婚約破棄ですか? はい。慰謝料は即金で返してくださいね?

萩月

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「……っ! い、痛い……!」


ある日の午後。


穏やかな陽だまりの中で帳簿をつけていたわたくしを、突如として激痛が襲った。


「キャサリン!?」


隣でベビーベッド(アレックス製・材料費タダ)のささくれを削っていたルーカス公爵が、弾かれたように顔を上げる。


「ど、どうした! お腹か!?」


「は、はい……。き、来ましたわ……陣痛です」


「じ、陣痛!? 予定日より三日早いぞ! 計算違いじゃないのか!」


「赤ちゃんは……電卓を持って生まれてくるわけじゃ……ありませんからっ!」


わたくしが脂汗を流して呻くと、公爵はパニックになり、持っていた紙やすりを取り落とした。


「ど、どうすればいい! 医者か! お湯か! それとも金庫を開けるか!?」


「なんで金庫を開けるんですか……! マーサさんを……呼んで……!」


「そ、そうか! マーサァァァ!!」


屋敷中に、財務卿の絶叫が響き渡った。


***


公爵邸は戦場と化した。


「お湯を沸かせ! 清潔なタオル(使い古しを煮沸消毒したもの)を大量に!」


マーサが陣頭指揮を執り、使用人たちが走り回る。


「師匠! しっかりしてください!」


アレックスがオロオロと部屋の外で祈っている。


「うるさい新人! 廊下を磨いて心を鎮めなさい!」


寝室では、わたくしがベッドのシーツを握りしめて痛みに耐えていた。


「ううっ……!」


痛い。


想像以上に痛い。


まるで、全身の骨がきしむような、あるいは税金の督促状が一気に千通届いた時のような衝撃だ。


「キャサリン……! 僕の手を握れ!」


枕元で、ルーカス公爵が青ざめた顔で手を差し出してくる。


わたくしはその手を、思い切り握りしめた。


ミシッ!


「ぐっ……!?」


公爵の顔が歪む。


「ご、ごめんなさい……骨が、折れそう……?」


「か、構わん……! 君の痛みに比べれば……これくらい、減価償却の範囲内だ!」


なんて健気なドケチ夫だろう。


「旦那様、しっかり励ましてください! もう頭が見えてますよ!」


産婆さん(ベテラン・技術料は高いが腕は確か)が声を上げる。


「き、聞こえるかキャサリン! あと少しだ! ……頑張れば、特別ボーナスを出す!」


「……いくら、ですかっ……!」


「金貨……百枚だ!」


「安いですっ! ……ゼロを、もう一つ……!」


「せ、千枚!? ……わ、わかった! 承認する!」


「言質(げんち)……取りましたわよぉぉぉ!」


わたくしは最後の力を振り絞った。


金貨千枚のためではない。


この愛おしい人との未来を、形にするために。


「オギャァァァァァァ!!」


元気な産声が、部屋いっぱいに響き渡った。


「……お、生まれました!」


産婆さんが、血と羊水に濡れた小さな体を抱き上げる。


「元気な男の子ですよ!」


その瞬間。


わたくしの全身から力が抜け、深い安堵が押し寄せた。


「……やった……」


「キャサリン……!」


公爵が、へなへなと膝をついた。その目には、大粒の涙が溢れている。


「よくやった……本当に……」


綺麗に洗われた赤ちゃんが、わたくしの胸に抱かせてもらえる。


小さい。温かい。そして、重い。


「……はじめまして、赤ちゃん」


わたくしが指を差し出すと、小さな手がそれをギュッと握り返してきた。


その力強さに、わたくしは笑った。


「あら……握力が強いわね。これなら、一度掴んだお金は離さないわ」


「間違いなく君の子だな」


公爵が涙声で笑い、赤ちゃんの頬を恐る恐るつついた。


「……はじめまして。パパだぞ。……これからよろしくな」


赤ちゃんは、まるで返事をするように「あうー」と声を上げた。


***


その夜。


落ち着きを取り戻した寝室で、わたくしはベッドに体を預けていた。


横のベビーベッドでは、息子がすやすやと眠っている。


「……キャサリン」


ルーカス公爵が、一枚の紙を持って入ってきた。


「……また契約書ですか?」


わたくしが苦笑すると、公爵は真面目な顔で頷いた。


「ああ。……僕たちの息子との『契約書』だ」


「え?」


公爵は紙を広げた。


そこには、彼の端正な字で、こう書かれていた。


**【人生投資契約書】**


**甲:ルーカス・フォン・グランツ(父)**
**乙:キャサリン・フォン・グランツ(母)**
**丙:長男(息子)**


**第一条(目的)**
**甲および乙は、丙が健やかに成長し、自立した豊かな人生を送れるよう、持てる全ての「愛」と「資産」を投資することを誓う。**


**第二条(報酬)**
**甲および乙は、丙からの見返りを求めない。丙の笑顔こそが最大の配当(インカムゲイン)であるとする。**


**第三条(期間)**
**本契約の有効期間は、甲および乙の命が尽きるまで、イヤ、魂が消滅するまでとする(永久契約)。**


「……ふふっ」


わたくしは思わず吹き出した。


「なんですか、これ。……ビジネス文書みたいで、全然ロマンチックじゃないです」


「そうか? 僕なりに、最大の誠意を込めたんだが」


公爵は少し顔を赤らめた。


「……署名してくれるか?」


「もちろんです」


わたくしは、サイドテーブルに置いてあった万年筆(誕生日に彼からもらったもの)を手に取った。


サラサラとサインをする。


そして。


「ほら、あなたも」


わたくしは眠っている息子の小さな手を借りて、インクを少しだけ指先につけ、紙にペタンと押した。


小さな小さな手形。


これが、彼にとって人生最初のサインだ。


「……契約、成立だな」


公爵は満足げに契約書を掲げた。


「これで、僕たちは最強のチームだ。……どんな不景気も、どんな困難も、この家族なら乗り越えられる」


「ええ。……黒字間違いなしですね」


わたくしは息子を見つめた。


この子の名前は、まだ決めていない。


でも、きっと素晴らしい名前になるだろう。


「……ありがとう、ルーカス様。わたくし、今……」


わたくしは電卓を探すフリをして、やめた。


「計算できないくらい、幸せです」


「……僕もだ」


公爵がキスをしてくれる。


優しくて、温かいキス。


窓の外では、新しい朝が始まろうとしていた。


借金まみれの悪役令嬢と、ドケチな冷徹公爵。


二人の物語は、小さな新しい命を加えて、次のステージへと進んでいく。


さあ、これからは教育費の積立と、学資保険の検討をしなくては。


(……忙しくなるわね)


わたくしは幸せな溜息をつき、愛する二人の男(夫と息子)に挟まれて、泥のように眠った。
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