新月の光

恵あかり

文字の大きさ
22 / 59
外伝 玲(不定期連載)

深紅

しおりを挟む
【本編との接続】
本編の十一年前の物語。
外伝『その蓮は水底に咲く』後、がおすすめです。

_____________________________

 何かを得るには、相応の代償が求められる。
 宮中において、その搾取の頂点にいるのが、宝順帝である。いかなる理不尽も、かの皇帝の意思の前にはまかり通る。
 右近衛隊副長に就任するにあたり、涼景は直接、宝順と面会し、その職を受けた。立会いの官吏や軍部関係者が居並ぶ謁見室で、涼景は頬の傷が未だ疼く中、式に臨んだ。通常であれば、それは取り立てて語るべきこともなく流され、誰の記憶にも残らないものだった。
 右近衛隊長に任ぜられる英仁に続き、涼景が進み出る。言葉がかけられ、応えて剣を奉じる。つつがなく終えて下がろうとした涼景を、宝順帝は引き止めた。そして、唐突に隣室に連れ出した。
 少しして、謁見室で待たされていた者たちの耳に、戸惑う涼景の声と、上ずった息遣いが聞こえてきた。謁見室と隣室との境に戸はなく、一枚の薄い帳が下げられただけである。そこで何が行われているかが容易に筒抜けて、皆が気まずそうに顔を背けた。
 誰も一言も声を立てず、ただ、耳をそばだてる。隣室からの危うい気配は、最後には嘆願の声も消え、ただ、涙交じりのうめきに変わった。それも次第と聞こえなくなり、沈黙が支配する。
 やがて、再び謁見室に戻ってきた涼景は、襟こそ整えてはいたが、その表情に生気はなく、頬の傷が色を増しているように思われた。
 異様な緊張感の中、式はその後、何事もなく進み、静かに閉式が告げられた。
 宝順帝の退席を見送った涼景は、自分を盗み見ながらひそひそと話をする者たちに背を向けて、黙り込んだまま謁見室を出た。すべてを見届けていた英仁も、その背から目をそらし、声をかけることはなかった。
 暁隊とともに都を駆け回っていた蓮章は、夕方、ようやく屋敷に戻った。いつもならば蓮章の帰りを待って報告を聞く涼景は、姿を見せなかった。慈圓によれば、昼過ぎに天輝殿から帰ってすぐ、何も言わずに部屋に閉じこもったという。
 慣れぬ式典、単に疲れただけならば良いが……
 蓮章は不安を抱えて、涼景の部屋を訪ねた。
 秋の夕陽が長く回廊に差し込み、景色を暖かな色合いに染めている。風は冷たく、庭の木々はすでに色づいていた。
 離れで暮らす蓮章に対し、涼景は母屋の一角に私室と寝所をあてがわれている。
 部屋の前には、手付かずの昼膳が置かれたままになっていた。
 蓮章は大きく、深呼吸した。
 もはや、何かあったことは間違いない。蓮章はしばらくその場で、最悪の事態を想像した。それが現実になった時に冷静でいられるよう、心を鎮める。だが、大抵の場合、それは無駄になるのだ。自分でも呆れるほどに、頭に血がのぼってしまう。
 落ち着け。
 自分に言い聞かせ、蓮章は板戸を開けた。
 部屋に灯りはなく、滲む夕焼けの光だけがわずかに揺らめいていた。私室は空っぽである。蓮章は続きの寝室へ向かった。衝立の先に、牀が置かれている。その上に丸く褥の盛り上がりを見つけて、蓮章はほっとした。
「とにかく、生きていてくれればそれでいい」
 静かに声をかけると、廊下から運んできた膳を低い几案に乗せ、牀の近くに置く。そのまま床に腰を下ろす。
「食わないなら、俺がもらうぞ」
 褥の下で体を丸めた涼景が、小さく頷いた。
「今日、気になる噂を聞いた」
 蓮章は煮豆を一粒、箸でつまみ、
「最近、花街に、俺によく似た男妓が入ったそうだ」
 言いながら、口へ運ぶ。
「面白そうだから、今夜にでも訪ねてみようと思う」
 少しだけ覗く涼景の髪を見つめる。その毛先がわずかに震えるのを見て、蓮章は嬉しさと苦しさを同時に味わった。
「北町の方に、新しい湯屋もできたと聞く。色無しでも使えるそうだから、おまえも一緒にどうだ?」
 涼景は動かない。
「旦次でも誘うか……」
「行くなら一人で行け」
 涼景が褥の下からくぐもった声で遮った。寂しげな笑みが蓮章の口元に浮かぶ。
「なんだよ。嫉妬するくらいなら、おまえが一緒に……」
「嫉妬なんかしてない」
 早口で涼景は言い返した。
「勝手に行けばいい」
 蓮章は箸を握りしめた。
「わかった。一人で行くさ」
 涼景の牀に背中をもたせかける。
「おまえじゃなきゃ、つまらねぇし」
 夕闇に、虫の声が響いてくる。高い音色は二人の間を結ぶ細い糸のように優しく絡んだ。
 何が起きたのか、涼景は言わない。それが答えだった。沈黙は蓮章の想像を確信に変えた。
 想定していたこととはいえ、現実を突きつけられると平生ではいられない。
 蓮章は箸を置いた。
「少しは食えよ。美味いから」
 動揺を殺したが、そう言い残した声は震えていた。
 
 花街を歩く。
 ただそれだけで、自分を保てる気がした。
 この街は、誰もが傷を負い、さらに傷を重ね、痛みを日常の一部として受け入れる。
 傷ついた今の自分は、ここにふさわしい。
 蓮章は、言いようのない安心感と息苦しさに挟まれる思いがした。
 客を呼び込む声を聞き流し、夜が始まったばかりの道を行く。軒下に揺れるわずかに黄色い行灯の光が、荒れた土の道を照らしていた。
 屋敷を出てから、蓮章はずっと、一つのことだけを考えていた。
 自分が生まれながらに背負った、血の宿命。
 蓮章の生家、遜家は、代々宰相を輩出する文官の名家である。その中で、自分だけは涼景を追って、武官の道へ入った。今でも親類からは非難され、戻るようにとの叱責も絶えない。
 蓮章が受け継いだのは、そんな家名ばかりではなかった。
 蓮章の祖父である先代の当主は、密かに反皇家勢力、蛾連衆を組織した。
 宝順帝の横暴に業を煮やしている者は多いが、表立って逆らえば、一族もろとも一掃される。そこに例外はない。誰もが慎重になる中、祖父は動いた。宝順に不満を抱く様々な役職の者たちに秘密裏に誓約を取り付け、いざという時には呼応して反旗をひるがえすよう、準備を整えた。一斉蜂起は、祖父の一声にかかっていた。そして、もし、その時が来る前に祖父がこの世を去った場合、孫である蓮章が跡を継ぐことが約束されていた。それゆえ、蓮章の祖父は蓮章を実家から遠ざけ、目立たぬように同胞である慈圓の元に預けた。
 末に生まれた蓮章は、家督争いには加わらない。それゆえ、ことが明るみに出て失敗に終わっても、容易に切り捨てられる。蓮章の命は、あまりに軽い。
 軽い命だろうと、使い方次第だ。
 蓮章は、ゆっくりと歩きながら、深く思案に沈んだ。
 一年前に祖父が鬼籍に入り、すべての基盤は蓮章が引き継いだ。それを知るのは、涼景と慈圓、そして、蛾連衆の面々だけである。
 宝順帝暗殺、もしくはその政権の崩壊。
 それは、蓮章にとっても望むものである。傷つく涼景の姿を見せられるたびに、その思いは胸の中を吹き荒れた。だが、時を誤れば、守りたいものを全て失う危険が伴う。決行に失敗は許されない。
 時は、いつ、満ちる?
 月を見上げて、蓮章は息を吐いた。
 ふと、特別に澄んだ琴の音が、空虚な耳に滑り込んできた。
 蓮章は足を止めた。最近、この一帯を牛耳っている大店のうちの一軒だ。
 道に面した一階の張り出し部屋は格子で仕切られ、外から中が覗ける。格子には紅い布や紙灯籠が下がり、影が道に落ち、異様に艶めかしい雰囲気を演出していた。
 赤い毛氈の敷かれた部屋。低い交椅に座り、客に顔を見せる女郎や男娼がずらりと並ぶ。微笑んだり視線を送ったりと、扇をひらつかせ、一夜の客を誘っている。
 前列に人気のある者や若い者、奥には控えの者。立ち位置ひとつで格差がはっきり分かる。
 蓮章の目は、最も後ろに向けられていた。琵琶や小琴を手にして掻き鳴らす数名のうち、気になる奏者がひとり。
 我知らず、蓮章の目が見開かれた。
 あれが、噂の男妓か。
 薄く白粉をはたき、頬に紅、唇に朱を控えめ差している。髪は結わずに肩に流し、耳の上に深紅の艶牡丹の花。
 暁隊の仲間が噂していた通り、面影が自分に重なった。
 ごくり、と蓮章は唾を飲み込んだ。悪い夢のようでもある。
 格子の向こうで琴を鳴らしている、もうひとりの自分。
 膝もとに置いた小琴の弦に触れ、どこか心震えるような悲しげな旋律を奏でる。かといって、その目は決して失望に沈んではいなかった。はっきりとした意思の輝きがある。
 蓮章はしばらく考えてから、店の軒をくぐった。
「梨花。久しぶりだなぁ」
 顔見知りのさいの一人が、気安く迎え入れた。『梨花』はもともと花街での通り名だ。
「どうする。稼いでいくか、それとも稼がせてくれるか」
 蓮章は脇の格子の向こうを見た。帳場からも、張り出した部屋の隅が見える。
「あの奥の、浅緑の着物で琴を弾いてる男妓」
「なるほど、会いに来たか」
 采はにやにやと笑って、
「似てるだろ?」
「正直、驚いたが……どこから仕入れた?」
「もともと、大旦那の寵伎ちょうぎだ」
「それがどうして店先に?」
「まぁ、そういう趣味なんだろ。人の数だけ性癖あり、ってな」
 采は太い腹を撫でて、遠慮も忖度もなく言った。
 蓮章は、そっと懐から先払いの銭を出した。
「足りるか?」
「充分だ。ただし」
 采は意地悪く笑う。
「建前は男妓だ。それ以上したけりゃ……」
 蓮章はおとなしく、倍額を払った。
「それでこそ梨花だ」
 面白そうに采は笑った。
 抱くも抱かぬも、その場で決める。どう転んでも、後から文句がつかなければそれでよかった。
 采は格子戸の鍵を開け、男妓を呼びつけた。
「二階の奥に案内しな。お泊まりだ」
 呼ばれた男妓は小さくうなずくと、そのまま先に立った。
 自分を買った蓮章を見ることすらしない。
 蓮章は黙って後に続いた。
 二階建ての妓楼の角部屋は、上客のためのあつらえである。
 二人には広く、人目につきにくい。板張りの戸にさらに壁絵が貼られ、紗の帳が外界と音を遮断している。絹張りの行灯が四方から照らし、天井の中央には紅い提灯が下がり、色づいた光を投げかける。
 調度品も選び抜かれ、漆塗りの卓に花瓶や香炉、屏風の色彩は淡い。
 広い牀の四隅に黒檀の柱と白絹の天蓋。分厚い褥や織物が整えられ、枕辺の香炉に沈香や伽羅、白檀が用意されている。
 専属の女中が酒肴を運びいれると、あとは二人きり、取り残された。
 豪奢であるより静かなことが、蓮章にはありがたかった。通りや隣室の騒がしさは届かず、まるで別世界である。
 二人になると、男は真っ先に口を開いた。
「あんた、誰だ?」
 蓮章は男を見た。男も、臆することなく、蓮章を見つめていた。
 向かい合って座ったまま、ふたりとも、目の前に並んだ酒や料理に興味はない。ただ、相手にのみ、その視線をそそぐ。
「時間はある」
 蓮章は片膝を立てて、艶っぽい声で言った。
「琴、弾いてくれ」
「俺の名前より、琴が聞きたいのか?」
「男妓なのだろう?」
 男は一つ息を吐き、静かに、小琴を膝の前に置くと、弦の張りを確かめた。
「何が聞きたい?」
 男は一本、弦を鳴らした。蓮章は目を細めた。
「おまえが、一番、下手なやつ」
 一瞬、間があって、男は顔を上げた。
「あんた、随分と、ひねくれてるな」
「その方が面白いだろ?」
 蓮章の灰色の左目が、男の眉間を射抜く。
「どうした?」
 男はどこか悔しそうに眉を歪めた。鏡の中の自分に冷やかされているような、奇妙な心持ちになる。
「わかった」
 男は何かを思案し、奏で始めた。
 心音と重なるような、低音、そこから滑らかに立ち上っていく音の連なり。小さな琴ひとつが奏でるには、あまりに多彩な音域と、長短を組み合わせた旋律。その道に疎い者にも、技量の高さが感じられた。
 決して、苦手な一曲とは思われない。むしろ、彼にできうる限りの珠玉であった。
 透けるように音の余韻が消えて、男は手を膝に戻した。
 じっと、目を伏せていた蓮章は、二人の間から料理の膳を脇によけた。そして、両手をそっと、差し出す。男は黙って、蓮章の前に琴を置いた。調弦をするでもなく、蓮章は無言で弦の上に指を添えた。
 夜の静けさが、部屋に満ち、蓮章は目を閉じた。そして、まるで長くそらんじていた譜面をたどるように、同じ曲を見事に奏でて見せた。
 男の顔から血の気が引く。
「どうして……」
 男はうろたえ、蓮章を見つめた。
「一度聞いて覚えたってのか? でたらめに弾いたのに……」
「そんなことだろうと思った」
 蓮章はにこりともしない。
「いい度胸だ。ただの囲われ者じゃないようだな」
 蓮章が並外れて芸事に通じているのは、花街では有名な話である。
「……試したのか?」
 男は蓮章を睨みつけた。容貌は似ていても、その仕草はまるで違う。同じ花でも花弁の色が異なるようだ。
「あんた、何者だ?」
 とても、上客を迎える男娼とは思われない剣呑さで、男は蓮章を睨みつけた。
「ただの客」
 蓮章は声を抑えた。
 二人の間の空気は冷え切っていたが、相手への関心は高まる一方だった。
「おまえ、歳はいくつだ?」
 蓮章が問う。
「十九。あんたは?」
「十八」
「近いな」
 男は小さく笑って、
「俺とあんたがよく似ているのは認める。だから、呼んだのか?」
 蓮章はわずかに目をそらし、
「そんなところだ」
「他人の空似ってやつだろ。あんた、名前は?」
「梨花」
「へぇ、いい名だ」
 男は素直に褒めたのだろうが、蓮章の顔は浮かなかった。
「俺は、しん。街ではそう名乗ってる」
「ここの大旦那の寵妓と聞いた」
 蓮章には、他人の過去に首を突っ込む趣味はない。夜毎の相手となればなおさらだ。だが、ここまで自分に似ていると、多少の興味が湧いてくる。
「まぁ、そんなところだ」
 男はぼそりと、
「よくある話だ」
「よくある話、か」
 蓮章は思わず、自分の昔を思い出した。軍部に移って間もない頃、上官の嫌がらせで仕事中に花街に放置された。幼かった蓮章は、自分の身を守る術もなく、あっさりと帯を解かれた。
 あれが全ての始まり……よくある話、だ。
「俺のことより、あんたのこと、聞かせろよ」
 慎は脇の膳から盃に酒を注ぐと、慣れた手つきで、蓮章に差し出した。受け取りはしたものの、蓮章は口をつけず、黙って揺れる酒を見つめる。
 慎が意地悪い微笑を浮かべた。その表情はよく似ているものの、蓮章よりも毒気が強い。
「まさか、飲めないとか言わねえよなぁ」
 挑発的な声にも、蓮章は応じなかった。ただ物憂げな、興味のない顔だ。慎はうなった。
「わざわざ高い金を出して、こんな部屋まで買い上げて。あんた、一体何をしたいんだ?」
 慎の問いに、蓮章は小さく、
「むしろ俺が聞きたい」
「なんだよ、それ?」
「さぁ、な」
 蓮章の言葉に嘘はない。
 特に何がしたい、ということもない。
 ただ、気になった。
 それだけだ。
「しいて言うなら、忘れたかった」
 言って、蓮章は酒を煽った。一息である。
 慎がにやりとする。その笑みは、やはりどこか蓮章とは違う。二人は似て非なるものである。
 慎は黙って酒を継ぎ足し、さてどうする、という目で、蓮章を見上げた。上目遣いに色気が滲む。蓮章のほうは表情一つ変えず、また一息で飲み込む。ためらいも味わいもない。
 何度かついでは飲み干し、飲み干してはつぐうちに、慎の顔に呆れが浮かんだ。
「あんた、少しは味わったらどうだ? こんないい酒、もったいねぇ」
「なら、おまえが飲め」
 蓮章は盃を差し出した。
「じゃあ一杯」
 受け取り、慎は酒を口に含んだ。予想以上の強さに目を見開く。どうにか飲み込んだものの、喉が焼けて思わずむせかえる。
「あんた、こんな酒、よく平気で……」
 咳き込みながら、慎は蓮章を睨みつけた。
「別に」
 蓮章には、酔った素振りもない。それどころか水でも飲むように何事もない顔をしている。
 悔しそうに、慎は顔を歪めた。
「あんた、酒、強いんだ」
 どこか負け惜しみのうかがえる声で、慎は次の一杯を差し出した。
「強い弱いじゃない」
 蓮章は興味が失せた顔で、
「酔わない」
「酔わない?」
「効かない」
 慎は眉をひそめた。
「酔って忘れたいことがあるから、飲んだんじゃないのか?」
「おまえが勧めたから飲んだ」
「なんだよ、それ」
「おまえこそ、客に対する態度じゃないな。よくそんな調子で、勤まるもんだ」
「お生憎様。普段はもっと……」
 言いかけて、慎は話題を変えた。
「あんた、ずいぶん慣れてるな」
 蓮章は黙って、部屋のすみの行灯を見つめた。
 酒も薬も効かない自分は、辛いことがあるたびに色に逃げ込む。気づけば、すっかり馴染んでいた。
「女より、男が好きか?」
 慎の軽口に、蓮章は少しの間、沈黙し、
「別に、こだわりはない。男でも女でも、抱きたいと思えば抱く、抱かれたいと思えば抱かれる」
 蓮章の口調にはいやらしさがない。すべてをさっぱりと割り切り、諦めた声だ。慎はそっと膝を寄せて、蓮章の腕にしなだれかかる。そのまま、酒を注ぐ。
 蓮章はゆっくりと盃を揺らした。それからあっさり飲み、またうつむく。慎は目を細めた。黙ってまた酒を注ぐが、その量は少し加減する。
 まるで、毒を飲ませている気分になる。
 次々と盃を開ける蓮章が、死に急いでいるように思われて、ついに、慎は酒瓶を置いた。
「もう、やめておけ」
 おとなしく、蓮章は盃を脇に置いた。その仕草には、一切の執着がなかった。
 油灯の皿が、ことりと揺れる。その刹那、慎は蓮章を床に押し倒した。無言で蓮章の両脚を割って、腰を埋める。唇に指を添え、その形をなぞる。遠慮なく顔を寄せて、慎は蓮章を見下ろした。
 そこには、うつろな無表情があった。このまま好きにしても抵抗はされない気がしたが、蓮章が望むものが色欲ではないということは、その冷めた目が明らかに語っていた。
 慎はしばし迷った。
 自分の体には、すでに火種が生まれている。実体のある鏡像を突きつけられ、どこか幻惑に迷う心地がする。蓮章の灰色の目が、すっと動いて慎を射た。ただそれだけで、慎の中で何かが弾ける。
 欲しい。
 蓮章は自分を狂わせる。それは直感だった。
 額を重ねて吐息を浴びせ、慎はほくそ笑んだ。
「すげぇな。自分と同じだってのに興奮する」
 唯一、異なる左の目をじっと覗き込む。部屋の中のわずかな明かりを映して、それは澄んだ水底から水面を見上げるきらめきをたたえている。
「あんたの目、すごくきれいだ」
「興味ない」
 蓮章は冷たくつぶやいた。
「俺の努力で得たものではないから」
「なら、こういうのは親に感謝しろってやつか?」
 蓮章は眉一つ動かさず、だが、心の中では耳を塞いだ。出自のことは考えたくなかった。
 慎の喉がごくりと鳴る。
 蓮章の、白い首の線、覗く鎖骨と、緩やかに沈み込む腰。柔らかそうな尻からすらりと伸びる脚が着物の裾から覗いて、膝頭が白く行灯の光に揺れる。
「あんた、色気ありすぎる」
 顔の似る似ないではない。存在そのものが圧倒的に違う。
 慎の手が蓮章の耳にかかる。柔らかく噛まれ、思わず、蓮章の肩に力が入る。くぐもった息が、一瞬漏れた。それが快楽へとつながるものだと、慎には読み取れた。
 蓮章はあくまでも客である。そして、自分は男妓であり、男娼である。
 慎は自分の立場を理解していた。だが、理解はしても納得はしていない。それが隠し切れない苛立ちとなって、指先に現れてゆく。自分と同じ姿をしながら、自由に振る舞うことが許される蓮章は、失ったもう一人の自分のように思われた。
 慎の唇がそっと蓮章の左瞼に落ちる。反射的に目を閉じ、蓮章は構えた。この目は、どうにも相手の興味を誘ってしまうらしい。過去にも何度かそんなことがあった。
 髪を染め、化粧で肌の色を誤魔化しても、瞳だけは隠せない。
 慎は舌を伸ばして瞼を撫で、それから睫毛をたどって目頭から目尻へと往復させる。少しずつ舌先が瞼を押し上げ、眼球へと伸びる。痛みに、蓮章は慎の腕を強く握った。同時に声が出る。短い悲鳴が、慎の欲望を加速させる。
 慎は遠慮なく、蓮章の着物に手をかけた。肌触りがやけに良い。蓮章が身に付けているものは、どれも高価だ。とても平民の若者ではない。花街に繰り出すよりも、自分の邸宅に妓女を呼ぶ方が合っている。
 張りのある襟が指の腹に柔らかく触れる。わずかに香の匂いがあった。
 たどればたどるほど、蓮章の体は自分よりはるかに美しかった。肌が吸い付く心地よさにくらくらとする。
 この身体を……
 慎の血が滾る。たまらなくなる。なぞる手が止まらない。襟を緩め、指を胸元へと這わせて開いた。白い喉に唇で触れる。そこは甘く柔らかだった。しっとりと冷えて、さらりと滑る。
 命ある男の肌ではない。まるで何もかも捨て去って、放り出された抜け殻のようだ。それだというのに、あまりに生々しい。
 これが、最後だ。
 理性を振り絞って、慎は体を起こし、上から蓮章の顔を覗き込んだ。
「抱きたいか? 抱かれたいか? それくらい教えてくれ。俺も商売なんだぜ」
 感情のない蓮章の目は、ただ開かれたまま、天井に向けられていた。
「好きにしろ」
「…………」
「忘れられたら、それでいい」
 蓮章の言葉は、慎の自制心を握りつぶした。
「ああ、そうかよ」
 まるで、後ろめたさを投げ捨てるように、慎は吐いた。
 直接仕込まれているとあって、慎の手つきは確かだった。蓮章を確実に暴き、その性癖を飲み込んでいく。重ねられた腰の間で二人分の熱が疼き、荒く息づいた。
 蓮章の体は無造作に跳ね、拒絶と渇望の間で揺れた。
 こんな抱かれ方はまちがっていると思いながら、求めていく自分がいる。
 与えられる感触に、蓮章は素直に流された。一度堰を切ってしまえば、後は相手が誰であろうと構わなかった。目を閉じて何も見ない、むさぼるようにただ慎の体を引き寄せ、自らを差し出してゆく。それは酒を飲み干す感覚と似ていた。望んで、刃の下に素肌をさらす自虐。
 艶めいた声、熱を持つ吐息、すがりつく腕、波打つ体。
 先ほどまでの無表情と静けさが吹き飛び、狂ったように啼いて身をよじる。
 蓮章の乱れように、慎は初めての不安を感じた。このまま、自分はこの相手を殺してしまうのではないか。そんな恐怖や罪悪感とともに、それもまた味わってみたいという危うい欲望が抑えられない。それは元から慎の内側に潜んでいたのか、それとも蓮章から与えられてしまったのか定かではなかった。
 止められない。
 冷静な自分と、熱く欲する体との差に戸惑いながら、求めるままに、求められるままに慎はひたすらに溺れた。
 声が部屋を満たしていく。
 口数の少ない冷静な相手だと思っていた蓮章が、腕に収めた途端に豹変する。
 そのさまに、慎の中の野生が呼び覚まされる。煽られていると自覚しても、抗えなかった。どこまでも掻き乱されて、自制が効かない。支配しているのは自分であるはずなのに、何もかもを奪われている。それすら快楽だった。
 どれほど深く求めても、蓮章は答えた。拒むどころか、求める以上に無防備を突きつけてくる。
 この相手は、危ない。
 心の底でそれを感じながら、それでも慎は止められなかった。ほつれた糸の端を、延々と引かれていく布のように、自分が跡形もなく解けてゆく。その果てには何も残らないというのに、それでも立ち止まることはできなかった。
 どうせなら、全てを見たい。どうせ、何もない自分ならば。
 心の中に巣食っていた復讐心も、この世に対する憎しみも、どこか歪んだ欲望も、目を背けた悲しみも、手放せずにいたひとかけらの希望も、何もかもが消え去り、ただまっさらな黒い光の中で身を任せる。行き先すらわからぬままに漂う。
 不安なはずなのに、それがあまりにも心地良くて、慎は抱きながら抱かれていた。
 快楽の沼、情欲の泉、愉悦の滝。全てが美しく、めくるめく揺動の中、蓮章の声と、体のぬくもり、じっとりと絡まる汗に淫靡な香りが混じる。
 慎はひたすら、感覚の全てで蓮章を求めた。
 この人の全てが欲しい。それは男娼として過ごした数年間で味わったことのない、いや、生涯で味わったことのない渇望だった。
 これが人を抱くということか。
 妙に達観した気で、慎は深く体を埋めた。体の奥まで届く蓮章の喘ぎが肌を伝い、震え、吐息が絡まる。唇を己の唇でさらに塞ぐ。熱が溢れ、呼吸が一つになる。
 鏡写しの愛撫。
 高まりが蓮章の声の響きに現れて、慎もまた頂きを求める。
 自らの血の流れが耳を弄して聞こえ、心音が頭の中を支配した。胸の律動が時を刻んでゆく。永遠にも続くと思われたその時間は、やがて互いの体の限界を持って、二人を打ちのめした。
「りょう……」
 言葉にならない声の中、ひたすらに蓮章に沈んでいた慎は、最後の瞬間にその名を聞いた。
 蓮章が何を抱いてここへ来たのか。
 必死に忘れようとしていたものの正体が、ようやく、慎にも理解できた。
 この闇夜の中で、ほんのわずかな間だけ、逃れるために。
 蓮章にかけるべき言葉が見つからない。
 息の乱れを言い訳に、慎は黙った。
 すっかり溶けて馴染んだ蓮章の胸に顔を埋めて、慎はゆっくりと瞬いた。
 甘く、重い。
 たけり狂った嵐がすぎて、心も体も信じられない程に凪いでいた。
 雲ひとつない青空を、久しぶりに見た気がした。眩しくもなく、暗くもない。吸い込まれ、どこまでも落ちていく虚無を思う。
 蓮章の呼吸と鼓動が、押し当てた耳から直接聞こえてくる。次第に静まっていくそれは、自分のもののようでもあった。
 慎の指先が、蓮章の肌をくすぐるように辿る。汗で滑り、冷たさが忍び入る。
 余韻にひたる慎の体が、不意に押しのけられた。
 蓮章は、床に広がった着物をそのままに、素足で牀に歩むと、帳を開いて褥に体を投げ出した。軋む音がして、しなやかな背中が布に沈む。天井の赤い提灯の明かりが、吹き込む風にかすかに揺れて、妖艶にその肢体を照らし出した。二人分の体重を支えて圧された背中が、赤らんでいた。
 慎は黙って後を追い、蓮章の隣に横たわった。広い牀は、二人が手足を広げても充分である。蓮章の背にそっと頬を寄せる。すでに身体は落ち着いて、吐息すら聞こえない。
 慎が寄り添ったことに気づいているだろうに、蓮章は振り返るどころか、一声も発しなかった。まるで、一切の興味をなくしたように、存在を消し去る。
 手の中にあると信じていたものが、木っ端微塵に吹き飛び、空っぽの記憶と置き換わる。
 慎の心がざわめき、足場をなくしたようにぐらついた。こらえきれず、蓮章の脇腹に腕をかける。先ほどまでとはうって変わって、そこは冬の石のように、冷たく手のひらに触れた。
 振り払われることはなかったが、受け入れられるわけでもない。
 つい、数刻前までは知らぬ仲、一夜の相手。朝日が昇れば二度と会わぬ人かもしれない。
 それを承知のはずなのに、慎の目には、にわかに涙が浮かんだ。
「誰だ?」
 掠れた声で、慎は言った。
「『りょう』って、誰だ?」
 脱力していた蓮章がわずかに反応した。
 慎に背を向けたまま息を吐き、未だ朦朧としながら、それでも確かにためらいと、隠そうとする意思が見えていた。
「あんたの、想い人か?」
 蓮章は答えなかった。
 慎は、目の前にある柔らかな肌に唇を押し付けた。こんなにも重なるというのに、触れられないものがある。
 舌を伸ばして、汗のひいた肌を啄む。甘やかな刺激に、蓮章の肩が静かに上下する。その動きに乗りながら、慎は少し腰を揺らした。
 だが、それきりだ。
 蓮章は答えず、慎もそれ以上は問えなかった。
 夜は更けてゆく。
 時は無情に朝に向かって行く。
 ひとつ、またひとつ、行燈の油が燃え尽きる。最後の炎が細い煙になって宙に消え、星あかりだけとなった部屋で、慎は、蓮章を美しいと思った。
 そっと手を伸ばし、その髪に触れる。柔らかく、ひやりと指に絡む。その髪をもて遊び、撫でつけて、耳の後ろからうなじをたどる。
 何事もないように、蓮章は動かない。
「なぁ……」
 慎は頬を寄せた。
 蓮章の肌から、酒の匂いが漂う気がした。
「もう、眠るのか?」
 煽るような慎の言葉にも、蓮章は応じない。
 少し不安そうに、慎は首をかしげた。
「何もする気がないなら、せめて話くらい、させてくれ」
 慎は精一杯に軽く言ったが、泣き声のように震えていた。蓮章に触れているだけで、心が和らいでゆく。叩き込まれた肉欲ではなく、生まれながらにして己の心が知っている、柔らかなぬくもりが少しずつ満ちていく。
 失いたくない。
 また、涙が込み上げる。
「俺は武官の子だった」
 秘密を打ち明けるように、慎は囁いた。
 娼妓が自分の過去を語ることはない。
 慎の言葉の重みが、幾重にも重なって蓮章を包み込んだ。
「何もかも、皇帝に壊された」
 本当に眠っているのか、蓮章からの反応はない。それでも、慎はひとり、続けた。
「俺は、必ず、仇を討つ……」
 一度、息を継ぎ、
「あんたが、敵じゃないといいけれど」
 それきり、慎は黙った。ただわずかに、蓮章の髪が揺れたような気がした。

 蓮章は暁隊、涼景は右近衛。昼間はそれぞれに役割を果たし、夕刻には慈圓の屋敷に戻る。その後、蓮章の離れで、一日のことを話しながら揃って夕餉を取るのが習慣になっていた。
 ここ最近、遅くなるのは、決まって涼景の方だった。
 待つ間、蓮章は二人分の膳が冷めていくのを眺めながら、その日の出来事を几帳面に小さな字で木簡に記していた。
 出来事を整理し、少しでも短時間に効率よく涼景に伝える。仕事のために裂く時間は少ないほど良い。
 そして残された時間で、くだらない話をしたかった。
 それだけが、自分を生かす糧であり、生きる喜びだった。
 どんなに疲れていても、離れの入り口に近づいてくる足音を、蓮章は敏感に感じた。
 今日も音に気付いて、ふっと肩から力を抜き、張り詰めていた表情を和らげる。
 扉に目をやると同時に静かに開かれ、夕焼けの向こうに涼景のしなやかな体が見えた。
 安心感が蓮章を包む。
 自分を待ち望む蓮章の顔を見て、涼景は苦笑した。
「毎日毎日、戦帰りを迎えるような顔しやがって」
「似たようなものだろう」
 蓮章はすねたように唇を歪めた。
「戦場より危ねぇ場所で戦ってんだから」
「戦っていると言えば戦っているが」
 涼景は向かい合って、膳を挟んで座った。
「先に済ませてくれて構わないのに」
「おまえと一緒じゃなきゃ嫌だ」
「何を子どもじみたこと」
「子どもじゃないから言ってるんだ」
 一瞬、涼景の動きが止まる。
「まぁ悪い気はしない」
 涼景は返答を濁した。
 蓮章の杯に酒を注ぎ、それから自分にもつぐ。二人で箸を取る。一日の中で、唯一、ゆっくりと流れる時間だった。
 栗入りの新米の飯を手に、涼景は渋い顔をした。
「甘い飯はどうにも……」
「好き嫌いを言うな。俺だって泥臭い魚は苦手だ」
 言いながら、蓮章は醤煮の鯉をつついた。
 屋敷の料理人は、二人に同じ献立の夕膳を出す。それは大抵、両者の好物と苦手が半々だった。幼い頃から二人を知っている料理人は、二人の偏食を重々承知していた。
「最近、おまえの好みが出すぎてやしないか?」
 不満そうに、涼景は栗を蓮章の皿に選り分けた。
「そんなことはない」
 蓮章は里芋を器ごと涼景に押しやって、
「大根の葉漬けが二日続いただろ」
「あれは体にいいから、少し食え」
「苦い」
「甘ったるい蜜煮よりましだ」
 共に育って、こうも違うものか、と、彼らの好みは反していた。幼少期はこれが原因で他愛のない喧嘩もよくあったが、今となっては懐かしい笑い話である。
「今日のぶん」
 蓮章は余計に増えた栗を頬張りながら、先ほど仕上げた木札を涼景の膝の横に置いた。采配を必要とすることがらについて、一問一答で涼景の答えを引き出していく。涼景は蓮章の報告に合わせて、一つ一つを丁寧に答えた。
 仕事の話はいつも、蓮章からの一方向である。
 涼景が抱える近衛内部のことがらは、極秘のものが多かった。
 蓮章は報告を終えて、一言付け加えた。
「たまには暁に顔を出せよ。あいつら寂しがってるから」
 涼景の箸が迷う。
「あいつらが寂しがる?」
 戸惑ったように笑って、
「俺がいなくて、羽を伸ばしてるんじゃないか?」
「冗談にもなってないぞ」
 蓮章の声には、わずかに苛立ちがあった。敏感にそれを感じて、涼景は蓮章を見つめた。
「涼、おまえがいないと暁は覇気がない。俺じゃあいつらをまとめられても、やりがいを感じさせてやることはできない」
「別に俺がいたって同じだ」
「同じじゃない」
 蓮章は箸を置いた。夕食時には珍しく、背筋を伸ばして真剣な顔で涼景を見る。
「まさかとは思うが……おまえさ、暁を見放すつもりか?」
 かすかな動揺が、涼景の全身に走る。
「見放すってなんだよ?」
「どうなんだ?」
 蓮章の追求は容赦がない。涼景は観念し、息を吐いた。
「俺だっていろいろ考えてきた。だが、暁と近衛、両方を同時に見ることはできない。どちらも中途半端になる。俺がこの現状では、おまえが暁を見ているのが一番いいと思う。もう、それしかないだろう」
 蓮章は、息を吐いた。
「一時的には、な。だが、長くはもたない。少なくとも、暁はダメになる」
「ダメって事は無い。おまえがいるんだから」
「忘れるな。暁は燕涼景個人を慕って集まった連中だ。俺じゃない」
「…………」
「行儀よくまとめられ、組織化され、誰が上についても文句を言わない近衛とは違う。暁はおまえの下でしか働かない。あいつらにとって、おまえが喜ぶ顔を見るのが一番の報酬だ。おまえの役に立っている。それだけがやりがいなんだ。そういう連中なんだって、わかってるだろう」
 涼景の顔が沈んでいく。蓮章もどこか苦しそうに目元を歪めた。
「今のあいつらは、見ていてかわいそうだ。いつも俺に尋ねる。仙水は元気か、って。会いたくてたまんねぇってつらでさ。今日なんか、旦次にまで嫌みを言われた。梨花は毎日会ってんだろ、って。あの旦次がだぞ。これがどういう意味かわかるだろ? このままじゃ生殺しだよ」
 涼景は黙り込んだ。蓮章の言う事は正しい。
 自分でも、常に後ろめたさを感じ続けている。
 それでも目の前のことに追われ、精一杯だった。少しでも時間を作れば都に行けるのではないかとがむしゃらにやってもみた。だが、仕事をこなせばこなすほどに、次々と新しいものが舞い込んでくる。
 疲れ切って、蓮章の報告を受けるのが精一杯だった。
「こんな状態で暁に顔を出しても、あいつらをがっかりさせるだけだ」
 涼景は首を振った。
「情けない。まさか、これほど余裕がなくなるとは思ってなかった」
「だからやめろと言ったのに」
 蓮章がふっとつぶやいた。素直に涼景は頷いた。
「全くだ。おまえの忠言を無視したのは俺だ」
「そのせいで、暁が辛い目に会っている」
 蓮章の言葉はきつかったが、決して涼景を責めているわけではないとわかっていた。真正面から話すのが蓮章である。
 涼景は箸を止めたまま、ただじっと煮魚の色を眺めた。
 その様子を、蓮章は上目遣いに盗み見た。疲れ切った涼景の顔。ここ数日、彼がまともに笑うところを見ていない。そしておそらく、自分も笑えていない気がした。このままでは本当に二人とも潰れてしまう。暁隊ばかりではない。自分たちもまた、行き詰まって呼吸ができなくなってしまう。
「涼」
 蓮章は優しく呼びかけた。
「これから先、おまえはどうしたい? これからもずっと、近衛だけに生きるつもりか? それが悪いとは言わない。だが、もしそうなら、早いうちに暁は解散してやってくれ、いつまでも帰らぬあるじを待たせるな」
 蓮章の言葉は、涼景に決断を迫る。
 この件に関して、涼景もここしばらく思い悩んできていた。そして、一つ、考え始めていた。しかし、現実にするには、相当に骨の折れる方法であった。
「思うところがあるなら、言ってくれ」
 蓮章は、涼景の迷う目から、その心を覗き込む。
「あるにはある。だが、現実的じゃない」
「無理か無理じゃないかは、俺が決める」
 蓮章は声を低めた。涼景の不安を包み込む眼差しは柔らかく、普段は隠している温もりを含んでいた。
「やりたいことをやりたいと言え。俺に遠慮はするな。好きに使っていい。望みがあるなら言ってくれ。言ってくれなきゃわからない。わからなければ叶えようがない。まずはおまえの気持ちを聞かせてくれ」
 噛んで含める言い方は、迷う涼景にはことさら響く。蓮章は誰より、友の性格を熟知している。蓮章の言葉遣いは静かだった。その声の端々には、強い決意と慈愛があった。それが涼景の心を根底から揺り動かす。
 涼景は酒を一口飲んで、数度、自分に向かって頷いた。
「これはあくまでも、俺の理想だ。かなりの無理が生じる」
「それでも、おまえがそうしたいって言うなら、俺は乗る」
 涼景は甘える瞳を蓮章に向けた。見つめられ、蓮章の心は油を注がれた炎のように、さらに優しく熱を持つ。
「涼、俺に話して。おまえの望み、俺は誰より知っていたい」
 蓮章の言葉は、涼景の心に踏み込む一歩。
 近づく心と心を感じながら、涼景はまっすぐに蓮章を見つめ続ける。いつも鋭く光る灰色の目が、今はたまらなく甘く優しい。涼景は口を開いた。
「近衛と暁を、半分にしたい」
「半分?」
「俺はどちらか一つで精一杯だ。このままではいずれ暁を失うことになる。だが、それは嫌だ。彼らは俺にとって大切な居場所なんだ」
 涼景の頬はかすかに赤らみ、指は膝を強く掴んでいた。
「幾度となく、戦場でも平時でも俺を助けてくれた。武功を立てることじゃない。ただそばにいて笑って、他愛のない話をして……支えられてきた。俺が俺であるために必要な連中だとわかっている」
「うん」
「だから、暁は手放したくない。かといって近衛との両立は難しい。今の俺はまだ、未熟すぎる。単純に時間も足りない。力も経験も。要領も良くない」
「うん」
「両立できないとわかりながら、近衛と暁に半分ずつ、関わりたい。当然、両方が中途半端になるだろう。だから、その中途半端になった残りの半分を、蓮、おまえに頼みたい」
 頷いて聞いていた蓮章の目が、ふわりと開かれた。
「それは、俺にも近衛に関われってことか」
「そうだ」
 涼景は即答した。
「俺とおまえで近衛と暁を半分ずつ見る。俺にできないことが、おまえにはできる。だから二人で一つの仕事をする。互いの得意を生かしたほうが有意義だろう」
「二人で二つを掛け持つと?」
「そうだ。一人一つ抱えるよりも、余計に手間も時間もかかるかもしれない。だが、俺はそうしたい。どちらも生かすために」
 その提案は、文字通り蓮章を涼景と同等に扱うということである。半分ずつ対等なものとして蓮章の力を望んでいる。
「そうだな……効率的に行うには工夫も必要だが、そこまで無理な話でもない」
 蓮章は揺れる視線の先で、素早く思考を巡らせる。
「どちらも得るため、か」
「ああ。だが、それだけじゃない」
 涼景は一瞬ためらい、それから固くこぶしを握る。
「仕事のためだけじゃない。俺は全部、何もかも、おまえと二人でやりたい」
 蓮章の緊張が一気にとけ、素直に驚いた表情が浮かんだ。涼景の真剣な目がまっすぐに自分に注がれている。震えが走る。
 目頭に熱が生まれ、それをごまかすように目を瞬いた。
「わかった」
 ぼんやりと、蓮章は答えた。答えてしまってから遅れて実感が湧いてくる。
「おまえがそうしたいのなら、俺も付き合う。おまえと一緒に生きると決めいている。望むところだ」
「相当、きついぞ」
 涼景が、わずかに震える声で念を押す。
「構わない」
 交差していた二人の視線が長く重なり、言葉にはならない感情がその間を幾度となく巡る。多くの思いがその視線の軌跡をたどって行き来する。脇の灯火がちらちらと揺れて、二人の影を壁に大きく映し出す。どちらからともなく、影と影は寄り添い、やがて一つの黒い影として硬く、隙間なく輪郭を描く。
 涼景の首筋に蓮章は顔を埋め、背中に回した手を引き寄せて目を閉じた。体がたぎる。涼景の体温にこれほど近く触れられる。それは蓮章にとって安心と幸福を意味する。
「抵抗するな。抑えが効かなくなる」
 蓮章の言葉に、涼景は息をひそめた。
 時々、着物が擦れて音を立て、蓮章の喉が鳴る。
 涼景は体をこわばらせた。嫌なわけではない。だが、良くもない。なぜ良くないのかと問われれば理由は複雑だった。周囲には様々な噂が飛び交うものの、蓮章と涼景が体を交えた事は一度も無い。
 幼い頃から昼夜を共にし、互いに学び、睦み合い、遠慮もせずに喧嘩をした。
 それでも二人の仲が崩れる事はなかった。それはおそらく、最後の一線を越えなかったからだと涼景は思う。
 失いたくない相手であればこそ、守るべき領分がある。
 蓮章と涼景では、その領分の捉え方が違う。重ならない限り、そこに踏み込む事は無い。
 灯火が映し出す影は、やがて静かにほぐれた。
「心配するな。おまえに手出しはしない」
 蓮章の沈んだ声が、床に落ちる。
「痕を残さぬよう、上品になどできないから」
 その言葉の裏には、涼景が宝順のものであるという前提がある。それが涼景の心をやけに引っ掻いた。蓮章に触れた肌が熱い。体はしびれ、忘れたくない移り香が残されていた。
 返事をすることもできず、ただ視線だけを蓮章に送る。
 うつむいたまま、表情を見せずに蓮章は言った。
「涼、俺はいつだっておまえを連れて逃げる覚悟がある。それだけは覚えておけ。それを忘れずにいるなら、後はおまえの好きにしろ」
 涼景は唇を噛んだ。
 蓮章はそっと立ち上がると、庭に面した戸を細く開いた。あたりは暗く沈んでいる。まるで自分たちの未来を覗き見るようだった。
「時は、いつ満ちるのだろうな」
 長い沈黙の後、ささやくような蓮章の声が聞こえた。見上げる空に、まだ月は出ない。
「俺もその時を待っている」
 涼景が静かに言った。
「今、宝順帝を倒しても後を継ぐべき者がいない。第一親王も第三親王も、皇帝の器ではない。残る希望はただ一つ、第四親王だ」
 蓮章は目を伏せた。
「だからこそ、おまえは近衛を志願したのだろう」
「ああ。とは言え、玲親王はまだ十四だ」
「来年、都入りしたところで十五、か。何も知らぬ少年が王者の器かどうかなど、容易に測れるものでもなかろう」
「わかっている。そこからさらに時が必要だろう」
 言って、涼景は立ち上がった。こちらに向けられた蓮章の背中が、わずかに細くなった気がする。肩の触れる距離まで歩み寄り、揃って庭に目を向ける。蓮章がそっと息を吐く。
「涼、おまえは、いつまで待つ気だ?」
「せめて一年。もし、玲親王が皇帝を継ぐにふさわしいのならば、俺も腹をくくる。そうじゃなければ、おまえと逃げる」
 弾かれたように蓮章は振り返った。
 逃げる。
 いかなる時も決して引かない涼景が、その言葉を口にしたことに驚きが隠せなかった。
 涼景は思わず苦笑いを浮かべた。
「なんだよ。連れて逃げてくれるって言ったのは、おまえだろ?」
 蓮章は黙って首を横に振った。
「そうだったな。……ああ、連れて行く。おまえを一人にはしない」
 蓮章はわずかに笑んだ。
「俺はどちらを願えばいいんだろうな。祖父の宿願を果たして行動に出るか、それとも、己の想いのままにおまえをさらうか」
「さぁ。どっちに転んでも、おまえに悪い話じゃない」
 いつしか、涼景の顔色は幾分良くなり、重苦しい暗闇から抜け出した気配があった。
 自然と蓮章は拳を握った。心はすっかり涼景のものだった。それを、折あるごとに思い知らされる。
「蓮、玲親王が使えるやつかどうかは、おまえが判断しろ。おそらく俺は、基準が甘くなる」
「いいのか? 俺は厳しいぞ」
「それが願いだ。おまえと俺だけじゃない。多くの者の命を賭けるんだ。厳しく見なくてどうする? 俺にできないことをしてくれ」
「わかった」
 蓮章はやんわりと笑った。
 自分たちの関係が補完であるということを、互いに心得ていた。補い合って、二人で二人。近衛も、暁隊も二人で二人の将となる。それは自分たちにふさわしい形に思えた。
 未完のまま、不完全なまま、立つ。
 涼景は蓮章と共に暗い空を見上げた。その曇天はどこまでも闇で、そして、その奥に希望を隠しているように見えた。

 蓮章が花街を訪れるのは、主に二つの場合である。
 一つは心が傷ついたとき、もう一つは仕事という名目が立つ場合。
 だが、今日はそのどちらでもない。
 しくじった!
 蓮章は珍しく反省した。
 今朝、暁隊の詰所で忙しく動いている時、偶然、自分の襟元が薄いことに気づいた。蓮章はいつも襟を二重にし、その間に数種類の薬を隠し持っている。薬と言っても、癒すためのものではない。主に麻痺や呼吸困難、心停止まで伴う激薬の類である。武力が伸びない蓮章にとっては、自分の身を守るための大切な武器だ。
 襟の感触が普段と違うことに気づき、一瞬、頭が真っ白になる。心当たりは一つしかなかった。先日の花街、慎との一夜である。家の外で着物を解いたのは、あの時が直近だった。慎の鋭く、油断のならない目が蘇った。毒薬が彼の手に渡れば、何に使われるかは知れなかった。
 蓮章は、暁の仕事にけじめをつけ、急ぎ花町へと向かった。
 この時間帯、街は眠りの底である。昼間の白い光は、通りの景色を間延びして見せる。枯れ草が風に煽られて足元に絡む音さえ、曇って聞こえた。
 蓮章は早足で、人のまばらな道を急ぎ、まっすぐに目的の大店へ向かった。
 丁場に座り、開店前のひと時を過ごしていた若い采は、いきなり入り込んできた蓮章を見て、面倒くさそうにため息をついた。
「あんた、まだ開けてないぞ」
「客じゃない」
 蓮章は事務的に、
「ここの男妓、慎に用がある」
「だから、まだ開店していない」
「だから、客として、じゃない」
 蓮章は苦い顔をした。新人らしいその采は、融通が利かない。采のほうでも蓮章を知らないと見えて、不機嫌な態度を隠さなかった。
「第一、慎は今日、いない」
「いない?」
 采は意地の悪い笑みを浮かべた。
「大旦那の供で、宮中の宴に出るんだとさ」
「宮中の?」
 蓮章は眉間のしわを深くした。
「随分真剣な顔で着飾って行ったぞ。ありゃ、皇帝陛下に仕掛ける気だな。残念だが、陛下のお手つきになりゃ、もう、あんたには手の届かない……」
「着物を売ってくれ」
「ハァ?」
 采は目を丸くして蓮章を見た。
 蓮章は男の手に、銀子ぎんすを押し付けた。
「今日、慎が着て行ったのと、同じ着物だ」

 宝順帝が、いかに悪趣味な催しを好むか、涼景は何年も前から見せつけられてきた。その結果、今や、涼景自身も心を壊され、心と体が不一致に陥る違和感に悩まされている。それは右近衛副長に就任してからも変わることはない。それどころか、宝順の狂気はより一層、我が身に迫る危機として、日常の仕事の中に当たり前に存在した。
 中央区の聚楽楼は、宝順が天輝殿を離れて宴に興ずる場所として、度々利用される楼閣である。黒塗りの、一見、質素な門構えだが、その奥に建てられた建物の内装は際立って華やかだった。
 鏡や螺鈿細工を施した壁は、互いを映し、室内に無限の空間を演出する。壁に掛けられた油灯台と香炉に火が入ると、大広間は途端に禍々しいまでの熱を帯びた。二階の高さにぐるりと巡らされた回廊には、下の広間へ向けて美しい布飾りが垂れ下がり、赤かっ色の床板にゆらゆらと影を落としている。
 入り口の正面に広い台座があり、そこに、宝順の席が設けられている。席からは楼内のすべてが見回せた。
 今宵、宝順は宴の準備を一人の商人に任せていた。最近、花街で権力を振るっている男である。身寄りのない者を囲い、自分の商品として育て上げるしたたかな人物であった。
 拾った者は、見目が良ければ娼に、才能があれば芸妓に、そうでなければ下働きとして使った。必要以上の知恵は与えず、歯向かえば即座に懲罰を下した。恐怖で押さえつけるその手法は、宝順にも通ずるものがあった。
 今宵、彼が営む妓楼から、よりすぐりの者たちが聚楽楼に集められた。
 警備に当たりながら、涼景は、幾度目かのため息を漏らす。この慌ただしさ、騒がしさが心を疲れさせる。
 昼過ぎに聚楽楼に入った妓女たちは十二名、給仕が七名。そこに宝順と商人、右近衛隊長・英仁と十八名の近衛隊士。宝順に招かれた官吏は十三名。
 涼景は入り口近くに立ち、中と外との連絡のために耳をそばだてながら、宴の様子に目を光らせていた。
 壁際に作られた席にずらりと客が座り、その前には色どり豊かな料理が並べられている。食器も食材も、上等なものばかりである。
 金色の盃に、花弁を浮かべて酒を味わう。
 酒と料理の匂いの中、中央では芸妓の舞と音楽が披露された。琴が震え、笛が鳴り、鼓が響く。客たちの要望に合わせて、次々と楽と舞が続く。芸妓たちは色とりどりに着飾り、薄布をはためかせ、髪には白や紅の艶牡丹の花を飾っていた。曲の合間には酒をついで周り、酔った客に抱かれて甲高い声を上げる者もいる。芸妓と言っても、今宵は娼も兼ねていた。
 華美な衣装が鏡に映って、けばけばしく目に痛い。壁際には、遊郭を思わせる金の細工や、扇飾り、赤い衣をあしらった紐などが飾り付けられ、それらが不規則に揺れて、余計に騒がしく思われた。
 料理の匂いに色と喧騒が混じり合う。香炉から流れてくる煙が気分を高揚させつつ、淫靡な空気があたりに漂う。
 台座の宝順帝の隣には、一歩下がって、商人の席が設けられている。表向きは、花街の経済と雇用を支える中心人物だが、裏では宝順との癒着があった。部屋の隅には、商人が持ち込んだ献上品が、隠すことなく高々と積み上げられていた。
 騒々しさで頭痛がする。
 涼景は顔色一つ変えず、ただ、胸の中で不平を漏らした。
 派手なだけの宴の模様は、すべて、商人の趣味によるものだ。長く宝順を見てきた涼景には、これが皇帝の好みではないことがよくわかっていた。
 商人としては、名誉ある仕事を果たして誇らしいだろう。だが、この宴の正体は、商人を社会的に抹殺するために用意された茶番だった。力を持ちすぎた者は、例外なく、粛清を受ける。
 宝順としては、理由など何であろうと構わない。難癖をつけ、その財産もろともすべてを奪えればそれでよかった。いや、むしろ財産よりも、そのような境遇に接して絶望する商人の姿を見ることこそが、愉しみなのだ。
 涼景同様、この状況に不満を抱く者がもう一人いた。
 厳しい顔で腕組みをしたまま、睨みをきかせている初老の男、慈圓である。立場上、やむなく顔だけは見せたといったところだ。
 くだらぬ。
 今朝まで、慈圓は不平を繰り返していた。華やかな舞も美しい楽の音も、匂い立つ料理も珍しい美酒も、慈圓には何もかもが気に入らない。すべては、宝順の猿芝居の片棒を担がされていることにある。
 それは宝順も同じだった。何かと口うるさい慈圓は、宝順にとっても面白くない人物である。しかし同時に、その観察眼は鋭く、また、宮中での発言力もある。このような酒の席に招くには、好都合な人材である。酒で緊張が解け、気が緩んだ隙に漏れる謀反の影を、慈圓は鋭く見抜く。それは宝順にとって有益な情報である。そして結局、情報戦を得意とする慈圓にとっても、材料を仕入れる格好の場となるのだ。
 皆、ばかし合いばかりだ。
 涼景は、我が師匠のことながら、思わず肩をすくめる。
 騙し騙され、利用し利用される。宮中では、誰もが自らの権威の保持と出世、他人の失脚を狙う望みを抱く。
 その繰り返しに、嫌気がさしてくる。
 一同に酒が回り、音楽と話し声とが溶け合い、靴音がその隙間を埋める。笑い声が高く響き、そこここに、痴態を晒す者も現れる。
 涼景はちらりと英仁を見た。警備の隊長として采配を振るう英仁は、乱れた様子もなく、帝のそばにつき、その挙動を見守っている。
 今のところ、混乱は無い。
 だが……気になる。
 色鮮やかな美女たちの中に、涼景の目を引く一人がいた。身に付けるのは、女物の着物ではあるが、明らかに男である。それを隠す事はせず、逆に、大きく襟を抜き、あらわにした胸筋や喉の凹凸が、かえって男であることを際立たせている。
 薄色の淡い金色の深衣に、濃い紅の裳を身に付け、髪にもまた真紅の牡丹の生花を挿している。長く額から頬にかかるみだれ髪が、その色気を強調していた。二重に巻いた帯の大きな結び目がわざとゆるいのは、どこか蓮章を思い出させた。
 似ている。
 着付けばかりではない。男の顔は、蓮章に酷似していた。よく知らぬ者ならば、見間違えてもおかしくない。唯一、誰にもはっきりとわかるのは、その左目が右目と変わらぬ黒であると言うことだった。
 あれが以前、蓮章が言っていた男妓か。
 慈圓も気づいたらしく、ときどき、様子を伺っている素振りである。
 演奏の腕前の如何は、涼景にはよくわからないが、立ち振る舞いから、男には剣術の心得があることが伺われた。
 まずいかもしれない。
 涼景は腹の底で焦りを感じた。男の容貌に宝順も気付いているだろう。皇帝は、蓮章のことも、涼景との関係も知っている。嫌な想像は大抵当たる。
 面倒なことになるなよ……
 涼景は、一瞬一瞬が平穏に通り過ぎるのを祈った。
 不意に扉が外から叩かれた。涼景を呼ぶ合図である。涼景は英仁と目配せし、うなずいてから外へ出た。
 スッと冷えた黄昏の風が、別世界のように涼景を包んだ。室内の喧騒が遠のき、篝火の爆ぜる音が静寂を際立たせる。
 夕日のかすかな残光の中、顔を布で覆い、長袍をまとった女が一人、近衛に付き添われて涼景を待っていた。
「妓女、か?」
 涼景はいぶかしんだ。
 商人が連れてきた女は誰一人、楼閣の外には出ていない。後から遅れて人が来るという情報も聞いていなかった。
 風が女の袍の裾を揺らし、甘やかな香りが喉奥にまで感じられた。
 女は上目遣いに涼景を見た。顔を覆う布の隙間から、片方だけの鋭い灰色の目が光る。思わず涼景は息を止めた。
「こちらへ」
 小さく命じ、楼閣の裏手へと連れて行く。乾いた足音がいつもより耳に障る。敷地を見回っていた近衛と距離を取り、暗がりに連れ込む。
 自分の体で女を隠し、涼景は声をひそめた。
「蓮、おまえ、何をしに来た?」
 灰の瞳は微かな光を映して、銀色に見えた。
「詳しい事は後だ」
 蓮章はあたりの気配に気を払いながら、面纱めんしゃを取り去り、長袍を脱いだ。中に隠していたのは、あの男妓と同じ、薄金と紅の艶かしい姿だった。思わぬ光景を目の当たりして、涼景は思わず生唾を呑んだ。
「おまえの方が……」
 出かかった本音を、寸でのところで堪えた。
「なるほど、俺と同じ姿の男、いるんだな?」
 蓮章は苦い顔をした。どうやら、涼景をからかっているわけではなさそうだ。涼景の耳元に唇を寄せ、
「聞け。その男、帝の暗殺を企んでいる恐れがある」
「以前、おまえが言っていたやつか?」
「ああ。名を、慎。本名かどうかは知らないが」
 涼景の顔が険しくなる。
「慎は皇帝に恨みを抱いている。それから、おそらく、俺の懐から毒を盗んだ」
 蓮章はさらに顔を近づけた。
「まだ、時は満ちていない」
 宝順を倒すことはふたりの願いでもある。しかし、時を違えても混乱を呼ぶだけだ。
「わかった」
 涼景は頷いた。
「慎を捕えるか?」
「いや、追い詰めると、何をするかわからないやつだ」
「そんなところまで同じか」
「だが、俺の方が綺麗、だろ?」
 涼景は思わず黙った。
「涼、俺を中へ。あいつが何かしでかす前に、入れ替わって捉える」
 蓮章は、耳にかけていた前髪を指先で整えた。左目を隠すように垂らして見せる。
「これでどうだ?」
「そう、だな……」
 涼景は改めて蓮章の姿を眺めた。気づかず、ため息が出る。
 戸惑う涼景の反応を見て、満足そうに、蓮章は微笑した。
「緊急時の隠し通路くらい、あるんだろ?」
「……こちらだ」
 涼景は敷地の隅へと案内した。草むらに小さな井戸がある。
「台座の下に通じている」
「わかった」
 蓮章は身軽に井戸の岩壁の凹みに指をかけ、伝い降りていく。暗い底に姿が見えなくなってから、涼景は周囲を警戒し、大広間へ戻った。
 中へ足を踏み入れると、あたりは一層騒がしくなったように思われた。
 すっかり酩酊した官吏たちが、思い思いに妓女と戯れている。涼景はその中に慎を探した。
 酒瓶を手に、慈圓の前に大人しく座っている姿が目に入る。
 やはり、蓮の方が……
 思い出して、涼景は首を振った。
「仙水」
 英仁が、涼景を招く。涼景は背を伸ばし、騒ぎの中央を堂々と横切って台座へと向かった。英仁の横では、宝順帝が酒を片手にゆったりと座していた。このような席では、宝順は自ら加わるよりも、傍観することを好む。今も、人目をはばからぬ乱れた男女を、おかしそうに微笑して眺めている。
 さらに皇帝の隣には、本日の主役とも言える商人が、満面の笑みを浮かべていた。
 あわれな。
 涼景は眉一つ動かさず、商人の末路を思った。
「仙水、あの者に気づいていたか?」
 英仁は顎をしゃくって、慎を示した。
「男妓、でございますか?」
 慎を振り返った視界の隅で、宝順が姿勢を変えるのが見えた。
 宝順が動く。それだけで、意思とは無関係に、涼景の体は震えた。肉体にも魂にも刻みつけられている恐怖。人前で恥ずかしめられた記憶が、瞬時に蘇り、いたたまれなくなる。頬がこわばり、冷静な判断力が鈍る。これが宝順の支配であり、呪いだった。
「涼景」
 宝順の声は、さらに涼景の自由を奪うようだ。それでも懸命に心を隠し、頭を下げる。
「陛下」
 声は震えない。震わせない。最後の矜持は守り切りたい。
 宝順はそんな涼景の苦悩など一切省みず、むしろ楽しむ素振りで唇を歪めた。
「あの者、そなたの友に似ていると思わぬか?」
 宝順が、いかにも面白いという声で言う。
 きた!
 恐れは容易に現実にとなる。
 背中に震えが渦巻いた。
 大切なものに手を伸ばされたようで、心の内側から激しい焦りが湧いてくる。
 触れられたくない、巻き込みたくない。
 その動揺は、かすかに指先に現れる。
「呼べ。近くで見たい」
「慎、お召しだ」
 商人が手を叩く。
 慈圓に挨拶を済ませ、静かに、慎は宝順の前に進みでた。伏し目がちに、低く膝をつく。
「光栄に思え」
 嬉しくてたまらない、というふうに商人は胸を張った。
 慎は表情一つ変えず、じっと動かない。
「顔を見せよ」
 商人に促され、慎は遠慮がちに首をもたげる。
 宝順の視線が、慎の輪郭を撫で回す。
「左の目を隠せ」
 慎はそっと髪に手をやり、前髪を寄せて左目を隠した。
 蓮章と慎の唯一の違いは、その左目だ。それを封じてしまえば、誰もが見まごう鏡像となる。
「面白い。ここまでとは」
 宝順が愉悦を浮かべる。
「おつぎしろ」
 商人に命じられ、慎は丁寧に酒をついだ。髪に飾っていた深紅の牡丹の花びらを一枚千切り、杯に浮かべる。金に紅の取り合わせは艶やかで、花びらはくるりと回って静かに底に沈む。
 今のは……
 涼景は言葉にできない違和感を感じた。
 慎は黙って、杯を宝順の脇の台の上に捧げ置く。
 その一挙手一投足を涼景は注意深く見つめた。蓮章が言った通りだとするならば、慎は毒を盛ったに違いなかった。
「涼景」
 杯に気を取られていた涼景は、唐突に呼ばれて、ピクリと瞼を震わせた。
「は」
 慎と並び、頭を下げる。いつしか頬がのぼせて、汗が一筋、こめかみを伝った。
「良い余興となろう」
 宝順の声が降ってくる。
「似て非なるものがどれほど違うか。涼景、そなたの目と肌をして、確かめてみよ」
 涼景の喉がヒュッと鳴る。
「陛下」
 様子を伺っていた慈圓が、不機嫌をあらわに、声を上げた。
「暁どのは警備の任を担うお立場。それを余興にあてがうとは、不用心にも程がありますぞ」
 宝順はひとつ鼻を鳴らしただけで、意に介したそぶりもない。涼景はちらりと慈圓を見て、首を振った。
僕射ぼくや、皇帝陛下のご意思でございますゆえ」
 涼景は助けを必要としていない。
 慈圓は眉をひそめ、顔をそむけて引き下がった。
 逆らうことはできない。ただその一事だけは確かだった。取り乱すことも、条件をつけることも望めない。
 涼景はそっと、慎の横顔を見た。ゆっくりと自分を見返す黒い右目が、親友を思わせる。熱い息が、体の奥から溢れた。
 蓮章ではない。
 だが、あまりにも重なる面影が、強い酒のように涼景を酔わせる。ごくりと唾を飲み込む。
 気づいていながら気づかぬふりをし、楼内の者たちが、こちらを伺っている気配がした。
 彼らの興味は、恥ずかしめられる慎に対してではない。弄ばれる涼景に対してである。噂を知っているのだろう、見ず知らずの妓女たちまでが、忍び笑いを漏らして、ねっとりした視線を絡めてくる。
 皇帝の人形が、人を抱けるのか。
 胸を刺す中傷が、涼景の耳に聞こえたように思われた。
 慎は涼景に体を向けた。感情のなかったその顔に、うっすらと笑みが見えた。
「そうか、あんたが『りょう』、か?」
 慎のつぶやきは、涼景を一歩、下がらせた。
 りょう……涼。
 その呼び方に、頭の芯が痺れる。蓮章の姿で、呼び方で、手を伸ばされ、現実と妄想とが境界を危うくする。せめてもの抵抗は、後退ること。一瞬でも、壊れる瞬間を先伸ばしにし、いたずらに時を稼ぐ。
 腕は立つが、あちらは立たぬのでは?
 蔑みの声が、じわじわ足元から這い上がってくる。
 抱けぬどころか、真逆である。浅い呼吸と早い鼓動。体は心と裏腹に、目の前の男を欲して狂う。心はそれを、強靭な意志をもって抑え込む。理性を捨てきれない涼景が、肉体の欲望に翻弄されて悶える姿は、宝順の呪いが作り出した屈辱だった。そして涼景の悲劇は、その才能に嫉妬する者達にとって格好の見世物であった。
 広間に、忍笑いと好奇が満ちる。
 慎が一歩、涼景に近づく。怯えるように、涼景が下がる。その繰り返しを宝順は楽しげに眺めている。商人は腕を組み、にやにやと歯を見せて笑う。
 台座の隅に追い詰められて、涼景は足場を失い、その場に腰を落とした。ひときわ大きな嘲りの声が起こる。この上ない、無様で滑稽な余興であった。涼景はさらに体をのけぞらせ、ずるように下がった。
 もう、少し。
 涼景は自身を押さえつけた。
 慎は目を細め、何かをつぶやいた。熱に浮かされた涼景の聴覚はにぶり、それを聞き取ることはできない。だが、見慣れた形の唇が、自分を呼んだことは間違いなかった。
 薄く微笑んだまま、慎は涼景に覆いかぶさった。抱きすくめられて、涼景は怯えた表情を見せた。あまりに哀れなその姿に、皆の興が乗る。歓声にも似た短い声に、ざわめきと手を打つ音までが押し寄せる。慈圓だけは、口を曲げて拳を振るわせた。
 焦点も合わないほど近くに、慎の顔があった。
 体に染み込んだ香が鼻をくすぐる。涼景の心を包む最後のひと布を蕩かすように、染み込んでくる。
 涼景は、荒い呼吸で慎の顎に手をかけた。慎の目が、ちら、とそれに向く。蔑むような笑みが深くなる。涼景の指先が、触れるか触れないかの力で、慎の耳へと這い上がる。その先、髪を絡めて頭蓋を辿り、深紅の牡丹に指がかかる。くしゃり、と湿った音がした。
 ゾッと、慎の表情が凍りついた。
 涼景の手が、牡丹の花を掴み取る。同時に、慎の体を逆に組み敷いて、絡み合ったまま、台座と壁の間に転げ落ちる。慌ただしい音と小さな悲鳴、慎の姿が皆の視界から消える。
 どっと周囲から声が上がり、これから始まる下卑た場面への期待が高まった。だが、それは涼景の鋭い一声で断ち切られた。
「陛下、その酒を召し上がってはなりません」
 気圧され、情けない姿をさらしていた涼景のものとは思われない、厳しく堂々とした声色だった。
 その声に導かれ、皆、宝順の手元の杯に一斉に目を向ける。
 台座の陰から立ち上がった涼景は、しっかりと慎を床に押さえつけ、顔を上げた。奪い取った牡丹を差し出す。
「この花の芯に附子ぶしが仕込まれている。この者は陛下に毒を盛った」
 酒の熱気が、一瞬で冷え、誰かが悲鳴を上げた。商人が立ち上がり、顔を真っ青にして首を振ると、宝順の足元に這いつくばった。
「陛下、そのようなことは……」
「そなたが連れてきた男妓が、朕に毒を?」
「間違いでございます!」
 商人は涼景を指差した。
「あの者が根拠のないことを!」
 涼景は、毅然と商人を見据えた。
「たとえ、この男妓一人の企みであったとしても、その責任は主人であるおまえにある。もし、違うというのなら、その杯の酒を飲め。私が間違っていたならば、この場でどんな罰も受けよう」
 先ほどまでの姿が嘘のように、そこには、落ち着きを保った威厳ある涼景がいた。慈圓が、やれやれと首を振る。
 宝順帝はちらりと商人の方を見た。唇がゆっくりと動き、
「飲め」
 一言、命令が下された。
 英仁が指示し、待機していた近衞が商人を押さえつける。近衞の一人が商人の口を開かせた。先ほどまでの余裕がすべて吹き飛び、商人は目で救いを求めたが、それが通用する宝順ではない。別の衛士が、口の中に酒を注ぎ込んだ。
 むせかえりながらも飲み下す。
 不規則な呼吸と嚥下の音が、しん、と静まった広間に響いた。商人の目がくるりと裏返る。喉の奥から吹き出した泡に混じって、赤い血が唇に垂れた。うめき声を上げることもなく、そのまま崩れて動かなくなる。妓女たちは恐ろしそうに顔を伏せ、官吏たちは、明日は我が身と、背筋を凍らせた。
「己の手駒さえ御せぬとは、情けない男よ」
 英仁が小さく呟き、涼景を振り返った。
「仙水、よくやった」
 涼景は台座の下から慎を引き上げ、背中で腕をねじり上げた。
 絶命した商人を見ても、慎は動揺すらせず、冷たく宝順を睨みつけた。
「やったのは俺の一存、この男は本当に無関係だってのに……」
「構わぬ」
 宝順は無礼な態度を咎めることもなく、鼻で笑った。
「もとより、明日を生かすつもりもない。理由など、問題ではない」
 宝順は広間を見回した。
 皇帝と視線が合うことを避けて、皆が萎縮して面を伏せる。
「そなたたちも心しておけ。多くを望むと全てを失う」
 少し前までの騒ぎが打って変わって、死刑宣告を聞く静寂が満ちていた。
 これは、見せしめだ。
 力を持てば、涼景のように辱められる。財を築けば、商人のように切り捨てられる。
 ほどほどに、満足せよ。絶大な権力を握るのは、皇帝一人で良い。
 誰もが、それを魂にまで刻みつけられる。
 英仁が慎を見た。
「陛下。この者の処遇は?」
 宝順は遠くを見た。
「興が醒めた。自分の毒で始末を」
「御意」
 英仁は、毒酒が残る杯を近衞から受け取ると、自ら、慎の唇に当てがった。
「仙水、しっかり押さえておけ」
「は」
 背後から慎を抱きすくめ、首を固定する。
 ゆっくりと盃を傾ける英仁の目に、わずかに、だが、確かな悦をたたえていた。涼景は息を止めた。
 宝順に関わると、誰もが壊れていく。
 それは、英仁も自分も、変わりない。
「うっ……!」
 慎の声が抵抗し、体が跳ねたが、涼景は難なくそれを押さえつけた。武人二人がかりでは、慎に逃れる術はない。やがて、こくこくと小さく喉が動き、花弁を残して盃が空になる。
 喉を潰す苦しみに耐え、慎は涼景に体を押し付けた。涼景の顔をその目に焼き付けるように、涙を浮かべて見開かれる。その目は、あまりに蓮章であった。とっさに、涼景は拘束とは別の意思で、慎を抱きしめた。
 宝順の目が光り、慈圓の頬が痙攣する。一瞬を、二人は、見逃さなかった。
 慎の唇の端から、あまりに紅い血が、一筋伝い落ち、目が閉じられる。
 涼景の全身が総毛立ち、慎を支える腕がしびれて感覚を失う。
「片付けろ」
「は……」
 英仁の指示に、涼景は一瞬遅れて反応した。ぐったりと四肢を垂れた慎を抱き、入り口に向かう。脚がもつれて足元が危なかった。
 人々は、死を避けるようにざわめいて道を開けた。
「待て」
 宝順の声に、涼景は立ち止まった。振り返ることはできず、両膝が崩れるほどに自由が効かなかった。
「その者は、本当に死んでいるか?」
 涼景の目が、わずかに揺れた。
「体を開き、確かめよ」
 広間の者達に、好奇と恐怖が入り混じる声の波が走り、再び場が騒然として異様な雰囲気が盛り上がる。英仁は声を殺し、宝順はその反響にほくそ笑む。
「どうした、涼景。死者を慰むは、初めてではあるまい?」
 がん、と頭を殴られるような衝撃で、涼景はよろめいた。過去の凄惨な光景が、強烈な体感を伴って蘇ってくる。冷たい生首、蹂躙される親友の姿、刻みつけらた頬の傷。
 もう、やめてくれ!
 涼景の理性が悲鳴をあげる。
「そこまでになされよ」
 場の混乱を両断する、慈圓の制止が高らかに響いた。
 涼景を想い、宝順帝の横暴を快く思わない慈圓の、限界だった。
 口調こそは厳かだが、その目は見る者を切り裂くように鋭く、誰もが口をつぐむことしかできない。
 慈圓は臆することなく、宝順帝の前に進み出た。見開いた目を血走らせ、皇帝の胸元に定める。
「これ以上は、陛下の臣として、見過ごすことかなわず。亡骸を冒すは民の目に重く映り、忠を尽くす臣に穢れを負わせることは、陛下自身の統治を蝕む。必要な制裁は既に終わっている。この先は、統べる者の賢たるものにあらざると」
 皇帝の怒りを恐れて、誰一人身動きもせず、息を潜める。止まった時間の底でため息を漏らしたのは、宝順自身だった。
「圓よ」
 醒めた声が、静かに呼んだ。
「二度とそなたを、宴には呼ばぬ」
「結構。失礼する」
 慈圓は、ここが引き際、と心得て、涼景を促し、聚楽楼を後にした。

 焼けつく喉は、一呼吸ごとにその痛みを増した。
 苦しさに呻きをあげれば、更に激痛が襲ってくる。鋭い刃の切っ先で喉を突かれる痛みに苛まれ、息をすることさえが拷問だった。
 しくじった。
 痛みの合間に、蓮章は繰り返し、思った。
 いかに毒に強いとはいえ、少量で人を死に至らしめる劇薬を飲んでは、無傷とはいかなかった。
 これ、死ぬかも……
 ぞくりとする恐怖の寒さは、体を蝕む熱と共通だった。実体が失われ、心が体から分離する。
 以前にも自分は死んだことがあったのではないか。そんな気さえする、懐かしい感覚だった。
 これが、危ない、ってことなのか……
 蓮章は達観した思いで、出口の見えない痛みと熱の檻の中に転がっていた。
 誰かが自分を呼んでいる。
 水の中で聞く鳥の声のように、ぼやけて奇妙に反響する。
「蓮!」
 そう呼ぶのは、一人しかいない。
「行くな!」
 涼……
 いつも心に宿るその人は、閉じた瞼の向こうにいるのだ。
「一人で……行くな。俺を連れて行け!」
 ああ、こいつ、馬鹿だ。
 辛くてたまらないというのに、蓮章は笑っていた。
 全身が熱く、同時に冷えていた。
 喉は、赤い炭を押し付けられたように熱い。
「み……ず……」
 炎を鎮めたくて、蓮章は何度も呻いた。
 しびれて動かせない体を力強く支えられ、ひりつく痛みのある唇に、器が当てられる。舌も顎も、水が触れるだけで強烈に熱くなる。
 まるで、熱湯でも飲まされているようだ。
「水、と……言ったのに」
 腹立たしさが、鼓動を余計に早くする。
「飲め」
 自分の意思とは無関係に、喉に流し込まれる。味も匂いもわからない。体がこわばり、気管に流れてむせ返る。強く上半身が抱きしめられ、背中をさする手に、優しく叩かれた。すっと空気が通ると、一瞬だけ涼しさを感じたが、すぐにまた、内側から灼熱がこみ上げる。
 そんなことを、どれだけ繰り返しただろうか。
 喉の熱は収まらず、舌もうまく動かない。だが、確実に意識は混濁から抜け出し、自分が置かれている状況を認識しつつあった。
 蓮章は、涙が乾いて引きつった瞼を開いた。
 滲んだ視界に、陽の光が白く揺れる。
「涼……」
 何より先に、蓮章はその名を口にした。無意識の甘えた声だった。呼んでしまってから、後悔しても遅い。名の持ち主が自分を覗き込んで、両手で頬を包んできた。
「蓮、わかるか?」
「……何が?」
「俺が」
「……誰だ、おまえ」
 蓮章は笑おうとして、唇が思ったように動かないことに気づいた。厚く腫れ、さらにしびれがあった。
「よかった、大丈夫そうだな」
 涼景はホッと、息を吐いた。名残惜しそうにゆっくりと肌を撫でて、手を離す。
 おまえこそ、大丈夫か?
 蓮章は、真っ赤に腫れた涼景の目を軽く睨みつけた。
「また泣いてたのか?」
「うるさい、黙ってろ」
 前にも、こんなことがあったな。
 蓮章は記憶をたどったが、答えに行きつくより先に、涼景が口を開いた。
「状況を話す。おまえは毒を飲んだ」
 だろう、な。
 蓮章は一度、瞬きをした。
 毒の後遺症だろう。唇も舌も刺激に弱く、話すだけで痛みが走る。喉も腫れているのか、奥が塞がっているような違和感があった。
「あれから、四日経った」
 瞬き。
「皇帝からの咎めはない。蒸し返されることはないだろう」
 瞬き。
「師匠には状況を説明して、うまくやってもらっている」
 よく知る天井は、住み慣れた蓮章の離れである。
 納得して、蓮章はまた、瞬きを返した。
「事情が事情だけに、安珠様にも見せられなかった。長く苦しめてすまない」
 蓮章は、視線を涼景に戻した。医者に見せないにしても、涼景自ら、薬湯を飲ませてくれていたことは察せられた。蓮章に薬が効かないとわかっていて、涼景はいつもそうするのだ。
「それから」
 涼景はさらに声を落とし、
「あいつは無事だ」
 あいつ……?
 蓮章の目が、問う。涼景は頷いた。
「師匠が隠してくれている。誰にも知られていない」
 瞬きはせず、蓮章は天井を見上げた。
 宴の大広間で行われた、狂気の茶番。その中で、涼景は慎を誘導し、壁と台座の隙間に突き落とした。それを合図に、蓮章は台座の下の抜け道に、慎を引っ張り込んだ。眠り薬を嗅がせ、自分は慎と入れ替わって、毒の盃を飲み干した。もう随分、遠い記憶に思われた。
「なぁ、蓮」
 涼景は褥の端を握った。
「こうまでして、生かす必要があったのか?」
 蓮章は小さく、首を横に振った。
「わからない。あの顔だから、情が移ったかな」
「おまえ……」
 涼景は、動けない蓮章の髪を一房、指先で撫でた。
「それが、蓮、なんだよな」
 涼景は安堵と、まだ少しの息苦しさを思わせる笑みを浮かべた。
「口も性格も最悪だが、情が深い。だから俺は……」
 途中まで、言い返してやろう身構えていた蓮章は、涼景の言葉尻で息を飲んだ。涼景に向けた眼差しが、祈りへと変わる。都合の良い期待が、胸いっぱいに騒いだ。
 自分から求めることができない蓮章の弱さは、同様に臆病な涼景の弱さにすがる。互いの想いなど、とうに知れている。惹かれ、求め、触れたい。そして、それは決して許されないという帰結まで、悲しいほどに同じなのだ。
 それでも。
 ほんの少し、何かの迷いでも間違いでも良いから、理性の壁が崩れてくれたなら。
 蓮章はその奇跡を、祈らずにはいられない。
 いつ、どこで、自分たちはこれほどこじれてしまったのか、思い出せなかった。
 沈黙し、見つめあう。
 見栄を捨てねば、恋はできない。
 俺はいつになったら……
 間に合わないかもしれない、と、蓮章は目を伏せた。
 時は有限であり、人との関係は移ろうものである。自分の心の向きが変わらなくても、涼景の心がいつまでも自分にあるという保証はない。それでも、踏み込む勇気が蓮章にはない。だというのに、踏み込まれることばかり、期待していた。
 頭の隅で、涼景が決してそうは動かないと知りながら、己を、開いて見せる。それ自体に、意味があると信じ、蓮章は隙を作り続ける。
 それが、蓮章にできる、精一杯の気持ちの伝え方だった。
 不意に、優しい指先や吐息が触れるのではないか。
 隙と油断だけをまとって目を閉じ、蓮章は儚い期待を抱き続けていた。

 翌日、症状が落ち着いてきた蓮章は、自力で牀の上に体を起こした。
 涼景が運んできた白米の粥を膝に乗せて、ため息をつく。小さく刻んだ栗が、優しい色を覗かせている。涼景が気遣わしげに微笑んだ。
「まだ、痛みが辛いか?」
「ああ。唇も舌も、水を飲むだけで痛い」
 蓮章の体に触らぬよう、粥はすっかり冷ましてあった。それでも痛みがまさって、味わうには至らない。
「その上、味がしない」
 無表情で呟く。
「香りもわからない」
「文句が多いな」
 涼景は肩をすくめた。蓮章は味覚も嗅覚も繊細で、そこに楽しみを見いだす。毒はその両方に、甚大な被害をもたらした。一命は取りとめたものの、どこまで回復するかはわからなかった。
「ゆっくりでいいさ。俺の頬の時だって、最初はほんとにもうだめだと思った。でも、そのうち……」
「別にどうでもいい」
 声に力はなかったが、その口調はいつもの蓮章だった。思わず涼景は笑った。
「人が慰めてやろうって時に、おまえは……」
「気休めはいらない」
「じゃあ、何なら受け取るんだよ?」
「言えばくれるのか?」
 蓮章の一言には、諦めが感じられた。
 涼景は表情をなくして、蓮章を見つめた。
 蓮章はわずかに目を伏せ、匙で粥を撫でていた。
「そういえば……」
 涼景は、かすれた声で話題を変えた。
「後で、師匠が話があるって」
「また説教か」
「それより先に、あいつのこと」
「あぁ」
 蓮章は匙の先で、粥の上澄みを少しだけ飲んだ。
「今後のことも考えなきゃならねぇし」
「そうだな」
 また、ひと口すくい、できるだけそっと唇から流し込む。飲み込むに合わせて、痛みが喉の奥へ落ちてゆく。余韻で舌が痙攣する。
「暁隊はどうしている?」
 唐突なその問いかけに、涼景は一瞬たじろいだ。
「なんだよ、今、そんなこと心配しなくても……」
「あいつら、どうしている?」
 涼景は黙った。
 蓮章の目はどこか切実だった。呂律が回らない。それでも、少しでも、普通の会話がしたい。
 その思いを感じて、涼景は心を切り替えた。
「旦次が仕切ってくれている。日に一度、つなぎの者が木簡を届けてくれるが、おまえの報告にはとても及ばない。まぁ、でも、どうにかやってるようだから、心配するな」
「近衛は?」
「向こうには、俺が聚楽楼での出来事で動揺し、熱を出して寝込んだと言ってある」
 明らかな不満が蓮章の顔に浮かぶ。
「おまえは、あんなことでへこたれる奴じゃないのに」
 涼景は小さく声を立てて笑った。
「どう思われても構わないさ。おまえさえ、知っていてくれるなら」
 蓮章は匙を強く握った。
「それに……」
 涼景は視線をそらして、
「こんな時に一人にしたら、おまえは一生恨むだろうし、俺も一生、後悔するから」
 蓮章の背が、少しだけ丸くなる。憎らしいほどに、涼景の声は甘かった。
 どんな顔をしているのか見たい。
 だが、見たら崩れてしまいそうで、蓮章は黙って粥を見つめ続けた。
「何も心配ない。俺たちが二人、揃って生きてるんだ。どうとでもなるさ」
 涼景の前向きな言葉は、沈み込んでいた蓮章を柔らかく救い上げてくれる。その手に甘えて、幾度、奈落から引き戻されただろう。蓮章は感覚のない唇を噛んだ。
 俺は今まで何度も死んだ。そして、何度も生き返った。
 涼景に、生かされている。
 敗北感と、安堵が、同時に蓮章を包み込んだ。
 日に焼けて、精悍に、たくましくなりながら、まだ幼い面影も残す親友の顔。薄い茶色の瞳がいつも蓮章を導いてくれた。
 どんな時も、盾になろうと立ち続ける涼景の力強さと必死さが、蓮章には何より突き刺さる。自分のこと以上に誰かのことを思い、痛々しく笑う親友の姿。
 この人を、一人にしてはいけない。
 唇が震え、喉が震え、指先が震える。我知らず目元が歪む。熱いものがこみ上げて、視界が緩む。鼻の奥が、毒とは違う痛みに、小さく貫かれた。
 かすかな戸惑いと、それを受け入れる柔らかな笑みが、涼景の表情に宿る。いつもとは別の色をした優しさが、互いの目の中にあった。見つめ合う顔がゆっくりと近づき、どちらからともなく腕が差し伸べられる。
 今なら、捨てられる……
 蓮章の思考を、そんな考えがかすめ飛んだ。
 呼吸することさえ忘れて、二人は静かに流された。
 指先が触れ合い、浅く絡む。その感触に揃って息を飲む。
 音もなく扉が開かれた。
 はっとして蓮章が身を正す。その様子に、涼景も後ろを振り返った。二人が一瞬、体を寄せるように硬直する。
 慈圓に付き添われ、もう一人の蓮章がそこに立っていた。艶やかな灰色の着物に、化粧を落とした慎の姿は、月夜を楽しんでくつろぐ蓮章と生き写しである。
「元気そうで何よりだ」
 蓮章は、俯き、瞬き、かすれた声で慎を見上げた。
 涼景は蓮章の膳を下げ、黙って薬湯の準備をする。涼景には目もくれず、慎は蓮章の牀に大股に近づいた。扉の前に立って腕を組み、慈圓は三人の若者たちを見守る。
「余計なことをしたと、わかってるだろうな」
 口を開くや、慎から棘のある言葉が飛び出した。
「相変わらずだな」
 察していたのか、蓮章は驚くことなく受け止める。涼景が湯呑みで薬を溶く音がした。
 慎は、牀に手をついて、蓮章に顔を近づけた。
 涼景の眼差しが、素早く動いて慎を牽制する。蓮章が一声あげれば、太刀を抜くことにためらいはない。
「俺を助けたつもりか?」
「そんなつもりはない」
 蓮章が小さく首を振った。慎の目つきがさらに険しくなる。
「じゃあ、なんで止めた?」
「理由は二つ」
 蓮章は、喉の奥から熱い息を吐き出した。
「一つは、おまえが盗人だから」
「はぁ?」
 慎は思わず声を高めた。
「ふざけるな。俺は……」
「皇帝暗殺未遂」
 蓮章は静かだが、よく通る声で、
「確かにその罪は拭えないが、それ以前に、おまえは俺の着物から薬を奪った。花街は暁隊の管轄でな。窃盗罪でおまえを捕らえなきゃならない」
 正論だった。
 慎は、ぐっと息を殺して、
「二つ目は?」
 憎々しげに言う。
 涼景が横から口を出した。
「もう一つは、蓮の気まぐれ」
「……おまえら、本当にふざけてんのか!」
「そう、怒鳴るな。頭に響く」
 蓮章は気だるそうに髪を掻き上げた。代わって、涼景が答える。
「俺は長く宝順帝を見ているが、あの程度の策にかかるようなやつじゃない。俺たちが止めなくても、おまえは間違いなく失敗して殺されていた」
「…………」
「本気でやりたいなら、もう少し利口にまわれ」
 慎は涼景を睨みつけた。
「あいつの部下が、なぜ、こんな真似をする?」
 涼景はそっと、蓮章の手に湯呑みを渡しながら、
「俺たちは誰の部下でもない。ただ自分の望む世界を作るために、周囲を利用するだけだ」
「でも、あんた、近衛なんだろ?」
「今は、な」
 涼景は、辛そうに薬湯を飲む蓮章を見ながら、
「国を任せられる皇帝が現れるのを待っている」
「任せられる……?」
「正しくは、そうなる可能性がある人物、と言おうか」
 慎はようやく、わずかに攻勢を解いた。
「じゃあ、いずれ、宝順を裏切るつもりってことか?」
 涼景も、蓮章も、慈圓も、誰もが一切動かなかった。
 それは、安易に答えることのできない問いである。慎は眉を歪めた。
「何を呑気なことを言ってる? やるなら早い方がいいだろ?」
「今、動いたところで、混乱しか生まない。民を巻き込んで国を荒らすくらいなら、俺たちが毒をくらっていたほうがましだ」
「俺の家族の犠牲も、見過ごせってのか!」
 涼景の言葉に、慎は噛みついた。
 思わず、涼景はため息をついて首を振った。慎は蓮章以上に感情的である。
「おまえの家族のことは、調べさせてもらった」
 慈圓が後ろから声を張った。
「一族の多くが、散々な目に会ったことは認めよう。だが、おまえの家族にも非がある」
 慈圓の容赦のない言葉に、慎が歯を食いしばる。
「欲に目がくらみ、怒りを誘う行動をとったのは、おまえの家の方だ。だからと言って、皇帝のしたことのすべてが許されるとは思わないが、自業自得とも言える」
「ふざけるな!」
 振り上げられた慎の拳を、涼景が素早くねじり上げた。さらに、力を込めて、蓮章から引き離す。強烈な痛みに、慎が悲鳴をあげた。一瞬、蓮章と錯誤して、涼景は胸が痛んだ。
「無駄だ。武術の心得はあるようだが、俺には通じない」
 そこに疑いを挟む余地はなかった。慎は悔しげに息を吐いて、それから首を振った。
「わかったよ。手、離せ」
 ゆっくりと涼景は指を開いたが、警戒は解かない。蓮章が動けないこの状態では、自分がすべての要だと心得ている。こういう時のために、涼景の強さはある。
 慈圓が厳しく慎を見た。
「慎、おぬし、思い違いをしておらんか」
 苛立った顔で、慎は慈圓を振り返った。
「思違い、だと?」
「我々はいつでも、おぬしを殺せるのだぞ」
 慎は息を止めた。
「おぬしは、もう、死んだことになっている人間だからな」
 苦しい沈黙が、慎の喉を塞ぎ、声を閉ざした。
 宴の席で皇帝に毒を盛った男妓は、制裁を受けてその場で毒殺された。表向きには、それが真実である。
「死んだことになっているのなら」
 突如、蓮章が柔らかく言葉を差し込んだ。
「どこへ行っても、誰も気にしない」
 半分残った薬湯の湯呑みを両手で包みながら、蓮章は横を向いた。
「旅費くらいは出してやる。都を離れてやり直せばいい」
 慎は、食い入るように蓮章を見た。
「おまえの琴の腕前は相当だ。身を傷付けずに働くこともできるだろう」
 慎は低く唸った。
「復讐を、諦めろってことか」
 荒々しく言う。
「だから、自業自得だと言っておる」
 慈圓が言った。
「そんなの、納得できるわけないだろ!」
 再び、慎の声が怒気をはらんで大きくなる。
 本当に、頭に響いて痛い。それ以上に、心に痛い。
 蓮章は目を閉じた。
 涼景は黙って、蓮章と慎の間に立った。何を言うでもないが、無言の中に確固たる庇護の意思があった。
 慎は一息、吐き捨てた。
「確かにこちらにも非があるのかもしれない。だが、それなら父上だけ殺せば済むだろ。どうして、何も知らない母や妹まで地獄を見なきゃならなかった?」
「粛清とはそのようなものだ」
 慈圓が冷淡に言う。それが人の道に沿うものではないと思いながら、しかし、拒めない現実であることも確かだった。慎が歯噛みする。
「……妹がどんな殺され方をしたと思う? あんな姿見せられて、それでも諦めろってのか。皇帝を殺したところで、何も変わらない。それでも、俺はっ……」
「激しいな……」
 蓮章が細くつぶやき、慎は口を閉じた。
 涼景の目が、そっと蓮章に向く。それを待っていたように、蓮章もまた涼景と目を合わせた。
 涼景には、また幼い妹がいる。彼女を人質に取られ、涼景も皇帝に逆らうことはできない。妹を失う慎の悲劇は、いつ、涼景の身に起きないとも限らない。
「俺はやるぞ」
 慎が低く声を震わせた。
「おまえたちが何をしようと、何を言おうと……」
 言って、血がにじむほどに拳を握り締める。
 そんな慎を横目に、蓮章はうなずいた。
「思いは伝わった。諦めろとは言わない。だが、今は待ってくれ。次の時代を引き継ぐ者が現れるのを」
「それはいつだ」
 慎が口を挟む。
「もうじき、答えが出る」
 涼景が答える。
「せめてそれまで、堪えてくれ。蓮も俺も、その時に決める」
 慎は何度か涼景と蓮章を見比べた。
 家族の無念を晴らす。
 それは今まで、慎が生き抜く唯一の理由だった。
 だが、今、目の前の二人を見て、別の思いが急速に膨らんでいくのを感じた。
 憂いを帯びて美しい蓮章と、その蓮章の心を捕らえながら、おそらくは叶えてやれない涼景。
 花街の夜、慎の腕の中で、胸を引き裂くように涼景を呼んだ蓮章の声が、今でも心の奥に突き刺さったまま、痛み続けている。
 病床の蓮章は白く、透明だった。
 慎の体の奥で、じりっと音立てて炎が燃える。
 あまりに短絡的な、しかし目を背けることのできない感情が、過去と思考を支配した。
 慎の目が、色濃い覚悟を秘めて、蓮章に据えられた。
「梨花、俺を、あんたのそばに置いてくれないか」
 その申し出は突然だった。片方だけ、蓮章の肩がぴくりと動く。
「俺は、あんたの影になる」
「どういう意味だ?」
「見ての通りだ」
 慎は胸に手を当てた。
「この顔、使えると思わないか。俺はあんたに協力する。あんたに代わって先に死ぬ。どうせ、俺はもう死んでいるんだろ? どこで命を落としたところで、誰も困りはしない。そのかわり、必ず宝順を倒して欲しい」
「無理だ」
 涼景が静かに答えた。
「確かに、おまえはよく似ている。だが、他の者は騙せても、本当に親しい者は騙せない。何より目が違う」
 慎がそっと左目を抑えた。蓮章の左目は誰もが知る特徴だ。それがある限り、一目で見抜かれる。影にはなりきれない。
 だが、慎の心は決まっていた。
「ならば、これを潰す」
「何を言ってる!」
 涼景が声をあげる。慎はじっと蓮章を見下ろした。
「梨花、あんたなら心当たりがあるんじゃねぇのか? 目の色を変える薬くらい」
 蓮章は顔を背け、首を振った。
「色は変えられても、失明するぞ」
「片目一つで、運命を変えられるなら構わない」
 慎はにやりと笑った。その場の皆がゾッとするほど、それは蓮章の笑みであった。



「結局、さ」
 暁番屋の一室で、涼景に一日の報告を終え、蓮章はぽつり、と言った。
「逃げる道は、なくなった、ってことか?」
「うん?」
 再度、木簡を読み直していた涼景が、顔を上げた。蓮章は苦笑した。
「俺たち、あいつに見張られているんだし、諦めたらこっちが殺されるだろうし……」
 言いながら、手早く木簡の整理をし、明日の準備を整える。
 蓮章の背中に、涼景はにやりとして、
「その時は、俺がどうにかするから、おまえは、俺を連れて行けよ」
 一瞬、蓮章の動きが止まる。
「悪くないだろう?」
 蓮章は答えず、ただ、目を細めた。
しおりを挟む
感想 11

あなたにおすすめの小説

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

 神典日月神示 真実の物語

蔵屋
歴史・時代
 私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。 この方たちのお名前は 大本開祖•出口なお(でぐちなお)、 神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。  この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。  昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。 その書物を纏めた書類です。  この書類は神国日本の未来の預言書なのだ。 私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。  日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。 殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。 本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。 日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。 そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。 なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。 縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。 日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。 この小説は真実の物語です。 「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」 どうぞ、お楽しみ下さい。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~

ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。 そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。 そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

処理中です...