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あたしがジュリエット役を承諾したことで、俄然やる気を漲らせた岸は翌日の部活からさっそく稽古を開始すると言い放った。
体育館のステージは三年生の創作劇の稽古で独占される。そのため、あたしたち一、二年生のロミオとジュリエットを練習する場所は、作業場として改造した元体育倉庫脇の空き地だった。
岸が即席で作ってきたコピー用紙を束ねただけの台本が配られる。そんな製本もままならない台本であろうと、手にした瞬間にじんわりと覚悟が生まれてくるようで身が引き締まり背筋が伸びた。
「ジュリエット役は市居に決まったんだな。よろしく」
昨日は生徒会の用事で部活に来ていなかった演劇王子こと遠野くんが、笑顔を浮かべながら近寄ってきて手を差し伸べてきた。
スラリと痩せて背が高く清潔感があり、顔立ちは端正なうえに柔和な印象を与える目元で学校中の多くの女子を虜にしていた。
遠野佑哉と書いてイケメンと読むといわれても、さほど違和感を覚えないくらいには誰の目にも格好いい男子なのだ。
あたしは顔を俯けて遠野くんの指先だけを摘まむみたいな握手を交わした。
岸から直接聞いたのか、富和からラインで連絡でもあったのか、すでにジュリエット役を引き受けたことを知っていて少しだけ鼓動が早くなった。
「俺、遠野佑哉。くろゆりさんだよね? よろしく」
「ええ、よろしく」
あいかわらずあたしの隣にぴったり並んで立っていたくろゆりにも、遠野くんは手を差し伸べて微笑む。
それに対してくろゆりは、ぼそっと抑揚なく返事をしただけだった。あたしの隣で微動だにせず遠野くんが差し伸べた手を取ろうとしない。
「……ちょっと」
「うん?」
小声で呟いて、あたしは隣のくろゆりを肘で小突く。なのに、きょとんとして小首を傾げて返し来るだけだった。
新入部員であるアンタとも仲良くしようと遠野くんが歩み寄ってるのに、なにをぼんやり立ち尽くしてるのよ。握手しなさいよって意味で小突いたのにまるで伝わっていないみたいだ。それとも、まさかとは思うけれど握手っていう文化を知らないのだろうか。
いや、そんなはずはない。あのオーディション最終選考特番の一番最初に、勝ち残った十人の子たちがお互いの健闘を誓い合って握手を交わすシーンが流れた。その時にくろゆりは握手をしていた。相手から強く握られているのに、決して握り返さない脱力しきった姿が映っていた。
間違いない、しっかり覚えている。だってそのシーンを見た瞬間から、やる気を感じさせないくろゆりのことが鼻に付いて仕方なかったのだから。
「よーし、みんな行き渡ったなー」
キャスト全員に台本を配り終えた岸が間延びした声をあげたことで、行き場を失っていた遠野くんの手が引っ込められた。
この女、わざと握手をしなかったんだ。
訝しく思いながらちらりと横目で睨むと、それをどう受け止めたのか、ただでさえ隣にぴったり立っているくせに寄りかかるみたいに身体を預けてきた。
さっぱり意味がわからない。いったいなんなのよ、近いし重いし暑いのよ。
「で、大黒さんはここにいるってことはやっぱりキャストやりたいの?」
「いいえ? 見学するわ」
岸のどこまでも真っ当な問い掛けに、くろゆりは首を反対に傾げて即答した。
言葉にはしていないだけで、「キャスト? やらないけど? どうしてそんなこと聞くの?」とでもいわんばかりの仕草だった。
けれど今この空き地には、キャストだけが読み合わせのために集められているのだ。なのでキャストを断ったくろゆりがこの場にいるのは本来おかしい。たとえ見学であろうとも。
それなのに、
「まあ、大黒さん入部したばっかりだし別にいいか。よーし諸君、知ってると思うけどあのオーディション番組で日本中を唸らせる演技をやってのけた大黒さんが見学するってさ。読み合わせとはいえ気を引き締めろよー」
丸めた台本を手のひらに打ち付けながら、岸はこれ見よがしに意地の悪い笑みを浮かべてキャスト全員を仰ぎ見た。
遠野くんは気にする様子もなく配られた台本をパラパラ捲って台詞を確認していた。けれど他の男子たちは動揺を隠しきれず、露骨に狼狽えてざわつき始めてしまった。岸の悪い癖なのだけれど、そんな発破のかけ方では逆効果にしかならないと思う。
くろゆりはくろゆりで困ったみたいに眉尻を下げて、口元だけわずかに動かして曖昧な笑みを浮かべていた。
「おいおいそんな動揺しなくても、ちょっとしたユーモアだろう? まあ、今日は最初の読み合わせだから楽に流していこう。はい輪になってー」
わずかに表情を切り替えて岸が台本をポンと叩いた。その指示を受けてキャストたちが円陣を組むみたいに輪になり、それぞれが台本に目を落とす。
「朱乃ちゃん、がんばってね」
あたしの耳元をくすぐるみたいに小声で囁いて、強張っていた肩をそっと撫でながらくろゆりが半歩後ろに身を引いた。気付かれないようにぐっと隠していたつもりだった緊張をあっさり見抜かれたみたいでムッとしてしまう。
胸に手を当て、すでに早鐘を打っている心臓を押さえつける。アンタにいわれなくたって、引き受けた以上はやってやるわよ。
ナレーション役の男子が読み始め、ト書きは岸が担当して読み合わせが進んでいく。
それぞれのキャストが台本通りに自分のセリフを読み進め、次の幕でついにジュリエットのセリフ番がやって来た。
落ち着け、あたし。大丈夫よ。静まれ、あたしの心臓……。
読み合わせは身振りもなにもなく、キャスト全員で台詞を順に読んで進めていく作業だ。つまり、あたしを含めてみんな手元の台本に視線を落としている。誰一人としてあたしのことなんて見てはいない。
「――昨夜の仮面舞踏会で私を踊りに誘ってくださったあのお方。やさしく親切で踊りを終えた後もとても楽しくいろいろなお話をしてくださったわ」
いえた。
ほんの少しうわずった声になったけれど、ちゃんといえた。
身体の奥から熱が込み上げ、台本を持つ手に力が籠もる。
――なんだ、思ってたよりずっとうまくいえたじゃない。
拍子抜けだった。そう感じた途端に、あれだけ緊張して硬くなっていた肩の重みが嘘みたいに溶けて消えていった。もしかするとあたしは失敗することを必要以上に恐れていただけかもしれない。
体育館のステージは三年生の創作劇の稽古で独占される。そのため、あたしたち一、二年生のロミオとジュリエットを練習する場所は、作業場として改造した元体育倉庫脇の空き地だった。
岸が即席で作ってきたコピー用紙を束ねただけの台本が配られる。そんな製本もままならない台本であろうと、手にした瞬間にじんわりと覚悟が生まれてくるようで身が引き締まり背筋が伸びた。
「ジュリエット役は市居に決まったんだな。よろしく」
昨日は生徒会の用事で部活に来ていなかった演劇王子こと遠野くんが、笑顔を浮かべながら近寄ってきて手を差し伸べてきた。
スラリと痩せて背が高く清潔感があり、顔立ちは端正なうえに柔和な印象を与える目元で学校中の多くの女子を虜にしていた。
遠野佑哉と書いてイケメンと読むといわれても、さほど違和感を覚えないくらいには誰の目にも格好いい男子なのだ。
あたしは顔を俯けて遠野くんの指先だけを摘まむみたいな握手を交わした。
岸から直接聞いたのか、富和からラインで連絡でもあったのか、すでにジュリエット役を引き受けたことを知っていて少しだけ鼓動が早くなった。
「俺、遠野佑哉。くろゆりさんだよね? よろしく」
「ええ、よろしく」
あいかわらずあたしの隣にぴったり並んで立っていたくろゆりにも、遠野くんは手を差し伸べて微笑む。
それに対してくろゆりは、ぼそっと抑揚なく返事をしただけだった。あたしの隣で微動だにせず遠野くんが差し伸べた手を取ろうとしない。
「……ちょっと」
「うん?」
小声で呟いて、あたしは隣のくろゆりを肘で小突く。なのに、きょとんとして小首を傾げて返し来るだけだった。
新入部員であるアンタとも仲良くしようと遠野くんが歩み寄ってるのに、なにをぼんやり立ち尽くしてるのよ。握手しなさいよって意味で小突いたのにまるで伝わっていないみたいだ。それとも、まさかとは思うけれど握手っていう文化を知らないのだろうか。
いや、そんなはずはない。あのオーディション最終選考特番の一番最初に、勝ち残った十人の子たちがお互いの健闘を誓い合って握手を交わすシーンが流れた。その時にくろゆりは握手をしていた。相手から強く握られているのに、決して握り返さない脱力しきった姿が映っていた。
間違いない、しっかり覚えている。だってそのシーンを見た瞬間から、やる気を感じさせないくろゆりのことが鼻に付いて仕方なかったのだから。
「よーし、みんな行き渡ったなー」
キャスト全員に台本を配り終えた岸が間延びした声をあげたことで、行き場を失っていた遠野くんの手が引っ込められた。
この女、わざと握手をしなかったんだ。
訝しく思いながらちらりと横目で睨むと、それをどう受け止めたのか、ただでさえ隣にぴったり立っているくせに寄りかかるみたいに身体を預けてきた。
さっぱり意味がわからない。いったいなんなのよ、近いし重いし暑いのよ。
「で、大黒さんはここにいるってことはやっぱりキャストやりたいの?」
「いいえ? 見学するわ」
岸のどこまでも真っ当な問い掛けに、くろゆりは首を反対に傾げて即答した。
言葉にはしていないだけで、「キャスト? やらないけど? どうしてそんなこと聞くの?」とでもいわんばかりの仕草だった。
けれど今この空き地には、キャストだけが読み合わせのために集められているのだ。なのでキャストを断ったくろゆりがこの場にいるのは本来おかしい。たとえ見学であろうとも。
それなのに、
「まあ、大黒さん入部したばっかりだし別にいいか。よーし諸君、知ってると思うけどあのオーディション番組で日本中を唸らせる演技をやってのけた大黒さんが見学するってさ。読み合わせとはいえ気を引き締めろよー」
丸めた台本を手のひらに打ち付けながら、岸はこれ見よがしに意地の悪い笑みを浮かべてキャスト全員を仰ぎ見た。
遠野くんは気にする様子もなく配られた台本をパラパラ捲って台詞を確認していた。けれど他の男子たちは動揺を隠しきれず、露骨に狼狽えてざわつき始めてしまった。岸の悪い癖なのだけれど、そんな発破のかけ方では逆効果にしかならないと思う。
くろゆりはくろゆりで困ったみたいに眉尻を下げて、口元だけわずかに動かして曖昧な笑みを浮かべていた。
「おいおいそんな動揺しなくても、ちょっとしたユーモアだろう? まあ、今日は最初の読み合わせだから楽に流していこう。はい輪になってー」
わずかに表情を切り替えて岸が台本をポンと叩いた。その指示を受けてキャストたちが円陣を組むみたいに輪になり、それぞれが台本に目を落とす。
「朱乃ちゃん、がんばってね」
あたしの耳元をくすぐるみたいに小声で囁いて、強張っていた肩をそっと撫でながらくろゆりが半歩後ろに身を引いた。気付かれないようにぐっと隠していたつもりだった緊張をあっさり見抜かれたみたいでムッとしてしまう。
胸に手を当て、すでに早鐘を打っている心臓を押さえつける。アンタにいわれなくたって、引き受けた以上はやってやるわよ。
ナレーション役の男子が読み始め、ト書きは岸が担当して読み合わせが進んでいく。
それぞれのキャストが台本通りに自分のセリフを読み進め、次の幕でついにジュリエットのセリフ番がやって来た。
落ち着け、あたし。大丈夫よ。静まれ、あたしの心臓……。
読み合わせは身振りもなにもなく、キャスト全員で台詞を順に読んで進めていく作業だ。つまり、あたしを含めてみんな手元の台本に視線を落としている。誰一人としてあたしのことなんて見てはいない。
「――昨夜の仮面舞踏会で私を踊りに誘ってくださったあのお方。やさしく親切で踊りを終えた後もとても楽しくいろいろなお話をしてくださったわ」
いえた。
ほんの少しうわずった声になったけれど、ちゃんといえた。
身体の奥から熱が込み上げ、台本を持つ手に力が籠もる。
――なんだ、思ってたよりずっとうまくいえたじゃない。
拍子抜けだった。そう感じた途端に、あれだけ緊張して硬くなっていた肩の重みが嘘みたいに溶けて消えていった。もしかするとあたしは失敗することを必要以上に恐れていただけかもしれない。
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