ペーシェとバラばあさんと

翼 翔太

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第1章

バラばあさん

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 自分よりもずっと大きな人々のあいだを、ペーシェはご機嫌で歩いていた。ペーシェを見たある人は二度見をして、またある人は微笑んでいた。ペーシェ本人は気にしていないが、それは仕方のないことだ。なぜならペーシェは体長二十センチほどのテディーベアだからだ。ピンクの体につぶらな黒い瞳。肩からカバンをかけオレンジ色のケープを羽織り、赤い靴を履いている彼は今、ダランの町に来ていた。
 ダランの町は首都から離れた町で、穏やかな風が吹き抜ける。町の中心地は湖の上に作られており、周りは湿地。そんな土地で人々は水とうまく共存している町だ。
 ペーシェは中心地を囲んで建っている風車を橋の上から見ると、感動の声を上げた。
「わあ、回ってる! ねえ、回ってるよ」
 ペーシェは近くにいた男性に、興奮のあまり話しかけた。男性は驚きつつも「そ、そうだね」と答えてくれた。
「あれにかごをつけて乗ったら、ぐるぐるして楽しいだろうなあ」
 ペーシェは風車の羽の先にかごをつけて乗ったところを想像した。ペーシェは回る風車を眺めていた。風車といっしょに首で円を描く。何周もしていると目が回ってしまい、ペーシェは真後ろに倒れた。
「はわわあー……。よっこいしょ」
 ペーシェはゆっくり起き上がり、頭を軽く横に振った。
「まだふわふわする」
 ペーシェは少しの間その場で座り、落ち着くとようやく立ち上がった。
「そういえば風車ってなんのためにあるんだろう?」
 ペーシェはふと疑問に思った。ペーシェは通りかかった女性に声をかけた。
「すみません、おじょうさん。おたずねしたいことがあるんですが」
「あら、かわいいぬいぐるみさん。なにかしら?」
 女性は屈んでペーシェと視線の高さを合わせてくれた。
「なんでこの町には風車があるの?」
「ここは水が多い地域なの。水路だけだとどんどん水が地面に染み込んできてしまうから、地面の下の水をかきだしているのよ」
「じゃあお水をくむために風車が回っているの?」
「そうよ。あの風車が止まってしまうと、一週間もしないうちに地面から水が染み出て、建物も沈んでしまうの」
「へー、じゃあ風車は大切なんだね」
「そうよ」
「教えてくれてありがとう」
 ペーシェは女性に頭を下げた。女性に写真を撮らせてほしいと頼まれたので、めいいっぱいかっこいい決めポーズをした。
 女性と別れるとペーシェはまず市場に行った。市場に行くとその土地の名物がわかるからだ。市場には果物、肉、魚、チーズ、パンなどが売られていた。ペーシェはお店を見て回った。市場では料理も売っているらしく、いいにおいが風にのってあちこちに流れていた。ペーシェは一軒の魚屋さんで立ち止まった。そこには水槽があり、その中で魚が泳いでいた。
「わあ、お魚さんだっ」
 ペーシェが興奮の声を上げると、おかみらしきおばさんがペーシェに気がついた。
「おやまあ、かわいらしい旅人さんじゃないか。魚見るかい?」
「うんっ」
 ペーシェはおかみさんに抱き上げてもらって、水槽の中を覗いた。体に筋が入っているもの、斑点があるもの、口がとがっているものなどいろんな種類がいた。
「この辺は川魚が多くてね。ほら、すみっこ見てごらん。えびもいるんだよ」
 おかみさんが指さした先を見ると、透明な体のえびが横を向いていた。
「本当だ。えびさーん、やっほー」
 えびは返事などせず、ただ横を向いていた。
「この町の名物は川魚の酢漬けなんだよ。食べてみるかい?」
「ありがとう。でもぼく、食べられないんだ。においをかがせてくれるとうれしいな」
 ペーシェがそう答えるとおかみさんは一度彼を地面に下ろし、店の奥から川魚の酢漬けを持ってきてくれた。開かれた魚は焼かれており、赤や黄色のパプリカや玉ねぎ、にんにくも入っている。
「わあ、すっぱいにおい」
「そりゃそうさ、酢漬けだもの」
「おいしそうだなあ。ぼくが食べ物を食べられたら、きっとこのお魚の酢漬けを食べてるよ」
「ははは、ありがとうねえ」
 魚屋さんを離れると次にペーシェが立ち寄ったのは、チーズのお店だった。
「わあ、いろんなチーズがいっぱい!」
 ペーシェに気がついた男性の店員さんが自慢げに頷いた。
「そうだろう、そうだろう。うちの店の品ぞろえはこの市場一なんだぞ」
「すごーいっ」
 お店の内側から出てきた店員さんはペーシェを抱き上げて、丁寧にチーズの説明をしてくれた。
「ここは酪農が盛んなんだ。だからチーズもたくさんあるんだぞ」
「らくのうってなあに?」
「ミルクや肉をとるために動物を育てることさ。牛やヤギとかな」
「ぼく、牛さんの上に乗ったことあるよ。温かくてね、大きくてね、モーって鳴いたときびっくりして転んで落ちちゃったことがあるんだ」
 ペーシェは過去の旅の出来事を話した。ちなみにそのときの地面は、柔らかい土だったので痛くはなかった。
「そうかそうか。これはその牛のミルクで作ったチーズだぞ。二十四カ月熟成させてあるんだ」
「二十四カ月ってことは、二年ってこと? すごいやっ。二年もの間寝てただなんて」
 ペーシェはベッドに入って毛布をかけたチーズの姿を想像した。店員さんは別のチーズを指差した。
「これはヤギのミルクで作ったんだ。食べてみるか?」
「ありがとう。でもぼく食べられないんだ。においだけかいでもいい?」
 店員さんはお店の別の人に言って、試食用に小さく切られたヤギのチーズをペーシェの前に差し出した。ペーシェはくんくんと匂いを嗅いだ。
「わあ、ヤギさんのにおいがする」
「そうだろう?」
 店員さんはほかのチーズの匂いも嗅がせてくれた。どれも違う匂いがした。
 市場を離れたペーシェは、広場やお土産屋さんなどにも行った。お土産屋さんでは製作者である父、ディルニオ・カルツォーニに川魚の酢漬けのパイと、ジャガイモとチーズを混ぜ合わせた団子を送った。
「この住所のところに送ってください」
 ペーシェがそう言って、自身の家でもあるディルニオの住所が書かれた紙を渡すと、店員さんが専用の紙に記入してくれた。
 町を一通り回り終わるころには空がオレンジ色に染まっていた。
「さて、今日はどこで寝ようかな?」
 そんなことを考えながら別の橋に座って風車を眺めていた、そのときだった。背中にどんっと衝撃が伝わった。気がつくと体は宙に浮いて、すぐに落ちた。そこは湖の中だった。ペーシェは叫ぶ暇もなくどんどん底に沈んでいく。
「わあ、どうしようっ。ぼく泳げないのに」
 ペーシェの体はどんどん水を吸って重くなっていき、あっという間に水底に沈んだ。川魚たちが何事か、と見に来たが、すぐにどこかに行ってしまった。ペーシェはなんとか足だけでも動かしてみようとした。しかし重くなった体と水の抵抗のせいで、思うように動けない。
「ど、どうしよう。だ、だれか。だれか助けて」
 口の中に水が入っても苦しくはないが、響かない。そのときだった。大きな網が入ってきて、ペーシェの体を底の泥ごと掬い上げたのだ。網の中で逆さまになったペーシェが見たのは、一人のおばあさんとおじさんだった。おばあさんは灰色の髪を後ろでお団子にくくっている。おじさんは黒いビニールのエプロンをしていた。
「くまちゃん、大丈夫?」
 おばあさんがペーシェに尋ねた。ペーシェは体勢を立て直した。ふわふわのピンクの毛はぺしゃんこになり、頭やおしりに泥がつく。
「助けてくれてどうもありがとう。ぼくは大丈夫だよ。ちょっと体が重いけど」
 ペーシェはおばあさんに持ち上げられた。体の末端から水が太い線のように流れ落ちる。
「大変、汚れてるわ。ちょっと離れているけど、うちの家で体を綺麗にしない?」
 おばあさんが心配そうな顔でペーシェに言った。ペーシェはその言葉に甘えることにした。おばあさんはハンカチでペーシェの全身を拭いてくれた。
 おばあさんの家に行く道中、ペーシェになにが起きたのか教えてくれた。どうやら通行人の足がペーシェの背中に勢いよく当たったらしい。そしてペーシェが落ちるところを偶然見たおばあさんが、一番近くにあったお店……魚屋さん……に頼んで網を借りて助けようとしてくれたそうだ。おばあさんでは届かなかったので、魚屋さんの中でも一番背が高いおじさんが網でペーシェを掬って、もとい救ってくれたらしい。
 おばあさんの家は町の中心地から離れ、さらに森の奥にあるらしい。バスに揺られながら、おばあさんがペーシェに声をかけた。
「ごめんね、家が遠くって。寒くない?」
「だいじょうぶ。ぼくは風邪ひいたりしないから」
 おばあさんのハンカチの上に腰かけたままペーシェは答えた。
「あのね、ぼくの名前はペーシェ。いろんなところを旅しているんだ」
「あらあら、そういえば自己紹介がまだだったわね。私はアキノ。近所の人からはバラばあさんって呼ばれているのよ」
「バラバラばあさん?」
「うーん、バラが一つ多いわね。バラばあさんよ」
 首を傾げているペーシェにバラばあさんが言った。
「なんでバラばあさんなの?」
 ペーシェは尋ねた。
「それはあとでわかるわ」
 バラばあさんはふふふっと小さく笑った。
 バスを降りると、バラばあさんに抱かれて森を抜ける。森はもう暗かったが、バラばあさんは明かりもなしに進んでいく。
「すごいね、バラばあさん。ぼく、なんにも見えないや」
「五十年も通っているとね、体が道を覚えているのよ」
 森を抜けると、オレンジ色の光が一軒の家を照らしていた。その家はバラに囲まれていた。
「私が一人で育てたバラよ。バラがたくさん咲いている家に住んでいるから、バラばあさん」
「わあっ。いっぱい咲いてる」
 ペーシェはバラばあさんに運ばれながら辺りを見回した。どこを見てもバラの花が咲いていた。
「さて、すぐにお湯を用意しなくちゃね。ちょっとここで待っていてね」
 そう言って下ろしてもらったのは、お風呂場だった。バラばあさんはすぐに金属製のおけを持ってきて、その中に温かいお湯を入れてくれた。ペーシェは自分でおしりの泥を落とそうとしたが、短い腕では届かなかったのでバラばあさんに洗ってもらった。石鹸の匂いが小さなシャボン玉と一緒に飛んでくる。
「ぼく、お風呂大好きなんだ」
「あらそうなの。じゃあよかったわ」
 ペーシェは金属製のおけの中でゆっくりと浸かった。
「ぼくらぬいぐるみはつかれないんだけれど、こうしていると、たまっていたつかれが溶けて出ていっているような気がするよ」
「私たち人間と同じね」
 ペーシェはしっかりと、金属のおけのお風呂に浸かった。
 体を洗った後は乾燥機にかけてもらうことにした。
「ほ、本当に乾燥機にかけて大丈夫?」
 バラばあさんは心配そうに尋ねた。ペーシェは自身の胸を叩いた。
「だいじょうぶ。ぼく、乾燥機も好きだから」
「そういう問題じゃないんだけど……。体が縮んだりしない?」
「うん、だいじょうぶ」
 ペーシェはバラばあさんに乾燥機のドアを開けてもらうと、よじ登って中に入った。ドアが閉まると、風車よりも速く中が回転し始めた。
「あははははっ。ひゃっほーう」
 乾燥が終わるまでペーシェは中を走ったり、回転に身を任せたりして遊んだ。
 乾燥が終わると、体は元通りふわふわになった。バラばあさんがリビングに案内してくれた。
「あなたの分のお食事はあったほうがいいかしら?」
「ありがとう。でもぼく、なにも食べないからだいじょうぶ」
「じゃあ悪いんだけれど私、ごはんを食べていいかしら?」
「うん、いいよー」
 ペーシェの返事を聞くとバラばあさんは台所へ姿を消した。ペーシェは部屋を見回した。バラの柄のカーテンに、ソファ、低い茶色のテーブル。壁には男性といっしょに写った写真が飾られている。しばらくするとバラばあさんがトレイに食事を運んできた。
「ねえねえ、この写真の男の人だあれ?」
「ああ、それはね、私の旦那さん。もう十年も前に亡くなったけどねえ」
 ペーシェはテーブルの上によじり登って、食事の内容を見た。キャベツと鶏ミンチのスープにライ麦のパン、マッシュポテトだった。
「うーん、おいしそうなにおい。とくにこのスープがいいよ」
「ふふふ、ありがとう。それじゃあいただきます」
 バラばあさんはスープを口に運んだ。
「ぼく、今まで食事ってしたことないけど、楽しいからみんながご飯食べているところを見るのは好きだよ」
「そうなのね。皆でご飯を食べるのは楽しいものね。私も好きよ。でも夫も死んでしまってから、ずっと独りで食事をしていたから、こんな風に誰かと話しながら食べるのは本当に久しぶり。
 そうだわ、ペーシェ君。あなた、泊まるところは決まっているの?」
 ペーシェは首を横に振った。
「どこで寝ようかなあって思ってたんだ。それで気がついたら水の中に落ちてた」
「あらそうなのね。……ねえペーシェ君。よかったらしばらくこの家にいない? ずっと独りで寂しかったの。うちには子どももいないから」
「本当っ? ありがとう」
 ペーシェは万歳した。そんなペーシェを見てバラばあさんは小さく笑った。
「そうだわ、ペーシェ君。あなたのことを教えてちょうだい。あなたはなんで旅をしているの?」
「あのね、お父さんのお話や、ラジオから聞こえてくる出来事がね、ずっと気になってたんだ。それでお外のことが気になるってお父さんに話したら、旅に出てみたらいいんじゃないかって言ってもらえたの」
「お父さんって?」
 バラばあさんの問いにペーシェは答えた。
「ぼくを作ってくれた人だよ。ディルニオ・カルツォーニっていうの。お父さんは人形師だから、いっぱいぬいぐるみを作ってるんだ。だからぼく、兄弟がたくさんいるよ」
 人形師とは作った人形やぬいぐるみに命を吹き込むことが出来る存在のことだ。人形やぬいぐるみに対する人並み以上の情熱、愛情がなければなることはできない。
「うらやましいわ。私は一人っ子だったから」
 バラばあさんの食事を終えても二人の会話は続いた。
 壁にかけている時計が九時を指すと、バラばあさんとペーシェは寝ることにした。
「ぼくもいっしょに寝ていい?」
「ええ、もちろんよ」
 バラばあさんの寝室は化粧台やタンス、ベッドしか置かれていない。けれどベッドは二人が寝転がるには十分の広さのものだった。
「どうしてこんなにベッドが大きいの?」
 ペーシェはバラばあさんに尋ねた。バラばあさんは布団に入りながら答えてくれた。
「元々は夫と一緒に寝ていたからよ。あなたにちょうどいい枕がなくってごめんなさいね」
 そう言いながらバラばあさんが用意してくれたのは、リングピローだった。ひっくり返して、バラばあさんの隣に置いてくれた。
「ううん、ぼくどんなところでも寝られるからだいじょうぶだよ」
 ペーシェはリングピローに頭を乗せた。ちょうどいい硬さだった。
「おやすみ、ペーシェ君」
「おやすみ、バラばあさん」
 電気を消した真っ暗な部屋で、二人は静かに眠りについた。
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