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第一章・街の中へ

女神さまがやってくる・その2~草食女神~

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「これはマズいですね……」

サファイアが突き落とされた斜面。
その周囲はイノシシの縄張りのようだった。
いまもウロウロと移動する影を見つけることができる。

何度も斜面を上がろうとした。
たが、そのたびに突き落とされている。
死ぬことはないが、服はボロボロだ。

なぜそんなに突き落としたいのか。
なぜ執拗に自分を狙うのか。
これはイノシシの習性なのか。

イノシシたちはときおり斜面をのぞきこんでいる。
サファイアを嘲笑っているかのようだ。

――くっ、私は女神なのに。イノシシなんかに馬鹿にされて……悔しいッ!

そう思いながら、サファイアは草を食べた。
お腹が空いて、食べるものはない。
だから、草を食べているのだ。
意外と草はおいしかった。

――この子、このからだの持ち主は、もともと貴族だったのに。いまでは草を食べているなんて……。

自分が転生してくる前の出来事。
このからだの持ち主の記憶。
それが、まだぼんやりと残っている。

この少女は貴族の娘。
お家騒動に巻き込まれ、殺されかけた。
戦う力はなかったが、隙をついて逃げだした。
そして、山で遭難した。
死にかけていた。
というよりほとんど死んでいた。
そこへサファイアの魂が転生してきたというわけだ。

――転生先はできる限り弱っていないといけませんからね。からだを乗っとるようなものですし。

サファイアは転生の女神だ。
その仕組みも多少知っている。
転生先には抵抗の少ない弱いからだが選ばれる。
今回のように死にかけているもの。
あるいは赤ん坊だ。

――そうだ、この子はお兄ちゃんを追いかけていたんでした。

薬を嗅がされ、意識のないまま川に投げ込まれた兄。
生きているか死んでいるかもわからない。
だがそれを頼って、少女は家を飛び出した。
ほかに頼るものがなかったのだ。

――もしお兄さんが生きていたとしたら。

サファイアの直感は、生きている、と告げていた。
だとしたら、転生先にもってこいだ。
兄は相当痛めつけられて、しかも川に流されたのだ。
確実に弱っていたはずだ。

――可能性は充分にありますね!

あの馬鹿の転生先。
それはこの少女の兄。
レオニード・ティレスタムなのかもしれない。

サファイアは妹に、あの馬鹿は兄に。
ふたりは同時に転生した。
だから、転生先が近くても不思議ではない。

そうなると話は簡単だ。
騙す必要も、言いくるめる必要もない。
ただ妹だと言って近づけばいい。
自分がサファイアだということを隠すだけでいい。
それだけで、きっと助けてくれる。
なぜなら、妹なのだから。

――この世界から抜けだす道筋が、見えてきました!

ニヤリ、とサファイアは笑う。
あの馬鹿を利用して、精霊を集める。
それもうまくいきそうな気がした。

地面に手を伸ばす。
生えている草を千切り、口に含んだ。

――この草、マジでおいしい。繊維質でありながら、シャキシャキとした歯応え。口の中に広がる野性味溢れる草の香り。僅かなエグみもアクセントになっていますね。とはいえ……草です。

草の生えた斜面から突き落とされて数日。
草しか食べるものはなかった。
草ばかりの生活。
草むらのなかで、草に関わるスキルを手に入れていた。
草食スキル。
草を食べることができるようになる。
草食動物にはかかせないスキルだ。

――草草草草草……!

しかしスキルがあったとしても、さすがにもう限界に近い。

――はやくここから抜け出さないと。

あの馬鹿を探す。
あるいは精霊を集める。
どちらにしろ、まずはこの斜面を越えなければならない。

――草はもうたくさんです! 「くさ」だけに!

サファイアは斜面をかけ上がる。
土で汚れるのも構わない。
両手をついて、力強く、疾走する。
それはまるで一匹の獣。
追いつめられたことで――。
希望を見つけたことで――。
サファイアは野生の動物に近い力を発揮したのだった。

「ぎゃん!」

そして、突き落とされたのだった。
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