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「……くそっ。なんで脂汚れというのは、こうもしつこいんだ」
リゾートの裏方、厨房の洗い場。
かつて王国の次期国王として崇められていた男、ギルバート(現在:平民・借金持ち)は、山のように積まれた汚れた皿と格闘していた。
彼が身につけているのは、王家の紋章が入ったマントではなく、油と洗剤で汚れたグレーのつなぎ。
頭には手ぬぐいを巻き、足元は長靴という、完全に「現地のオッサン」スタイルだ。
「おい新人! 手が止まってるよ! ランチタイムのラッシュが来るんだ、さっさと洗わないと皿が足りなくなるぞ!」
厨房の主、料理長マーサの怒号が飛ぶ。
「わ、わかっている! 今やっている!」
ギルバートは必死にスポンジを動かした。
最初の一週間は地獄だった。
洗剤で手は荒れ、立ち仕事で腰は悲鳴を上げ、生ゴミの臭いに何度も気絶しかけた。
「僕は王太子だぞ!」と叫んで逃げ出そうとしたこともあった。
だが、そのたびにマリアが現れて「脱走一回につき借金一割増しです」と笑顔で電卓を叩くため、逃げることすら許されなかった。
「……ふぅ。これで、百枚目か」
ギルバートは洗い上がった皿をカゴに収め、額の汗を腕で拭った。
ふと、洗い場の鏡に映った自分の顔を見る。
やつれている。
目の下にはクマがある。
だが、不思議なことに、王城で書類の山(読めない)を前にしていた時のような、淀んだ目はしていなかった。
「……意外と、悪くない仕上がりだ」
彼はピカピカに磨かれた皿を見て、少しだけ満足感を覚えた。
誰にも褒められない。
国も救わない。
ただ、汚れを落として綺麗にするだけの単純作業。
だが、そこには確かな「成果」があった。
「ギルバートさん。休憩入っていいですよー。まかない食べてください」
先輩のドワーフが声をかけてくれた。
「あ、ああ。いただくよ」
ギルバートはよろよろと従業員用食堂へ向かった。
今日のまかないは『余り野菜のカレー』と『カツの端っこ』だ。
以前の彼なら「こんな残飯が食えるか!」とちゃぶ台をひっくり返していただろう。
だが今は、それが何よりも輝いて見えた。
「……うまい」
一口食べた瞬間、ギルバートの目から涙がこぼれた。
労働の後の飯は、なぜこんなに美味いのか。
王宮のフルコースよりも、ミナと食べた高級スイーツよりも、この少し冷めたカレーの方が、五臓六腑に染み渡るのだ。
「あら、随分と貧相なランチですわね」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
ギルバートが顔を上げると、そこには計算尺を持った「魔王」こと、オーナーのステファニーが立っていた。
「ス、ステファニー……! い、いや、オーナー!」
ギルバートは慌てて立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。
これは体に染み付いた条件反射だ。
「座りなさい。休憩時間中に業務の話をするのは労基法違反ですから」
ステファニーは優雅に対面の席に座った。
彼女の前には、マリアが淹れた最高級の紅茶が置かれる。
カレーと紅茶。
あまりの格差に目眩がしそうだが、ギルバートは大人しくスプーンを置いた。
「……僕に何か用か? まだトイレ掃除が残っていると言いに来たのか?」
「いいえ。今日は『人事評価』に来ました」
「人事……評価?」
「ええ。貴方がここで働き始めて一ヶ月。そろそろ使い物になるか、それとも廃棄処分(クビにして鉱山送り)にするか、見極める時期ですので」
ギルバートは息を飲んだ。
鉱山送りになれば、太陽を拝めない地下生活が待っている。
それだけは避けたい。
「マリア、データを」
「はい。こちらがギルバートさんの勤務記録です」
マリアがファイルを読み上げる。
「遅刻・欠勤ゼロ。皿割りの枚数は初日の二十枚から、昨日は一枚に減少。トイレ掃除のクレームなし。……特筆すべきは、お客様からのアンケートです」
「アンケート?」
「はい。『入り口で看板を持っていたお兄さんの笑顔が必死すぎて応援したくなった』『元王太子に似ている人が一生懸命ゴミ拾いをしていて感動した』等の好意的な意見が多数寄せられています」
「……え?」
ギルバートは耳を疑った。
感動?
応援?
嘲笑ではなく?
「貴方、意外と『愛されキャラ(不憫枠)』としての才能があるようですね」
ステファニーがニヤリと笑った。
「プライドを捨てて泥にまみれる姿が、一部の貴婦人の母性本能をくすぐっているようです。……計算外でしたが、利益になるなら良しとしましょう」
「そ、そうか……僕は、役に立っているのか……?」
「ええ。少なくとも、王城で判子を押すふりをしていた頃よりは、生産的な活動をしています」
ステファニーの言葉は毒舌だが、その中には確かな「肯定」が含まれていた。
ギルバートの胸に、熱いものが込み上げてくる。
生まれて初めて、自分の力で評価されたのだ。
「王太子だから」ではなく、「ギルバートという労働者」として。
「……ありがとう、ステファニー」
「お礼には及びません。働いた分はキッチリ借金から引いておきますので」
「ああ、頼む。……いつか完済したら、一番高い客室に泊まってやるんだ」
「百年かかりそうですけど、予約だけは入れておきますわ」
その時。
食堂の入り口がざわついた。
現れたのは、湯上がり姿の国王アラン陛下だ。
彼はギルバートを見つけると、親しげに手を挙げた。
「おお、ここにおったかギルバート。……なんだ、随分と汚い格好をしておるな」
「父上……」
ギルバートは自分のつなぎを見た。
以前なら恥じて隠しただろう。
だが今は、不思議と恥ずかしくない。
これは戦う男の戦闘服だ。
「汚れておりますが、これは仕事の証です」
ギルバートは胸を張って答えた。
「ほう……」
国王は目を丸くし、そして満足げに髭を撫でた。
「顔つきが変わったな。……以前の、のっぺりとした王子の顔より、今のその泥だらけの顔の方が、よほど良い」
「……恐縮です」
「どうだ? そろそろ城に戻りたいか? 私がステファニー嬢に頼んで、借金を肩代わりしてやってもいいぞ」
甘い誘惑。
だが、ギルバートは首を横に振った。
「いいえ、父上。結構です」
「なぜだ?」
「僕はここで、自分の借金を自分で返したいのです。それに……」
ギルバートは厨房の方を見た。
そこでは、ドワーフや元騎士たちが、忙しくも楽しそうに働いている。
「まだ、皿洗いの極意を極めていません。昨日は油汚れを落とすのに三十秒かかりましたが、明日は二十秒に短縮する目標があるのです」
「……皿洗いにかける情熱か。小さいな」
国王は笑った。
「だが、その小さな目標すら持てなかったのが、以前のお前だ。……精進せよ」
「はい!」
国王は去っていった。
ギルバートは再びカレーに向き合った。
冷めてしまっていたが、やはり最高に美味かった。
「……合格ですわね」
ステファニーがポツリと呟いた。
「え?」
「現状維持です。引き続き、皿洗い部門のリーダーとして励みなさい。時給を銅貨一枚アップしてあげます」
「本当か!? やった!」
銅貨一枚。
かつては道端に落ちていても拾わなかった金額だ。
だが今のギルバートにとっては、飛び上がるほど嬉しい昇給だった。
「では、私は失礼します。……ああ、そうそう」
ステファニーは去り際に振り返った。
「あの詐欺師のミヨですが、修道院から手紙が届きましたわよ。『寒すぎて死にそうだけど、シスターの作るパンが意外と美味しいから生きてます』だそうです」
「……そうか」
ギルバートは苦笑した。
「彼女も、彼女なりに強く生きているんだな」
「ええ。人間、落ちるところまで落ちれば、あとは這い上がるだけですから」
ステファニーが出て行った後、ギルバートはカレーを完食した。
そして、空になった皿を自分で洗い場へ持って行く。
「よし! 午後も洗うぞ!」
「おーいギルバート! 排水溝が詰まったぞ! 頼む!」
「はい、ただいま!」
元王太子ギルバート・フォン・ログレス。
彼はその日、歴史の表舞台から完全に姿を消した。
代わりに、リゾートの名物スタッフとして、一部のマニアに愛される「伝説の皿洗い師」が誕生したのだった。
その背中は、玉座に座っていた頃よりも、ずっと大きく、頼もしく見えた。
(……まあ、借金が完済できるのは来世かもしれないけれど)
彼はゴム手袋をはめ直し、新たな戦場(シンク)へと向かっていった。
リゾートの裏方、厨房の洗い場。
かつて王国の次期国王として崇められていた男、ギルバート(現在:平民・借金持ち)は、山のように積まれた汚れた皿と格闘していた。
彼が身につけているのは、王家の紋章が入ったマントではなく、油と洗剤で汚れたグレーのつなぎ。
頭には手ぬぐいを巻き、足元は長靴という、完全に「現地のオッサン」スタイルだ。
「おい新人! 手が止まってるよ! ランチタイムのラッシュが来るんだ、さっさと洗わないと皿が足りなくなるぞ!」
厨房の主、料理長マーサの怒号が飛ぶ。
「わ、わかっている! 今やっている!」
ギルバートは必死にスポンジを動かした。
最初の一週間は地獄だった。
洗剤で手は荒れ、立ち仕事で腰は悲鳴を上げ、生ゴミの臭いに何度も気絶しかけた。
「僕は王太子だぞ!」と叫んで逃げ出そうとしたこともあった。
だが、そのたびにマリアが現れて「脱走一回につき借金一割増しです」と笑顔で電卓を叩くため、逃げることすら許されなかった。
「……ふぅ。これで、百枚目か」
ギルバートは洗い上がった皿をカゴに収め、額の汗を腕で拭った。
ふと、洗い場の鏡に映った自分の顔を見る。
やつれている。
目の下にはクマがある。
だが、不思議なことに、王城で書類の山(読めない)を前にしていた時のような、淀んだ目はしていなかった。
「……意外と、悪くない仕上がりだ」
彼はピカピカに磨かれた皿を見て、少しだけ満足感を覚えた。
誰にも褒められない。
国も救わない。
ただ、汚れを落として綺麗にするだけの単純作業。
だが、そこには確かな「成果」があった。
「ギルバートさん。休憩入っていいですよー。まかない食べてください」
先輩のドワーフが声をかけてくれた。
「あ、ああ。いただくよ」
ギルバートはよろよろと従業員用食堂へ向かった。
今日のまかないは『余り野菜のカレー』と『カツの端っこ』だ。
以前の彼なら「こんな残飯が食えるか!」とちゃぶ台をひっくり返していただろう。
だが今は、それが何よりも輝いて見えた。
「……うまい」
一口食べた瞬間、ギルバートの目から涙がこぼれた。
労働の後の飯は、なぜこんなに美味いのか。
王宮のフルコースよりも、ミナと食べた高級スイーツよりも、この少し冷めたカレーの方が、五臓六腑に染み渡るのだ。
「あら、随分と貧相なランチですわね」
頭上から、冷ややかな声が降ってきた。
ギルバートが顔を上げると、そこには計算尺を持った「魔王」こと、オーナーのステファニーが立っていた。
「ス、ステファニー……! い、いや、オーナー!」
ギルバートは慌てて立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。
これは体に染み付いた条件反射だ。
「座りなさい。休憩時間中に業務の話をするのは労基法違反ですから」
ステファニーは優雅に対面の席に座った。
彼女の前には、マリアが淹れた最高級の紅茶が置かれる。
カレーと紅茶。
あまりの格差に目眩がしそうだが、ギルバートは大人しくスプーンを置いた。
「……僕に何か用か? まだトイレ掃除が残っていると言いに来たのか?」
「いいえ。今日は『人事評価』に来ました」
「人事……評価?」
「ええ。貴方がここで働き始めて一ヶ月。そろそろ使い物になるか、それとも廃棄処分(クビにして鉱山送り)にするか、見極める時期ですので」
ギルバートは息を飲んだ。
鉱山送りになれば、太陽を拝めない地下生活が待っている。
それだけは避けたい。
「マリア、データを」
「はい。こちらがギルバートさんの勤務記録です」
マリアがファイルを読み上げる。
「遅刻・欠勤ゼロ。皿割りの枚数は初日の二十枚から、昨日は一枚に減少。トイレ掃除のクレームなし。……特筆すべきは、お客様からのアンケートです」
「アンケート?」
「はい。『入り口で看板を持っていたお兄さんの笑顔が必死すぎて応援したくなった』『元王太子に似ている人が一生懸命ゴミ拾いをしていて感動した』等の好意的な意見が多数寄せられています」
「……え?」
ギルバートは耳を疑った。
感動?
応援?
嘲笑ではなく?
「貴方、意外と『愛されキャラ(不憫枠)』としての才能があるようですね」
ステファニーがニヤリと笑った。
「プライドを捨てて泥にまみれる姿が、一部の貴婦人の母性本能をくすぐっているようです。……計算外でしたが、利益になるなら良しとしましょう」
「そ、そうか……僕は、役に立っているのか……?」
「ええ。少なくとも、王城で判子を押すふりをしていた頃よりは、生産的な活動をしています」
ステファニーの言葉は毒舌だが、その中には確かな「肯定」が含まれていた。
ギルバートの胸に、熱いものが込み上げてくる。
生まれて初めて、自分の力で評価されたのだ。
「王太子だから」ではなく、「ギルバートという労働者」として。
「……ありがとう、ステファニー」
「お礼には及びません。働いた分はキッチリ借金から引いておきますので」
「ああ、頼む。……いつか完済したら、一番高い客室に泊まってやるんだ」
「百年かかりそうですけど、予約だけは入れておきますわ」
その時。
食堂の入り口がざわついた。
現れたのは、湯上がり姿の国王アラン陛下だ。
彼はギルバートを見つけると、親しげに手を挙げた。
「おお、ここにおったかギルバート。……なんだ、随分と汚い格好をしておるな」
「父上……」
ギルバートは自分のつなぎを見た。
以前なら恥じて隠しただろう。
だが今は、不思議と恥ずかしくない。
これは戦う男の戦闘服だ。
「汚れておりますが、これは仕事の証です」
ギルバートは胸を張って答えた。
「ほう……」
国王は目を丸くし、そして満足げに髭を撫でた。
「顔つきが変わったな。……以前の、のっぺりとした王子の顔より、今のその泥だらけの顔の方が、よほど良い」
「……恐縮です」
「どうだ? そろそろ城に戻りたいか? 私がステファニー嬢に頼んで、借金を肩代わりしてやってもいいぞ」
甘い誘惑。
だが、ギルバートは首を横に振った。
「いいえ、父上。結構です」
「なぜだ?」
「僕はここで、自分の借金を自分で返したいのです。それに……」
ギルバートは厨房の方を見た。
そこでは、ドワーフや元騎士たちが、忙しくも楽しそうに働いている。
「まだ、皿洗いの極意を極めていません。昨日は油汚れを落とすのに三十秒かかりましたが、明日は二十秒に短縮する目標があるのです」
「……皿洗いにかける情熱か。小さいな」
国王は笑った。
「だが、その小さな目標すら持てなかったのが、以前のお前だ。……精進せよ」
「はい!」
国王は去っていった。
ギルバートは再びカレーに向き合った。
冷めてしまっていたが、やはり最高に美味かった。
「……合格ですわね」
ステファニーがポツリと呟いた。
「え?」
「現状維持です。引き続き、皿洗い部門のリーダーとして励みなさい。時給を銅貨一枚アップしてあげます」
「本当か!? やった!」
銅貨一枚。
かつては道端に落ちていても拾わなかった金額だ。
だが今のギルバートにとっては、飛び上がるほど嬉しい昇給だった。
「では、私は失礼します。……ああ、そうそう」
ステファニーは去り際に振り返った。
「あの詐欺師のミヨですが、修道院から手紙が届きましたわよ。『寒すぎて死にそうだけど、シスターの作るパンが意外と美味しいから生きてます』だそうです」
「……そうか」
ギルバートは苦笑した。
「彼女も、彼女なりに強く生きているんだな」
「ええ。人間、落ちるところまで落ちれば、あとは這い上がるだけですから」
ステファニーが出て行った後、ギルバートはカレーを完食した。
そして、空になった皿を自分で洗い場へ持って行く。
「よし! 午後も洗うぞ!」
「おーいギルバート! 排水溝が詰まったぞ! 頼む!」
「はい、ただいま!」
元王太子ギルバート・フォン・ログレス。
彼はその日、歴史の表舞台から完全に姿を消した。
代わりに、リゾートの名物スタッフとして、一部のマニアに愛される「伝説の皿洗い師」が誕生したのだった。
その背中は、玉座に座っていた頃よりも、ずっと大きく、頼もしく見えた。
(……まあ、借金が完済できるのは来世かもしれないけれど)
彼はゴム手袋をはめ直し、新たな戦場(シンク)へと向かっていった。
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