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第一章・街の中へ

皿洗いと豆天国

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翌日、まず案内されたのは洗濯場だった。

アルトは僕の体調を気づかってくれた。
一日休んでもいいと言ってくれた。
だが、一晩寝たのだ。
もう、しびれからは完全に回復していた。
なので僕は、さっそく仕事を始めることにしたのだった。

「体調を気づかってもらってすいません」
「なに、もともと俺がやったことだからな」
「いや、でも、アルト隊長に体調を気づかってもらうのは申し訳なくて……」
「兵士たちの体調を把握して管理するのも隊長の仕事だからな。いつもやっていることだ」
「しかし隊長に体調を気にしてもらうなんて……」
「気にするな」
「そうですか。隊長に体調を……」

そんなことを話ながら洗濯場へ向かう。
そこには衛兵たちの着替えが集められていた。
山のようだった。
ざっと見ただけでもかなりの量だ。
どうやら奥にも積まれているらしい。

「ここが洗濯場。思ったよりも洗うものが多いだろ? 兵士たち全員のぶんが集まっているからな」
「おおー、人数いっぱいいるんですねー」

ここまで案内すると、アルトは仕事へ戻っていった。
隊長ともなると忙しいらしい。

僕は着替えの山を見つめた。
毎日これを洗うのだという。
なかなか大変な作業のようだ。

とはいえ、手作業で洗うわけではない。
この世界にも、洗濯機のようなものはあった。

四角い木製のコンテナ。
使い古されて、へこみや傷が目立つ。
それがゴトゴトと音をたてながらゆれている。

――おお、洗濯機だ。

見ただけですぐにわかった。
そういう雰囲気の動きと音。
コンテナからは振動も伝わってくる。

動力がなんなのかはわからない。
たぶん、魔法なんだろう。
とにかく洗濯物をそこに放りこんでいけばいいのだ。

もちろん、洗濯はそれで終わりではない。
洗ったあとが僕の出番だ。
大量の洗濯物を、ひとつずつ干していく。
これは、手作業でやるしかない。

量が多いので、時間はかかる。
実際にやってみると、思ったよりも重労働だ。
全部干すと、それだけで、汗だくになっている。

――ようやく終わった。

ふう、と息を吐いて、腕で額をぬぐう。
かいた汗で、べったり濡れてしまう。

だが、これはきついだけの作業ではない。
僕は手をとめて、今日の成果を確認する。

きれいに並んだ物干し竿。
ぶら下がる白い大量の洗濯物。
青空を背景に、風に揺れている。
それを眺めるのは、とても気分のいいものだった。

しばらくそうしていた。
そして、アルトに言われたことを思い出す。

「洗濯が終わったら、後は建物の清掃と皿洗いだな」

そういう話だった。
宿舎の構造と、仕事の内容。
それを事前に説明してくれていたのだ。
洗濯場までの廊下を歩きながら。

アルトについて歩く。
すると、皆、道をあけて挨拶をしてくる。

これは不思議な気分だった。
僕が偉くなったわけではない。
けれど、ちょっとそんな気持ちになってしまう。

ここで油断して、あとで怒られてはかなわない。
とりあえず、僕も挨拶を返しておいた。
兵士たちは、僕の顔を見て不思議そうにする。
しかし、特に何も言わずに通り過ぎていった。

午前中のうちに、洗濯物を干してしまう。
昼からは食堂の皿洗いだ。

そう、宿舎には食堂がある。
そして、ここの洗い物が、また多いらしい。
ただし、食堂は昼までしかやっていない。
なので、皿洗いも昼だけ。

洗濯と皿洗い。
このふたつは、ある程度、作業の時間が決まっている。
それに、毎日こなさなければならない。

これが終われば、あとは余裕ができる。
その余った時間で、建物の清掃をする。
僕の仕事はそういう予定になっていた。
わりと考えられた作業の配分だと思う。

――さあ、次は皿洗いか。

洗濯が終わり、僕は食堂の調理場へ向かった。

「よろしくお願いします」

と頭を下げた相手は、アンネ・ルサージュさん。
この食堂をひとりで取り仕切っているひとだ。
30歳くらいの落ち着いた雰囲気の女性だった。

大きな緑のエプロンをつけている。
中に着ているのは、柔らかそうな長袖のシャツ。
それを腕まくりしている。
髪はアップにして、首すじがのぞいていた。

体型は、痩せてもいないし太ってもいないようだ。
そもそもからだのラインはほとんどわからない。
大きなエプロンのせいだ。

顔は薄く化粧をしているだけ。
女性らしさのアピール。
それはほとんど感じられない。

だが、なんだか見とれてしまう。
そこにあるのは落ち着いた、大人の魅力。
奥さんにしたくなるタイプだ。

「うん?」というふうに首をかしげられた。
その目はつねに笑っているように細められている。
優しそうな雰囲気の女性だった。

「ねえねえ」

と僕を見て含み笑いをしている。

「あなた、豆が好物なんだって?」

舌足らずなしゃべりかた。
それが、ちょっと意外で、かわいらしかった。

「……ん、豆? あっ、それは違うんですよ」
「うふふ。有名よ。タバネロの実をまるごと食べるんだって? すごいわねー」
「いや、その……」
「うふふ。見てみたいわー」

このあいだのことが広まっているらしい。
しかも、勘違いをされている。

――そういえば、すれ違ったときの兵士たちの顔……。

思い出してみると、奇妙な生き物を見るような顔だった。
でも、僕は豆が好物なわけではない。
知らずに食べただけだ。
あんなに辛いと知っていたら、食べるわけがない。

――どう説明しようかな。

考えて、しかしすぐには言葉がでてこない。
すると、すっとアンネさんが距離を詰めてきた。
指に摘まんだものを、僕の口に近づける。

「はい。あーん。口を開けて」
「はっ、これは……豆」
「そう。タバネロの実。好きなんでしょ?」
「いや、そうではなくてですね」
「新鮮だからきっと美味しいわよー」

僕はちょっと焦っていた。
また倒れるかもしれない。
痙攣するかもしれない。
あの恐ろしい辛さの豆。
緑色の豆が、僕の口元に差し出されている。

「好物だって聞いたわよー?」

――違うのに……。

どうやら逃げられないようだった。
アンネさんの圧力が、すごい。
ただ笑っているだけなのに、従わざるを得ない。
そんな雰囲気だった。
指が迫っている。

――勘弁してください。

最後の想いをこめて、アンネさんを見つめた。

「どうかしたの?」
「それがその……」
「えー、もしかして食べないの? 豆が好物だって聞いたから、楽しみにしてたのに」
「あの、それはですね……」
「私、見たかったな。残念だなー」

と可愛らしく口をとがらせている。
もう食べないわけにはいかないようだ。

「あのー、はい……食べます……。食べます! そうそう、やっぱり豆は最高ですよね。美味しそうだなー。ちょうどこれが食べたかったんだなー。いやあ、楽しみだなー」

と観念して、僕は口を開いた。
そっと豆が入れられる。
微かにアンネさんの指が触れる。
そして、離れていった。

――この、味は……。

口の中の豆を噛み締める。
シャキシャキとした歯応え。
みずみずしい、新鮮な豆の香りが広がる。
ほんのり控えめな、野菜の甘さ。

「うふふ。ね、美味しいでしょ」

とアンネさんが片目をつぶっていた。

――辛くない……。

普通の、いや、むしろおいしい豆だった。

「心配しなくても、タバネロの実なんて食べさせないわよ。あんなの食べられるわけないんだし、倒れてもらったらこまるし。これはタバネロの実じゃなくて、サラダ用の豆よ」
「あっ、わかってたんですか」
「当たり前でしょー。タバネロが好物のひとなんているわけないじゃない」
「はい、そうなんですよ……」
「だから、ちょっとからかっただけよ。うふふ、必死な顔しちゃって、からかいがいのある子ね」

からかっただけ。
そう、年上のお姉さんに、僕はからかわれたのだ。
全身に衝撃が走った。

1500年、サファイアをからかうだけだった。
その僕が、いま、弄ばれている。
不思議な気分だった。

――これは、いい。

甘い痺れのような感覚。
それが、僕のからだを駆け巡っていた。

「お姉さんのお豆おいしいです」

その台詞を思いついたのは、しばらくたってからだった。
もちろん、言わなかった。
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