羽ばたく蝶を羨む蛾

亜麻音アキ

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 いつも通りの代わり映えのしない朝だった。
 代わり映えしないのだから、そんなことをわざわざ思い浮かべることもなく家を出た。
 通い慣れた通学路をのろのろ歩いて登校し、校門をくぐり生徒玄関で上履きに履き替え教室に入る。

 取るに足らないいつも通りの朝。
 取って代わられることなんてあるはずのない朝。
 けれど今朝は少し様子が違っていた。

 教室内の男子たちがなにやら噂話で盛り上がっていた。
 聞き耳を立てるわけでもなく勝手に届いた話し声によると、隣のクラスに転校生がやって来るとどこかから聞きつけたようだった。

 しかも、どうやら女の子らしいと。

 転校生ってだけでも興味がそそられ、そのうえ女の子ともなれば食指が動かないはずがないのが男の子なんだろうな。

 けれど男の子ではないあたしは興味なんて湧くこともなく、かわいい子だったら良いね、と胸の内側で思い浮かべながらリュックから教科書を机に片付けた。
 そして、たったそれだけのほんのわずかな間に転校生の話題自体を忘れてしまった。
 無関心を装っているのでも、子供っぽく盛り上がっている男の子たちを斜に構えて眺めているわけでもない。本当にどうでもよかった。

 そして朝のホームルームが始まって担任が連絡事項を告げていた最中、隣のクラスから地響きみたいなどよめきが起こった。
 頬杖をついてぼんやりしていたあたしは他のクラスメイトと同じように、ただ事じゃない雰囲気を肌で感じて黒板越しに隣の教室を凝視してしまった。

 そこでやっと転校生の話題を思い出して、きっとすこぶるかわいい子が紹介でもされたのだろうと思い至り、頬杖をつく手を変えた。
 職員室で転校生のことを知っているはずの担任は、どよめきに対して一瞬だけ言葉を途切れさせたけれど、小さく咳払いするなり何事もなかったように連絡を再開した。
 その後もホームルームが終わるまで隣の教室はなにやら騒がしく、静かになることはなかった。

 担任が教室が出て行くのを追い抜く勢いで、辛抱たまらず数人の男子が我先にと隣の教室へと駆け出していった。
 どよめいてしまうくらいのかわいい子をいち早く拝みたいのだろう。すごい熱意だ、感心してしまう。この時点でもあたしの興味はその程度だった。

 短い休憩時間に騒げるだけ騒いでおこうとするみたいに、隣の教室から響く喧騒が大きくなった気がした。
 一限目の教科書を準備しながら手元に視線を落としていたあたしには確認しようがなかったけれど、ざわめきの波が近付いてきているような感覚はあった。
 すると、俯いてペンケースを開きシャーペンを取り出したあたしの手元に影が落ちた。

 誰かがあたしの席の目の前に立ったらしい。
 気が付けば、あれだけ耳障りだったざわめきが水を打ったみたいに静まり返っていた。

 見慣れたスカートのプリーツが目の前で揺れていた。
 どうやらあたしを見下ろしているらしい。自分が身に着けているものと同じセーラー服をそろそろと見上げていくと、見知った顔がにんまりと笑顔を浮かべていた。

 呆気にとられて瞬きを繰り返し、すぐに肩をすくめてあたしは視線を逸らす。

「しゅのちゃん」

 何の前置きもなく、朱乃しゅのちゃんだなんて、ちゃん付けで自分の名前を呼ばれドキリとして全身が強張った。知らない言語を発しているみたいにさえ感じた。

 初対面の相手にいきなりそんな馴れ馴れしい呼ばれ方をされるなんて思わなかった。
 しかもその声は鈴を鳴らしたみたいに品の良い響きを奏で、ただ耳を傾けているだけで幸せな気分に浸れそうな甘い雰囲気をまとって聞こえた。

 けれど、あたしは別のことに意識を取られてしまって、幸せな気分はおろか甘い雰囲気にさえも浸っていられる余裕はなかった。

 顔全体に笑顔を浮かべてあたしを見下ろしてくるこの女は、確かに見知った顔ではあった。けれど正確には少し違った。だってあたしたちは初対面なのだから。

 逸らした視線の先で、手にしたシャーペンを強く握り締めながら考えを必死にまとめる。あたしはこの女の顔を知っている。それも一方的に。

 なぜならテレビの特番で幾度となく映し出されたこの女の顔を、記憶にこびり付いてしまうほど目にしていたから。

 うちのセーラー服はそれほど特徴的ではないけれど、近隣ではかわいい制服としてちょっとだけ有名だった。
 そんな真新しいセーラー服を、着崩すこともなくただ普通に着ているだけのその姿でさえ息が漏れてしまう。同じ素材で縫製されているはずなのに、袖を通す者によってこれほどまでに見違えてしまうだなんて。
 負け惜しみや妬みなんかではなく、この女に対するあたしの第一印象はそんな見当違いなものでしかなかった。

「朱乃ちゃん、私と一緒にアイドルになろうよ」

 あまりに唐突に、あたしの見当違いを軽々と飛び越えてきた耳を疑う提案に、本当の意味で呆けてしまった。

 その突飛な一言で、この女に対する印象は最悪なまでに疎ましいものとなった。


 
 ――あたしの夢はアイドルになることだった。

 今にして思えば、あまりに漠然とし過ぎて現実味の欠片も感じられない、夢とも呼べない妄想だった。
 幼稚園児が大好きなケーキを前にして「しょうらいはケーキやさんになりたい」と、大きな黒目を輝かせながら甘く口にしているのと大差ない。
 幼稚園児ならそれでも可愛げがあるのだろうけれど、あたしは高校生になってなおアイドルになることが夢だった。

 そう、夢だった。

 高校一年生だった去年の夏に、あたしは夢を諦めたのだ。

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