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「……ジョアン、この資料の続きはどこだ? おい、聞いているのか、ジョアン」
エドワード王子は、執務室の机に積み上がった書類の山を前にして、無意識にその名を呼んだ。
返ってきたのは、静寂。
そして、隣のソファで爪を磨いていたマリアの、甘ったるくも刺々しい声だった。
「エドワード様ぁ。ジョアン様なら、もうここにはいらっしゃいませんわ。あなたが追い出したんじゃありませんか」
「……ああ。そうだったな。つい、癖でな」
エドワードは溜息をつき、こめかみを押さえた。
婚約破棄から数日。
彼の生活は、劇的なバラ色のハッピーエンドに向かうはずだった。
愛するマリアを隣に据え、口うるさいジョアンから解放される――そのはずだったのだ。
「ねえ、そんなことより聞いてくださいませ。今日のティータイムに出されたお菓子、あのアソートの中に、私の嫌いなピスタチオが入っていましたの! これって、いじめだと思いません?」
「……ただの厨房のミスだろう」
「いいえ! ジョアン様がいなくなってから、使用人たちの態度が冷たいんですわ。きっと、彼女が裏で何かを吹き込んで……」
「彼女はあの夜、すぐに屋敷を出て行った。裏工作をする暇などなかったはずだ。……それよりマリア、この来月の大使館との会食のメニュー案、お前がチェックしておいてくれると言っただろう?」
マリアは爪を磨く手を止め、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「ええっ? そんな難しいこと、私にできるわけありませんわ。メニューなんて、適当に高いものを並べておけばよろしいのではなくて?」
「……相手国の禁忌食材や、アレルギーの確認が必要なんだ。ジョアンはいつも、三ヶ月前から完璧なリストを作って……」
「またジョアン様! もう、エドワード様ったら、あんな悪役令嬢のことばかり。私という可愛い婚約者がいるのに、ひどいですわ!」
マリアは泣き真似をしながら、エドワードの腕に縋り付いた。
以前なら、その愛らしい仕草に胸をときめかせ、「よしよし」と宥めていたはずのエドワードだったが、今の彼には、その重みが物理的な負担としてしか感じられない。
(……おかしい。マリアは、もっと私の心を癒やしてくれる存在だったはずだ)
書類は減らず、仕事は滞り、王妃様からは「次の婚約者の教育はどうなっているのか」と毎日叱責の鳥が飛んでくる。
ジョアンがいれば、これらすべてを彼女が笑顔(あるいは少し怖い笑顔)で捌いていたのだ。
「……なあ、マリア。少しは、勉強してみる気はないか? 王妃教育の基礎だけでも……」
「嫌ですわ! 私は、エドワード様に愛されるためにここにいるんですもの。勉強なんて、ハッピーエンドに必要ありませんわ!」
(……この女、もしかして本当に何もできないのか?)
エドワードの脳裏に、初めて「不穏な予感」という名の暗雲が立ち込めた。
さらに追い打ちをかけるように、執務室のドアが勢いよく開く。
「殿下! 申し上げます!」
「……なんだ。今は取り込み中だ」
「ジョアン・ド・ラセール様の行方についてです! ラセール公爵家からの報告によりますと……『ショックで心身を病み、生死の境を彷徨っているため、面会は一切謝絶』とのことです!」
「なっ……! 生死の境だと!?」
エドワードは椅子を蹴って立ち上がった。
あの夜、あんなに元気にカナッペを頬張り、満面の笑みで去っていった女が、生死の境?
「ああ、やっぱり! 演技だったんですわ、あの明るい態度は。本当は、エドワード様に捨てられて、死ぬほど辛かったに違いありませんわ!」
マリアがどこか嬉しそうに声を上げた。
だが、エドワードの胸に去来したのは、歪んだ優越感ではなく、言いようのない恐怖だった。
(あのジョアンが、病む? ……嘘だ。あいつは、雑草よりも逞しい女だぞ)
「……公爵家へ向かう! 直接この目で確かめなければ……!」
「待ってください、エドワード様! 私を置いていくんですの!?」
マリアの叫びを背に、エドワードは執務室を飛び出した。
だが、彼がラセール公爵家で目にするのは、娘を心配してやつれた父親ではなく――
「娘は今、南の風を感じてハッピーになっているはずだ」と心の中で確信している、非常に複雑な顔をした公爵の姿であった。
「ジョアン……貴様、本当にどこへ行ったんだ……!」
捨てたはずの男の執着が、ここから見当違いな方向へと加速し始める。
一方、当のジョアンは、南の地で大将軍相手に「ジョゼフィーヌ」を名乗り、今日も元気にパンの耳をかじっていた。
エドワード王子は、執務室の机に積み上がった書類の山を前にして、無意識にその名を呼んだ。
返ってきたのは、静寂。
そして、隣のソファで爪を磨いていたマリアの、甘ったるくも刺々しい声だった。
「エドワード様ぁ。ジョアン様なら、もうここにはいらっしゃいませんわ。あなたが追い出したんじゃありませんか」
「……ああ。そうだったな。つい、癖でな」
エドワードは溜息をつき、こめかみを押さえた。
婚約破棄から数日。
彼の生活は、劇的なバラ色のハッピーエンドに向かうはずだった。
愛するマリアを隣に据え、口うるさいジョアンから解放される――そのはずだったのだ。
「ねえ、そんなことより聞いてくださいませ。今日のティータイムに出されたお菓子、あのアソートの中に、私の嫌いなピスタチオが入っていましたの! これって、いじめだと思いません?」
「……ただの厨房のミスだろう」
「いいえ! ジョアン様がいなくなってから、使用人たちの態度が冷たいんですわ。きっと、彼女が裏で何かを吹き込んで……」
「彼女はあの夜、すぐに屋敷を出て行った。裏工作をする暇などなかったはずだ。……それよりマリア、この来月の大使館との会食のメニュー案、お前がチェックしておいてくれると言っただろう?」
マリアは爪を磨く手を止め、不機嫌そうに唇を尖らせた。
「ええっ? そんな難しいこと、私にできるわけありませんわ。メニューなんて、適当に高いものを並べておけばよろしいのではなくて?」
「……相手国の禁忌食材や、アレルギーの確認が必要なんだ。ジョアンはいつも、三ヶ月前から完璧なリストを作って……」
「またジョアン様! もう、エドワード様ったら、あんな悪役令嬢のことばかり。私という可愛い婚約者がいるのに、ひどいですわ!」
マリアは泣き真似をしながら、エドワードの腕に縋り付いた。
以前なら、その愛らしい仕草に胸をときめかせ、「よしよし」と宥めていたはずのエドワードだったが、今の彼には、その重みが物理的な負担としてしか感じられない。
(……おかしい。マリアは、もっと私の心を癒やしてくれる存在だったはずだ)
書類は減らず、仕事は滞り、王妃様からは「次の婚約者の教育はどうなっているのか」と毎日叱責の鳥が飛んでくる。
ジョアンがいれば、これらすべてを彼女が笑顔(あるいは少し怖い笑顔)で捌いていたのだ。
「……なあ、マリア。少しは、勉強してみる気はないか? 王妃教育の基礎だけでも……」
「嫌ですわ! 私は、エドワード様に愛されるためにここにいるんですもの。勉強なんて、ハッピーエンドに必要ありませんわ!」
(……この女、もしかして本当に何もできないのか?)
エドワードの脳裏に、初めて「不穏な予感」という名の暗雲が立ち込めた。
さらに追い打ちをかけるように、執務室のドアが勢いよく開く。
「殿下! 申し上げます!」
「……なんだ。今は取り込み中だ」
「ジョアン・ド・ラセール様の行方についてです! ラセール公爵家からの報告によりますと……『ショックで心身を病み、生死の境を彷徨っているため、面会は一切謝絶』とのことです!」
「なっ……! 生死の境だと!?」
エドワードは椅子を蹴って立ち上がった。
あの夜、あんなに元気にカナッペを頬張り、満面の笑みで去っていった女が、生死の境?
「ああ、やっぱり! 演技だったんですわ、あの明るい態度は。本当は、エドワード様に捨てられて、死ぬほど辛かったに違いありませんわ!」
マリアがどこか嬉しそうに声を上げた。
だが、エドワードの胸に去来したのは、歪んだ優越感ではなく、言いようのない恐怖だった。
(あのジョアンが、病む? ……嘘だ。あいつは、雑草よりも逞しい女だぞ)
「……公爵家へ向かう! 直接この目で確かめなければ……!」
「待ってください、エドワード様! 私を置いていくんですの!?」
マリアの叫びを背に、エドワードは執務室を飛び出した。
だが、彼がラセール公爵家で目にするのは、娘を心配してやつれた父親ではなく――
「娘は今、南の風を感じてハッピーになっているはずだ」と心の中で確信している、非常に複雑な顔をした公爵の姿であった。
「ジョアン……貴様、本当にどこへ行ったんだ……!」
捨てたはずの男の執着が、ここから見当違いな方向へと加速し始める。
一方、当のジョアンは、南の地で大将軍相手に「ジョゼフィーヌ」を名乗り、今日も元気にパンの耳をかじっていた。
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