鉄板捌きには一目置いていたところですの」


二人が平然と会話を交わしている間も、周囲の商人や客たちは「死神と、その仲間の魔女か?」と言わんばかりの距離を保っている。


「はいよ、二人分だ! 焼きたてだ、火傷しなさんなよ!」


紙に包まれたアツアツのサンドイッチが差し出される。


カナメアはそれを受け取ると、我慢できずにその場で大きく口を開けた。


「……いただきますっ!」


ガブリ、と噛み付いた瞬間、カリッとしたパンの食感に続き、溢れ出すベーコンの濃厚な脂と、半熟卵のまろやかな黄身が口の中で渾然一体となった。


「っ……! 美味しい……! このベーコン、燻製の香りがしっかりしているわ。それでいて塩気が強すぎず、卵の甘みを引き立てている。何より、この野生味溢れるソーセージの肉感……最高だわ!」


「ふん、合格点だな」


ヴィンセントもまた、大きな口でサンドイッチを半分ほど一気に平らげた。


「だがカナメア殿、このサンドイッチを完成させる最後のピースが足りないとは思わないか?」


「最後の、ピース……?」


カナメアが首を傾げると、ヴィンセントは懐から小さな小瓶を取り出した。


「これを使ってみろ。我が領で採れる『雪解け山わさび』を加工した特製ソースだ」


「わさびのソース……?」


カナメアは半信半疑で、自分の食べかけのサンドイッチにその緑色のソースを数滴垂らした。


そして、再び一口。


「……っ!? な、何これ……!?」


鼻に抜ける爽やかな辛味。


それがベーコンのしつこい脂を一瞬で洗い流し、肉の旨味だけを鮮烈に際立たせている。


「素晴らしいわ! 脂の重たさが消えて、いくらでも食べられそうな錯覚に陥る……。辛味の後に来るほのかな甘み、これが辺境の味なのね!?」


「そうだ。これこそが私の領地の力の一端だ」


ヴィンセントは満足げに頷くと、残りのサンドイッチを口に放り込んだ。


「カナメア殿、準備はいいか。私の馬車はもう北門に待機させている」


「ええ、もちろんよ! このソースの正体を突き止めるためなら、世界の果てまでだって付いていくわ!」


カナメアは最後の一口を飲み込み、指に付いたソースまで名残惜しそうに舐めとった。


市場の喧騒の中、一人の令嬢と一人の辺境伯が、パンの屑を散らしながら歩き出す。


その向かう先には、まだ誰も知らない美食のフロンティアが広がっているのだ。


「あ、ヴィンセント様! 馬車の中での間食は用意してありますの? なければ今すぐ市場を一周して買い込みますわよ!」


「……三日分は積み込ませてある。安心しろ、私を誰だと思っている」


「さすが辺境伯様、話が早くて助かりますわ!」


高らかな笑い声を上げながら、カナメアの新たな冒険が、朝食の香りとともに始まった。
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

聖女様と間違って召喚された腐女子ですが、申し訳ないので仕事します!

碧桜
恋愛
私は花園美月。20歳。派遣期間が終わり無職となった日、馴染の古書店で顔面偏差値高スペックなイケメンに出会う。さらに、そこで美少女が穴に吸い込まれそうになっていたのを助けようとして、私は古書店のイケメンと共に穴に落ちてしまい、異世界へ―。実は、聖女様として召喚されようとしてた美少女の代わりに、地味でオタクな私が間違って来てしまった! 落ちたその先の世界で出会ったのは、私の推しキャラと見た目だけそっくりな王(仮)や美貌の側近、そして古書店から一緒に穴に落ちたイケメンの彼は、騎士様だった。3人ともすごい美形なのに、みな癖強すぎ難ありなイケメンばかり。 オタクで人見知りしてしまう私だけど、元の世界へ戻れるまで2週間、タダでお世話になるのは申し訳ないから、お城でメイドさんをすることにした。平和にお給料分の仕事をして、異世界観光して、2週間後自分の家へ帰るつもりだったのに、ドラゴンや悪い魔法使いとか出てきて、異能を使うイケメンの彼らとともに戦うはめに。聖女様の召喚の邪魔をしてしまったので、美少女ではありませんが、地味で腐女子ですが出来る限り、精一杯頑張ります。 ついでに無愛想で苦手と思っていた彼は、なかなかいい奴だったみたい。これは、恋など始まってしまう予感でしょうか!? *カクヨムにて先に連載しているものを加筆・修正をおこなって掲載しております

拝啓~私に婚約破棄を宣告した公爵様へ~

岡暁舟
恋愛
公爵様に宣言された婚約破棄……。あなたは正気ですか?そうですか。ならば、私も全力で行きましょう。全力で!!!

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜

まりー
恋愛
   ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。  でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。    

刺繍妻

拓海のり
恋愛
男爵令嬢メアリーは魔力も無くて、十五歳で寄り親の侯爵家に侍女見習いとして奉公に上がった。二十歳まで務めた後、同じ寄り子の子爵家に嫁に行ったが。九千字ぐらいのお話です。

悪役令嬢と転生ヒロイン

みおな
恋愛
「こ、これは・・・!」  鏡の中の自分の顔に、言葉をなくした。 そこに映っていたのは、青紫色の髪に瞳をした、年齢でいえば十三歳ほどの少女。  乙女ゲーム『タンザナイトの乙女』に出てくるヒロイン、そのものの姿だった。  乙女ゲーム『タンザナイトの乙女』は、平民の娘であるヒロインが、攻略対象である王太子や宰相の息子たちと交流を深め、彼らと結ばれるのを目指すという極々ありがちな乙女ゲームである。  ありふれた乙女ゲームは、キャラ画に人気が高まり、続編として小説やアニメとなった。  その小説版では、ヒロインは伯爵家の令嬢となり、攻略対象たちには婚約者が現れた。  この時点で、すでに乙女ゲームの枠を超えていると、ファンの間で騒然となった。  改めて、鏡の中の姿を見る。 どう見ても、ヒロインの見た目だ。アニメでもゲームでも見たから間違いない。  問題は、そこではない。 着ているのがどう見ても平民の服ではなく、ドレスだということ。  これはもしかして、小説版に転生?  

ある日、私は事故で死んだ───はずなのに、目が覚めたら事故の日の朝なんですけど!?

ねーさん
恋愛
   アイリスは十六歳の誕生日の前の日に、姉ヴィクトリアと幼なじみジェイドと共に馬車で王宮に向かう途中、事故に遭い命を落とした───はずだったが、目覚めると何故か事故の日の朝に巻き戻っていた。  何度もその日を繰り返して、その度事故に遭って死んでしまうアイリス。  何度目の「今日」かもわからなくなった頃、目が覚めると、そこにはヴィクトリアの婚約者で第三王子ウォルターがいた。  「明日」が来たんだわ。私、十六歳になれたんだ…