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ハルバード領の冬は、どこまでも澄み渡った青空と、銀世界を包み込むような清廉な空気に満ちていた。
しかし、本日のハルバード城内は、その冷気を一気に吹き飛ばすほどの熱気と、全方位から押し寄せる「至高の香り」に支配されていた。
「……お、重い。お父様、このドレス、昨日の試着の時より確実にウエストが三センチほど縮んでおりませんこと?」
純白のシルクに最高級のレースをあしらったウェディングドレスに身を包んだカナメアが、コルセットの締め付けに眉を寄せていた。
「当たり前だろう! 昨晩の『前夜祭』と称して、貴様が羊の丸焼きを半分も平らげたからだ!」
王都からしぶしぶ、しかし内心では娘の幸せを願って駆けつけたベルガモット公爵が、呆れ顔で娘を叱り飛ばした。
「仕方ありませんわ。あの炭火の香ばしさと、熟成された肉の旨味が、私を呼んでいたのですもの。……ああ、それよりお父様、披露宴の第一皿目は、予定通り『黄金ハチミツのフォアグラソテー』で間違いありませんわね?」
「……式の進行よりも献立を気にする花嫁がどこにいる。……まあ、いい。今日ばかりはお前のその『底なしの情熱』に、領民も、そして夫となるあの男も期待しているようだからな」
公爵の言葉通り、城の外では数千人の領民たちが、今か今かと「婚礼の宴」の始まりを待っていた。
式典のチャイムが鳴り響き、大広間の扉が開かれる。
カナメアを待っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだヴィンセントだった。
その強面(こわもて)は相変わらずだが、彼女を迎える眼差しには、砂糖を煮詰めたような甘い慈しみが湛えられている。
「……カナメア殿。今日も、最高に美味しそうな……失礼、美しい姿だ」
「ヴィンセント様、今の言い直し、わざとですわね? ……でも、嬉しいですわ。今日の私は、世界で一番甘くて濃厚な『メインディッシュ』になる覚悟で参りましたの」
二人は腕を組み、神官の前へと進んだ。
誓いの言葉。指輪の交換。本来であれば感動の涙が流れるはずの場面だが、参列者たちの視線は、壇上の背後に並べられた巨大な銀のクロッシュ(蓋)に釘付けになっていた。
「……それでは、ハルバード辺境伯ヴィンセント、ならびにカナメア。二人の門出を祝し、ここに『最初の共同作業』を執り行う!」
神官の宣言と共に、ヴィンセントが愛剣を引き抜いた。
カナメアがその手に添える。二人の前にあるのは、ウェディングケーキではない。
この日のために特別に焼き上げられた、重さ五十キロを超える『超特大・黄金ハチミツ漬けの牛パイ包み焼き』である!
「さあ、カナメア殿。……切り分けるぞ。私たちの幸福の、この肉汁を!」
「はい! 一滴も逃さず、皆で分かち合いましょう!」
剣がパイ生地に突き立てられた瞬間、ザクッ! という快音が響き、中からあの伝説のハチミツと肉汁が混ざり合った、黄金色の蒸気が噴き出した。
広場から、そして大広間から、一斉に歓声が上がる。
「「おおおおおおお!!」」
「美味しい! なんて香りだ! これこそが、ハルバードの奇跡だ!」
領民たちが次々に配られる料理に舌鼓を打つ中、ジュリアス王子から贈られた(半分強奪した)黄金ハチミツは、デザートのアイスクリームの上で燦然たる輝きを放っていた。
披露宴の喧騒から少し離れたバルコニーで、カナメアとヴィンセントは、自分たちの分として確保した特大の皿を手に、夜空を見上げていた。
「……ヴィンセント様。私、あの日王宮で婚約破棄されて、本当に良かったですわ」
カナメアは、フォークに乗せた肉の塊を幸せそうに見つめながら呟いた。
「……あの日、私が空腹でなければ。あなたが私の食べっぷりに見惚れてくださらなければ。私はこの『本物の味』を知らずに一生を終えていたかもしれませんもの」
「……私は最初から決めていた。……あの場で、パイのサクサク感に夢中になっていた貴殿を見て、この女性(ひと)こそが、私の冷え切った食卓を熱くしてくれる唯一の伴侶だと」
ヴィンセントはカナメアの腰をそっと引き寄せ、その額に優しく口づけをした。
「カナメア。……生涯、愛している。……貴殿の胃袋が尽きるまで、私は世界中の美味を貴殿の前に運び続けよう」
「あら、ヴィンセント様。私の胃袋は、ブラックホールより深いと言われていますわよ? 覚悟はできていまして?」
「……望むところだ。……さあ、冷めないうちに始めようか」
二人は向き合い、手に持ったフォークを掲げた。
王都での窮屈なマナーも、リリアーヌの味のしないムースも、ジュリアスの後悔の涙も、すべては遠い過去の出来事。
今、ここにあるのは、満たされた心と、これから始まる無限の「おかわり」への期待だけ。
「ヴィンセント様、行きますわよ!」
「ああ、カナメア」
二人の、そしてハルバード領の新たな歴史が、最高の笑顔と共に刻まれた。
「「いただきます!!」」
カナメアの元気な声が、星降る北の空に、どこまでも、どこまでも響き渡っていった。
しかし、本日のハルバード城内は、その冷気を一気に吹き飛ばすほどの熱気と、全方位から押し寄せる「至高の香り」に支配されていた。
「……お、重い。お父様、このドレス、昨日の試着の時より確実にウエストが三センチほど縮んでおりませんこと?」
純白のシルクに最高級のレースをあしらったウェディングドレスに身を包んだカナメアが、コルセットの締め付けに眉を寄せていた。
「当たり前だろう! 昨晩の『前夜祭』と称して、貴様が羊の丸焼きを半分も平らげたからだ!」
王都からしぶしぶ、しかし内心では娘の幸せを願って駆けつけたベルガモット公爵が、呆れ顔で娘を叱り飛ばした。
「仕方ありませんわ。あの炭火の香ばしさと、熟成された肉の旨味が、私を呼んでいたのですもの。……ああ、それよりお父様、披露宴の第一皿目は、予定通り『黄金ハチミツのフォアグラソテー』で間違いありませんわね?」
「……式の進行よりも献立を気にする花嫁がどこにいる。……まあ、いい。今日ばかりはお前のその『底なしの情熱』に、領民も、そして夫となるあの男も期待しているようだからな」
公爵の言葉通り、城の外では数千人の領民たちが、今か今かと「婚礼の宴」の始まりを待っていた。
式典のチャイムが鳴り響き、大広間の扉が開かれる。
カナメアを待っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだヴィンセントだった。
その強面(こわもて)は相変わらずだが、彼女を迎える眼差しには、砂糖を煮詰めたような甘い慈しみが湛えられている。
「……カナメア殿。今日も、最高に美味しそうな……失礼、美しい姿だ」
「ヴィンセント様、今の言い直し、わざとですわね? ……でも、嬉しいですわ。今日の私は、世界で一番甘くて濃厚な『メインディッシュ』になる覚悟で参りましたの」
二人は腕を組み、神官の前へと進んだ。
誓いの言葉。指輪の交換。本来であれば感動の涙が流れるはずの場面だが、参列者たちの視線は、壇上の背後に並べられた巨大な銀のクロッシュ(蓋)に釘付けになっていた。
「……それでは、ハルバード辺境伯ヴィンセント、ならびにカナメア。二人の門出を祝し、ここに『最初の共同作業』を執り行う!」
神官の宣言と共に、ヴィンセントが愛剣を引き抜いた。
カナメアがその手に添える。二人の前にあるのは、ウェディングケーキではない。
この日のために特別に焼き上げられた、重さ五十キロを超える『超特大・黄金ハチミツ漬けの牛パイ包み焼き』である!
「さあ、カナメア殿。……切り分けるぞ。私たちの幸福の、この肉汁を!」
「はい! 一滴も逃さず、皆で分かち合いましょう!」
剣がパイ生地に突き立てられた瞬間、ザクッ! という快音が響き、中からあの伝説のハチミツと肉汁が混ざり合った、黄金色の蒸気が噴き出した。
広場から、そして大広間から、一斉に歓声が上がる。
「「おおおおおおお!!」」
「美味しい! なんて香りだ! これこそが、ハルバードの奇跡だ!」
領民たちが次々に配られる料理に舌鼓を打つ中、ジュリアス王子から贈られた(半分強奪した)黄金ハチミツは、デザートのアイスクリームの上で燦然たる輝きを放っていた。
披露宴の喧騒から少し離れたバルコニーで、カナメアとヴィンセントは、自分たちの分として確保した特大の皿を手に、夜空を見上げていた。
「……ヴィンセント様。私、あの日王宮で婚約破棄されて、本当に良かったですわ」
カナメアは、フォークに乗せた肉の塊を幸せそうに見つめながら呟いた。
「……あの日、私が空腹でなければ。あなたが私の食べっぷりに見惚れてくださらなければ。私はこの『本物の味』を知らずに一生を終えていたかもしれませんもの」
「……私は最初から決めていた。……あの場で、パイのサクサク感に夢中になっていた貴殿を見て、この女性(ひと)こそが、私の冷え切った食卓を熱くしてくれる唯一の伴侶だと」
ヴィンセントはカナメアの腰をそっと引き寄せ、その額に優しく口づけをした。
「カナメア。……生涯、愛している。……貴殿の胃袋が尽きるまで、私は世界中の美味を貴殿の前に運び続けよう」
「あら、ヴィンセント様。私の胃袋は、ブラックホールより深いと言われていますわよ? 覚悟はできていまして?」
「……望むところだ。……さあ、冷めないうちに始めようか」
二人は向き合い、手に持ったフォークを掲げた。
王都での窮屈なマナーも、リリアーヌの味のしないムースも、ジュリアスの後悔の涙も、すべては遠い過去の出来事。
今、ここにあるのは、満たされた心と、これから始まる無限の「おかわり」への期待だけ。
「ヴィンセント様、行きますわよ!」
「ああ、カナメア」
二人の、そしてハルバード領の新たな歴史が、最高の笑顔と共に刻まれた。
「「いただきます!!」」
カナメアの元気な声が、星降る北の空に、どこまでも、どこまでも響き渡っていった。
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