婚約破棄ですか? はい。慰謝料は即金で返してくださいね?

萩月

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「痛いっ! 爪が割れた! こんな硬い皮、剥けるわけがないだろう!」


公爵邸の裏庭にある、薄暗い洗い場。


そこで響き渡るのは、かつて次期国王と呼ばれた男――アレックスの悲痛な叫び声だった。


現在の彼は、シルクの服ではなく、薄汚れた作業着(つなぎ)を着せられ、山のようなジャガイモと格闘している。


「甘えるな、新人(ルーキー)」


わたくしは、監視台代わりの木箱に座り、冷ややかに見下ろした。


「ジャガイモの皮むきは料理の基本であり、コスト管理の第一歩です。……ほら、そこ! 皮が厚い! 可食部を無駄にしたら給料から天引きしますよ?」


「ひぃっ! や、やめてくれ! 今の僕の時給は……」


「時給、銅貨一枚です」


わたくしは電卓を叩く。


「一日十時間労働で、日給銅貨十枚。そこから食費と光熱費、住居費(納屋の藁ベッド代)を差し引くと……手取りは銅貨二枚ですね」


「に、二枚!? パン一個も買えないじゃないか!」


「貯金して買えばいいでしょう。……さあ、口を動かさずに手を動かす!」


ピシッ!


わたくしが持っていた指示棒(ハリセン)が空を切る。


「はいぃぃっ!」


アレックスは涙目で芋を剥き始めた。


王宮では「パンがないならお菓子を食べればいい」などと言っていた男が、今はパンの耳一つを得るために労働している。


これぞ、教育的指導だ。


「……ふん。少しはマシな手つきになってきたじゃない」


わたくしは腕組みをして頷いた。


彼には、これから一生かけて、自分が作った借金(金貨数万枚)を返済してもらう。


計算上、完済まであと五百年ほどかかるが、まあ、長生きして頑張ってほしいものだ。


その時。


ガラガラガラ……。


裏門の方から、重々しい馬車の音が聞こえてきた。


鉄格子のはまった、護送車のような馬車だ。


「いやぁぁぁ! 嫌よ! 離して!」


聞こえてきたのは、リリーナ様の絶叫だった。


「リ、リリーナ!?」


アレックスが芋を取り落として立ち上がる。


護送車に乗せられようとしているのは、修道女の服(地味な灰色)を着せられたリリーナ様だった。


「私は男爵令嬢よ!? なんでこんなボロ布を着なきゃいけないの! ドレスを返して!」


「往生際が悪いですね、リリーナ様」


わたくしは洗い場から歩み寄った。


「あなたは『王立・清貧修道院』行きが決まったはずですよ? あそこは素晴らしいところです。一日二食、質素倹約を旨とし、すべての贅沢が禁止された聖なる場所……」


「地獄じゃないの! そんなところに行ったら、お肌が荒れちゃうわ!」


「荒れたら、ジャガイモの皮でも貼っておけば治ります」


わたくしはニッコリと手を振った。


「安心してください。修道院長には『特別メニュー』をお願いしておきました。『お茶の葉は十回使うまで捨てない』『ドレスは雑巾になるまで着倒す』……わたくし直伝の節約メソッドです。しっかり学んできてくださいね」


「いやぁぁぁ! 悪魔! この守銭奴悪魔ぁぁぁ!」


バタン!


護送車の扉が無慈悲に閉められる。


馬車は砂埃を上げて去っていった。


「……リリーナ……」


アレックスが呆然と見送っている。


「さあ、感傷に浸っている暇はありませんよ、新人。芋が待っています」


わたくしはハリセンで彼の背中を突いた。


「くっ……覚えていろキャサリン! いつか必ず、この借金を返して、お前を見返してやる!」


「ええ、期待していますわ。……五百年後にね」


こうして、元凶カップルの処遇は確定した。


公爵邸に、ようやく平和な日常(と労働力)が戻ってきたのである。


***


その日の夕方。


わたくしは執務室に呼び出された。


「……座ってくれ」


ルーカス公爵は、いつになく真剣な表情で、デスク越しにわたくしを見つめた。


「はい。……なんでしょう? 新しい節約プランの提案ですか?」


わたくしが椅子に座ると、公爵は一枚の書類を差し出した。


それは、見慣れた帳簿のコピーではなく、王家の紋章が入った『債務精算書』だった。


「……これは?」


「王家からの賠償金の一部が、現金で支払われた」


公爵は淡々と説明する。


「アレックスの身柄譲渡に加え、国王陛下が隠し財産を切り崩して、金貨五万枚を用意してくれたんだ」


「五万枚……! 陛下、へそくりをお持ちだったんですね」


「ああ。さらに、叔父のゲオルグから没収した資産の売却益、ガストンたちへの損害賠償請求……これらを合算すると、我が公爵家の特別利益は相当な額になった」


公爵は、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。


そして、青い瞳でわたくしを真っ直ぐに射抜く。


「キャサリン。……計算してみたんだ」


「計算?」


「君の実家、ラ・マネー伯爵家が僕に対して負っていた借金。……金貨八万枚と、その利息」


ドキリとする。


借金の話。


わたくしがここで働いている理由。


「今回の事件解決における君の功績(インセンティブ)、そして回収した賠償金からの配当。……これらを君の返済に充当すると、どうなると思う?」


公爵は、手元の電卓(わたくしがあげたもの)をパチンと叩いた。


表示された数字を、わたくしに見せる。


『0』。


ゼロ。


「……え?」


「完済だ」


ルーカス公爵は、静かに告げた。


「おめでとう、キャサリン。……君の借金は、今日ですべて消滅した」


時が止まったような気がした。


完済。


あの絶望的だった借金地獄から、解放された?


「……本当、ですか?」


「僕が計算を間違えると思うか?」


公爵は口元を緩めた。


「君の働きは、金貨八万枚以上の価値があったということだ。……いや、それ以上だな」


喜びが爆発するかと思った。


飛び上がって「やったー!」と叫ぶかと思った。


けれど。


わたくしの胸に広がったのは、冷たい風が吹き抜けるような、奇妙な寂しさだった。


(完済した……ということは)


わたくしは、自分の膝の上で震える手を握りしめた。


「……ということは、契約終了、ですね?」


声が震えないようにするのが精一杯だった。


「わたくしがこの屋敷にいる理由は、『借金のカタ』としての労働でした。……借金がなくなったのなら、もうここにいる理由はありません」


ルーカス公爵の表情が、一瞬だけ曇ったように見えた。


「……契約上は、そうなるな」


彼は肯定した。


引き止めては、くれないのか。


まあ、そうだろう。彼は合理主義の塊のような人だ。


借金のない人間を、使用人としてタダ働きさせるような非合理なことはしない。


「……わかりました」


わたくしは立ち上がった。


「短い間でしたが、お世話になりました。……勉強になりましたわ、色々と」


「……行くのか?」


「はい。実家に戻って、父と二人でやり直します。マグロ像も戻ってきましたし」


冗談めかして言ったが、笑えていたか自信がない。


「明日の朝、屋敷を出ます。……最後の引き継ぎ書は、机の上に置いておきますね」


わたくしは一礼し、逃げるように執務室を出ようとした。


「待て」


背後から、呼び止める声。


振り返ると、ルーカス公爵が立ち上がっていた。


何か言いたげに口を開きかけて、そして……閉じた。


「……いや。……わかった」


彼は目を伏せた。


「……達者でな」


「……はい。閣下も、無駄遣いなさいませんように」


バタン。


扉が閉まる。


廊下に出た瞬間、わたくしの目から、計算外の雫がこぼれ落ちた。


「……なによ。涙なんて、水分の無駄使いじゃない」


拭っても拭っても止まらない。


借金はなくなった。自由になった。


それなのに、ちっとも嬉しくない。


わたくしは、いつの間にかこの「ドケチ公爵」との生活を、どんな宝石よりも価値あるものだと感じてしまっていたのだ。


(バカね……。契約は契約。数字は絶対よ)


わたくしは自分の部屋に戻り、荷造りを始めた。


トランク一つ。来た時と同じだ。


でも、心の中には、来た時にはなかった重たいものが居座っていた。


こうして。


わたくしの「借金返済ライフ」は、唐突に終わりを告げたのである。
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