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バニラ城の平和な(といっても常にバターの香りに支配された)日常を切り裂くように、一人の男が城門を叩きました。
「王都より、カッサン・ド・ラ・プランス王太子殿下の名代として参った! チョコラート公爵家の元令嬢、チップ・チョコラートの身辺調査を行う!」
現れたのは、銀縁眼鏡をかけた神経質そうな青年、王宮監察官のシャープ男爵でした。
彼は馬を降りるなり、ハンカチで鼻を押さえ、不快そうに眉間に皺を寄せました。
「……なんだ、この下卑た匂いは。城全体が油と砂糖の腐ったような臭気に包まれているではないか。辺境伯領ともなれば、衛生管理もこの程度か」
その言葉が聞こえた瞬間、城門を守っていた騎士たちの目が、スッと冷たい「殺意」に変わりました。
しかし、シャープ男爵はそれに気づかず、傲慢な態度で執務室へと案内されました。
一方、私はそんな事態が起きているとは露知らず、厨房で「新兵器」の調整に没頭していました。
「いいわ、アナ。この『メレンゲ攪拌機・プロトタイプ二号』の回転速度を、あと五パーセント上げてちょうだい。空気を抱き込む速度が足りないわ!」
「は、はいっ! でもお嬢様、これ以上回すと魔石がオーバーヒートします!」
「熱くなったらクッキーを焼けばいいじゃない! 無駄なエネルギーなんてこの世には存在しないのよ!」
私が熱弁を振るっていると、厨房の扉が乱暴に開け放たれました。
そこには、ガレット辺境伯と、その後ろで書類を抱えて鼻息を荒くしているシャープ男爵の姿がありました。
「貴様がチップか。……ふん、公爵令嬢の面影もない、ただの煤けた厨房女に成り下がったようだな」
シャープ男爵は私を一瞥し、侮蔑の言葉を吐き捨てました。
私は彼を見向きもせず、ボウルの中のメレンゲのツヤを確認しながら答えました。
「……どなたか存じませんが、今、非常に大事な局面なのです。お話があるなら、あちらのオーブンの前で予熱の番でもしながら待っていてくださる?」
「なっ……貴様、王太子の名代である私を捕まえて、オーブンの番だと!? 無礼千万!」
「無礼なのは貴方のほうですわ。私のメレンゲは、貴方のその尖った声の振動で気泡が潰れかけているんです。責任取ってくださるの?」
私がギロリと睨みつけると、シャープ男爵は一瞬気圧されたように後ずさりしました。
しかし、すぐに気を取り直して書類を突きつけました。
「カッサン殿下は、貴様が公爵家から多額の裏金を着服し、この辺境の地で何らかの反乱を企てているという疑いをお持ちだ。今から全荷物、および帳簿の検査を行う!」
「裏金? 反乱?」
私はようやく手を止め、首を傾げました。
「残念ながら、私が持ってきたのは三袋の小麦粉と一握りの酵母、そして使い古した麺棒だけですわ。反乱なら、毎日騎士様たちの胃袋の中で起きていますけれど」
「ふん、白々しい。……おい、そこのカバンを開けろ!」
男爵は私が大切にしている「秘密のレシピノート」が入ったカバンを指差しました。
ガレット辺境伯が不愉快そうに口を開こうとしましたが、私はそれを手で制しました。
「いいですよ、どうぞ。ただし、中の情報が貴方の貧弱な脳みそで理解できればの話ですけれど」
シャープ男爵は鼻を鳴らし、カバンをひったくるように開けました。
彼は「反乱の計画書」や「贈収賄の記録」を期待していたのでしょう。
しかし、彼が取り出したのは、びっしりと数字と図形が書き込まれた数十冊のノートでした。
「……なんだ、これは。暗号か? 『気温18度、湿度45%におけるバターの融点保持限界』……『糖分浸透圧によるサクサク感の減衰グラフ』……?」
男爵の手が、次第に震え始めました。
「12.5グラム単位での配合変更記録……? これ、過去一年分、毎日三食分すべて記録されているのか!? この異常なまでの熱量はなんだ……!」
「それは私の愛と狂気ですわ。それ以上の軍事機密がどこにあります?」
シャープ男爵は、ノートのページをめくるたびに、そこに刻まれた「執念」に圧倒されていきました。
彼は次第に、自分が何を調べに来たのかすら忘れ、ページを食い入るように見つめ始めました。
「……おい、監察官。裏金の証拠は見つかったか」
ガレット辺境伯が冷ややかに問いかけました。
シャープ男爵は、ノートを抱きしめたまま、うわ言のように呟きました。
「……ありえない。裏金など……。この女、全財産を『小麦粉の配合実験』だけに注ぎ込んでいる……。反乱? いいえ、これは……文明の進化だ……」
彼はふらふらと、焼き立てのクッキーが並ぶ天板に近づきました。
そして、私の制止も聞かずに一枚を口に運びました。
――サクッ、パラパラパラ……。
「……っ!? あ、頭が、割れるような香ばしさだ……! 私が王都で食べていたクッキーは、ただの練り消しだったというのか……!?」
シャープ男爵は、その場に膝をつきました。
眼鏡がズレているのも気にせず、彼は天板に残ったクッキーの破片を、宝物のように見つめていました。
「カッサン殿下……申し訳ありません。私は、とんでもない勘違いをしていました。この女は……悪役令嬢などではない……。ただの、救いようのないクッキーの化身です……」
こうして、王都からの刺客は、調査を始める前に「クッキーの真理」に敗北しました。
翌日、王都へ送られた報告書には、ただ一行こう書かれていたそうです。
『チップ・チョコラートは、小麦粉の中に沈没いたしました。調査の必要なし』
私はそんな報告など知る由もなく、男爵が残していった高級な万年筆を「クッキーのアイシング用」に改造できないか、真剣に検討し始めていたのでした。
「王都より、カッサン・ド・ラ・プランス王太子殿下の名代として参った! チョコラート公爵家の元令嬢、チップ・チョコラートの身辺調査を行う!」
現れたのは、銀縁眼鏡をかけた神経質そうな青年、王宮監察官のシャープ男爵でした。
彼は馬を降りるなり、ハンカチで鼻を押さえ、不快そうに眉間に皺を寄せました。
「……なんだ、この下卑た匂いは。城全体が油と砂糖の腐ったような臭気に包まれているではないか。辺境伯領ともなれば、衛生管理もこの程度か」
その言葉が聞こえた瞬間、城門を守っていた騎士たちの目が、スッと冷たい「殺意」に変わりました。
しかし、シャープ男爵はそれに気づかず、傲慢な態度で執務室へと案内されました。
一方、私はそんな事態が起きているとは露知らず、厨房で「新兵器」の調整に没頭していました。
「いいわ、アナ。この『メレンゲ攪拌機・プロトタイプ二号』の回転速度を、あと五パーセント上げてちょうだい。空気を抱き込む速度が足りないわ!」
「は、はいっ! でもお嬢様、これ以上回すと魔石がオーバーヒートします!」
「熱くなったらクッキーを焼けばいいじゃない! 無駄なエネルギーなんてこの世には存在しないのよ!」
私が熱弁を振るっていると、厨房の扉が乱暴に開け放たれました。
そこには、ガレット辺境伯と、その後ろで書類を抱えて鼻息を荒くしているシャープ男爵の姿がありました。
「貴様がチップか。……ふん、公爵令嬢の面影もない、ただの煤けた厨房女に成り下がったようだな」
シャープ男爵は私を一瞥し、侮蔑の言葉を吐き捨てました。
私は彼を見向きもせず、ボウルの中のメレンゲのツヤを確認しながら答えました。
「……どなたか存じませんが、今、非常に大事な局面なのです。お話があるなら、あちらのオーブンの前で予熱の番でもしながら待っていてくださる?」
「なっ……貴様、王太子の名代である私を捕まえて、オーブンの番だと!? 無礼千万!」
「無礼なのは貴方のほうですわ。私のメレンゲは、貴方のその尖った声の振動で気泡が潰れかけているんです。責任取ってくださるの?」
私がギロリと睨みつけると、シャープ男爵は一瞬気圧されたように後ずさりしました。
しかし、すぐに気を取り直して書類を突きつけました。
「カッサン殿下は、貴様が公爵家から多額の裏金を着服し、この辺境の地で何らかの反乱を企てているという疑いをお持ちだ。今から全荷物、および帳簿の検査を行う!」
「裏金? 反乱?」
私はようやく手を止め、首を傾げました。
「残念ながら、私が持ってきたのは三袋の小麦粉と一握りの酵母、そして使い古した麺棒だけですわ。反乱なら、毎日騎士様たちの胃袋の中で起きていますけれど」
「ふん、白々しい。……おい、そこのカバンを開けろ!」
男爵は私が大切にしている「秘密のレシピノート」が入ったカバンを指差しました。
ガレット辺境伯が不愉快そうに口を開こうとしましたが、私はそれを手で制しました。
「いいですよ、どうぞ。ただし、中の情報が貴方の貧弱な脳みそで理解できればの話ですけれど」
シャープ男爵は鼻を鳴らし、カバンをひったくるように開けました。
彼は「反乱の計画書」や「贈収賄の記録」を期待していたのでしょう。
しかし、彼が取り出したのは、びっしりと数字と図形が書き込まれた数十冊のノートでした。
「……なんだ、これは。暗号か? 『気温18度、湿度45%におけるバターの融点保持限界』……『糖分浸透圧によるサクサク感の減衰グラフ』……?」
男爵の手が、次第に震え始めました。
「12.5グラム単位での配合変更記録……? これ、過去一年分、毎日三食分すべて記録されているのか!? この異常なまでの熱量はなんだ……!」
「それは私の愛と狂気ですわ。それ以上の軍事機密がどこにあります?」
シャープ男爵は、ノートのページをめくるたびに、そこに刻まれた「執念」に圧倒されていきました。
彼は次第に、自分が何を調べに来たのかすら忘れ、ページを食い入るように見つめ始めました。
「……おい、監察官。裏金の証拠は見つかったか」
ガレット辺境伯が冷ややかに問いかけました。
シャープ男爵は、ノートを抱きしめたまま、うわ言のように呟きました。
「……ありえない。裏金など……。この女、全財産を『小麦粉の配合実験』だけに注ぎ込んでいる……。反乱? いいえ、これは……文明の進化だ……」
彼はふらふらと、焼き立てのクッキーが並ぶ天板に近づきました。
そして、私の制止も聞かずに一枚を口に運びました。
――サクッ、パラパラパラ……。
「……っ!? あ、頭が、割れるような香ばしさだ……! 私が王都で食べていたクッキーは、ただの練り消しだったというのか……!?」
シャープ男爵は、その場に膝をつきました。
眼鏡がズレているのも気にせず、彼は天板に残ったクッキーの破片を、宝物のように見つめていました。
「カッサン殿下……申し訳ありません。私は、とんでもない勘違いをしていました。この女は……悪役令嬢などではない……。ただの、救いようのないクッキーの化身です……」
こうして、王都からの刺客は、調査を始める前に「クッキーの真理」に敗北しました。
翌日、王都へ送られた報告書には、ただ一行こう書かれていたそうです。
『チップ・チョコラートは、小麦粉の中に沈没いたしました。調査の必要なし』
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