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∞番外篇【松籟(パイン・ゲイル)】
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『彼』は主の帰りを待っていた。
ただし、その場に座して主の帰りを待つのが生物学的に性に合わない彼は、その巨大な蹄で力強く大地を踏み締めながら、四本の脚でカッポカッポと歩いている。この辺りの草は彼の食性には適さないので、野生の本能に従って、食べられる草が生えている大地を目指して彼は進んでいく。
彼は青鹿毛の馬である。
主が彼に付けた名は『パイン・ゲイル』。『松籟』という意味であるらしい。
尤も、馬である彼には、個体を言葉で識別したがる人間達の気持ちはよく分からない。ただ、主がその名で自分を呼びたいのであれば、別にそれで構わないと思考するのみである。
彼の主は、人間達が『レオ山』と呼ぶ山の頂上に登る為に、垂直に切り立つ峻厳な岩山を『四本の足だけ』で登って行った。無茶な主の行動を彼が殊更止めなかったのは、彼が自分の主に対して『この主には自分がなにを言ってもムダだ』と思考しているからである。
だから、彼は大人しく主が登って行った岩山の近くで、主の帰りを待っている。幸い、この近くにはきれいな小川も流れているし、柔らかな地面の感触がカッポカッポと歩く彼の黒い蹄の裏に心地よい。この辺りは、なかなかいい土地のようだ。
やがて、彼が食べられる丈の低い草がみっしりと生えた草原の『匂い』を、パイン・ゲイルはその大きな黒い鼻腔の奥で嗅ぎ取った。その方向へ向かって、自然と駆け足になるパイン・ゲイル。
恐るべき速さで疾走しながらも、自らの蹄や脚を傷付けないように地面の状況を常に確認することをパイン・ゲイルは怠らない。地面の状況を確認もせず、自らを傷付けるほど彼は経験不足でもないし、仔馬でもないのだ。
彼の駆け足で少し走ったところに、食べられる草がたくさん生えていた。早速、ご相伴に預かるパイン・ゲイル。
周囲の山脈から流れ出る雪解け水で育つこの辺りの草には、塩分や滋養が多く含まれ、走った後の汗をかいた身体に心地よい。パイン・ゲイルは、薄緑色の草を夢中で貪り続ける。
……たまに一頭でここに来てみようかな、と草を食みながら彼は少し冗談めかして考えてみたりした。
そんなこと、主持ちの彼には夢のまた夢ではあるのだが。
草を食み終わりやっと馬心地がついた彼は、周囲の草原を見渡してみた。爽やかに風戦ぐ丘の草原には、彼が一生かかっても食い尽くせないほどの、たくさんの食べられる草が生えている。
……本当によい土地だ。なんだか自分が生まれ育った草原にも似ている……
草原の景色を眺めながらパイン・ゲイルはそう思考し、もう帰れない故郷を想い、少しだけ藍色の目を細めた。
ふと気付くと、風の中に他の馬達の匂いが混じっている。
パイン・ゲイルが匂いのする方向を振り向くと、風下方向の草原に数十頭の馬群が、今年の春に生まれたばかりの仔馬達を囲んで地面の草を食んでいた。
様々な毛色の馬達は、ゆっくりと草を食みながらも、初めて見る馬に少し警戒しているようだ。馬群の親馬達すべてが、パイン・ゲイルの方に鼻先を向けていた。ヒヒン、と親馬達に向かって、軽く嘶くパイン・ゲイル。
……そんなに警戒しなくたって、仔馬達には何もしやしませんよ……
パイン・ゲイルはその場に寝っ転がって馬群の仔馬達を眺める。イタズラ好きな仔馬達は、草を食みながらも隙あらば彼等の親達が作る囲いの中から抜け出そうと試みる。大きな馬体で仔馬を自分達の囲いの中に押し留める親馬達。
仔馬好きなパイン・ゲイルは、無邪気な仔馬達の様子に思わず目を細めた。
全身ほぼ真っ黒な青鹿毛のパイン・ゲイルは、芦毛や栗毛の仔馬達を眺めながら、美しい毛並みだな、と思考した。
パイン・ゲイルがまだ仔馬だった頃、彼は自分の『青鹿毛』が気に入らなかった。真っ黒に近い彼の大きな馬体は、同じ群れの他の仔馬達をよく恐れさせたものだ。
……別に傷付けるつもりなどないのに。
明るい栗毛の毛並みに憧れた時期も過去にはあったが、今のパイン・ゲイルは自分の『大きな青鹿毛の馬体』を気に入っている。彼の主が「……強そうじゃん黒馬って」と言ってくれるからだ。自分を信じてくれる者の存在は、時に自らの『見た目』にも自信を与えてくれるものだ。
もし、パイン・ゲイルが人の言葉を話せるのならば、自らの『赤い鬣』のことを気にしている主の娘にも、あまり気にするな、と言ってやれるのたが。
バルォ!!バルルォ…!!
地面に寝っ転がって仔馬を見ながらウトウトしていたパイン・ゲイルの黒くて長い耳に、突然激しい嘶き声が響き、思わず彼は黒くて細長い顔を少し顰めた。
面倒くさそうに彼が寝っ転がったまま声の方に馬首を向けると、若い栗毛馬を筆頭に数頭の馬達がパイン・ゲイルの周りを取り囲んでいる。その馬達は、自分達の蹄の先で柔らかい地面をガッガッ…と掘り削っていた。これは人間に例えると、『拳の骨をポキポキ鳴らして相手を威嚇する』に相当する仕草である。
激しい嘶き声を上げたその若い栗毛馬は、パイン・ゲイルが自分達の縄張りに居ることが気に入らぬらしい。……気持ちは分かる。この成獣になったばかりの若馬達の弟や妹が草を食んでいるのを、近くで『見知らぬ馬』が眺めているのだから。
寝っ転がったまま馬首だけを立てて、フン…ッと黒い鼻を鳴らすパイン・ゲイル。これは、おまえ達の勘違いは自分には甚だ迷惑だ、という仕草である。
しかし、若馬達は相変わらず蹄で地面を掘ったり、大きな嘶き声で威嚇したりして、パイン・ゲイルをこの場から追い立てようとしてくる。……血の気の多い若馬達だ。
大人気ない争いを避けたいパイン・ゲイルはスッ…と立ち上がると、カッポカッポとその場から離れようとした。すると、最初に嘶いた若い栗毛馬が、ドンッ!と前脚の付け根をパイン・ゲイルの黒い馬体にぶつけてきた。
……この仕草については、もはや説明する必要もあるまい。この若馬達は、最初からパイン・ゲイル一頭を相手に『喧嘩を売っている』のだ。
パイン・ゲイルは元々『軍馬』である。
跳ねっ返りの若馬達を相手に喧嘩をするような趣味は毛頭ない。しかし、パイン・ゲイルを取り囲む全部で七頭の若馬達は彼を逃がすつもりはないようだ。
彼一頭を集団で取り囲む若馬達を見て、パイン・ゲイルは、……イヤな相貌だ、と思考した。
こんなイヤな相貌をした奴らを、彼は本来なら相手にしたくもない。
若馬達は自分達の『馬数』を頼んで、ジワジワと包囲網を狭めてくる。どうやら若馬達は、彼のことを本格的に『分からせる』つもりらしい。……仕方がない。
パイン・ゲイルは、一度ガッ!と大きくて黒い蹄で地面を掘り削った。歴戦の軍馬であるパイン・ゲイルの迫力に数頭の若馬達がヒン!と鳴いて尻込みをする。
しかし、栗毛馬は、バルル…!と鼻を鳴らし続けてパイン・ゲイルを威嚇していた。
自分を睨みつける栗毛馬の視線をまっすぐに受け止めながら、パイン・ゲイルはこう思考した。
……私を『分からせる』つもりなら、やってみるがいい。『やれるものなら』、な……
およそ半刻の後。
返り討ちにした若馬達を一列に並べて、そいつらの仰向けに寝転がった腹の上に一頭一頭順番に大きくて黒い前脚の蹄を載せていくパイン・ゲイル。
これは、攻撃ではなく『序列』を分からせるための仕草である。
大人気なく若馬達を本気で『分からせた』パイン・ゲイルは、……もう行け、という目線を若馬達に送った。
ヨロヨロとした動作で地面から立ち上がり、半べそをかきながら自分達の群れに戻る若馬達。
……これをキッカケに集団で弱い者いじめをするのを改めてくれるといいのだが、とパイン・ゲイルは思考した。
その時。
ピィぅィイッ!!っという細く甲高い口笛の音が、風にのってパイン・ゲイルの元に届いた。思わず、黒くて長い耳をピクッ!とさせるパイン・ゲイル。
『主』が自分を呼んでいる!
居ても立っても居られず、パイン・ゲイルは口笛の聞こえた方向へと足早に駆けていった。
主は一度口笛を吹いた後、取り外していたパイン・ゲイルの鞍を枕にして昼寝をしていた。この主には、パイン・ゲイルが自分の元から『逃げたのかも』という思考は毛頭ないらしい。尤も、パイン・ゲイルの方としても、そんなことをするつもりは毛頭ない。
「……おう、おかえり」
戻ってきたパイン・ゲイルに右の前足を上げながら、主が言った。主の言葉の意味を解さぬまま、それはこちらの意である、という風に鼻息を鳴らすパイン・ゲイル。主とパイン・ゲイルは、すでにお互いの鼻息だけで意志を疎通させる間柄である。
「……ここっておまえの『故郷』になんか似てない?」
周辺の丘の草原を見渡して、鼻をくんくんさせながら主が言った。
パイン・ゲイルは、思わず己の黒くて長い耳を疑った。この主は、人間にして、自分と全く同じことを感じている。
主の鋭い感性に深く感銘を受けるパイン・ゲイル。
「……たまには、ここに遠乗りに来てみるか?」
主の言葉に、ブルル…ッと鼻を鳴らして応えるパイン・ゲイル。これは別に肯定でも否定でもない。
それを敢えて訳すのであるならば、
(感謝……)
とでも、なるだろうか。
主は人間でありながら、『馬の心』を解する武人である。また、そうであらねば誇り高きパイン・ゲイルがその背に跨がることを許すはずはない。
「……そうか」
パイン・ゲイルの鼻息に短く応えて、主は己の愛馬の真っ黒い首筋を撫でる。主からこうされるのは、パイン・ゲイルは嫌いではない。思わず、主の前足の付け根に黒くて長い耳を擦り付けるパイン・ゲイル。パイン・ゲイルの黒い鬣から首筋にかけてを黙ったまま撫でる主。
「……そろそろ行くぞ『パイン・ゲイル』」
主が『彼の名』を呼んだ。
パイン・ゲイルは、黙ったまま主に目礼を返した。いつまでも、重たい鞍を主の前足に持たせたままにしておくわけにもいくまい。
パイン・ゲイルは、主が彼の背に鞍を載せやすいよう、黒い首を少しだけ下げた。主はパイン・ゲイルの黒い背を撫でたあとで、彼の背に木製の頑丈な鞍を載せて、太く丈夫な革ベルトで彼のたくましい馬体にしっかりと固定する。
「……んじゃ行くか」
そう言って主はパイン・ゲイルの背に跨り、彼の真っ黒い鬣を前足で掴むと、彼の馬体をその場でゆっくりと一周りさせた。この主は、己の乗馬に馬銜を付けない。「……金具で奥歯が削れてかわいそうだから」という理由である。
カッポカッポとその場でゆっくり一周りしながら、パイン・ゲイルは思考する。
……『この景色』を自分に見せようとしているのだ。この主は、本当に……
思考を途中で途切れさせるパイン・ゲイル。馬であるパイン・ゲイルには、人間で言うところの『語彙』というものがない。なので、主に言葉を伝える代わりに、パイン・ゲイルはブルル…ッと黒い鼻を鳴らした。
それを敢えて訳すのであるならば、
(随意に……)
とでも、なるだろうか。
「……」
無言のまま、主がパイン・ゲイルの鬣を掴む前足の内側に『少しだけ』力を込めた。それだけでパイン・ゲイルには十分である。
パイン・ゲイルは、ガウアー!と凄まじい咆哮を上げた。馬の嘶き声とは思えないその声は、大気を震わせ、周辺の山々をこだまさせる。
まさしく、『馬の王者』の貫禄である。
そして、人馬一体となった主従は、松籟のような音を立てながら、疾風のように凄まじい疾さで、人間達が『レオニア村』と呼ぶ集落を目指して草原の大地を駆け抜けていった。
…To Be Continued.
⇒Next Episode.
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『彼』は主の帰りを待っていた。
ただし、その場に座して主の帰りを待つのが生物学的に性に合わない彼は、その巨大な蹄で力強く大地を踏み締めながら、四本の脚でカッポカッポと歩いている。この辺りの草は彼の食性には適さないので、野生の本能に従って、食べられる草が生えている大地を目指して彼は進んでいく。
彼は青鹿毛の馬である。
主が彼に付けた名は『パイン・ゲイル』。『松籟』という意味であるらしい。
尤も、馬である彼には、個体を言葉で識別したがる人間達の気持ちはよく分からない。ただ、主がその名で自分を呼びたいのであれば、別にそれで構わないと思考するのみである。
彼の主は、人間達が『レオ山』と呼ぶ山の頂上に登る為に、垂直に切り立つ峻厳な岩山を『四本の足だけ』で登って行った。無茶な主の行動を彼が殊更止めなかったのは、彼が自分の主に対して『この主には自分がなにを言ってもムダだ』と思考しているからである。
だから、彼は大人しく主が登って行った岩山の近くで、主の帰りを待っている。幸い、この近くにはきれいな小川も流れているし、柔らかな地面の感触がカッポカッポと歩く彼の黒い蹄の裏に心地よい。この辺りは、なかなかいい土地のようだ。
やがて、彼が食べられる丈の低い草がみっしりと生えた草原の『匂い』を、パイン・ゲイルはその大きな黒い鼻腔の奥で嗅ぎ取った。その方向へ向かって、自然と駆け足になるパイン・ゲイル。
恐るべき速さで疾走しながらも、自らの蹄や脚を傷付けないように地面の状況を常に確認することをパイン・ゲイルは怠らない。地面の状況を確認もせず、自らを傷付けるほど彼は経験不足でもないし、仔馬でもないのだ。
彼の駆け足で少し走ったところに、食べられる草がたくさん生えていた。早速、ご相伴に預かるパイン・ゲイル。
周囲の山脈から流れ出る雪解け水で育つこの辺りの草には、塩分や滋養が多く含まれ、走った後の汗をかいた身体に心地よい。パイン・ゲイルは、薄緑色の草を夢中で貪り続ける。
……たまに一頭でここに来てみようかな、と草を食みながら彼は少し冗談めかして考えてみたりした。
そんなこと、主持ちの彼には夢のまた夢ではあるのだが。
草を食み終わりやっと馬心地がついた彼は、周囲の草原を見渡してみた。爽やかに風戦ぐ丘の草原には、彼が一生かかっても食い尽くせないほどの、たくさんの食べられる草が生えている。
……本当によい土地だ。なんだか自分が生まれ育った草原にも似ている……
草原の景色を眺めながらパイン・ゲイルはそう思考し、もう帰れない故郷を想い、少しだけ藍色の目を細めた。
ふと気付くと、風の中に他の馬達の匂いが混じっている。
パイン・ゲイルが匂いのする方向を振り向くと、風下方向の草原に数十頭の馬群が、今年の春に生まれたばかりの仔馬達を囲んで地面の草を食んでいた。
様々な毛色の馬達は、ゆっくりと草を食みながらも、初めて見る馬に少し警戒しているようだ。馬群の親馬達すべてが、パイン・ゲイルの方に鼻先を向けていた。ヒヒン、と親馬達に向かって、軽く嘶くパイン・ゲイル。
……そんなに警戒しなくたって、仔馬達には何もしやしませんよ……
パイン・ゲイルはその場に寝っ転がって馬群の仔馬達を眺める。イタズラ好きな仔馬達は、草を食みながらも隙あらば彼等の親達が作る囲いの中から抜け出そうと試みる。大きな馬体で仔馬を自分達の囲いの中に押し留める親馬達。
仔馬好きなパイン・ゲイルは、無邪気な仔馬達の様子に思わず目を細めた。
全身ほぼ真っ黒な青鹿毛のパイン・ゲイルは、芦毛や栗毛の仔馬達を眺めながら、美しい毛並みだな、と思考した。
パイン・ゲイルがまだ仔馬だった頃、彼は自分の『青鹿毛』が気に入らなかった。真っ黒に近い彼の大きな馬体は、同じ群れの他の仔馬達をよく恐れさせたものだ。
……別に傷付けるつもりなどないのに。
明るい栗毛の毛並みに憧れた時期も過去にはあったが、今のパイン・ゲイルは自分の『大きな青鹿毛の馬体』を気に入っている。彼の主が「……強そうじゃん黒馬って」と言ってくれるからだ。自分を信じてくれる者の存在は、時に自らの『見た目』にも自信を与えてくれるものだ。
もし、パイン・ゲイルが人の言葉を話せるのならば、自らの『赤い鬣』のことを気にしている主の娘にも、あまり気にするな、と言ってやれるのたが。
バルォ!!バルルォ…!!
地面に寝っ転がって仔馬を見ながらウトウトしていたパイン・ゲイルの黒くて長い耳に、突然激しい嘶き声が響き、思わず彼は黒くて細長い顔を少し顰めた。
面倒くさそうに彼が寝っ転がったまま声の方に馬首を向けると、若い栗毛馬を筆頭に数頭の馬達がパイン・ゲイルの周りを取り囲んでいる。その馬達は、自分達の蹄の先で柔らかい地面をガッガッ…と掘り削っていた。これは人間に例えると、『拳の骨をポキポキ鳴らして相手を威嚇する』に相当する仕草である。
激しい嘶き声を上げたその若い栗毛馬は、パイン・ゲイルが自分達の縄張りに居ることが気に入らぬらしい。……気持ちは分かる。この成獣になったばかりの若馬達の弟や妹が草を食んでいるのを、近くで『見知らぬ馬』が眺めているのだから。
寝っ転がったまま馬首だけを立てて、フン…ッと黒い鼻を鳴らすパイン・ゲイル。これは、おまえ達の勘違いは自分には甚だ迷惑だ、という仕草である。
しかし、若馬達は相変わらず蹄で地面を掘ったり、大きな嘶き声で威嚇したりして、パイン・ゲイルをこの場から追い立てようとしてくる。……血の気の多い若馬達だ。
大人気ない争いを避けたいパイン・ゲイルはスッ…と立ち上がると、カッポカッポとその場から離れようとした。すると、最初に嘶いた若い栗毛馬が、ドンッ!と前脚の付け根をパイン・ゲイルの黒い馬体にぶつけてきた。
……この仕草については、もはや説明する必要もあるまい。この若馬達は、最初からパイン・ゲイル一頭を相手に『喧嘩を売っている』のだ。
パイン・ゲイルは元々『軍馬』である。
跳ねっ返りの若馬達を相手に喧嘩をするような趣味は毛頭ない。しかし、パイン・ゲイルを取り囲む全部で七頭の若馬達は彼を逃がすつもりはないようだ。
彼一頭を集団で取り囲む若馬達を見て、パイン・ゲイルは、……イヤな相貌だ、と思考した。
こんなイヤな相貌をした奴らを、彼は本来なら相手にしたくもない。
若馬達は自分達の『馬数』を頼んで、ジワジワと包囲網を狭めてくる。どうやら若馬達は、彼のことを本格的に『分からせる』つもりらしい。……仕方がない。
パイン・ゲイルは、一度ガッ!と大きくて黒い蹄で地面を掘り削った。歴戦の軍馬であるパイン・ゲイルの迫力に数頭の若馬達がヒン!と鳴いて尻込みをする。
しかし、栗毛馬は、バルル…!と鼻を鳴らし続けてパイン・ゲイルを威嚇していた。
自分を睨みつける栗毛馬の視線をまっすぐに受け止めながら、パイン・ゲイルはこう思考した。
……私を『分からせる』つもりなら、やってみるがいい。『やれるものなら』、な……
およそ半刻の後。
返り討ちにした若馬達を一列に並べて、そいつらの仰向けに寝転がった腹の上に一頭一頭順番に大きくて黒い前脚の蹄を載せていくパイン・ゲイル。
これは、攻撃ではなく『序列』を分からせるための仕草である。
大人気なく若馬達を本気で『分からせた』パイン・ゲイルは、……もう行け、という目線を若馬達に送った。
ヨロヨロとした動作で地面から立ち上がり、半べそをかきながら自分達の群れに戻る若馬達。
……これをキッカケに集団で弱い者いじめをするのを改めてくれるといいのだが、とパイン・ゲイルは思考した。
その時。
ピィぅィイッ!!っという細く甲高い口笛の音が、風にのってパイン・ゲイルの元に届いた。思わず、黒くて長い耳をピクッ!とさせるパイン・ゲイル。
『主』が自分を呼んでいる!
居ても立っても居られず、パイン・ゲイルは口笛の聞こえた方向へと足早に駆けていった。
主は一度口笛を吹いた後、取り外していたパイン・ゲイルの鞍を枕にして昼寝をしていた。この主には、パイン・ゲイルが自分の元から『逃げたのかも』という思考は毛頭ないらしい。尤も、パイン・ゲイルの方としても、そんなことをするつもりは毛頭ない。
「……おう、おかえり」
戻ってきたパイン・ゲイルに右の前足を上げながら、主が言った。主の言葉の意味を解さぬまま、それはこちらの意である、という風に鼻息を鳴らすパイン・ゲイル。主とパイン・ゲイルは、すでにお互いの鼻息だけで意志を疎通させる間柄である。
「……ここっておまえの『故郷』になんか似てない?」
周辺の丘の草原を見渡して、鼻をくんくんさせながら主が言った。
パイン・ゲイルは、思わず己の黒くて長い耳を疑った。この主は、人間にして、自分と全く同じことを感じている。
主の鋭い感性に深く感銘を受けるパイン・ゲイル。
「……たまには、ここに遠乗りに来てみるか?」
主の言葉に、ブルル…ッと鼻を鳴らして応えるパイン・ゲイル。これは別に肯定でも否定でもない。
それを敢えて訳すのであるならば、
(感謝……)
とでも、なるだろうか。
主は人間でありながら、『馬の心』を解する武人である。また、そうであらねば誇り高きパイン・ゲイルがその背に跨がることを許すはずはない。
「……そうか」
パイン・ゲイルの鼻息に短く応えて、主は己の愛馬の真っ黒い首筋を撫でる。主からこうされるのは、パイン・ゲイルは嫌いではない。思わず、主の前足の付け根に黒くて長い耳を擦り付けるパイン・ゲイル。パイン・ゲイルの黒い鬣から首筋にかけてを黙ったまま撫でる主。
「……そろそろ行くぞ『パイン・ゲイル』」
主が『彼の名』を呼んだ。
パイン・ゲイルは、黙ったまま主に目礼を返した。いつまでも、重たい鞍を主の前足に持たせたままにしておくわけにもいくまい。
パイン・ゲイルは、主が彼の背に鞍を載せやすいよう、黒い首を少しだけ下げた。主はパイン・ゲイルの黒い背を撫でたあとで、彼の背に木製の頑丈な鞍を載せて、太く丈夫な革ベルトで彼のたくましい馬体にしっかりと固定する。
「……んじゃ行くか」
そう言って主はパイン・ゲイルの背に跨り、彼の真っ黒い鬣を前足で掴むと、彼の馬体をその場でゆっくりと一周りさせた。この主は、己の乗馬に馬銜を付けない。「……金具で奥歯が削れてかわいそうだから」という理由である。
カッポカッポとその場でゆっくり一周りしながら、パイン・ゲイルは思考する。
……『この景色』を自分に見せようとしているのだ。この主は、本当に……
思考を途中で途切れさせるパイン・ゲイル。馬であるパイン・ゲイルには、人間で言うところの『語彙』というものがない。なので、主に言葉を伝える代わりに、パイン・ゲイルはブルル…ッと黒い鼻を鳴らした。
それを敢えて訳すのであるならば、
(随意に……)
とでも、なるだろうか。
「……」
無言のまま、主がパイン・ゲイルの鬣を掴む前足の内側に『少しだけ』力を込めた。それだけでパイン・ゲイルには十分である。
パイン・ゲイルは、ガウアー!と凄まじい咆哮を上げた。馬の嘶き声とは思えないその声は、大気を震わせ、周辺の山々をこだまさせる。
まさしく、『馬の王者』の貫禄である。
そして、人馬一体となった主従は、松籟のような音を立てながら、疾風のように凄まじい疾さで、人間達が『レオニア村』と呼ぶ集落を目指して草原の大地を駆け抜けていった。
…To Be Continued.
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