カンナ

Gardenia

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第三章

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結局3日後に元のホテルに戻ったカンナは、取材を何件か受けあとは弁護士とスタッフに任せて従来の仕事に没頭した。

数字を追い事業の流れが正常であるかスタッフと共に確認し、修正が必要なら話し合って指示を出す。本当に無駄な部門があれば縮小し、伸びている部門を拡大する。
実際の指揮は各子会社の社長が執るのでカンナはまとめ役として会議の場に居ればいいだけではあるが、他のIT企業と同じように若い経営陣であるのでカンナのような年長者が居れば落ち着きが出ると思ってこなしていた。
他社を吸収合併している時期なのでカンナはまだ自分が同席する必要があると思っている。
事件が起きた当初は売り上げに響かないかと心配していたが、それほど影響も受けずに乗り切れそうだった。
人の噂も75日と言うが、カンナの周りが落ち着いたのは事件から漸く3か月が経つ頃だった。


その日、午後から弁護士と事件のことで打ち合わせを終えたカンナは、以前田所が教えてくれた伊集院のBarにふらりと立ち寄ってみた。

地下にあるそのBarの重い扉の横に、まだ夕暮れだというのにOPENの文字が見えた。
重い扉を押すと薄暗い空間が広がる。
一歩進むとまるで外界を遮断するかのような静けさがカンナの周りをじわじわと包んだ。

「いらっしゃいませ」
伊集院 吾郎がカンナに気が付いて身振りでカウンターに誘った。
「こんな早い時間にもう開いているのね」
彼の置いたコースターの前に座ったカンナに、
「退社直後に立ち寄って下さる方もいるもので・・・」と伊集院は答えた。

「お待ち合わせですか?」
「いえ、一人です」

薄い水割りを頼んだカンナはその注文を作り始めた伊集院にようやく挨拶をした。
「ご無沙汰しております」
「どうですか、落ち着かれましたか?」
「漸く・・・でしょうか」

カンナが水割りを飲み始めると伊集院は作業に忙しく、カンナを放っておいてくれた。

ホテルの部屋で飲むのも飽きたし、気分展開を兼ねて外出して近所を散策するうちにこのBarの前を通りかかったのだ。

水割りのグラスを片手にカンナは今後の生活の拠点をどこにしようか考えていた。
東京の自宅は元旦那と暮らしていた家でもある。そのことが気になるが、都内であれほどの条件の家を探し引っ越しするのは今更面倒でもある。
田舎に建築中の家が完成するのははやくても1年半後、家具を入れたり本格的に住み始めるのは2年後くらいになるだろう。
あと2年くらいだったらあの家で辛抱したほうがいいのかもしれない。
そこまで考えて、自分がいかに贅沢が身についてしまったのかと軽く自己嫌悪したカンナである。
電車を利用することは少ないが最寄り駅も近く、新幹線の駅も近い。山手線の内側で繁華街からはタクシーで1000円少々で帰ることのできる一戸建ての家となると世間では憧れの地と言えるだろう。
成り上がりの身としては、上昇志向は肯定するがその上に胡坐をかくのは嫌だった。


「おかわりはいかがですか?」
伊集院の声に水割りのグラスが空になっていることに気が付いた。
「もう一杯同じものを。先ほどのより少し濃くしてください」
「わかりました。一緒に何か召し上がりますか?」
「そうですね、軽いものをいただけますか?
それから、そんなに丁寧な言葉でなくて普通でお願いします」
それに軽く笑いながら「畏まりました」と伊集院が返した。

伊集院が用意したローストビーフ乗せサラダを食べ終わって、2杯目の水割りも終わる頃、「田所を呼びますか?」と伊集院が聞いてきた。
「いえ、呼ばなくてもいいですよ。ひとりでも飲めますって」
そう言ったカンナに、「知らせないと後で僕が叱られそうだ」と伊集院が笑う。
「叱られておいてくださいな。私はちっとも構わないから」
それを聞いた伊集院は驚い顔をしてから、声を出して笑った。

ほぼ同時にカンナの携帯が震えた。
『仕事終わりましたか?今、何処にいますか?』と田所からの短いメッセージを読み終えると、返事を送って「来るそうよ」とカンナは肩を竦めて伊集院を見た。

「次はモルトにしようかな」
「赤ワインの手頃なのがあるのですが・・・」
「じゃ、ワインにしようかな」

伊集院がワインのボトルを手慣れた様子で開けるのをカンナは黙ってみていた。
大きなワイングラスに注がれた少量のワインは、濁りのない明るいローズピンク色だ。
気に入ったという合図に軽く頷いてワイングラスを差し出すと、伊集院がたっぷりと注いでくれる。
店内は仕事帰りらしいお客が1人、2人と入ってきて、1~2杯飲むと手早くお会計をして出ていくようだ。
長居をするわけでなく、大きな声で話すわけでもなく、皆一様に静かに飲んで出ていく。
これから帰宅を急ぐのかそれとも本格的に飲みに行くのか、とりあえずここで仕事とプライベートの切り替えをするのだろう。
店は思ったより繁盛しているようだ。


カンナが最初のグラスを飲み干す頃、田所が到着した。
隣に座り、同じものをという合図にワインボトルに指を向けた。
田所のワイングラスに注がれるのを待ち、お疲れ様と言い合って一口飲む。

「どうしたんです?珍しいですね」と田所が口火を切った。
「散歩してたらここの前を通りかかったので・・・」
「もう大丈夫だとは思うけど、あまり油断しないようにね」
あの襲撃の後、一人で外出するカンナを気遣っているのがわかるので、
「ええ、こういうことは滅多にないし、一応周りは見てるつもりよ」と答えた。

しばらくの間無言でワインを飲んでいたが、前置きもなくカンナが話し始めた。
「そろそろ自宅に戻る」
「そうか。時期は?」
「来週くらい?いえ、今週末かな」
「わかった。月曜日からは家に連絡するように皆に伝えておくよ」
「よろしく」


「お腹空いたわ」
「何か食べにいくか?」
「和食がいい」
カンナがそう言うと、田所は電話予約のために外に出て行った。
その隙にカンナが伊集院を呼んでお会計をする。

「あいつに払わせればいいのに」と伊集院が言ったが、
「ここは私は仕切る場面でしょ。それに夕食はご馳走してもらうつもりよ?」と
カンナが言って払ってしまった。

「30分後に来てくれって」と戻ってきた田所が言った。
「じゃ、これ飲んでしまえるわね」と嬉しそうにカンナがワインを飲む。

「葉山以来ね、ゆっくりとお酒飲めるって」
カンナがほんとうに嬉しそうに言うと、「部屋でも飲んでただろうに」と田所が茶化す。

「それはそうなんだけど、狭い部屋で独りで飲んでもそれほどお酒の味ってしないのよ」
「もうあっちの件は大丈夫だ。監視もつけてあるし。
ただ、パパラッチに気を付けないといけない。充分に有名人になったからね」
「エサになるつもりは毛頭ないわよ」
「こっちにそのつもりがなくても、あっちは飯の種だから」
「善処します」
「それしかないだろうね」と田所はカンナを見て言った。

もう一口ワインを飲み下すとカンナは、「こういう私にコメンテーターだとか、講演依頼が来てるんだけど・・・」と小さな声で言った。
「請けるのか?」
「テレビのは断るつもりだけど、女性向けのセミナーは考え中」
「契約書にサインする前に見せてくれよ?」
「もちろんですよ、センセ」と言って、カンナはくすくす笑った。

その後、カウンター割烹で旬の食材を楽しんだ後、タクシーでホテルに戻ると田所はカンナだけを降ろして帰って行った。



その週の土曜日、軽くブランチを食べた後でカンナは自宅に帰った。
留守役にも知らせてなかったので自分で鍵を開けて入る。
特別な予定がなければ土曜と日曜は休みをとらせているので家には誰も居なかった。
セキュリティパネルに暗証番号を急いで入力し、静かな家をリビングから順番に確認していく。
書斎に在るPCを立ち上げ家に居るのがカンナだというコードを打ち込み、長期不在を解除した。

家の中はどの部屋も綺麗に保たれ空気の澱みはなかった。
留守番役が掃除と換気を怠っていない証拠だ。
冷蔵庫の中はさすがに生鮮食料品がなかったが、冷凍室には整然と調理済みのものが詰まっていた。
缶詰もある。飲み物もたっぷりあるので、2~3日くらい生野菜を食べなくてもなんとかなる。
そう思ったカンナはその日と翌日は仕事のことは考えずに過ごそうと決めた。

さっそく着替えてキッチンで紅茶を淹れる。
テレビの前のソファーに足を投げ出して座るとドラマでも観ようと録画しているリストを探した。

テレビを観ながらいつの間にか眠ってしまったらしい。
携帯のメール受信音に目が覚めた。

琢磨からのメッセージだった。
『元気にしているのか?』
そういえば数日前にも同じような文面で届いていたはずだが、急ぐ用件ではないので返信をしてなかったのだ。
何か送らなくてはと思いながらすっかり失念していた。
返事が来ないので焦れて催促してきたのだろう。
怒っている琢磨を想像すると可笑しくなった。
土曜日で自宅に居るかもしれないけど、メール送ってくるくらいだから大丈夫だろうと電話をかけてみた。

「こんにちは」
「おう」
「カンナです。今お話しして大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
「テキスト戴いていたのにお返事しなくてごめんなさい」
「・・・・・」
「忘れていたわけではないのだけど、ちょっと忙しくしていて・・・」
「つまり、あれだな。忘れてたってことだな」
「いや、そういうわけではないのですが・・」
予想通りの琢磨の反応にカンナは思わずクスリと声を漏らしてしまった。

「おまえ・・・笑ってるのか?そんな余所行きの言葉遣いで反省しているように見せかけて、笑ってるんだな」
そんな琢磨をカンナは更に面白く感じて笑いが止まらなくなった。

しばらくカンナの笑い声を聞いていた琢磨は、
「ま、元気そうだな」と諦めたようにつぶやいた。
「うん、元気だよ」
「足は?」
「とっくに治ってる。全然痛まないよ」
「まだホテルに缶詰めなのか?」
「それがね、今日自宅に帰ってきた」
「ん?こっちに帰ってきてるのか?」
「あ、違う、東京の自宅に。ホテルを引き払って帰ってきたの」
「それはそれは、やっとだな」
「事前に知らせるとだめなので誰にも言わずに戻ってきたのよ」
「マスコミ対策か?」
「うん。用心するに越したことはないから」
「どうだ、家は落ち着くだろう?」
「ほっとしてる。今日と明日は家から一歩も出ずにぼけーっとしようかと思って」
「それがいいぞ。まぁぼぉっとしたおまえは想像できんがな」
「まっ、私だってぼーっとできますよ」

そんな他愛のない会話をしばらく続けてから
「こっちにはいつごろ帰って来る?現場見たいだろう」と琢磨が聞いた。
「それがね、今週になって一山超えたという気はするんだけど、まだ先が見えないのよ。あと少ししたら時間も空くと思うんだけど」
「そっか」
「日帰りとかだったらできそうだけど、それだと疲れるから」
「それは無いなぁ」
「でしょ?」

少し間を開けて、「もしかしたら近々東京出張になるかもしれない」と琢磨が言い出した。





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