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結局、SNSにコネの事実を書き込んで暴露することなんて出来なかった。
帰宅後も思い至るたびにスマートフォンを握り締めるけれど、思い出したみたいに震えて動かなくなる指先に邪魔された。
うまく寝付けず夜中に何度も目が覚め、そのたびにやっぱり暴露してやると息巻いて布団の中で操作した。けれど、結局のところただの一文字さえも入力出来なかった。
そんな風に悶々としているうちに、カーテンの隙間から差し込む朝日に邪魔をされた。
意気地無しな自分に愛想が尽きただけだった。そしてもちろん、最悪の目覚めだった。目覚めと呼べるほどまともに眠れてさえいなかった。
身体は疲れてきっていたはずなのに、けれど意識だけははっきりと覚醒しているちぐはぐな状態だった。睡眠不足を自覚しているのに目だけがやたらと冴えていた。
よりにもよって今日は合唱祭、あたしたちの演劇ロミオとジュリエットの本番なのに。
襖越しにお母さんから早く起きなさいと急かされて、重い身体を布団から引き剥がすみたいに意を決して起き上がる。まったく気乗りしないままのろのろと朝の支度を始めた。
本来であれば、本番直前の前日についに立ち稽古をやり遂げた高揚感と、それでもやっぱり拭いきれない緊張感がひしめき合っていたのだろう。ふわふわと心許ない足取りで、見る者を心配させる様子で登校していたのかもしれない。
けれど実際は、背中を丸めて足枷でもはめられてしまったみたいに重く感じる足を引き摺りながら、どんよりとした気持ちで学校へと向かう羽目になった。見る者を心配させる様子な点だけが共通していた。
生徒玄関で上履きに履き替えたところで、下駄箱の端に背中を預けて寄りかかっているくろゆりの姿が目に留まった。
けれど、それだけだった。目に留まったくろゆりは黙りこくったままあたしを上目遣いでそろそろと見つめてくるだけだ。
昨日までなら主人の帰りを待ち続けた忠犬みたいに、あたしの姿を確認するなり飛び付いてきていただろう。
いまは人間不信に陥った野犬みたいに逡巡を垣間見せながら、瞳を揺らしてあたしのことを窺ってくるだけだった。
その姿は、あまりにも容易くあたしの気持ちを逆撫でした。薪をくべられたみたいに苛立ちの炎が増長させられただけだった。あたしは一瞥さえくれてやることなく、わざわざくろゆりの前を無視して素通りしてやった。
その目はいったい何のつもりなのだろう。ずいぶんと恨みがましく見えるのだけれど、もしかしてあたしの方が悪いとでもいいたいのだろうか。昨日の当たりそこねの平手打ちを非難しているつもりなのだろうか。
――謝ればいいの? そうすれば気が済むの? 冗談じゃないわ。アンタとあたしの痛みが並列で語られて良いはずないじゃない。
あたしは威嚇するみたいな刺々しい感情を全身からまき散らして、くろゆりを無視したまま大股で歩きながら体育館裏へと向かった。
合唱祭が始まる前に演劇部は体育館裏に集まって、劇で使う大道具や小道具を事前にステージ脇に運び込む予定になっていた。
これ見よがしに無視して素通りしてやったものの、同じ演劇部である以上くろゆりも少しの間隔を開けてあたしの後ろを付いてきていることが気配でわかった。
そのせいで、あたしはいつまで経っても大股歩きをやめることが出来ない。冷静に考えればあたしが勝手にやってるだけなのだ。それなのに、止め時を見失ってしまった理不尽な苛立ちでさえ、くろゆりに対する鬱憤をさらに燃え上がらせる燃料となった。
そんな調子でふて腐れた顔をぶら下げて歩いていたのだけれど、体育館入り口に並ぶ一般観覧の列を目にして我に返った。
大半は生徒の保護者なのだが、中には午後からの吹奏楽部と演劇部の公演を目当てに、場所取りのためにわざわざ午前中からやって来る近隣住民までいた。生徒会と合唱祭実行委員会たちが入り口でせわしなくパンフレットを配っていた。
あたしの手元にも配られているものと同じパンフレットがあった。
そこには『演劇部公演・一、二年生によるロミオとジュリエット』とあり、その下に配役ごとにキャストの氏名が記載されていた。
ジュリエット 市居朱乃
そこには当然ながら、あたしの名前もしっかりと印字されていた。
パンフレットに記載された自分の名前がまるでどこか別の世界の知らない言語みたいに思えて、指先でそっとなぞって確認したのはほんの昨日の出来事なのだ。
けれど、そんなあたしのちっぽけな感慨を遮るみたいに一般観覧の列から漏れ聞こえてくる話し声は、
「ほらこのロミオ役の遠野佑哉くんって子、この子の演技がすごいらしいのよ」
「なんでも演劇王子って呼ばれててすっごいイケメンらしいじゃない」
「遠野くんの演技が見れるんだもの、少しでも前の方の席を確保しなくっちゃ」
案の定、演劇王子を一目見たいおばさま方が黄色い声を上げて盛り上がっていた。誰一人としてそのすぐ真下に記載されているあたしの名前など気にもしていない。
けれど、そんなことはぜんぜん構わない。むしろ願ったり叶ったりなのだ。
観客の視線の全てが遠野くんへと向けられる、くろゆりが言い淀みながらも口にした予想は的中していた。
ちらりと気付かれないように背後を盗み見る。くろゆりはあたしと一定の距離を保ったままとぼとぼと俯いて付いて来ていた。
生徒に事前に手渡されたパンフレットを開いて、自分の名前をなぞっていたあたしに飛び付いてきながら、帰り道の間中やかましいほど大喜びしていたくろゆりの姿を思い出す。
ほんの昨日の出来事なのだ。それなのに、まるで全てが幻だったみたいにあたしたちの関係はいまや見る影もなくなっていた。
そんな風にしてしまったのは他ならぬあたし自身なのだ。そう思い至ると同時に、胸の奥でちくりとわずかな痛みが走った。うしろめたいだなんて感じているのだろうか。それとも罪悪感といえばいいのだろうか。
ついさっきまで苛立ちの燃料をじゃぶじゃぶ注がれて、渦巻くほどメラメラと燃えさかっていたはずの怒りの炎はいまやすっかり勢いを弱らせていた。代わりに、立ちこめた煙のせいで胸が詰まって気が滅入った。
午後には本番なのだ。こんなすっきりしない気持ちのまま迎えて良いはずがないことはわかっている。けれど、どんなに頭でわかっていても感情はまったく付いて来てくれずにやるせない思いだけが燻った。
「あ、朱乃っ、大変なの急いでっ」
ただでさえ重かった足取りをさらに重く引き摺らせていたあたしの背後から、慌てふためいた様子の富和が駆け寄ってきて追い抜き様に腕を掴まれた。
「え、なにっ、どうしたの?」
「本当に大変なの、みんなにも伝えるからとにかく急いでっ」
普段から大人しい富和がここまで慌てている様子はただ事ではなかった。問い質すことも出来ないまま為す術もなく体育館裏まで手を引かれた。
すでに大道具の運び込み作業を始めていた演劇部のみんなの前で富和が大きく息を吸い、
「大変っ、遠野くんが今朝早くに救急車で運ばれたらしくて、急性虫垂炎の緊急手術になったってたったいま連絡がきたのっ」
あたしの腕を掴んだまま富和が叫び、その場の全員が作業の手を止めた。
「は? らのっち、それってどういうことなのよ?」
「遠野くんのお母さんから連絡が来て、これから学校に連絡入れるって」
詰め寄って来た岸の剣幕に仰け反りながら、富和が手にしたスマートフォンを示す。
昨日ずっと遠野くんが富和にラインを送り続けていたことで、早いほうが良いだろうと気を利かせたお母さんが、履歴の残っていた富和宛に連絡をしてくれたらしい。
「文香さん、王子が手術って――」
「うん、聞いてた。田辺くん、オーギュストの代役いけるわよね? 衣装の調整急いで」
側で騒ぎを見ていた小宮部長は、緊張を含んだ岸の口調を受けて目を見開いた。
しかし流石は部長というべき切り替えの速さで、驚いた表情をすぐに引っ込めると取り乱すこともなくテキパキと部員に代役の指示を飛ばし始めた。
まるで動じていないみたいに見える小宮部長のフットワークは軽かった。
三年生の創作劇にキャスティングされていた遠野くんの代役に悩む様子など微塵もなく、あたかもこの不測の事態でさえも想定の範囲内といわんばかりに処理する姿に圧倒された。
帰宅後も思い至るたびにスマートフォンを握り締めるけれど、思い出したみたいに震えて動かなくなる指先に邪魔された。
うまく寝付けず夜中に何度も目が覚め、そのたびにやっぱり暴露してやると息巻いて布団の中で操作した。けれど、結局のところただの一文字さえも入力出来なかった。
そんな風に悶々としているうちに、カーテンの隙間から差し込む朝日に邪魔をされた。
意気地無しな自分に愛想が尽きただけだった。そしてもちろん、最悪の目覚めだった。目覚めと呼べるほどまともに眠れてさえいなかった。
身体は疲れてきっていたはずなのに、けれど意識だけははっきりと覚醒しているちぐはぐな状態だった。睡眠不足を自覚しているのに目だけがやたらと冴えていた。
よりにもよって今日は合唱祭、あたしたちの演劇ロミオとジュリエットの本番なのに。
襖越しにお母さんから早く起きなさいと急かされて、重い身体を布団から引き剥がすみたいに意を決して起き上がる。まったく気乗りしないままのろのろと朝の支度を始めた。
本来であれば、本番直前の前日についに立ち稽古をやり遂げた高揚感と、それでもやっぱり拭いきれない緊張感がひしめき合っていたのだろう。ふわふわと心許ない足取りで、見る者を心配させる様子で登校していたのかもしれない。
けれど実際は、背中を丸めて足枷でもはめられてしまったみたいに重く感じる足を引き摺りながら、どんよりとした気持ちで学校へと向かう羽目になった。見る者を心配させる様子な点だけが共通していた。
生徒玄関で上履きに履き替えたところで、下駄箱の端に背中を預けて寄りかかっているくろゆりの姿が目に留まった。
けれど、それだけだった。目に留まったくろゆりは黙りこくったままあたしを上目遣いでそろそろと見つめてくるだけだ。
昨日までなら主人の帰りを待ち続けた忠犬みたいに、あたしの姿を確認するなり飛び付いてきていただろう。
いまは人間不信に陥った野犬みたいに逡巡を垣間見せながら、瞳を揺らしてあたしのことを窺ってくるだけだった。
その姿は、あまりにも容易くあたしの気持ちを逆撫でした。薪をくべられたみたいに苛立ちの炎が増長させられただけだった。あたしは一瞥さえくれてやることなく、わざわざくろゆりの前を無視して素通りしてやった。
その目はいったい何のつもりなのだろう。ずいぶんと恨みがましく見えるのだけれど、もしかしてあたしの方が悪いとでもいいたいのだろうか。昨日の当たりそこねの平手打ちを非難しているつもりなのだろうか。
――謝ればいいの? そうすれば気が済むの? 冗談じゃないわ。アンタとあたしの痛みが並列で語られて良いはずないじゃない。
あたしは威嚇するみたいな刺々しい感情を全身からまき散らして、くろゆりを無視したまま大股で歩きながら体育館裏へと向かった。
合唱祭が始まる前に演劇部は体育館裏に集まって、劇で使う大道具や小道具を事前にステージ脇に運び込む予定になっていた。
これ見よがしに無視して素通りしてやったものの、同じ演劇部である以上くろゆりも少しの間隔を開けてあたしの後ろを付いてきていることが気配でわかった。
そのせいで、あたしはいつまで経っても大股歩きをやめることが出来ない。冷静に考えればあたしが勝手にやってるだけなのだ。それなのに、止め時を見失ってしまった理不尽な苛立ちでさえ、くろゆりに対する鬱憤をさらに燃え上がらせる燃料となった。
そんな調子でふて腐れた顔をぶら下げて歩いていたのだけれど、体育館入り口に並ぶ一般観覧の列を目にして我に返った。
大半は生徒の保護者なのだが、中には午後からの吹奏楽部と演劇部の公演を目当てに、場所取りのためにわざわざ午前中からやって来る近隣住民までいた。生徒会と合唱祭実行委員会たちが入り口でせわしなくパンフレットを配っていた。
あたしの手元にも配られているものと同じパンフレットがあった。
そこには『演劇部公演・一、二年生によるロミオとジュリエット』とあり、その下に配役ごとにキャストの氏名が記載されていた。
ジュリエット 市居朱乃
そこには当然ながら、あたしの名前もしっかりと印字されていた。
パンフレットに記載された自分の名前がまるでどこか別の世界の知らない言語みたいに思えて、指先でそっとなぞって確認したのはほんの昨日の出来事なのだ。
けれど、そんなあたしのちっぽけな感慨を遮るみたいに一般観覧の列から漏れ聞こえてくる話し声は、
「ほらこのロミオ役の遠野佑哉くんって子、この子の演技がすごいらしいのよ」
「なんでも演劇王子って呼ばれててすっごいイケメンらしいじゃない」
「遠野くんの演技が見れるんだもの、少しでも前の方の席を確保しなくっちゃ」
案の定、演劇王子を一目見たいおばさま方が黄色い声を上げて盛り上がっていた。誰一人としてそのすぐ真下に記載されているあたしの名前など気にもしていない。
けれど、そんなことはぜんぜん構わない。むしろ願ったり叶ったりなのだ。
観客の視線の全てが遠野くんへと向けられる、くろゆりが言い淀みながらも口にした予想は的中していた。
ちらりと気付かれないように背後を盗み見る。くろゆりはあたしと一定の距離を保ったままとぼとぼと俯いて付いて来ていた。
生徒に事前に手渡されたパンフレットを開いて、自分の名前をなぞっていたあたしに飛び付いてきながら、帰り道の間中やかましいほど大喜びしていたくろゆりの姿を思い出す。
ほんの昨日の出来事なのだ。それなのに、まるで全てが幻だったみたいにあたしたちの関係はいまや見る影もなくなっていた。
そんな風にしてしまったのは他ならぬあたし自身なのだ。そう思い至ると同時に、胸の奥でちくりとわずかな痛みが走った。うしろめたいだなんて感じているのだろうか。それとも罪悪感といえばいいのだろうか。
ついさっきまで苛立ちの燃料をじゃぶじゃぶ注がれて、渦巻くほどメラメラと燃えさかっていたはずの怒りの炎はいまやすっかり勢いを弱らせていた。代わりに、立ちこめた煙のせいで胸が詰まって気が滅入った。
午後には本番なのだ。こんなすっきりしない気持ちのまま迎えて良いはずがないことはわかっている。けれど、どんなに頭でわかっていても感情はまったく付いて来てくれずにやるせない思いだけが燻った。
「あ、朱乃っ、大変なの急いでっ」
ただでさえ重かった足取りをさらに重く引き摺らせていたあたしの背後から、慌てふためいた様子の富和が駆け寄ってきて追い抜き様に腕を掴まれた。
「え、なにっ、どうしたの?」
「本当に大変なの、みんなにも伝えるからとにかく急いでっ」
普段から大人しい富和がここまで慌てている様子はただ事ではなかった。問い質すことも出来ないまま為す術もなく体育館裏まで手を引かれた。
すでに大道具の運び込み作業を始めていた演劇部のみんなの前で富和が大きく息を吸い、
「大変っ、遠野くんが今朝早くに救急車で運ばれたらしくて、急性虫垂炎の緊急手術になったってたったいま連絡がきたのっ」
あたしの腕を掴んだまま富和が叫び、その場の全員が作業の手を止めた。
「は? らのっち、それってどういうことなのよ?」
「遠野くんのお母さんから連絡が来て、これから学校に連絡入れるって」
詰め寄って来た岸の剣幕に仰け反りながら、富和が手にしたスマートフォンを示す。
昨日ずっと遠野くんが富和にラインを送り続けていたことで、早いほうが良いだろうと気を利かせたお母さんが、履歴の残っていた富和宛に連絡をしてくれたらしい。
「文香さん、王子が手術って――」
「うん、聞いてた。田辺くん、オーギュストの代役いけるわよね? 衣装の調整急いで」
側で騒ぎを見ていた小宮部長は、緊張を含んだ岸の口調を受けて目を見開いた。
しかし流石は部長というべき切り替えの速さで、驚いた表情をすぐに引っ込めると取り乱すこともなくテキパキと部員に代役の指示を飛ばし始めた。
まるで動じていないみたいに見える小宮部長のフットワークは軽かった。
三年生の創作劇にキャスティングされていた遠野くんの代役に悩む様子など微塵もなく、あたかもこの不測の事態でさえも想定の範囲内といわんばかりに処理する姿に圧倒された。
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