婚約破棄を承る前に、一度『損益計算』をしませんか?

萩月

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ヴィルフリート殿下とリーズが、微かな余韻と気恥ずかしさに包まれていた、その時。


眼鏡を位置を厳かに直したマリア様が、手に持っていた分厚いファイルを机に叩きつけた。


「殿下、お姉様。……今の抱擁による心拍数の上昇、および相互の好意指数の急騰を確認いたしました。そこで、私から重大な提案がございますぅ!」


「提案……? マリア、君はまだ、私のことが諦められないのか?」


ヴィルフリート殿下は、少し申し訳なさそうな、それでいてどこか優越感の混じった顔で問いかけた。


愛の勝利を確信した男の余裕、というやつだ。


しかし、マリア様は冷ややかな目で殿下を一瞥すると、鼻でフンと笑った。


「殿下。自意識過剰は資産の無駄遣いです。私が諦めたのは、殿下との『不採算な恋愛』であって、この婚約そのものに対する介入ではありませんわ!」


「……不採算?」


「はい! 私はこの数日間、リーズお姉様の隣で、真の幸福とは何かを学びました。その結果、一つの論理的結論に達したのですぅ。……殿下、身を引いてください。私、リーズお姉様と結婚したいです!」


「…………は?」


ヴィルフリート殿下の口から、情けない声が漏れた。


静寂。


窓の外で鳴く小鳥のさえずりさえも、今の発言の衝撃を和らげる役には立たなかった。


「マリア様。……今、何と仰いました?」


リーズが珍しく、瞬きを忘れたような顔で聞き返した。


「ですから、お姉様! 私、殿下との婚約を解消して、お姉様と生涯のパートナー契約を結びたいんですぅ! 法律的に結婚が無理なら、養子縁組でも、終身雇用契約でも構いません!」


マリア様はリーズの前に跪き、その手を情熱的に握りしめた。


「殿下のような、いつ感情が揺らぐか分からない不安定な個人株に投資するのは、もう疲れました。お姉様という、堅実で、有能で、私を正しく導いてくださる『超優良銘柄』こそが、私の求める真実の愛です!」


「待て待て待て! マリア! 君、何を言っているんだ! 君は私の『真実の愛』の相手だろう!?」


ヴィルフリート殿下が、泡を食って二人の間に割って入った。


「殿下。以前も申し上げましたが、殿下の愛はメンテナンスコストが高すぎます。一方、お姉様の隣にいれば、私は知識を得られ、美味しい夜食を食べられ、国家予算の裏側まで覗ける……。これ以上の幸福が、この世にあるでしょうか! いえ、ありません!」


マリア様の瞳は、かつての恋する乙女のそれではなく、完全に「有望な投資先を見つけたベンチャーキャピタリスト」の輝きだった。


「マリア様、落ち着いてください。……私の戸籍は現在、殿下との婚約によって予約されています。同性同士の公的な婚姻は、現在の王国法では……ええと、特例法を適用したとしても、数年の法整備が必要ですわ」


リーズがガチの法律論で検討を始めると、ヴィルフリート殿下は頭を抱えた。


「リーズ、法整備の問題じゃない! 私の婚約者と、私の恋人だったはずの少女が、私を置いてけぼりにして合併しようとしているんだぞ! これは悪夢か!?」


「悪夢ではありませんわ、殿下。これは市場競争の健全な結果です」


リーズはマリア様を優しく立たせると、困ったような、しかしどこか満足げな笑みを浮かべた。


「マリア様。私をそこまで評価してくださるのは光栄ですわ。……ですが、今の私は『殿下という名の不良債権』を立て直すという、極めて難易度の高いプロジェクトの真っ最中なのです。これを放り出すのは、私のプライドが許しません」


「お姉様……。不良債権のために、そんなに身を削るなんて……。やっぱりお姉様は聖女様ですぅ!」


「不良債権って言うな! 一応、これでも第一王子だぞ!」


ヴィルフリート殿下の叫びは、二人の「義姉妹」の強い絆の前では、羽虫の羽音も同然だった。


マリア様は殿下の方を向き、冷徹に言い放った。


「殿下。もしお姉様と結婚したいのであれば、私との『共同保有』を認めなさい。月火水は殿下、木金土はお姉様の秘書としての私。日曜日は三人で予算会議。……これが私の提示する最終妥協案ですぅ!」


「……三人で予算会議が、休日なのか?」


ヴィルフリート殿下は、もはや突っ込む気力も失いつつあった。


婚約破棄を巡る戦いは、いつの間にか「リーズ・ブラッドベリーという稀有な才能(リソース)を、いかに奪い合うか」という、次元の違う抗争へと発展していた。


「……リーズ。君は、どうしたいんだ。まさか、マリアの提案に乗るんじゃないだろうな?」


ヴィルフリート殿下が恐る恐る尋ねると、リーズは人差し指を顎に当てて、真剣に考え込んだ。


「……マリア様の実務能力の向上、および殿下の情緒安定。この両立を考えれば、三人体制での運用は……リスクヘッジとして非常に優秀な選択肢かもしれませんわね」


「認めるのかよ!」


「ただし、殿下。……あなたがこれ以上、マリア様や私の信頼を損なうような『非論理的な浮気心』を見せた場合、私は即座にマリア様を連れて隣国へ移籍いたします。……レオナード殿下なら、三人まとめての雇用契約、喜んで結んでくださるでしょうし」


リーズの冷ややかな一言に、殿下はガタガタと震え上がった。


「し、しない! 絶対に見せない! 私は……私はリーズ、君一筋だ! マリアは……その、妹として、あるいは有能な部下として、大切にする!」


「……今の発言、録音魔法で記録いたしましたぁ。契約不履行の場合は、全財産没収の上、国外追放ですからねっ!」


マリア様が、どこで覚えたのか、不敵な笑みを浮かべて水晶玉を掲げた。


ヴィルフリート殿下は、自分がかつて愛でていた「ふわふわしたマリア」が、もうどこにもいないことを悟った。


そして同時に、自分もまた、リーズという名の冷徹で美しい嵐から、一生逃れられないことを。


「(……私は、誰を愛して、誰に支配されているんだっけ……?)」


混沌を極める王宮の執務室。


そこにいるのは、恋に敗れた者ではなく、強大な「実務能力」という光に魅入られた、二人の従順な(?)子羊たちだった。


リーズは、二人の様子を見て、手帳の「今後の展望」を大幅に書き換えた。


(……一夫一婦制の枠組みを超えた、多角的な国家統治システム。……面白い実験になりそうですわ)


彼女の唇が、妖しく、そして美しく弧を描いた。
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