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ガタガタ、ゴトゴト。
夜の街道を、一台のボロ馬車が必死に走り続けていました。
御者台で手綱を握るアナは、必死な形相で前を見据えています。
「お嬢様! 少し速度を上げますよ! 追っ手が来ているかもしれませんから!」
馬車の中から、私はのんびりとした声を返しました。
「いいわよ、アナ。それより、もう少し揺れを抑えられないかしら? カバンの中の酵母たちが酔ってしまいそうだわ」
「酵母が酔うなんて聞いたことありません! それよりお嬢様、もうすぐ国境です。あそこを越えれば、カッサン殿下の命令も届かなくなりますわ!」
私は窓から外を眺めました。
空は白み始め、遠くに巨大な関所が見えてきました。
隣国バニラビーンズ辺境伯領へと続く、厳重な検問所です。
「……あら? アナ、あそこを見て。なんだか物々しいわね」
「えっ……。本当です。騎士団の旗が立っていますわ。それも、この国のものじゃありません」
関所の前には、黒い鎧に身を包んだ屈強な男たちが立ち並んでいました。
彼らが掲げる旗には、力強い大剣と……なぜか小麦の穂のような紋章が描かれています。
「止まれ! そこの怪しい馬車、停止せよ!」
野太い声が響き渡り、アナが慌ててブレーキをかけました。
馬車は激しい音を立てて止まり、私はその衝撃で小麦粉の袋に顔を突っ込みそうになりました。
「……危ないところだったわ。私の鼻が小麦粉でコーティングされるところでした」
私は顔を出し、馬車の外へと降りました。
目の前には、槍を構えた五人の騎士たちが立ち塞がっています。
「貴様ら、何者だ。この先はバニラビーンズ辺境伯領。許可なき者の通行は禁じられている」
一番体格の良い騎士が、威圧感たっぷりに私を睨みつけました。
普通なら震え上がるところでしょうが、私の注目は彼の装備一点に絞られていました。
「……まあ。そちらの騎士様。その腰に下げているポーチ、もしや耐火性の魔法銀で作られていますか?」
「はあ? 何の話だ。これは支給品の標準装備だ」
「耐火性……。それなら、中に熱した石を入れて、簡易的な発酵器として使えるかもしれませんわね。素晴らしいわ、隣国の技術力!」
「何をブツブツ言っている! 身分を明かせ! さもなくば拘束する!」
騎士の怒声に、後ろでアナが「ひいぃっ!」と悲鳴を上げました。
私は深呼吸を一つして、ドレスの裾を軽く持ち上げました。
「失礼いたしました。私はチップ。見ての通り、ただのクッキー職人ですわ。こちらの彼女は私の助手のアナ。わけあって、新しいオーブンを探す旅に出ているところなのです」
「クッキー職人……? ふん、そんな格好で嘘をつくな。その身のこなし、貴族の令嬢だろう」
「元、ですわ。今はただの粉の奴隷です」
騎士たちは顔を見合わせ、不信感を募らせています。
すると、一人の騎士が私のカバンを指差しました。
「そのカバンの中身を見せろ。密輸品か、あるいは武器を隠し持っているのではないか?」
「武器……? ええ、ある意味では最強の兵器が入っていますわ。開けてもよろしいですが、粉が舞うので注意してくださいね」
私がカバンを開けると、騎士たちは一斉に身構えました。
しかし、中から出てきたのは、数種類の小麦粉の袋と、使い込まれた麺棒、そして……。
「……なんだこれは。石か?」
「失礼ね。それは私の自信作、『超圧縮・くるみ入り岩石クッキー』です。非常に硬いですが、噛めば噛むほど滋味溢れる逸品ですよ。一ついかが?」
私はクッキーを一枚、騎士の鼻先に突き出しました。
騎士は毒見を疑うような目で私を見ましたが、漂ってきた香りにわずかに鼻をピクつかせました。
「……いい匂いだ。だが、任務中に食い物など受け取れるか」
「まあ、堅物さんね。でも、夜通しの見張りでお腹が空いているでしょう? お腹が空くと判断力が鈍りますわ。そんな状態で国境を守るなんて、それこそ辺境伯様に失礼ではなくて?」
「くっ……。一理あるが……」
騎士が迷いを見せたその時です。
関所の奥から、さらに重厚な鎧の音が近づいてきました。
「おい、何を騒いでいる」
低く、地を這うような声。
現れたのは、他の騎士たちよりも一回り大きく、全身から圧倒的な威圧感を放つ男でした。
その男の顔には深い傷跡があり、目は猛禽類のように鋭く光っています。
彼が現れた瞬間、周囲の騎士たちが直立不動の姿勢をとりました。
「ガレット様! 怪しい馬車を検問中であります!」
(ガレット……? どこかで聞いたことがある名前ね。確か、この領地の主……)
私はその強面な男、ガレット辺境伯をじっと見つめました。
彼は私を一瞥し、次に私の手にあるクッキーに視線を落としました。
「……クッキーか。この国境でそんなものを焼く馬鹿がいるとはな」
「焼いたのは昨日ですわ。今は少し湿気ているかもしれませんが、私の技術をもってすれば、この湿度でもサクサク感を維持できるよう工夫してあります」
私は怯むことなく、ガレット辺境伯にクッキーを差し出しました。
「辺境伯様。よろしければ、貴方もいかがですか? 貴方のような強そうな方なら、この『硬さ』にも打ち勝てるはずですわ」
周囲の騎士たちが息を呑むのが分かりました。
「なんてことを!」というアナの心の声が聞こえてきそうです。
ガレット辺境伯は無言で私を見下ろしていました。
そして、大きな手で私の指先からクッキーをひったくるように奪いました。
「……食って死んでも文句は言うなよ、小娘」
彼はそう言うと、豪快にクッキーを口に放り込みました。
次の瞬間、静まり返った国境に、あの「音」が鳴り響いたのです。
――ボリィッ! バキバキバキッ!!
それは、強靭な顎を持つ者だけが奏でられる、最高の打楽器のような音でした。
夜の街道を、一台のボロ馬車が必死に走り続けていました。
御者台で手綱を握るアナは、必死な形相で前を見据えています。
「お嬢様! 少し速度を上げますよ! 追っ手が来ているかもしれませんから!」
馬車の中から、私はのんびりとした声を返しました。
「いいわよ、アナ。それより、もう少し揺れを抑えられないかしら? カバンの中の酵母たちが酔ってしまいそうだわ」
「酵母が酔うなんて聞いたことありません! それよりお嬢様、もうすぐ国境です。あそこを越えれば、カッサン殿下の命令も届かなくなりますわ!」
私は窓から外を眺めました。
空は白み始め、遠くに巨大な関所が見えてきました。
隣国バニラビーンズ辺境伯領へと続く、厳重な検問所です。
「……あら? アナ、あそこを見て。なんだか物々しいわね」
「えっ……。本当です。騎士団の旗が立っていますわ。それも、この国のものじゃありません」
関所の前には、黒い鎧に身を包んだ屈強な男たちが立ち並んでいました。
彼らが掲げる旗には、力強い大剣と……なぜか小麦の穂のような紋章が描かれています。
「止まれ! そこの怪しい馬車、停止せよ!」
野太い声が響き渡り、アナが慌ててブレーキをかけました。
馬車は激しい音を立てて止まり、私はその衝撃で小麦粉の袋に顔を突っ込みそうになりました。
「……危ないところだったわ。私の鼻が小麦粉でコーティングされるところでした」
私は顔を出し、馬車の外へと降りました。
目の前には、槍を構えた五人の騎士たちが立ち塞がっています。
「貴様ら、何者だ。この先はバニラビーンズ辺境伯領。許可なき者の通行は禁じられている」
一番体格の良い騎士が、威圧感たっぷりに私を睨みつけました。
普通なら震え上がるところでしょうが、私の注目は彼の装備一点に絞られていました。
「……まあ。そちらの騎士様。その腰に下げているポーチ、もしや耐火性の魔法銀で作られていますか?」
「はあ? 何の話だ。これは支給品の標準装備だ」
「耐火性……。それなら、中に熱した石を入れて、簡易的な発酵器として使えるかもしれませんわね。素晴らしいわ、隣国の技術力!」
「何をブツブツ言っている! 身分を明かせ! さもなくば拘束する!」
騎士の怒声に、後ろでアナが「ひいぃっ!」と悲鳴を上げました。
私は深呼吸を一つして、ドレスの裾を軽く持ち上げました。
「失礼いたしました。私はチップ。見ての通り、ただのクッキー職人ですわ。こちらの彼女は私の助手のアナ。わけあって、新しいオーブンを探す旅に出ているところなのです」
「クッキー職人……? ふん、そんな格好で嘘をつくな。その身のこなし、貴族の令嬢だろう」
「元、ですわ。今はただの粉の奴隷です」
騎士たちは顔を見合わせ、不信感を募らせています。
すると、一人の騎士が私のカバンを指差しました。
「そのカバンの中身を見せろ。密輸品か、あるいは武器を隠し持っているのではないか?」
「武器……? ええ、ある意味では最強の兵器が入っていますわ。開けてもよろしいですが、粉が舞うので注意してくださいね」
私がカバンを開けると、騎士たちは一斉に身構えました。
しかし、中から出てきたのは、数種類の小麦粉の袋と、使い込まれた麺棒、そして……。
「……なんだこれは。石か?」
「失礼ね。それは私の自信作、『超圧縮・くるみ入り岩石クッキー』です。非常に硬いですが、噛めば噛むほど滋味溢れる逸品ですよ。一ついかが?」
私はクッキーを一枚、騎士の鼻先に突き出しました。
騎士は毒見を疑うような目で私を見ましたが、漂ってきた香りにわずかに鼻をピクつかせました。
「……いい匂いだ。だが、任務中に食い物など受け取れるか」
「まあ、堅物さんね。でも、夜通しの見張りでお腹が空いているでしょう? お腹が空くと判断力が鈍りますわ。そんな状態で国境を守るなんて、それこそ辺境伯様に失礼ではなくて?」
「くっ……。一理あるが……」
騎士が迷いを見せたその時です。
関所の奥から、さらに重厚な鎧の音が近づいてきました。
「おい、何を騒いでいる」
低く、地を這うような声。
現れたのは、他の騎士たちよりも一回り大きく、全身から圧倒的な威圧感を放つ男でした。
その男の顔には深い傷跡があり、目は猛禽類のように鋭く光っています。
彼が現れた瞬間、周囲の騎士たちが直立不動の姿勢をとりました。
「ガレット様! 怪しい馬車を検問中であります!」
(ガレット……? どこかで聞いたことがある名前ね。確か、この領地の主……)
私はその強面な男、ガレット辺境伯をじっと見つめました。
彼は私を一瞥し、次に私の手にあるクッキーに視線を落としました。
「……クッキーか。この国境でそんなものを焼く馬鹿がいるとはな」
「焼いたのは昨日ですわ。今は少し湿気ているかもしれませんが、私の技術をもってすれば、この湿度でもサクサク感を維持できるよう工夫してあります」
私は怯むことなく、ガレット辺境伯にクッキーを差し出しました。
「辺境伯様。よろしければ、貴方もいかがですか? 貴方のような強そうな方なら、この『硬さ』にも打ち勝てるはずですわ」
周囲の騎士たちが息を呑むのが分かりました。
「なんてことを!」というアナの心の声が聞こえてきそうです。
ガレット辺境伯は無言で私を見下ろしていました。
そして、大きな手で私の指先からクッキーをひったくるように奪いました。
「……食って死んでも文句は言うなよ、小娘」
彼はそう言うと、豪快にクッキーを口に放り込みました。
次の瞬間、静まり返った国境に、あの「音」が鳴り響いたのです。
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