「婚約破棄? それより新作クッキーの試食をしませんか?」

萩月

文字の大きさ
12 / 28

12

しおりを挟む
バニラ城の平和な(といっても常にバターの香りに支配された)日常を切り裂くように、一人の男が城門を叩きました。


「王都より、カッサン・ド・ラ・プランス王太子殿下の名代として参った! チョコラート公爵家の元令嬢、チップ・チョコラートの身辺調査を行う!」


現れたのは、銀縁眼鏡をかけた神経質そうな青年、王宮監察官のシャープ男爵でした。
彼は馬を降りるなり、ハンカチで鼻を押さえ、不快そうに眉間に皺を寄せました。


「……なんだ、この下卑た匂いは。城全体が油と砂糖の腐ったような臭気に包まれているではないか。辺境伯領ともなれば、衛生管理もこの程度か」


その言葉が聞こえた瞬間、城門を守っていた騎士たちの目が、スッと冷たい「殺意」に変わりました。
しかし、シャープ男爵はそれに気づかず、傲慢な態度で執務室へと案内されました。


一方、私はそんな事態が起きているとは露知らず、厨房で「新兵器」の調整に没頭していました。


「いいわ、アナ。この『メレンゲ攪拌機・プロトタイプ二号』の回転速度を、あと五パーセント上げてちょうだい。空気を抱き込む速度が足りないわ!」


「は、はいっ! でもお嬢様、これ以上回すと魔石がオーバーヒートします!」


「熱くなったらクッキーを焼けばいいじゃない! 無駄なエネルギーなんてこの世には存在しないのよ!」


私が熱弁を振るっていると、厨房の扉が乱暴に開け放たれました。
そこには、ガレット辺境伯と、その後ろで書類を抱えて鼻息を荒くしているシャープ男爵の姿がありました。


「貴様がチップか。……ふん、公爵令嬢の面影もない、ただの煤けた厨房女に成り下がったようだな」


シャープ男爵は私を一瞥し、侮蔑の言葉を吐き捨てました。
私は彼を見向きもせず、ボウルの中のメレンゲのツヤを確認しながら答えました。


「……どなたか存じませんが、今、非常に大事な局面なのです。お話があるなら、あちらのオーブンの前で予熱の番でもしながら待っていてくださる?」


「なっ……貴様、王太子の名代である私を捕まえて、オーブンの番だと!? 無礼千万!」


「無礼なのは貴方のほうですわ。私のメレンゲは、貴方のその尖った声の振動で気泡が潰れかけているんです。責任取ってくださるの?」


私がギロリと睨みつけると、シャープ男爵は一瞬気圧されたように後ずさりしました。
しかし、すぐに気を取り直して書類を突きつけました。


「カッサン殿下は、貴様が公爵家から多額の裏金を着服し、この辺境の地で何らかの反乱を企てているという疑いをお持ちだ。今から全荷物、および帳簿の検査を行う!」


「裏金? 反乱?」


私はようやく手を止め、首を傾げました。


「残念ながら、私が持ってきたのは三袋の小麦粉と一握りの酵母、そして使い古した麺棒だけですわ。反乱なら、毎日騎士様たちの胃袋の中で起きていますけれど」


「ふん、白々しい。……おい、そこのカバンを開けろ!」


男爵は私が大切にしている「秘密のレシピノート」が入ったカバンを指差しました。
ガレット辺境伯が不愉快そうに口を開こうとしましたが、私はそれを手で制しました。


「いいですよ、どうぞ。ただし、中の情報が貴方の貧弱な脳みそで理解できればの話ですけれど」


シャープ男爵は鼻を鳴らし、カバンをひったくるように開けました。
彼は「反乱の計画書」や「贈収賄の記録」を期待していたのでしょう。
しかし、彼が取り出したのは、びっしりと数字と図形が書き込まれた数十冊のノートでした。


「……なんだ、これは。暗号か? 『気温18度、湿度45%におけるバターの融点保持限界』……『糖分浸透圧によるサクサク感の減衰グラフ』……?」


男爵の手が、次第に震え始めました。


「12.5グラム単位での配合変更記録……? これ、過去一年分、毎日三食分すべて記録されているのか!? この異常なまでの熱量はなんだ……!」


「それは私の愛と狂気ですわ。それ以上の軍事機密がどこにあります?」


シャープ男爵は、ノートのページをめくるたびに、そこに刻まれた「執念」に圧倒されていきました。
彼は次第に、自分が何を調べに来たのかすら忘れ、ページを食い入るように見つめ始めました。


「……おい、監察官。裏金の証拠は見つかったか」


ガレット辺境伯が冷ややかに問いかけました。
シャープ男爵は、ノートを抱きしめたまま、うわ言のように呟きました。


「……ありえない。裏金など……。この女、全財産を『小麦粉の配合実験』だけに注ぎ込んでいる……。反乱? いいえ、これは……文明の進化だ……」


彼はふらふらと、焼き立てのクッキーが並ぶ天板に近づきました。
そして、私の制止も聞かずに一枚を口に運びました。


――サクッ、パラパラパラ……。


「……っ!? あ、頭が、割れるような香ばしさだ……! 私が王都で食べていたクッキーは、ただの練り消しだったというのか……!?」


シャープ男爵は、その場に膝をつきました。
眼鏡がズレているのも気にせず、彼は天板に残ったクッキーの破片を、宝物のように見つめていました。


「カッサン殿下……申し訳ありません。私は、とんでもない勘違いをしていました。この女は……悪役令嬢などではない……。ただの、救いようのないクッキーの化身です……」


こうして、王都からの刺客は、調査を始める前に「クッキーの真理」に敗北しました。


翌日、王都へ送られた報告書には、ただ一行こう書かれていたそうです。
『チップ・チョコラートは、小麦粉の中に沈没いたしました。調査の必要なし』


私はそんな報告など知る由もなく、男爵が残していった高級な万年筆を「クッキーのアイシング用」に改造できないか、真剣に検討し始めていたのでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

大嫌いな従兄と結婚するぐらいなら…

みみぢあん
恋愛
子供の頃、両親を亡くしたベレニスは伯父のロンヴィル侯爵に引き取られた。 隣国の宣戦布告で戦争が始まり、伯父の頼みでベレニスは病弱な従妹のかわりに、側妃候補とは名ばかりの人質として、後宮へ入ることになった。 戦争が終わりベレニスが人質生活から解放されたら、伯父は後継者の従兄ジャコブと結婚させると約束する。 だがベレニスはジャコブが大嫌いなうえ、密かに思いを寄せる騎士フェルナンがいた。   

望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで

越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。 国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。 孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。 ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――? (……私の体が、勝手に動いている!?) 「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」 死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?  ――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!

何も決めなかった王国は、静かに席を失う』

ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、 表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。 だが―― 彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。 ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。 婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。 制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく―― けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。 一方、帝国は違った。 完璧ではなくとも、期限内に返事をする。 責任を分け、判断を止めない。 その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。 王国は滅びない。 だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。 ――そして迎える、最後の選択。 これは、 剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。 何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。

悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。
恋愛
王国の侯爵令嬢ルゥナ=フェリシェは、些細なすれ違いから突発的に家出をする。本人にとっては軽いお散歩のつもりだったが、方向音痴の彼女はそのまま隣国の帝国に迷い込み、なぜか牢獄に収監される羽目に。しかし無自覚な怪力と天然ぶりで脱獄してしまい、道に迷うたびに騒動を巻き起こす。 一方、婚約破棄を告げようとした王子レオニスは、当日にルゥナが失踪したことで騒然。王宮も侯爵家も大混乱となり、レオニス自身が捜索に出るが、恐らく最後まで彼女とは一度も出会えない。 ルゥナは道に迷っただけなのに、なぜか人助けを繰り返し、帝国の各地で英雄視されていく。そして気づけば彼女を慕う男たちが集まり始め、逆ハーレムの中心に。だが本人は一切自覚がなく、むしろ全員の好意に対して煙たがっている。 帰るつもりもなく、目的もなく、ただ好奇心のままに彷徨う“無害で最強な天然令嬢”による、帝国大騒動ギャグ恋愛コメディ、ここに開幕!

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中

枯渇聖女は婚約破棄され結婚絶対無理ランキング1位の辺境伯に言い寄られる

はなまる
恋愛
 らすじ  フレイシアは10歳の頃母と一緒に魔物に遭遇。その時母はかなりの傷を負い亡くなりショックで喋れなくなtったがその時月の精霊の加護を受けて微力ながらも魔法が使えるようになった。  このニルス国では魔力を持っている人間はほとんどいなくて魔物討伐でけがを負った第二王子のジェリク殿下の怪我をほんの少し治せた事からジェリク殿下から聖女として王都に来るように誘われる。  フレイシアは戸惑いながらも淡い恋心を抱きジェリク殿下の申し出を受ける。  そして王都の聖教会で聖女として働くことになりジェリク殿下からも頼られ婚約者にもなってこの6年フレイシアはジェリク殿下の期待に応えようと必死だった。  だが、最近になってジェリクは治癒魔法が使えるカトリーナ公爵令嬢に気持ちを移してしまう。  その前からジェリク殿下の態度に不信感を抱いていたフレイシアは魔力をだんだん失くしていて、ついにジェリクから枯渇聖女と言われ婚約を破棄されおまけに群れ衣を着せられて王都から辺境に追放される事になった。  追放が決まり牢に入れられている間に月の精霊が現れフレイシアの魔力は回復し、翌日、辺境に向かう騎士3名と一緒に荷馬車に乗ってその途中で魔物に遭遇。フレイシアは想像を超える魔力を発揮する。  そんな力を持って辺境に‥    明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。少し間が開いてしまいましたがよろしくです。  まったくの空想の異世界のお話。誤字脱字などご不快な点は平にご容赦お願いします。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。他のサイトにも投稿しています。

【完結】公爵家の秘密の愛娘 

ゆきむらさり
恋愛
〔あらすじ〕📝グラント公爵家は王家に仕える名門の家柄。 過去の事情により、今だに独身の当主ダリウス。国王から懇願され、ようやく伯爵未亡人との婚姻を決める。 そんな時、グラント公爵ダリウスの元へと現れたのは1人の少女アンジェラ。 「パパ……私はあなたの娘です」 名乗り出るアンジェラ。 ◇ アンジェラが現れたことにより、グラント公爵家は一変。伯爵未亡人との再婚もあやふや。しかも、アンジェラが道中に出逢った人物はまさかの王族。 この時からアンジェラの世界も一変。華やかに色付き出す。 初めはよそよそしいグラント公爵ダリウス(パパ)だが、次第に娘アンジェラを気に掛けるように……。 母娘2代のハッピーライフ&淑女達と貴公子達の恋模様💞  🔶設定などは独自の世界観でご都合主義となります。ハピエン💞 🔶稚拙ながらもHOTランキング(最高20位)に入れて頂き(2025.5.9)、ありがとうございます🙇‍♀️

処理中です...