羽ばたく蝶を羨む蛾

亜麻音アキ

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「……どうして転校してきた日にそれを、自分は成嶋なるしま由莉ゆりだって、まゆりんだっていわなかったのよ?」
 非難するみたいな言い方になってしまったけれど、いまさら言葉は飲み込めない。そもそもすでに咎めるみたいな眼差しで見据えていたのだから、取り繕うだけ無駄だった。

 視線を落としたまま逡巡するくろゆりからの返答を根気強く待った。吹奏楽部の演奏の音が漏れ響いてくる倉庫裏に、気を遣っているみたいな弱い風が吹き抜けていった。

「だって、……だって、悔しかったから」
「悔しい?」
 聞き返したあたしに小さく顎を引いて見せ、くろゆりは意を決したみたいに視線を持ち上げて続けた。

「私は転校してからも、ずっと朱乃しゅのちゃんと一緒にアイドルになるんだって信じて頑張ってたの。……なのに、やっと見つけ出して再会出来た朱乃ちゃんはアイドルを諦めてた。だから、私のことを目覚めさせて導いてくれたみたいに、今度は私が朱乃ちゃんを目覚めさせる番だって。朱乃ちゃんは、あの頃からずっと私だけのアイドルだったんだから」

 返す言葉が思い浮かばなかった。
 あんな、幼い子供のごっこ遊びをそこまで本気で受け止めていたなんて。いまのいままで、受け止め続けていたなんて。
 しかも、信じて努力を続けた結果、オーディションの最終選考で本当に一位をもぎ取ってしまうなんて。

 いまにして思えば、その時には常軌を逸しているとしか思えなかった、あたしに向けて発してきた数々の言葉にちゃんと意味があったのだ。
 改めて意味を成したくろゆりの言葉たちが耳の奥で反響する。

 ――私と一緒にアイドルになろうよ
 ――私が、朱乃ちゃんの夢を諦めさせない。絶対に
 ――朱乃ちゃんは正真正銘、私にとって本物の、私だけのアイドルだから

 ちらちらと、もったいぶるみたいに示していたのね。
 わかんないわよ、そんなの。だって、あたし自身がたいして考えもせずに勢いのまま口にしていただけなんだから。

「朱乃ちゃん、覚えてない? 寄せ書きに書いてくれたメッセージ」
 ショートヘアになった姿を目の当たりにして、くろゆりがじつはまゆりんだったと気が付くことが出来た。

 たぶん、そのせいなのだろう。伏し目がちにちょっぴり唇を尖らせて拗ねた子供みたいに訊ねてくるくろゆりの姿を前にして、あたしはあまりにも無防備に小学一年生だった頃に引き戻されてしまう。ただの一つとして抗う術もなく。

 まゆりんの転校はあまりにも急だった。まゆりん本人も母親から聞かされていなかったらしい。すると担任からの提案で、放課後までにクラスのみんなで色紙に寄せ書きをして成嶋さんにプレゼントしようと決まった。

 クラスメイトだったのは、ほんの三ヶ月にも満たないわずかな期間だった。その間も、おどおどとしていつも暗かった子が転校するからといって、大半の子たちは寄せ書きに記すべき言葉が浮かばなかった。まだまだ子供だったうえに、たいして関わりもなかったのだから仕方がなかった。
 案の定というべきだろう、一番最初にメッセージを絞り出して書き込んだ子の『げんきでがんばってね』の一言に、続く子たちみんなが右へならえで従い始めた。『げんきにがんばれ』『てんこうしてもがんばって』『これからもがんばって』そんな風に少しずつ変化させながら、心のこもっているとはいい難い差し障りのないメッセージが色紙に並んでいった。

 気休めみたいな似通った言葉が並ぶ色紙が、あたしの手元に届けられた。メッセージを書き込む順番が回ってきたのだ。
 けれど、あたしの番に至るまでの子たちが書き込んだメッセージは、内容はともかくとして文字が小さすぎた。どう考えても余白だらけになりそうな色紙をじっと眺め、あたしは残っていた余白部分いっぱいに『ぜったいいっしょにアイドルになるんだからね!』と、勢い任せの殴り書きみたいに大きく書き込んだのだ。

 まだ数人残っていた、これからメッセージを書き込む子たちから不満の声が上がった。けれど、どんな不満の声も白々しく聞こえた。書き込むスペースがなければ書かずに済むかもと、こっそり舌を出しながら形ばかりの抗議をしているのだ。そうに違いないと決め付けてあたしは一切聞く耳を持たなかった。
 なにより、他のどの子よりも目立たせて、一番にあたしのメッセージがまゆりんの目に届くようにしたかった。

 そして放課後、寄せ書きを受け取ったまゆりんは色紙を胸に抱き締めて震え、しくしく涙を零しながら転校していった。

「……覚えてる。ううん、思い出した。絶対一緒にアイドルになるんだからね、って」
「あの時の転校ね、ママの離婚が原因だったの。佐久来さくらいって苗字はママの芸名だからそのままだったけど、私は成嶋からママの旧姓の大黒おおくろになったの」

 佐久来遼子りょうこは女優として活動し始めた二十代のかなり早い時期に一般男性と結婚しており、その後離婚しいわゆるバツイチだという事実は公の情報だった。

「ママの仕事が軌道に乗り始めたことも重なって、すぐに東京に引っ越すことになったの。正直、あの時の私はママを恨んでさえいたわ。だって初めて出来た友達と無理やり引き離されたんだから」
 その時の気持ちを思い返して反芻しているのだろう、眉根を寄せて唇を噛む仕草から恨みの深さや度合いが伝わってくるみたいだった。

「ママはいつも忙しくてほとんど家にも帰ってこなかった。私が学校になじめていなかったことだって知らなかったと思う。でも朱乃ちゃんに『芸能界の仕事は楽しい、みんなを笑顔にする』っていわれて、アイドルとは違うけどママの仕事も理解してみようって思えたの。ママが側にいないせいで、悲しくて寂しくてどんどん根暗になって閉じこもっていった私を、なにもかも変えてくれたのが朱乃ちゃんだったんだよ」

 たまたま教室の後ろで泣いていた姿が目に留まっただけだったのだ。あと一人メンバーが足りず困っていたところに、おあつらえ向きな子がいたと思っただけだった。
 ひとまずメンバーとして引き入れるために幼かったあたしが口にした、でまかせではないけれど荒唐無稽な知ったか振り。そんな勢いだけの無責任な言葉が、まゆりんの考え方を変えていただなんて。

「あの時の朱乃ちゃんは、引っ込み思案だった私をぐいぐいどこまでも引っ張ってくれた。アイドルになんてなれるわけないって、周りからどんなにからかわれてもめげなかった。だから私は憧れた。そんな憧れの朱乃ちゃんに、絶対一緒にアイドルになるんだからねってメッセージを貰えて、すごく、すごく嬉しかった。泣いてばかりだった私の手を取ってくれたこと、ずっとずっと感謝してた。だから、私にとっては、あの頃からずっと朱乃ちゃんだけが、私だけのアイドルだった」
 あたしを真っ直ぐに見つめて語るその澄んだ瞳は、けれどあたしを見てはいないみたいに感じた。

 たぶん、あたしがずっと前に押し込めて封じてしまった、幼いあたしを見ているのだろう。まだ何も知らず無邪気に夢を声高に語っていた、怖いものなんて何一つなかった幼い子供のあたしを見ているのだと思った。

「絶対一緒にアイドルになるんだからねって寄せ書きのメッセージは、他のどんなものより私の励みになった。朱乃ちゃんが、私だけのアイドルが想い描いた未来に、そのすぐ側に私なんかが居ても良いんだって、それだけが励みだった。転校先の学校で私は本当に少しずつ変わる努力を続けたの。朱乃ちゃんの隣に並んで恥ずかしくない自分になるんだって。それで、ほんの少しだけど変われたはずの私を見てもらおうと、小学校卒業前に一度、朱乃ちゃんに会いにいったことがあるの」
「あたしのところに? でも――」
「うん。朱乃ちゃんは転校してて会えなかった。どこに引っ越したのかもぜんぜんわからなかった。……すごく悲しくってやるせなかった。もっと早く、私が自分に自信をつけて会いに行く決心をしていればって後悔した。――だから、探し出すことにしたの」

 そういうことか。やっと納得出来た。
 昨日いっていた、あらゆるアイドルオーディションの書類選考合格者の中からあたしの名前を探していた理由。
 アイドルを目指していたのだから、しらみつぶしにオーディション合格者を探していればいつかは見つかるはずだと。なんて運任せで気の遠くなる手段だろう。その労力を思い浮かべるだけで途方に暮れてしまう。

 もしも、あたしが転校することがなかったら、会いに来たまゆりんと出会っていたらどうなっていたのだろう。あたしはぜんぜん違ったいまを過ごしていたのだろうか。なにかが変わって、違っていたのだろうか。そんな無益な想像が浮かんで消えた。

「ママに頼み込んで名だたるオーディションの合格者リストを片っ端から手に入れて、探して探して探して、ついに朱乃ちゃんの名前をあのオーディションで見つけだした。朱乃ちゃんに会える、一緒にアイドルになれるんだって思って、面接が済んでから会場中の隅々まで探し回ったの。でも、朱乃ちゃんは見つからなかった」

 それはそうだろう、見つかるはずがない。
 だって、くろゆりの面接が始まろうとした時にあたしは、突き付けられたおびただしい数の視線に怯えて惨めに逃げ出した後だったのだから。

「きっと朱乃ちゃんなら面接を抜けて、次の三次選考の会場で会えるだろうって私は安易に考えて、その場で見つけ出すことは諦めた。けど、次の会場でどんなに探してもやっぱり朱乃ちゃんは見つからなくて、面接で……」
 落選、と口にしかけたのだろう。開きかけた唇を引き結んで言い淀む。
 いまさらそんなこと気にしないのに。だって事実、あたしは面接で落選したのだから。

「朱乃ちゃんがいないんじゃ選考を続ける理由がないから、私もそこで辞退しようとしたの。だけどママから、『きちんと最後まで選考を受けなさい。それがコネを使った者の責任よ』っていわれて……」
 あたしの知らなかった事実が、複雑にもつれて絡まっていた疑問の結び目がほろほろと解けていく。

「まったく気乗りしなかった。だって朱乃ちゃんと一緒にアイドルになるために頑張ってきたのに、私一人だけ合格したって意味がないもの。だから一切やる気のない態度でさっさと落選しようとしたのに、迂闊だった」
 そこで一息吐いて区切り、忌々しそうに顔をしかめて続ける。

「ママのコネが強すぎたの。そんな気なんてまったくなかったのに最終選考まで残っちゃって、このままじゃ後戻り出来ないってすごく慌てた。だから、ママの出した条件を逆手に取ることにしたの。『最後まで選考を受けなさい』っていわれただけだから、から結果がどうであろうとそこで辞退してやろうって」

 そして、あの伝説となった生放送終了間際の、「私、辞退します」に繋がるのか。

 なによそれ。鼻持ちならないと思いながら睨み付けていたテレビ画面で、くろゆりが口にした前代未聞のセリフは、あたしのためだったってことじゃない。

「あの後ママにすごく怒られたけどもう撤回なんて出来ないし、する気もなかった。ついでに、辞退したせいで有名になりすぎて、とてもいまの学校には通えないって嘘吐いて引き籠もってやったの。一ヶ月くらい籠城してたらママが折れて、引っ越して転校することを許してくれた。書類選考合格者リストから朱乃ちゃんの履歴書データは抜き取っていたから、同じ学校を選んで転入することにしたの」

 簡単にいっているけれど、そんなのはほとんど犯罪行為じゃないか。嘘を吐いて籠城するだの、データを抜き取るだの、耳を疑う行動ばかりだった。
 あたしの記憶の中のまゆりんからは絶対に想像も出来ない。けれど、くろゆりがやったと考えると案外すんなり頷けてしまうのが不思議だった。

「転入試験が終わって、朱乃ちゃんと再会できる日を指折り数えて待ったわ。どんな風に会いに行こう、私のこと覚えてくれてるかなって。……けど、朱乃ちゃんは私のことを覚えていないどころか、アイドルになることを諦めていた。諦めかけていたの」

 そこまで話してやっと、上目遣いで非難がましい視線を寄越してくる。
 実際はそんなつもりじゃなかったのかもしれない。この期に及んで、あたしを非難してくるほど厚かましい恥知らずではないはずだから。けれど、非難でなければどんな視線を寄越してきたのか、くろゆりはそれを確認させてはくれなかった。

 一瞬だけあたしに向けた表情は、見る見るうちに絶望の色へと変貌を遂げていった。血の気をなくして青ざめながら、一度は上げた顔を力無く俯けて項垂れた。

「……でもそれが、朱乃ちゃんがアイドルを諦めてしまうきっかけを生み出したのが、私だったなんて」

 なにをどうしたところで揺るがない現実が横たわっていた。

 まゆりんがくろゆりになった経緯の中に、どうしても無視出来ない、軽く聞き流すことなんて到底無理な出来事が深く根を張っていた。
 まゆりんが一切を顧みることなく追い続けた、あたしへの想いのせいで、他ならぬあたし自身が被害を被ってしまったのだ。

「……朱乃ちゃんのことを一番に考えてきたはずだったのに、まさか私のせいで朱乃ちゃんの面接がおろそかになってたなんて想像もしなかった。一緒に叶えたかった朱乃ちゃんの夢を、私が台無しにしていたなんて思わなかった。……ごめんね、ごめんなさい」


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