羽ばたく蝶を羨む蛾

亜麻音アキ

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「……運が、悪かったってわけね」
「そう、かもしれない。でも、きっとそうだよ。だから自分に価値がないなんて悲しいこといわないで――」
「でもこれが現実じゃない。運だかなんだか知らないけど、あたしは選ばれなかったのよ。運が悪かっただなんて、だとしたらどうしようもないじゃない? まだ実力が足りなかった、才能がなかった、持って生まれた人には敵わなかったっていわれた方がよっぽどマシだわ」

 否定されることは辛いことじゃない。

 どうして否定されたのかを理解出来るまで、丁寧に示してもらえれば納得も出来る。
 何の説明もなく、ダメ出しだけされてただ否定されてしまうから、置き去りにされてしまったみたいになにもわからず辛いのだ。

 もっと目に見える形で、頭で理解出来る手段で明確に線を引いてもらえていれば、こんなに引き摺ることも思い悩むこともないのだ。
 この線より先は才能のある人だけが入れる場所です。実力が伴わない、持って生まれた才能のない人たちはそこまでです。絶対に、何があろうと、天変地異が起ころうとも、この線より先にあなたは入れません。
 そう断じてもらえるならば、どんなに楽だろう。どんなに清々しいだろう。

 もちろん、断じられたその瞬間は絶望に打ちひしがれてしまうかもしれない。けれど、次の一歩を踏み出すきっかけにはなる。
 その一歩が前を向いていようが後退るものであろうが。今のあたしみたいに、足の裏を地面に縫い付けられたみたいにうずくまっていることには、きっとならない。

「そんなことないよ」
「だから、そんなことアンタにいわれたくな――」
「絶対に諦めない強い想いがあれば輝きは内側から溢れるんだよ」

 どんな風にいいくるめるつもりなのか身構えていたのに、呆気にとられてしまった。
 まさかそんな、身構えたあたしを遙か上空から殴り下ろしてくるみたいな、どこまでも子供じみた精神論を聞かされるなんて思わなかった。

 信じられない。
 そんなありきたりな、夢に夢見る子供が一番最初に思い描きそうな根拠の欠片もない血迷った妄言に、それでも心が揺らいでしまいそうになっている自分が。

「……そう。想いが足らなかったのよ。知ってるわよ」
「うん、だから私と一緒にアイドルに――」
「知ってる、嫌ってほど、これでもかってくらい思い知ったから。それで、あたしはアイドルになる夢を諦めたのよ」
「え――」
「どう? これで満足? もうわかったでしょ? どうしてそんなに誰かと一緒にアイドルやりたいのか知らないけど他を当たって」

 俯いたままそれだけ早口で捲し立て、下駄箱からスニーカーを取り出すため背中を向けたところで、あたしたちの言い争いを大勢の生徒たちが遠巻きに眺めていることに気が付いた。

 途端に背筋が凍り付き、血の気が引いて震え上がった。

 迂闊だった。
 この女くろゆりは、ただそこにいるだけで目立つ存在だとわかっていたのに、否が応でも人が集まる生徒玄関で立ち話に興じてしまうなんて。そんなものは、是非ともご覧になって噂してくれと望んでいるようなものじゃないか。

 首筋に冷や汗が伝い、小刻みに膝が震え始める。

 四方八方から無遠慮に注がれる視線の重さに堪えきれず、あたしは必死で震える足をスニーカーに捻じ込む。
 そうしている間もまとわりつくみたいに注がれる視線を、俯いて完全に遮り闇雲に足を動かしてその場から逃げ出した。


 
 くろゆりが転校してきたせいで、あたしの穏やかになり始めていた日常が音を立てて崩れ去ってしまった。
 たったの一日で。見るも無惨なほどに。

 昨日、生徒玄関から逃げ出した後どうなったのかは知らない。振り返りもしなかったし誰かが追ってくることもなかった。
 どうせみんな、くろゆりの話題性に惹かれて集まっていたのだから、あの場から俯いて駆け出していったあたしのことを気に留めている生徒なんているはずないだろう。いなかったと思いたい。
 なのに――

「お、書類選考突破の市居いちいだ」
「けど、あのオーディションで面接まで行ったんだろ? すごくね?」
「そんな市居でも面接で落とされるオーディションで、最終選考グランプリのくろゆりってやっぱ格が違うんだなあ」

 登校してきたあたしの姿を目にした男子たちが、気を遣う様子もなく口々に噂する声が耳に届いた。

 恐れていたことが現実となってしまった。
 極めて単純にあたしは、くろゆりがどれほどすごい存在かというお手軽な比較対象にされてしまった。同じオーディションの面接で落選したあたしの不名誉でしかない事実が、くろゆりの栄光をより大きく、より深く、より輝かしく印象付けるための材料としてたったの一日で知れ渡ってしまった。

 ふざけないでよ。いったい何の嫌がらせなのよ。くろゆり絶対許さないから。

 不躾に注がれる視線から頑なに目を背けながら、あたしは心の中で祈るみたいに何度も何度も繰り返す。

 ――もうわかったから、あたしを見ないでよ。あたしを誰かと比較しないでよ。

 足早に校門を抜けて誰とも顔を合わせないように生徒玄関で上履きに履き替え、震える膝に力を込めながら階段を駆け上がり、あと少しで教室にたどり着くところで、

朱乃しゅのちゃんっ」

 背後から呼び止められ反射的に振り返ると、くろゆりがいた。

 どろどろと嫌な予感はしていたのにどうして振り返ってしまったのだろう。
 あたしは溜息の大きさと同じくらいの疲れを感じて肩を落とし、すぐに俯いて無視を決め込む。

「ねえ朱乃ちゃん、私と一緒にアイドルになろうっ」

 昨日と寸分違わず同じことをいってきた。これ以上は無理なくらいに露骨に無視したあたしの態度になにも思うことはないのだろうか。

 それとも、最近のアイドルにありがちな癖の強いキャラ付けのつもりなのだろうか。
 空気の読めない無垢な不思議ちゃんキャラを演じているのかもしれない。そうでなければ、病的な意味合いで純粋に頭がおかしいのかもしれない。

「はあ……」改めてこれ見よがしにため息を零して見せてから、「昨日ちゃんと断ったでしょう? あたしはもう、そんな夢は諦めたのよ」
「ダメ」
「は……?」
「ダメ。諦めさせない」
「なにいってんの……?」
「だって昨日の朱乃ちゃん、諦めた人の顔じゃなかったもの」

 俯いたままあたしは息を呑んだ。
 指摘されたことで初めて、図星を突かれてしまったのだと認識が後から追い付いてきた。

「諦めきれない人の顔だったもの」
「なに、いって――」
「私が朱乃ちゃんの夢を諦めさせない。絶対に」
 あたしの震える言葉尻をぴしゃりと遮って、何を思ったのかおもむろに手を取ってきつく握り締めてくる。

 逸らして逃げ続けるあたしの視線をしつこく追いかけながら、熱を伝えるみたいに握った手に力を込めてくる。

 ――やめてよ、近いのよ。あたしを凝視してこないでよ。

 きつく握り締められた手が、痛みとともにじんわりと熱を帯びてくる。手汗が滲んで気持ち悪い。その汗があたしのものなのかそうじゃないのかさえわからない。

 それでもただ一つだけ、わかることがある。
 あたしだからこそ、わかることがある。

 諦めようとしていた叶わない夢を、叶うはずのない夢を諦めさせてもらえないなんて、そんなのは地獄でしかない。それだけははっきりとわかった。


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