新月の光

恵あかり

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第一部 星誕(完結)

8 さだめ

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​「侶香様?」
 犀遠の居室に戻った涼景は、部屋の中を見回した。そこにはすでに犀星と玲凛の姿はない。
「あの二人は?」
「陽のところだ」
 涼景はしばし考え込んだ。それからおもむろに、
「では、俺も向かいます。あの二人では、また、水掛け論が始まってしまいそうですから」
 犀遠が面白そうに口の端で笑う。
「それぞれに陽を思っているだけだからな。あのようなじゃれあい、放っておいて良い」
 犀遠は涼景を引き止めると、自分の前に招き入れた。
 涼景は会釈し、それに従う。
 犀家の奥座敷での一幕。
 犀遠は涼景をそばに座らせておいて、自分は立ち上がった。自分も立とうとする涼景を、笑顔で制する。
 犀遠は上座の後ろ、北の引き戸を両側に開いた。その向こうの景色に、涼景はため息が漏れた。
 犀家の屋敷の北は、切り立った崖になっている。攻め込むことのできないその地形は、同時に、退路を絶たれているとも言える。
 引き戸の額縁の向こうには、眼下に田畑が広がっている。その中を流れるいく筋もの川は、昼の光を弾いて眩く煌めいた。まるで、大地という布に銀糸であやどりをしたようである。その大地も、季節によって、また、民が植える作物によって色合いや質感を変えるのだろう。季節、時刻、天候、そして、人の営み。それらが作り出す絶景は、素朴でありながら、悠久の時に抱かれた名画と言えた。地平線に連なる山脈は、都・紅蘭からの侵略をはばみ、他者からの独立を守っている。この歌仙が南函の別国と言われる所以である。
 秋の高く澄んだ空は、惜しげもなく瑠璃を敷き詰めたように美しかった。
 これが、犀星と玲陽が愛した歌仙だ。
 涼景は、ふと、思った。
 彼にはこの地で暮らした記憶はない。幼くして都の親類に預けられた涼景にとっては、歌仙は妹という細い糸で繋がった、どこか遠い記憶の断片だった。
 犀遠はその景色を、後ろに手を組んで眺めた。
「ここからは、犀家の領地一帯が見える。そして、それよりも広大な土地が、さらに続いている。人はちっぽけなものだと、この景色は常にわしを諌めてくれるのだ」
「侶香様……」
 犀遠はわずかに、涼景を振り返った。その佇まいは、大将軍として都で名声を得たままの、威厳と自信に満ちている。そばにいるだけで、涼景は自身の未熟さを思い知るようだ。
 犀遠は堅苦しいことを好まず、部下とも親しく付き合う異色の人物であったが、礼をわきまえていないわけではない。彼は義を重んじ、人々の信頼を集める、涼景に近い気質を持っていた。いや、正確には、そんな犀遠を手本として、涼景は我が身を正してきたのである。
「燕将軍」
 と、犀遠は静かに呼びかけた。涼景の背筋がぴん、と張る。まるで、そこだけが宮廷であるかのような厳かな雰囲気が漂う。
「此度のこと、愚息たちが大変に世話になった。礼を言う」
 突然の犀遠の言葉に、涼景は恐れ入って首を垂れた。
「当然のことをしたまで。伯華様は、我が希望にございます」
 伯華様。
 その名が自然と己の口をついたことに、涼景自身が驚く。心の奥底に沈めている静かな忠誠が、途端に色鮮やかに浮かび上がる気がした。
 犀遠は目を細めた。
「陽のことは?」
「同様に」
 また、迷わずに言葉が浮かんでくる。
 犀星が人が変わったように夢中にすがる玲陽は、知り合っての時間は短くとも、守るべき人となっていた。
「そうか」
 ふっと頬を緩めた犀遠は、再び厳しい目になると、眼下の景色に向いた。どこか、物思いにふけるようである。
「将軍。そなたは、この世界に憎しみが尽きる時が来ると思うか?」
「……いいえ」
 涼景はわずかに目を閉じた。
「うむ。わしもそう思う。憎しみのないところに、愛もまたない。人の世とは、皮肉なものだ」
 涼景は、犀遠が言おうとしていることを感じ取ろうと、全神経を傾けた。
 犀遠が、ただの軍人ではなく、文武併せ持つ才人であることは、涼景も重々承知している。今、都を追われ、歌仙でひっそりと隠遁する彼の胸中を、涼景は慮った。やり残したことが、狂おしいほどにあるはずだった。玲心という一人の女性をきっかけに、彼は全てを失った。愛した玲心その人も、都での地位も権力も、それによって叶えられたはずの数多の理想も、全てが泡のように儚く散った。犀遠の恨み言を聞いたことはないが、その思いは想像するにあまりある。
 犀遠は、一呼吸つくと、静かに言った。
「そなたに頼みがある」
「なんなりと」
「愚息のことだ。あやつはおそらく、夢物語の理想を掲げて猛進するに違いない。そなたには、それを御してほしい」
 涼景は、ふっと口元を緩めた。
「十年前、伯華様が宮中へ上がられた時から、微力なれどこの身を賭す覚悟で、わたくしはおそばにおります」
「ありがたい」
「侶香様よりいただいたこの命、都に上がれぬその口惜しさを、我が身をしてお使いください」
 歌仙事変。
 それは十年以上前。いまだ、犀星が都に上がる前の出来事だった。当時、涼景は名前が売れ始めたばかりの若き猛者で、周囲からの圧力も相当なものであった。そんな彼に持ち込まれた難題が、歌仙事変の収拾である。
 南方部族の侵略が歌仙を脅かしたこのできごとは、戦地こそ犀家の領内には及ばなかったが、当時、一帯の人々に眠れぬ夜をもたらした。涼景はその戦において、地元の義勇軍として参加した犀遠と共に戦陣に立った。そのとき、何度もこの老将軍に命を救われたことを、決して忘れはしない。
 犀遠は恩着せがましいことを言う男ではなかった。とうに、そんなことは時効だ、と、笑い飛ばしている。しかし、涼景の意思は固い。
 お役に立ちたい。
 一途な涼景の思いは、こうして、犀遠に対する礼と、犀星への献身によっても明らかだ。
 と、犀遠が唐突につぶやいた。
「……可愛い子だ」
 驚いて、涼景が顔を上げる。自分のことを言ったのか? と、彼はわずかに理解が遅れた。涼景が生まれた頃から、犀遠は彼を知っている。だからと言って、そのようなことを言われた試しはなかったように思う。
 目を見開いた涼景に、犀遠は小さく頷いた。口調が崩れる。
「わしはな、涼景。おまえが幼い頃、おまえの父、広播こうはんに手を引かれ、ここへ来た日をよく覚えているのだ」
「そのようなことが、ございましたか」
 涼景は気恥ずかしさを感じながら、誤魔化すように微かに笑った。
「記憶になくても仕方があるまい。あの頃、おまえはまだ、六つになるかならないか……利発そうな目をした、不思議と人を惹きつける優しい子だった」
 懐かしむように、犀遠は微笑した。
「あの日、星と陽は、一歳になったばかりでな。私や芳にしがみついて離れなかった甘えん坊たちだ。お前も、都から一時、燕家に戻り、その時間を惜しむように、両親のそばにいた」
「おはずかしゅうございます」
 涼景が、がらにもなくはにかむ。犀遠は嬉しげに笑って、
​「何の。子とはそのようなものであり、親はそこに喜びを見るものだ。お前の父は、わしの友であった。世が世なら、力を合わせて国を動かしたことだろう」
 十分に孝行もできぬまま世を去った父を思い、涼景は唇を噛んだ。
 涼景の父、燕涼珥りょうじ、字を広範。彼は涼景とは違い、生粋の文官だった。早くに退官して歌仙に戻り、儒学者として名を高めながら、病弱だった母と共に時を過ごすことを選んだ父であった。そのような厳格な燕涼珥の存在は、今も涼景に大きな影響を与えている。
 そんな父が、犀遠と深い親交を持っていたことは知っていたが、自分が幼い日にこの屋敷を訪れていた、という話は初耳であった。
「あの時、わしは運命の導きを見たように思うのだ」
 犀遠はゆっくりと語った。
「庭先に、広範とおまえ、芳と陽、わしと星。秋の穏やかな午後であった。お前は庭の曼珠沙華を物珍しそうに覗き込んでいた」
 涼景は照れ臭そうに俯いた。その様子は、犀遠の目にはまるで我が子のように愛しく映った。
「お前が、花の名前を尋ねて、振り返った時だ。何を思ったか、星が初めて、自分で歩いたのだ。わしから離れようともしない内気なあいつがな。そして、それを追うように、陽も立ち上がった。わしたちは嬉しいやら驚くやらで、ふたりに喝采を送ったものだ。星は初めて会うお前の方へ、転びながら歩いて行った。そして、お前の着物を掴んで、花を指差した。星は名前など知らぬ。だが、お前に何かを教えようとしたのだろう。陽も、お前にたどり着くと、じっと顔を見つめていた。お前は子供ながらに、幼児の歩みのおぼつかなさを案じたのだろう。しっかりと彼らの手をとってくれた」
 涼景は犀遠の物語を、不思議な気持ちで聞いていた。両親と別れて暮らし、また、早くに亡くした涼景には、そんな思い出を話してくれる人はいなかった。
「まさか……それがわたくしたちの出会いであったとは……」
 涼景は、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「おまえと、そんな話をする間もなく、広範は逝ってしまったからなぁ」
 記憶にない、犀家での出来事に、涼景は胸が震えた。おそらく、ほんの一瞬訪れた、平穏な光景であったことだろう。
 都で犀星と、あの砦で玲陽と、初めて会った訳ではなかった。自分達は遠い日に、誰も覚えていない過去の一点で、自分達を愛する人々に見守られながら、出会っていたのだ。
 これを、運命というのなら、自分達の人生がいかなるものになろうとも、受けて立つ覚悟を持たねばならぬ。

 犀遠はしっかりと、涼景に向き直った。
「今でも、曼珠沙華は好きか?」
「はい。伯華様もお好きです」
「そうか、よかった。この家の庭には、必ずあの花を植えるのだ。わしがいる限り……」
 涼景はふと、寂しさを感じて膝を握る手に力を込めた。父と母を亡くした心細さが、不意に蘇る。都には信頼できる師も友もいたが、それでも心の置き場所がわからず、常に寂しさが影のようにつきまとったことを覚えている。
「涼景」
 ふわりと空気が揺れ、気がつけば、犀遠が目の前に、膝をついていた。涼景の右頬に手を添える。息を呑んで、涼景は目を上げた。犀遠の表情は優しかった。
「可哀想に。この傷は、さぞ、痛んだであろう」
 涼景の右頬には、刀傷とは違う、裂傷がある。十文字のその傷は深く、明らかに戦ではなく拷問の類でつけられたものだ。
 涼景は目元に救いを求めるような悲哀を浮かべた。それは彼が決して犀星たちには見せない弱みであった。
 犀遠は、父のように優しく涼景の肩を抱いた。
​「おまえたち三人は、この時代に必要とされ、選ばれたのだ。そして巡り合った。その出自も立場も違えども、志は重なるはず。歴史を創れ」
 歴史を、創る?
 涼景はじっと犀遠を見つめ続けた。まるで、問いかけるようなその瞳に、犀遠は力強く微笑んだ。
「おまえたちは曼珠沙華と同じだ。三者三様に美しい。どの花も、みな……大切な……」
 犀遠は声を詰まらせた。
「侶香様?」
​「いずれ、わかる時が来る。その時、おまえが誰かを恨みたいのなら、わしを恨め。全ては、わしがしんを愛したことが、過ちであったのだ」
 誰かを想い慕うことを過ちと呼ぶ。それは、涼景にも他人事ではない。燕春の影がちらつく我が身もまた、その苦悶に焼かれる身である。
「侶香様」
 涼景は、父とも慕う犀遠に、誓った。
「わたくしが必ずや、どの花も生きられる時代を、お約束いたします」
​ その真っ直ぐに澄んだ瞳は、醜い世界を嫌になる程見てきた犀遠にさえ、一筋の希望のように思われた。
 時を同じくして、渦中の玲家の血を継ぐ三人の若者が、玲陽の部屋に集まっていた。
 玲凛は玲陽の牀に座り、眠り続けている兄をじっと見守った。犀星は、いつもは涼景が座っているあたりで炉の炭を調節したり、薬を合わせたり、甘草を粉にして香として焚いたり、など、瑣末な仕事に取り組んでいる。しかしその動きは緩慢で、どこか、心ここに在らず、という調子である。
 犀星はちらりと目を上げた。
 玲凛はじっと玲陽を見つめ、こちらには見向きもしない。
 その姿は儚げな少女そのもので、先ほど、自分を強く叱責し、激しさを見せた者と同一とは思われなかった。
 玲凛がどれほど玲陽を想っているか、その複雑な胸の内は、犀星に理解できるものではないだろう。だが、彼女が決して玲陽を見捨てないこと、そのために尽くすことなら、彼にも信じられる。
 正直なところ、犀星は自分以外の誰かが、病床の玲陽のそばにいることを好まない。それは玲陽を思ってというよりは、犀星の弱さがもたらす甘えに近かった。それを自覚しているからこそ、犀星は余計に自分が情けなく、同時に玲凛の言葉には何も言い返せなかった。
 東雨……
 犀星は涼景が追った東雨の様子が気がかりだった。
 彼は明るく闊達であるが、臆病な一面を持つ。特に荒事が苦手で、先ほどの門前での一例のように、いつも自分の後ろに隠れてしまう。玲凛のことも、怖くてたまらなかっただろう。
 そんな東雨が、自分を庇った。
 犀星には東雨が、出会った当時のまま、小さな子供のように思われる。だが、自分のために必死になった彼は、危なっかしいながら、確かに成長した強さを見せた。
 いつの間にか、大人になるんだな、と犀星は思った。
 東雨は犀星の侍童である。しかし、年が明ければ十八になる若者だ。もう、侍童という立場には身を置けなくなる。次の道を、歩まねばならないのだ。
 いつまでも一緒にいられるわけじゃない。
 犀星は心のどこかで、何かに焦りを感じているような気がしたが、それがなんであるかはわからなかった。玲陽を連れて、無事に都に戻ることができたら、東雨のことも真剣に考えなければならないだろう。
 チリチリと燃える香を継ぎ足しながら、犀星はぼんやりとそんなことを思った。
 無事に、か……
 玲陽の傷は、目に見えてよくなってきた。その回復力は、涼景も驚くほどだった。慢性的な栄養失調の中で怪我と向き合ってきたが、玲陽は一歩ずつ、着実にそれを乗り越えた。自分には見せない痛み、苦しみもあっただろうに、一度として泣き言を言うことはなかった。それが、玲陽の強さだ。誇らしくもあり、寂しくもあり、心配でもある。
 そんな玲陽に、犀星も涼景も、余計な負担をかけまいと、必要以上の詮索はしなかった。
 犀星は、今はもう見慣れた、玲陽の金色の髪と瞳についてさえ、この時になるまで、一度も問うことはなかった。
 気にならなかったわけではない。容貌の変化も、あの場所に閉じ込められていた真意も、どうしてあのような理不尽を受け入れねばならなかったのかも。
 しかし、玲陽が自分から語れる心境になるまでは、犀星はそっとしておくつもりであった。語ることはおろか、思い出すことも傷に触る。犀星は玲陽の心の安定を第一に考えていた。
 心が玲陽なのであれば、そして、それによって痛みを伴わないのであれば、髪の色や目の色など、どうでもよいと、犀星は思う。宮中において、外見の良し悪しを理由にいらぬ争いに巻き込まれたことは数知れない。時とともに移ろう容貌に惑わされ、道を踏み外した者たちがどれほどいたことか。犀星は顔貌を好まれることも多いが、それを褒められても喜ぶどころか、相手を避けるようになる始末である。
 職務上、着飾ることがあると、東雨などはあからさまに喜んだが、犀星自身は煩わしいだけだった。
 その証拠に、と、犀星は思う。
 陽は、そのままで美しいではないか。
 着るものが粗末でも、体に傷を受けていようとも、目や髪の色が変わろうとも、玲陽は変わらずに美しい。(と、犀星は思っている)
 そんなことを考えながら、玲陽の寝顔を見つめていた犀星は、玲凛がこちらを見ていることに、ずいぶん長く気づかなかった。
 玲凛の方も、犀星に声をかけるでもなく、そのどこか夢見るような不思議な表情を、じっと観察している。
 玲凛が犀星を見た最後は、もう、十年前のことになる。それも、幼い日の朧げな記憶だ。
 彼女にとって犀星の印象は、兄よりも少し体格のいい、強い少年だった。剛気で活動的、いつも兄と自分を引っ張っていく存在だった。子供心に、その蒼い目がきれいだ、と思った。
 しかし、そんな『星兄様』への憧れも、時と共に複雑に絡んでもつれてしまった。犀星がいなくなったことがきっかけで、何もかもが壊れたのだ、と、彼女は思っていた。
 犀星が歌仙を去ってから、大好きな玲陽は笑わなくなった。いつもどこか遠くを見て、風に向かって立っているような記憶がある。あの頃は漆黒をしていた玲陽の短い髪が、強い風に舞って乱れる横顔を、彼女は痛烈に記憶している。涙を見たわけではないが、あのとき、玲陽は泣いていたのだと、玲凛は思った。
 星兄様のせいだ。星兄様が、陽兄様を傷つけた。
 幼い玲凛は、素直にそう思い、犀星を恨んだ。
 まだ、兄たちの苦しい事情など何も知らないころだった。
 月日が流れ、玲陽は凛にとって、記憶の中の美しい姿のまま、憧れの存在へと変成していった。
 玲陽があの砦にいることを知った玲凛は、会いたい一心で方法を探した。そして、かつて犀星が見つけたあの抜け道を発見した。その時は、玲陽の逃亡を阻止するために埋められていたが、彼女は何年もかけて、その土砂を取り除き、少しずつ、道を開いた。そうやって、砦に侵入することができたとき、玲凛は十二歳になっていた。数日前に犀星が通ったあの通路は、玲凛が玲陽に会うために切り開いたものであった。
 しかし、玲陽との再会は、彼女をさらなる悲しみへと誘った。真夜中、やっとの思いで中に入った玲凛は、闇をつんざく悲鳴に、全身が総毛だった。何が起きているのか、彼女には理解できなかった。気配を殺して、震えながら奥へと進んだ彼女は、変わり果てた兄の姿に、一瞬、気が遠のいた。
 耳を塞ぎ、草むらの中にうずくまって、彼女は一夜を明かした。翌朝、玲凛は朝靄の中で玲陽の前に姿を見せた。
 彼女には想像もできない夜を過ごした玲陽が、ふらつきながら滝の水に打たれているとき、彼女はかける言葉もないまま、その着物にすがって泣いた。玲陽は再会を喜んだものの、苦しげな声で、二度とここへはこないように、と、彼女に告げた。そして、何か辛いことがあったら、犀家の犀遠を頼るように、と、小さな紙に叔父への手紙を書き、彼女に託した。
 玲家の仕打ちに絶望した玲凛は、その足で犀家へと走り、それから四年、この屋敷で暮らすことになる。
 玲凛から玲陽の現状を聞いた犀遠は、何度も玲家とかけあったが、それ以上、どうすることもできなかった。
 全て、星兄様が悪い。
 玲凛はそう、自分の非力さを犀星の責任に転嫁することで、兄を救えない自分の罪から逃れ続けた。それが間違った逃避であることは、十六になった彼女にはよくわかっている。しかしそれでも、苦しみに押しつぶされないために、玲凛は呪文のように犀星への恨みを唱え続けたのである。
「……本当に、何も、知らないの?」
 玲凛は、自分の視線にも気づかず、祈るように玲陽を見つめ続ける犀星に、話しかけた。
「!」
 一瞬遅れて、犀星は玲凛と視線を合わせた。
「陽兄様が、どうして、あんな目に合っていたのか。何があったのか、何も?」
 犀星は黙って頷いた。
「そう」
 玲凛は少し目を逸らして考えてから、今度はしっかりと犀星を見た。
「教えてあげる」
 犀星の目が、わずかに見開かれる。玲凛は気持ちを落ち着けるように、深呼吸をすると、静かに話し始めた。その声は、どこか玲陽に似ていて、犀星は奇妙な懐かしさを覚える。
「私も小さかったから、母上から聞いたことだけれど」
 話し声で玲陽の眠りを妨げないように、彼女は犀星に近づいて座り直した。
「星兄様がいなくなって、四九日が過ぎた頃、陽兄様の体に異変が起きたそうです。高熱が続き、日々、うなされて星兄様を呼び続けた。髪も目も、数日続いた高熱の間に、すっかり変わり果てて……まるで、生きる力を失ってしまったかのように」
 玲凛はちらり、と玲陽を振り返り、
「限界だったのでしょうね。陽兄様は、星兄様なしには生きられない……と、母上は言いました」
 私は認めないけどね。
 そんないじらしさを感じて、犀星は少し心が動いたが、微笑む気にはなれなかった。
「陽の姿が変わったのは、高熱の後遺症ということか?」
 低く、犀星は問うた。玲凛は首を横に振った。
「よくわからない」
「?」
「母上が言うには、だけど……」
 と、前置きしてから、
「兄様の発熱が何をきっかけにして起きたかはわからない。でも、その間に兄様に起きた変化は、外見だけじゃなかった。陽兄様の中で何かが『開いて』しまったの。たったひとりで、受け止めきれないような何かを……陽兄様は、全部、受け入れてしまった」
「…………」
 犀星が眉間にしわを寄せて、話に集中する。
「陽兄様は、新月の光になった」
「……なんだ、それは?」
 凛は、じっと犀星を見た。
「星兄様は知らないんだね。玲家は星兄様に冷たかったから、そういうこと、教えてもらってないんだ」
「新月の光?」
「そう」
 玲凛は表情を引き締めた。
「玲家に伝わる、力の伝承のひとつ。本家の血筋に、ごくたまに現れる、とても力の強い人のことよ。その人の力は月の満ち欠けと関係があって、新月の夜に、もっとも強くなる。そして、その体は、ぼんやりと輝くと言うわ」
 犀星は聞き逃すまいと、玲凛の唇を見つめていた。
「つまり、陽に玲家の力が目覚めたってことか? 髪や目も、そのせいで色が変わったと?」
「たぶん」
 玲凛は続けた。
「その力っていうのは、少し厄介で…… 私も詳しいことはわからないけれど、それが目覚めた者は、同時に大きな代償も背負うって言われてる」
 犀星の表情がさらに厳しくなる。
「その力はね、この世に取り残された、怨念とか、憎しみとか、悲しみとか。たくさんの人たちの『情』を、自分の体に取り込んで、綺麗にする力。一見、良いことみたいに聞こえるでしょ。確かに、それで救われたりする人もたくさんいる。だから、玲家は新月の光を大切にする。自分たちの身に起きる災を、取り払ってくれるから」
「では、代償、とは?」
「それは、力を持った人の身に起きる。悪いものを体に取り入れて、それを浄化する、簡単に言うけれど、それ、ものすごく苦しいことなんだって。私も聞いた話だからわからないけれど。誰かを助けるために、自分が苦しみ続けるしかない。それが、力を持ってしまった人の運命」
 冷水を浴びせられるとはこのことか、と、犀星は唇を噛んだ。
 よりによって、どうして玲陽なのだ?
 あの、誰にでも情を寄せ、献身的に尽くす人がそんな力を持ってしまったら…… 恐ろしい想像が、犀星の上にのしかかる。
 死ぬまで終わらない。
 犀星は手が冷えていく感覚を覚えた。
「では、陽はあの砦で……」
「そう」
 玲凛は無意識に視線を彷徨わせ、自分の肩を抱いた。
「あの砦は、玲家の聖地への入り口。あそこを守って、玲家にとってよくないものを浄化し続けるために、陽兄様は閉じ込められていた。博は、悪いものに取り憑かれた人たちを、陽兄様のところに連れて行って…… 陽兄様は、悪いものを自分に移し替えて、苦しみながら浄化していた。星兄様もあそこへ行ったなら、滝があったのを、覚えている? あの滝の水が湧き出している崖の上、そこが玲家の聖地なんだって。あの水は、陽兄様の浄化を助けてくれていた……」
 犀星は、玲陽と再会した時のことを思い出した。
「それで、陽は水を浴びていたのか」
「ええ」
 凛はしばらく黙り込んで、それから、より一層声を低めた。
「陽兄様があそこを離れたら、何が起きるかわからない」
「……どういう意味だ? 陽があの砦に行く前、あそこには誰もいなかったはずだ。それでも、特に何も問題は起きなかった。あの頃に戻るだけではないのか?」
「そう思いたい。何もなければそれが一番いい。でもね…… 陽兄様が力を持った頃から、悪いものの数が増えたり、力が強くなったりってことが起こり始めた。だから、昔とは状況が違う」
「放置すると、どうなる?」
 犀星は胸の震えを抑えて言った。玲凛は考えながら、
「確かなことはわからないよ。でも、母上が話してくれたことだと、たくさんの人が死ぬ、って」
「え?」
「悪いもの、って言ってたけど、正確には、傀儡っていうの。恨みを抱いて死んだり、悲しい状況で殺されたりした人の魂のこと。それは、無関係の生きている人に取りついて、その人を操ってしまう。まるで、人形を操るように」
「それで、傀儡、か」
「そう。操られた人は、傀儡が残した思いを晴らすために行動する。誰かを恨んでいたら復讐するし、悲しい気持ちの傀儡なら、自分で自分を傷つけたりもする。とにかく、ろくなことしないのよ。知らない人が見たら、きっと、頭がおかしくなったように見えるでしょうね」
「…………」
「もし、そこらじゅうに傀儡が溢れて、たくさんの人が取り憑かれたらどうなるか……」
「…………」
「陽兄様には、そうなることがわかっていたんだと思う。だから、きっと、私や母上がいなくても、浄化を続けたと思うんだ。陽兄様は、そういう人でしょう?」
 そう言って、犀星を見つめた玲凛の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ」
 掠れた声で、犀星は答えた。
「だが、ひとつ、わからない」
 犀星は慎重に言葉を選んだ。
「その傀儡ってやつを、取り憑かれた人間から抜き取って自分に移し替える、それはわかった。浄化をするために自分の力を使い、滝の水を利用する、それもわかった」
「うん」
「ならば、なぜ……」
 犀星はしばらく黙ってから、静かに、
「陽の体を犯す必要がある?」
 玲凛の目尻が、ぴくりと痙攣する。どこか怯えたように、玲凛は声を震わせた。
「……傀儡に取り憑かれたら、恨みとか憎しみとか、わけがわからなくなっちゃう。ほとんどは暴れたりする。無理に移し替えようとすれば、抵抗される。傀儡だって、浄化されて消されるなんて嫌だもの。だから、陽兄様に暴力を振るうのが当たり前。博は仲間を連れて、そんな暴れる人たちを押さえつける役割だったの。その間に、陽兄様が移し替えを行えるように。でも、傀儡に取り憑かれた人の力ってすごくて、とても危ない。時には、殺されることもある。だから……博はそんな仕事をする見返りとして……!」
 犀星を見ずに話していた玲凛は、殺気を感じて顔を上げ、身震いした。そしてすぐにまた、顔を背ける。
 犀星の顔を、彼女は直視できなかった。
「それで」
 と、犀星の声。玲凛は射すくめられたように、動けなかった。
「それで、見返りに? 腹いせに?」
「…………」
「……っ!」
 思わず、玲凛は目を強くつむって、首を縮めた。
 ちょうどその時、部屋の前の回廊に、東雨が立ってた。彼は部屋の中から聞こえた突然の犀星の声に、軽く飛び上がった。
 にわかには信じられなかった。この十年間、どんな時も、犀星は大声をあげることなどなかった。腹が立つことは多かっただろうが、一度とて、感情のままに叫ぶことはなかった。
 東雨はその剣幕を想像して、引き戸に手をかけたまま、動けずにいた。扉を開けることが怖かった。
 若様……
 東雨は全てを忘れて、何かを必死に祈った。
 胸が痛い。本当に、裂かれてしまいそうなほど、悲痛な犀星の叫びに、東雨は両手で耳をふさいでうずくまった。その姿はかつて、玲陽の悲劇を知った玲凛のようだった。

 部屋の空気はぬるく、香の匂いは濃く、くらくらと酔う。
 犀星の声の残響が消えていく。玲陽は、わずかに目を開いた。犀星たちの話の途中から、彼は目覚めていた。だが、今は何も言いたくなかった。こうなることが、犀星を傷つけることがわかっていたから、玲陽はずっと沈黙を通していた……
 玲陽の体は何かに耐えて、震えていた。
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蔵屋
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 私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。 この方たちのお名前は 大本開祖•出口なお(でぐちなお)、 神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。  この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。  昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。 その書物を纏めた書類です。  この書類は神国日本の未来の預言書なのだ。 私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。  日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。 殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。 本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。 日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。 そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。 なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。 縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。 日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。 この小説は真実の物語です。 「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」 どうぞ、お楽しみ下さい。 『神知りて 人の幸せ 祈るのみ 神の伝えし 愛善の道』

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