「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

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「……物足りないわ。圧倒的に、卵力が足りない」


バニラ城の厨房で、私は目の前のボウルに入った黄身をじっと見つめ、深く、深いため息をつきました。
隣で小麦粉をふるっていたアナが、不思議そうにこちらを覗き込みます。


「お嬢様、何が不満なんですか? これ、この領地で一番大きな鶏舎から届いたばかりの、最高級の卵ですよ?」


「アナ、貴女にはこれの『色の薄さ』が見えないの? この淡い黄色……。これではクッキーに焼き上げた時、コクが上品すぎて、食べた瞬間に脳が震えるような衝撃を与えられないわ」


私はボウルを横にのけ、窓の外に広がる険しい山々、通称「黒竜の背骨」と呼ばれる山脈を指差しました。


「……あそこの標高八百メートル付近に生息する『紅蓮極楽鳥』。その卵は、太陽の熱を閉じ込めたような濃厚な赤色をしているそうよ。それさえあれば、私のクッキーは真の完成を迎えるわ」


「……嫌な予感がします。お嬢様、まさかあそこに行くなんて言いませんよね? あそこは魔物の巣窟で、熟練の騎士様でも命を落とすと言われている場所ですよ!」


「命を落とす? いいえ、卵を落とす方がよっぽど罪深いですわ。さあ、準備しなさいアナ。私のカバンと、卵専用の緩衝材(クッション)を詰めて!」


私が止める間もなく厨房を飛び出そうとした時、入り口に巨大な壁が立ちはだかりました。
バニラ城の主、ガレット辺境伯です。


「……どこへ行く、チップ。貴様のクッキーを待っている騎士たちが、今か今かと中庭で暴動を起こしかけているぞ」


「辺境伯様、良いところへ! 今すぐ護衛の騎士を百人ほど貸してくださいな。私、ちょっと山へ『命の源(たまご)』を奪いに行ってまいります」


「……山だと? あの『黒竜の背骨』か。正気か貴様。あそこは冬を前に魔物が活性化している。遊び半分で踏み入る場所ではない」


ガレット辺境伯の目は、これまでにないほど厳しく私を射抜きました。
しかし、私は一歩も引きません。
麺棒を杖のように地面につき、凛とした態度で宣言しました。


「遊びではありません、追求です。貴方の領地の騎士たちが、あのクッキー一枚で涙を流すほど感動したのはなぜか。それは私が、常に『最高』を求めて妥協しないからですわ。ここで妥協したら、私のクッキーはただの『甘い石ころ』に成り下がります!」


「……ただの卵のために、命をかけるというのか」


「『ただの卵』ではありません! それは私のクッキーに魂を吹き込む聖なる滴です! 辺境伯様、貴方は最高の武器を手に入れるために、命を惜しみますか?」


「…………」


ガレット辺境伯は無言で私を見下ろしていました。
そして、重苦しい沈黙の後、深く、深いため息をつきました。


「……執事長。俺の馬と、山岳装備を用意しろ。……それから、腕利きの斥候を三人呼べ」


「えっ、閣下!? まさかご自身が行かれるのですか?」


「この馬鹿を一人で行かせれば、今夜の俺の楽しみ(デザート)が永遠に失われるからな。……おい、チップ。ついて来い。卵が割れる前に、俺が魔物を叩き伏せてやる」


「まあ! 話がわかる方は大好きですわ、辺境伯様!」


こうして、公爵令嬢、辺境の主、そして涙目になったメイドという奇妙な一行は、幻の卵を求めて禁断の山へと足を踏み入れることになりました。


山道は、想像以上に過酷なものでした。
岩肌は鋭く、冷たい風が体温を奪っていきます。
しかし、私の目は、道端に生えている野生のハーブや、落ちている珍しいナッツを捉えるたびに輝きました。


「あら、これは『雷神の胡桃』じゃない! これを生地に混ぜれば、噛んだ瞬間にパチパチと弾ける刺激的なクッキーが作れるわ。アナ、拾いなさい!」


「お、お嬢様、それどころじゃありませんって! さっきから茂みでガサガサって……ヒィッ!」


巨大な影が、岩陰から飛び出しました。
それは、鋭い鉤爪を持つ「マウンテン・ベア」でした。
騎士たちが剣を抜こうとした瞬間、先頭を歩いていたガレット辺境伯が、一切の無駄がない動きで大剣を振り抜きました。


――ドォォォンッ!!


一撃。
魔物は悲鳴を上げることすら許されず、巨体を地面に沈めました。
返り血を浴びることなく剣を収めたガレット辺境伯は、振り返って私を睨みました。


「……わかったか。これが山の現実だ。次からは俺の後ろを離れるな」


「凄いわ、辺境伯様! 今の衝撃、卵を混ぜる時のホイッパーの動きに応用できそうですわ! 手首のスナップが完璧でした!」


「…………褒め言葉として受け取っておこう」


ガレット辺境伯が頭を抱えましたが、私たちはついに目的の場所に辿り着きました。
切り立った断崖の頂上。そこに、炎のように赤い羽根を持つ『紅蓮極楽鳥』の巣がありました。


親鳥が餌を探しに飛び立った隙を突き、私は崖にしがみついて巣の中を覗き込みました。
そこには、私の想像を遥かに超える、美しく輝く深紅の卵が三つ。


「……あった。これよ。これが、私の新しい歴史の始まりだわ」


私は震える手で卵を一つ、大切に抱き上げました。
その時、空から鋭い鳴き声が響き渡りました。
親鳥が、怒りに狂って急降下してきたのです。


「チップ、伏せろッ!!」


ガレット辺境伯の声と同時に、私は卵を自分の胸元に抱え込み、丸まりました。
頭上を、熱い風が吹き抜けます。
ガレット辺境伯が大剣で親鳥の突進を跳ね返している間に、私はアナが用意したクッションの中へ、慎重に卵を収めました。


「……確保! 退却よ、皆さん!」


私が叫ぶと、騎士たちは一斉に撤退を開始しました。
ガレット辺境伯は殿(しんがり)を務め、猛り狂う極楽鳥を威圧感だけで押し留めました。


「……二度とこんな無茶はさせるか」


城へ戻る馬車の中で、泥だらけになったガレット辺境伯が、忌々しそうに吐き捨てました。
しかし、その目は、私が大切そうに卵の箱を撫でている姿を、どこか優しげに見守っていました。


「何を言っているのですか。これからが本番ですわ。この卵のポテンシャルを最大限に引き出すために、まずは殻の厚みから計算しなくては……。アナ、今すぐキッチンの温度を二十三度に設定して!」


「は、はいっ!」


その夜、バニラ城の厨房からは、これまで以上に濃厚な、そして情熱的な香りが立ち上りました。
幻の卵を使ったクッキーが焼き上がった時、食べた騎士たちが「太陽の味がする……」と呟いて気絶したのは、また別の話です。


ガレット辺境伯は、自分の執務室で届けられた新作を一口齧り、深いため息をつきました。


「……全く。この卵を手に入れるために、俺は国の宝である大剣を使い、挙句に泥まみれになったというのに。……なぜ、こんなにもサクサクで、美味いんだ」


彼が二枚目のクッキーに手を伸ばした時、その顔には、戦場で見せるものとは違う、ごく自然な微笑みが浮かんでいました。
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