羽ばたく蝶を羨む蛾

亜麻音アキ

文字の大きさ
上 下
29 / 49

29

しおりを挟む
 いきなり冷水を浴びせられたみたいに表情が強張り、全身から急速に熱が失われていく感覚に目がチカチカした。

市居いちいさあ、一年の頃は明るかったのに秋頃? もう少し前だったかな。なんかいきなりこう、いいにくいんだけど……、暗くなっただろ?」

 歯切れ悪く区切りながら慎重に言葉を選ぶ遠野とおのくんは、たぶん懸命にあたしを気遣っているのだろう。そうだと思いたい。その表情を直接見て確認する余裕は、残念ながらない。

「いや、暗いのはいいんだ別に。ただまあ、前の明るかった頃の市居はもっと目立ってて、なんていうか笑顔が光ってただろ」

 そうね、叶いもしない夢を見て、背けた現実を日陰に押し込めて明るく振る舞っていたんだもの。
 それだって、現実を突き付けられて実感するまで気が付けなかったけれど。

「あの頃の方が俺は好きだったんだけどさ」

 それはつまり夏休み前、あたしが変わり果ててしまう前。せっかく追いやったはずの日陰から、鬱積した皺寄せをまとめて押し返される前。こんなあたしに成り果ててしまうよりも、前。

「それにさ、市居まだ一度も立ち稽古を通しで出来てないだろ? くろゆり専属の演技指導で調整中とは聞いてるけど、みんなと合わせられないで別調整しなきゃならないって、……それってつまり向いてないからだろ?」
 遠野くんの指摘に反論の余地なんてなかった。ぐうの音も出ないくらいどこまでも真っ当だった。

 ――なんだ。話って、そういうことかあ。

 勝手に盛り上がる富和とわに向かって、口では否定しておきながらそのじつ告白だったらどうしようだなんて、何を一人で勝手に舞い上がっていたんだろう。

「責めてるわけじゃないんだ、わかるだろ? 市居のこと心配してるんだよ。もしかして無理してるんじゃないかなって」

 ――いったいどこに差し伸べられた手があるっていうのよ。

 一生懸命に言葉を選んでやんわりと気を遣われているのだ。そんな風に気を遣われれば遣われるほど、どうしようもない自意識過剰が浮き彫りにされるみたいで、自分の足の爪先を見つめる目の焦点が合わなくなった。

「演技が向いてるかどうかも誰だって最初は素人同然なんだから別にそれもいいんだ。チャレンジする意欲って大事だからさ。……けど、そのチャレンジするタイミングはこの合唱祭じゃなくてもいいだろ?」

 慎重に言葉を厳選しつつ遠野くんが紡ぐ正論は、強がりでも何でもなく澄み渡るみたいに冷静な頭できちんと理解出来た。
 けれど同時に、消し炭の中で燻り続けるほんのわずかな火種みたいに、どうしても浮かび上がってしまうわだかまりにも気が付いていた。

「チャレンジだったら、これからまだ地域の催しとか介護施設の慰問ボランティアとか、うちの部は演じるチャンスだったらまだまだいくらでもある」

 ――駄目だ、考えては駄目だ。

 こんなわだかまりこそが勘違いなのだ。喉元まで溢れかけている問いは、こんな問いなんてあたしの心の奥深くに捻じ込んで仕舞っておけばいい。それを口にして問い質したところで、他の誰でもないあたしが惨めになるだけなのだから。

「チャレンジはゆっくりやればいいさ、応援してるし。……それに今回の合唱祭はさ、いろんな劇団のプロデューサーが観に来るんだよ」

 ――そうよね。それが本音よね。

 共演者のたどたどしい演技のせいで、きちんと演じているはずの自分の評価が下がってしまうなんて納得いくはずがない。自分にはまるで非がないのに、誰かの、別の何かのせいで正当な評価が得られない悔しさは、あたしこそが身を以て一番理解しているのだから。

 ――でも、でもね? それでもね?

「だからさ、今回は無理しないでジュリエット役は――」
「それって」
 ほとんど反射的に、堪えきれずに口の端から溢れ出した掠れた声が遠野くんを遮った。

 そのひどく嗄れた声にあたし自身が驚いてしまい、わざわざ遮っておきながら口を噤んでしまった。
 乾いた唇をきつく噛み締めて、たったいま自分がうっかり問い掛けようとした言葉を口の中で反芻する。

 ――それって、くろゆりが現れなかったとしても同じこといってた?

 あたしよりずっとかわいくて、あたしよりずっと演技が上手くて、あたしよりずっと目立ってて、あたしよりずっと遠野くんと共演するのに相応しい。
 そんなくろゆりが演劇部に入って来なかったとしても、今と同じようにあたしを気遣ってジュリエット役を他の誰かに譲らせようとした?

 それってただの取捨選択だよね。
 想定していなかったより良い素材が手の届くところに現れたから、これでいいかと渋々確保しておいた素材を切り捨てようとしてるだけだよね。
 けれど、だったとしてもそれが遠野くんの意思なのだ。選ぶ権利を持つ側の意思。その絶対的な決定に抗う術なんてないのだ。

 あたしのお父さんが以前、給料日の翌日が休日という巡り合わせで、普段飲んでいる発泡酒ではなくビールを飲んでくだを巻いていた時の言葉を思い出す。
 工場のラインをいくつも流れてくる同じパーツの中から、ほんのわずかな不良品を見つけ出して弾く作業は骨が折れると語っていた。その仕事は専門の職人と同じだともいっていた。会社は俺たちの作業がどれだけ重要なのか理解していない――と、愚痴に変わり始めたあたりで、あたしは自室に退散した。
 その瞬間のお父さんは、きっと目利きの職人なのだろう。よくわかった。それ以上の愚痴は聞きたくなかった。
 
 要するにそれと同じなのだ。
 遠野くんとあたしのお父さんがではない。あたしと弾かれる不良品が、だ。

 偶然にも遠野くんの目の前のラインに、とんでもない輝きを放つ逸材であるくろゆりが流れてきたのだ。だから比較的マシだろうと思って確保しておいたあたしを手放すことにしたのだ。まるで生産ライン上で見つかった不良品みたいに。これは役に立たない、使い物にならないと。

 一見冷酷に思えるけれどぜんぜん悪いことではない。同じ立場だったらあたしだってそうしていたかもしれない。あたしはそんなことはしない、なんて言い切れる自信がない。今回はたまたま、くろゆりが現れたせいであたしが廃棄の対象になっただけなのだ。

 くろゆりが現れたから、あたしは選ばれないし、認められない。そんな簡単な事実をオーディションのみならず何度突き付けられても学習できない。どうしてあたしはこんなにも惨めでみっともないん――

「だったらあなたがやめればいいわ」

 ふいに響き渡った背後からの声に驚いて肩を竦めてしまう。

 前のめりに倒れそうなくらい俯いたままそろそろと首を捻って振り返ると、腕組みしたくろゆりが仁王立ちしていた。眉間に深々と皺を刻み込んで並々ならぬ不快感を隠そうとさえしていなかった。


しおりを挟む

処理中です...