「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

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煌びやかなシャンデリアが輝く、聖ロイヤル学園の卒業パーティー会場。
その中央で、私の婚約者であるカッサン・ド・ラ・プランス王太子殿下が、鋭い指先をこちらに向けて叫びました。

「チップ・チョコラート公爵令嬢! 貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する!」

会場中が静まり返り、貴族の子女たちの視線が私に突き刺さります。
普通ならここで泣き崩れるか、必死に弁明するところなのでしょう。

しかし、私の頭の中はそれどころではありませんでした。
(……まずい。今回の試作品、少しバターの温度が高かったかしら。サクサク感は完璧だけど、香りの立ち上がりがコンマ数秒遅い気がする……)

私はドレスの隠しポケットに忍ばせた、特製「試作3号・岩塩キャラメルクッキー」の出来栄えに全神経を集中させていました。

「おい、聞いているのかチップ! 貴様の悪行はすべて判明しているのだぞ!」

カッサン殿下の怒声が鼓膜を震わせます。
私はようやく現実に引き戻され、ゆっくりと視線を上げました。

「……あ、はい。婚約破棄、ですね。承知いたしました」

「なんだその気の抜けた返事は! 貴様、隣にいるシュガー嬢への嫌がらせを認めるのだな!?」

殿下の腕の中には、震えるフリをしながらこちらをチラチラ見てくる男爵令嬢、シュガー・ベリーさんが収まっていました。

「嫌がらせ……。ああ、あのお砂糖の件でしょうか?」

「そうだ! 彼女の教科書を砂糖まみれにして、読めなくしたそうじゃないか!」

私は深くため息をつき、首を振りました。

「殿下、誤解です。あれは嫌がらせではなく、提案です。彼女が持っていた教科書に、あまりにも質の悪いグラニュー糖がこぼれていたので、私が厳選した最高級の和三盆に差し替えて差し上げただけですよ。あんな不純物混じりの砂糖を近くに置いておくだけで、私の嗅覚が狂ってしまいますもの」

「何を言っているんだ貴様は! 砂糖の種類などどうでもいい!」

「どうでもよくありません! 砂糖の粒子一つで、クッキーの口溶けは劇的に変わるのです!」

思わず声を荒らげてしまった私に、会場全体が引いているのが分かります。
でも、譲れないものは譲れません。

「……ふん、やはり狂っているな。貴様のようなクッキーのことしか考えていない女、妃にするなど到底不可能だ」

「それは良かったです。私も、クッキーの焼き時間を気にしながら公務に励む自信はありませんでしたから」

「どこまでもふてぶてしい女め! さらに追加の罪状だ。シュガー嬢の私物を隠し、彼女を泣かせたな!」

「それも語弊がありますわ。彼女が持っていたお守り袋の中に、あまりにも湿気ったクッキーが入っていたので、没収しただけです。あのままではカビが生えて彼女の健康を害すると判断いたしました」

「それを世間では盗みと言うのだ!」

カッサン殿下の顔が真っ赤に染まっていきます。
私はそっと、隠しポケットの中のクッキーを指先で確認しました。
まだ温かい。今が食べ頃です。

「殿下、お話の途中ですが、一つよろしいでしょうか」

「なんだ、今さら命乞いか?」

「いえ。……失礼します」

私は優雅な動作で右手を口元に運びました。
そして、周囲の静寂を切り裂くような音を響かせました。

――パリッ、サクサクッ。

「……っ!? 貴様、今この状況で何を食べている!?」

「試作3号です。やはり少し塩気が強いですね。ですが、この歯応え……悪くありません」

私は咀嚼しながら、冷静に味の分析を続けます。
カッサン殿下は絶句し、シュガー嬢は口をあんぐりと開けて固まっています。

「貴様……正気か? これは断罪の場なのだぞ! 王太子である私がお前の罪を読み上げている最中なのだぞ!」

「ええ、存じております。ですが殿下、クッキーには『最高の瞬間』というものがあるのです。それを逃すのは、造物主に対する冒涜だと思いませんか?」

「知るか! もういい、貴様とは話にならん!」

殿下は大きく腕を振り上げ、最後通牒を突きつけました。

「チップ・チョコラート! 貴様を即刻、この国から追放する! 二度とその不気味なクッキーを持ち込むな!」

追放。
その言葉を聞いた瞬間、私の心にパッと明るい光が差し込みました。

「追放……。ということは、もう夜会に出る必要もないのですね?」

「当たり前だ! 身一つで出て行くがいい!」

「ドレスを着て、窮屈なコルセットを締める必要も?」

「そうだ! 貴族の特権などすべて剥奪だ!」

「まあ……! なんて素晴らしいのでしょう!」

私は思わず、殿下の手を取ってブンブンと振ってしまいました。

「ありがとうございます、殿下! これでようやく、私は24時間体制でオーブンの前に張り付くことができます! 夜通しの火加減調節も自由自在! ドレスの汚れを気にせず小麦粉をかぶれますわ!」

「……は?」

カッサン殿下の手が、幽霊にでも触れられたかのように震えています。

「早速準備に取り掛からなくては。あ、殿下。最後に一つだけアドバイスを」

「な、なんだ……」

「シュガー嬢ですが、彼女の香水の匂い、少しバニラエッセンスに似ていますね。でも、安物を使うと後味が苦くなりますわよ。彼女の将来のために、もっと良い抽出物を選んで差し上げてくださいな」

私は満面の笑みで告げると、唖然とする群衆をかき分けて歩き出しました。

「あ、そうだわ。追い出される前に、食堂のオーブンだけは借りていきましょう。最後に一枚、旅立ちのクッキーを焼かなければ」

背後でカッサン殿下が「おい! 待て! 反省しろ!」と叫んでいるのが聞こえましたが、私の耳には届きません。

私の頭の中は、今、新しいレシピのアイデアで溢れかえっていました。
追放先はどこになるか分かりませんが、そこに小麦粉とオーブンさえあれば、そこは私にとっての楽園です。

「待ってなさい、未知の小麦粉たち。私が今、迎えに行くわよ!」

卒業パーティーの会場を後にする私の足取りは、羽が生えたように軽やかでした。
公爵令嬢としての地位も、王太子妃という将来も、すべてサクサクのクッキーと一緒に飲み込んで。

私の、クッキーに捧げる新しい人生が、今ここから始まったのです。
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