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第二章

第7話 助言と苦言

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 説得するにあたって、フローリアがどんな人物なのかを把握しておくのはとても大事なことだ。

 フローリアについて詳しく知るため、マリアヴェルはエレナーデを頼った。公爵家を生家とする彼女なら、フローリアとも親交があるのではないかと思ったのだ。

 今回の件の経緯を手紙で簡潔に伝えて返事を待つと、都合の付く日にクロムウェル公爵邸にお越しください、と返事が来た。

 そうして招かれた公爵邸の応接間サロンで、エレナーデがふふっと笑みをこぼした。

「アル様も罪な殿方ですね。マリアの気持ちを知っていて、アル様との婚約を望むご令嬢の説得を託すだなんて……」
「まったくだわ。わたしがお兄様を背中から刺しても無罪を勝ち取れる罪深さよ」

 フローリアとの噂にやきもきするマリアヴェルの心中を、アルフレッドが察していないはずがない。気づいていながら僕を助けてくれてもいいんだよ、なんて言うのだから、義兄の罪深さは王国一だ。

 大きな窓から差し込む、朝の陽を浴びて輝くティーカップ。その縁を指先でなぞりながら、エレナーデが憂鬱そうに吐息をこぼした。

「先日、アル様はフレンディ伯爵邸で開催されたパーティにご出席されましたでしょう? 知人から聞いたのですけれど、噂の真偽をアル様に確かめる方もいらっしゃったとか」
「お兄様はなんて答えたの?」
「記事は事実ではないと、はっきり否定なさったそうです。ですが――」

 エレナーデが口ごもる。彼女が濁そうとしている言葉は、すぐにわかった。マリアヴェルはため息を吐く。

「わたしのせいで、お兄様が交際を隠していると思われてしまうのね……」

 アルフレッドはその優しさから残された家族を過剰に甘やかしがちだ、なんて陰口を叩く人間も社交界にはいる。マリアヴェルがわがまま放題なのはそのためだ、と。だから今回も、マリアヴェルに気を遣っていると捉える人間も一定数は存在するのだろう。

 湯気の立つ琥珀色の液体を睨むように見つめて、マリアヴェルは眉間のしわを深くした。

「わたしの悪評がこんな形でお兄様の噂を助けてしまうなんて、想像もしていなかったわ……」
「アル様はこれまでゴシップとは無縁でしたから……その分、今回の噂を信じる方は多いのかもしれません。お相手がお相手ですもの。様々な釣り合いはもちろんのこと、婚約解消の経験者同士でもありますから、気が合うのではないか――そんな憶測を立てる方までいらっしゃるみたいです」

 マリアヴェルは、ぱちりと目を瞬かせる。

 アルフレッドにはかつて、マデリーナという名の婚約者がいた。とはいっても、正式に婚約を交わしていたわけではない。両家の親同士が口約束で決めたもので拘束力はなく、周囲も暗黙の了解くらいの軽さで認識していた。二人の婚約が白紙になったのは、アッシュフォード夫妻が他界してすぐのこと。マリアヴェルの記憶が確かなら、事故から半年も経っていなかったと思う。マリアヴェルが十二歳の誕生日を迎える、少し前。

 当時のマリアヴェルは、アルフレッドへの恋心を自覚していなかった。アルフレッドへの想いを自覚したのはマリアヴェルに縁談が持ち上がった十四の年。アルフレッドと離れる未来が現実味を帯びたことで、ようやく気づいたのだ。

 マリアヴェルが侯爵家に引き取られた時、マデリーナはすでにアルフレッドの許嫁だった。だからマリアヴェルは二人が将来結ばれることを自然に受け止めていたし、美しくて思いやりに溢れたマデリーナを、純粋な心で慕っていた。

 あのころに自覚していたら、マリアヴェルはどんな想いで二人を眺めることになっていたのか。考えるだけで、憂鬱な気分になりそうだった。

 苦い想像を頭から振り払い、マリアヴェルは首を傾げた。

「フローリア様ほどのご令嬢でも、婚約解消の経験があるの?」
「あら、マリアはご存じないのですね。有名なお話ですよ? 四年前、美貌の妖精姫が婚約者にこっぴどく振られたと話題になりましたから。フローリア様の婚約者が他のご令嬢に懸想なさって、婚約解消に至ったのです」
「あんなに綺麗な婚約者がいても、満足できない男性がいるのね……」
「それまでは特段、不仲だという話を耳にしたことはなかったのですが……もしかすると、外からではわからない不和もあったのかもしれません」

 やんわりとそう言ってから、エレナーデが愛らしい顔に憂慮を浮かべた。

「マリアには申し訳ないのですが、フローリア様との接点はわたくしにはないのです。幾度かご挨拶をした程度の仲で……。直接お人柄を探ろうにも、フローリア様は長いこと社交場に顔を見せていらっしゃらないですし……」
「え? そうなの?」

 公爵令嬢なら社交は一種の仕事みたいなものなのに。訝しむマリアヴェルに、エレナーデがおっとりと続けた。

「ですが、フローリア様と親しい方には心当たりがあります。アンネローゼ・イスマイール伯爵令嬢。シュタットノイン家とイスマイール家は家族ぐるみの仲で、お二人は幼い頃からのご友人です。アンネローゼ様でしたら、フローリア様の為人にも詳しいと思うのです。ですので、こちらをマリアに」

 エレナーデが右手を持ち上げると、控えていた侍女が銀のトレイを持ってきた。銀器に乗っていたカードをエレナーデが手に取る。

「今週末にアンネローゼ様が参加される、お茶会の招待状です。わたくしの名代を友人にお願いすると伝えてありますので、面識のないマリアでも問題なく歓迎されると思います」

 屈託ない笑みでどうぞ、と差し出された招待状を有難く受け取る。

「ありがとう、エレナ。急な上に一方的なお願いだったのに……」
「マリアはわたくしの恩人ですもの。力になれたのでしたら、わたくしも嬉しいです」

 何のてらいもなく微笑むエレナーデは天使みたいで、マリアヴェルは彼女の小柄な体躯を抱きしめたくなってしまうのだった。


◆◆◆◇◆◇◆◆◆


「マリアヴェル嬢は気が気でないだろうな。意中の相手が、他の女性と派手に噂になっているのだから」

 アルフレッドの執務室に顔を出したユリウスは、開口一番にそう言ってやった。書類から顔を上げたアルフレッドは、戸口に立つユリウスをちらりと見て、嘆息する。

「弁えてくれない方がここにいましたね」

 ソファに腰掛けたユリウスは、首を捻った。

「何の話だ?」
「いえ、こちらの話です」

 そのまま何事もなかったかのように書類に目を落としたので、ユリウスは引き続き嘆いてみた。

「噂を消す努力もせず放置とは、マリアヴェル嬢に心から同情するよ」
「……」

 不敬も甚だしいことに、アルフレッドは王族であるユリウスを完璧に無視した。

「あんなに可愛らしい令嬢を振り回して素知らぬ顔とはな。完璧な貴公子、などという異名は返上すべきじゃないか?」
「…………」

 これも無反応。仕方がないので、独り言を続ける。

「アルは素知らぬふりをすることはあっても、鈍いと感じたことは今までなかったが。私の思い違いだったか?」
「殿下の忠告は必要ありませんよ。マリィのことは、僕が誰よりも理解しています」

 ようやく答えが返ってきた。

 つまり、故意に噂を放置している、と。

「随分と、フローリア嬢が気に入ったようだな」
「しばらく手のひらの上で踊らされても構わない、と思う程度には?」
「驚いたな。妖精姫の美貌を前にすれば、さしものアルも形無しか?」
「容姿で語るのなら、当家の妹も可愛らしさでは負けていませんよ」

 アルフレッドの流れるような妹自慢は、今に始まったことじゃない。冗談はこのくらいにして、ユリウスは本題に入ることにした。

「アルがあえて放置しているということは、持ち上がったのはただの縁談ではなく、何か裏があるのか?」
「フローリア嬢が求めているのは契約結婚です。その相手に結婚に乗り気ではない僕をわざわざ指名し、断られても尚、僕に執着し続けている。これで裏がない方がどうかしていますよ」

 言わんとしていることはわかるが、全貌がまったく見えてこなかった。

「なぜアルなんだ?」
「……」

 またも無言。

「フローリア嬢の目的は、どこまで読めているんだ?」

 構わず疑問をぶつけると、アルフレッドがため息混じりに答えた。

「そんなに気になるのでしたら、シュタットノイン公に伺ってみてはいかかですか?」
「フローリア嬢の裏に、公がいるのか?」

 ただの縁談話かと思えば、なかなかきな臭そうだ。ますます好奇心が刺激される。

「殿下」

 追求する前に、アルフレッドが機先を制した。

「臣下の私事に好奇心で首を突っ込むのでしたら、ご自分で答えを導き出されてはいかがですか? この件に関して、殿下の疑問にお答えする義務はありません。シュタットノイン公も僕と同じ見解を示すでしょう」

 普段のそっけなさとは異なる刺々しい雰囲気に加えて、いつも以上に皮肉が効いた言い回し。ユリウスは、ようやく気づいた。

「機嫌が悪いな」

 アルフレッドがあからさまに心の機微を表に出すのは、非常に珍しいことだった。一種の感動すら覚えていると、アルフレッドがわずかに目を瞠った。どうやら、無自覚だったらしい。それから彼は、ちょっぴりバツが悪そうに呟く。

「何かと、不本意なことが続くので」

 おや、とユリウスは眉を持ち上げる。

「すでに、マリアヴェル嬢と揉めたのか?」

 政務においても社交においても、常に平静なアルフレッドだ。穏やかな微笑みで嫌味も賛辞も呑みこむ彼が、心を乱す要因はそのくらいしか思い当たらない。

「揉めてはいませんよ。ただ……僕が読み違えたせいで、させたくない顔をさせてしまったのは――」

 そこで言葉を切ったアルフレッドが、額に手を当てた。やらかした、という顔を見るのは、初めてだった。滅多にない素直な反応は、八つ当たりしたことをきまり悪く思ってでもいるのか。

 いつだって他者の目に映る姿を計算しきっているアルフレッドが、素顔をチラつかせた。ユリウスにとって、これほど衝撃的なことはない。

「アルをここまで乱せるマリアヴェル嬢は、偉大だな」

 感嘆を隠せずにいるユリウスをちらりと窺った後、アルフレッドははっきりと苦笑した。

「……当人は無自覚ですけどね」
「お前が見せようとしないものに、彼女が気づけるはずないだろう」

 マリアヴェルの想いに応えようとしないアルフレッドだが、ユリウスの見る限り、マリアヴェルが求めている以上に、アルフレッドには彼女が必要だ。アルフレッド自身も自覚していそうなのに、頑なに手離そうとするのだから、頭が回りすぎるのも考えものだと思う。

「僕がマリィには敵わない――なんてことを、あの子が知る必要はありませんから」

 囁いたアルフレッドが、再び書類に視線を落とした。これ以上は取り合わないという、無言の意思表示だ。

 言いたいことは山ほどあったが、横槍を入れ過ぎて政務を滞らせては目も当てられないので、ユリウスは仕方なく退散する。

 立ち上がり様に、一つだけ確認することにして。

「水面下で妙な駆け引きを行っているようだが、最後に勝つのはアルとシュタットノイン公、どちらなんだ?」
「……思うところがあるので彼女に免じて絆されてはあげますが、公爵の思惑通りに動く気は、端からありませんよ」

 不敵に微笑むアルフレッドを見れば、負かされるのがどちらかなのは、容易く想像が付いた。
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