羽ばたく蝶を羨む蛾

亜麻音アキ

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「とにかく、こんな口喧嘩みたいなことしに来たわけじゃないのよ。わたしも来月までは今の仕事があるから、また改めて返事を聞きに来るわ。ゆっくり考えておいて」

 くろゆりのコネの事実を吐き捨てて多少冷静になったのか、白沢しろさわ佑里奈ゆりなは逡巡を滲ませる口調で一方的にそれだけいい残すと踵を返して立ち去っていった。

 すでに薄暗くなり外灯の明かりがぼんやりと灯ったタワーマンション前の歩道に、あたしとくろゆりの二人だけが取り残された。
 もうすっかり夏を思わせる夜の、じっとりと肌にまとわりつく生温い夜気があたしの頬を撫でる。くろゆりは唇を引き結んで押し黙ったまま立ち尽くしている。

 横たわった沈黙におかしな質量を感じてしまうのは湿度のせいだけじゃないだろう。
 思いがけず秘密にしていた事実を暴露されてしまうのは、いったいどういう気分なのだろう。

 転校してきた矢先に、あたしがオーディションの書類選考を突破したことを暴露してくれたけれど、それとこれとは方向性がまるで違う。
 あの時のあたしは、顔から火が出るほど恥ずかしく不快感に身がよじれる思いだった。けれど今まさにくろゆりが立たされている状況はあたしの時とは違う。いったいどんなつもりでいるのかまったく想像が付かない。

 だけど、いつまでも黙りこくっているわけにはいかない。口火はあたしが切るしかない。
 だって地蔵みたいにだんまりを決め込んで立ち尽くすくろゆりは、まだあたしの質問に答えていないのだから。

「ねえ、今の話って本当なの?」
「……うん」
 たっぷりとためらいを滲ませる黙考の末に、くろゆりは小さく顎を引いた。まるでらしくない仕草だった。

「どっちが本当なの? アンタの母親が佐久来さくらい遼子りょうこって話の方? 母親のコネで面接抜けたって話の方? それとも、両方?」
「……両方」
 弱々しい頷きを返されて、でしょうね、としか思わなかった。
 なんだか無性に背中がぞわぞわしてむず痒さに肩をすぼめてしまう。

 くろゆりにはわかりっこないだろうけれど、それはあたしの中で宙ぶらりんだった点と点が結びつこうと蠢いているみたいな感覚だった。

 あたしの面接中に起こった謎の騒ぎ。そして後日、萌々香ももかちゃんから語られたその騒ぎのいきさつ。そして、くろゆりが面接にやって来た経緯。思いがけず繋がり、呆気なく感じるほどすんなりと理解が追い付いてきた。

 それはまるで、真っ暗だった眼前が不意に開けて遙か遠くまで一気に見渡せる感覚に思えた。ただ、広がった先の景色は雑草一つ生えていない荒野で埋め尽くされていた。

「でもね本当は違うの。白沢さんは勘違いしてる。私がママのコネを使ったのは面接を抜けるためじゃないの」

 ――へえ、形はどうあれコネを使ったって自覚はあるのね。

 けれど本当にらしくない。急に慌てふためいて早口で捲し立てるなんて、それではまるで後ろ暗いことを必死で隠そうとしてるみたいにしか見えない。

「じゃあそのママのコネを何に使ったっていうの?」

 よせば良いのに、なぜだか興味が勝ってしまった。

 あの佐久来遼子がママとは恐れ入った。
 テレビにドラマに映画に舞台、あらゆるメディアに引っ張りだこの日本人なら知らない人の方が圧倒的に少ない大女優だ。あんまり似ているようには見えないから、女優のメイク術のなせる技か、くろゆりは父親似であるかのどちらかだろう。いずれにしろ、そのすれ違う者全てが振り返る恵まれた容姿にも納得出来た。

 もちろんそれだけじゃない。あの最終選考で見せた演技力も、あたしに指導を施せるほどの実力も、当たり前な顔をしてタワーマンションの最上階に住める経済力も、佐久来遼子の名を耳にしただけで何もかもに得心がいった。

 だからこそ、コネまで使ってわざわざ受けたオーディションの最終選考で、どういうつもりで辞退なんてしたのか。
 生まれながらの、成功を約束されたアイドル様の言い分に興味が湧いてしまった。

「私、ずっと朱乃しゅのちゃんを探してたの」
「は?」
「あのアイドルオーディションって日本最大規模だったでしょ? だから絶対に朱乃ちゃんも応募してると思って私も応募したの」
「……そうね、したわ。だからなんだっていうのよ?」
「私ずっと調べてたの。あらゆるアイドルオーディションの書類選考合格者の中から、朱乃ちゃんの名前を」
「個人情報の保護ってどうなってるのよ?」
「もちろん普通は絶対に見ることなんて出来ない情報よ。……けど、私のママが関係者に一声かければ書類選考合格者リストのデータを手に入れるくらいは、わりと造作もなかったの」

 天下の大女優である佐久来遼子が欲しがれば、そうなのかもしれないと合点が行くくらいには説得力たっぷりな理由だった。命を差し出せといわれれば、迷うことなく差し出す人さえいる業界かもしれないのだ。

「そうやって手に入れたデータをずっと調べてたんだけど、あのオーディションは書類選考合格者が多くて……。やっと朱乃ちゃんの名前を見つけた時には面接当日だったの」
「なによそれ、そこまでしてあたしを探し出していったい何が目的なのよ?」
「一緒に、朱乃ちゃんと一緒にアイドルになるの」

 またそれか。正直うんざりだ。

 転校してきた日の第一声から一貫してそれだけをいい続けているけれど、さっぱり意味がわからない。あまりに支離滅裂すぎる。質問の答えとして成立していない。

「朱乃ちゃんの名前がなければ面接を受ける気なんてなかった。でも、ついに見つけ出した。全身が震えるくらい嬉しかった。やっと一緒にアイドルになれるんだって。けど面接の時間が過ぎてて間に合いそうになかったからママに無理いって急遽ねじ込んでもらっただけなの。だからコネっていうのは、合格の確約じゃなくて時間に遅れたことを大目に見てもら――」
「もういい」

 哀願するみたいに手を合わせて捲し立てるくろゆりに、あたしは手のひらを向けて全てを拒絶して遮ってやった。


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