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洋灯の明かりが、狭い納屋のなかを照らしている。
ひとときの情事を終えた二人は、壁を背に寄りそって座っていた。
エレナは彼が持ち込んだ毛布を膝にかけ、彼の肩に顔を預けている。しっかりと繋ぎ合わせた手は、二人の間の床に置いて。
「オレ……、本当はもう、ここへは仕事に来ないはずだったんです」
少し落ち着いた所で、トマがふとそう言った。
「え?」
エレナは驚いて声を上擦らせた。
ルドーは確かに、「トマは来月また来る」と言っていたのに。
「実は、ある貴族のお方にオレの腕を気に入って頂けて、専属でお屋敷に雇って頂けることになったんです。それがここから離れた場所なのでもう手伝いに来られないと、つい先日ルドーさんにお話をさせて頂いたところでした」
果たしてそれは、エレナがルドーから話を聞く前だったのか、後だったのか。
狼狽えるエレナに気付かぬ様子で、トマは言葉を続けた。
「今日は、ルドーさんが腰を打ったという話をたまたま知り合いの職人から聞いて……。それで明日一日だけでも手伝わせてくれって、オレが頼んだんです」
「……そうだったの」
「あと……、そうしたら、最後に、奥さまに会えるかも知れないと思ったから」
頬を赤くしてトマが囁く。
それを聞いたエレナは、一瞬で他の全てがどうでもよくなって胸を高鳴らせた。指の腹で、彼の手の甲をさするようにしながら、握る力を強める。熱い視線を向けると、どちらからともなく唇が重なった。唇を吸い、舌を吸い、角度を変え、何度も何度もキスをする。その隙間を縫うように、トマが囁いた。
「奥さま、どうか、オレと一緒に来て下さい。贅沢は出来ないかもしれませんが、庭師として腕も認められてきたし、きっと生活には困らないはずです。……オレ、絶対に奥さまを大切にします。幸せにします」
「トマ……」
エレナはこれ以上なく満ち足りた気持ちになって、頬に涙をこぼした。
想像してみる――、彼と共にいった未来を。
庭師としてどこかの貴族の家に働きに出る彼を、エレナは家であたたかい食事を作って待つ。彼のために洗濯をし、繕いものをし、家を整える。彼となら、もしかすると子供だって授かるかも知れない。
だがそこまで考えた所で、エレナはすっと頭の一部が冷えていくのを感じた。
エレナは少し沈黙し、視線を彷徨わせてから、再び口を開いた。
「……ねえ、トマ。あなたは、私のどこを好きになったの?」
互いの指を擦り合わせて遊びながら訊ねる。
トマは照れくさそうに指で頬をかきながら答えた。
「……手を」
「手?」
「奥さまの手を、とても綺麗だと思ったんです。奥さまのように綺麗な手をした女性を、オレは見たことがありません」
それは、彼に初めて会った時にも言われた言葉だ。
エレナは目を瞬かせて、彼と繋ぎ合わせた自分の手を見つめた。
絹のように滑らかな白い手。そこには赤ぎれはもちろん、シミひとつない。
「オレは、ずっと奥さまに憧れていました。オレは……、奥さまのように綺麗な方をみたことがありません」
「……私が、綺麗?」
「はい! いつも凜としておられて、高貴で、まるで女神のようだと……、オレはいつも……」
そこまで聞いた所で、エレナは思わずふっと笑ってしまった。
トマが、その反応に首を傾げる。エレナは何と返したものか――、少し悩んでから、やはり微笑んだ。
「……ありがとう、嬉しいわ」
「では……」
ぱっと顔を輝かせるトマに、エレナは首を横に振った。
繋いだ手を、そのまま胸のあたりまで持ち上げ、もう片方の手をそこに添えた。
「私はあなたとは行けないわ。……あなたにはきっと、私より良い人がいくらでもいる。幸せになって頂戴」
「そんな……!」
「トマ、私も……あなたの手に惹かれたのよ」
トマは、エレナの言葉の意味が分からない様子で首を傾げた。
「奥さま……、だけど、旦那さまは……」
「私なら大丈夫よ」
トマの視線が、エレナの頬に刺さる。
エレナは、やはり少し考えてから、彼には夫の暴力の理由は話さないでおこうと決めた。
「心配してくれてありがとう。私は……、あなたが一緒に行こうと言ってくれた、その言葉で十分よ」
「だけど、そんな……」
トマが、諦めきれないとばかりに下唇を噛む。
「奥さま……、オレは、三日後の早朝にこの街を発ちます。それまでに、もしも気が変わったら……」
縋るような言葉を、エレナは素直に嬉しいと感じた。
これがひとつの舞台なら、なかなか満足のいく幕引きだ。
エレナは微笑み、頷いた。
「ええ、考えておくわ」
ひとときの情事を終えた二人は、壁を背に寄りそって座っていた。
エレナは彼が持ち込んだ毛布を膝にかけ、彼の肩に顔を預けている。しっかりと繋ぎ合わせた手は、二人の間の床に置いて。
「オレ……、本当はもう、ここへは仕事に来ないはずだったんです」
少し落ち着いた所で、トマがふとそう言った。
「え?」
エレナは驚いて声を上擦らせた。
ルドーは確かに、「トマは来月また来る」と言っていたのに。
「実は、ある貴族のお方にオレの腕を気に入って頂けて、専属でお屋敷に雇って頂けることになったんです。それがここから離れた場所なのでもう手伝いに来られないと、つい先日ルドーさんにお話をさせて頂いたところでした」
果たしてそれは、エレナがルドーから話を聞く前だったのか、後だったのか。
狼狽えるエレナに気付かぬ様子で、トマは言葉を続けた。
「今日は、ルドーさんが腰を打ったという話をたまたま知り合いの職人から聞いて……。それで明日一日だけでも手伝わせてくれって、オレが頼んだんです」
「……そうだったの」
「あと……、そうしたら、最後に、奥さまに会えるかも知れないと思ったから」
頬を赤くしてトマが囁く。
それを聞いたエレナは、一瞬で他の全てがどうでもよくなって胸を高鳴らせた。指の腹で、彼の手の甲をさするようにしながら、握る力を強める。熱い視線を向けると、どちらからともなく唇が重なった。唇を吸い、舌を吸い、角度を変え、何度も何度もキスをする。その隙間を縫うように、トマが囁いた。
「奥さま、どうか、オレと一緒に来て下さい。贅沢は出来ないかもしれませんが、庭師として腕も認められてきたし、きっと生活には困らないはずです。……オレ、絶対に奥さまを大切にします。幸せにします」
「トマ……」
エレナはこれ以上なく満ち足りた気持ちになって、頬に涙をこぼした。
想像してみる――、彼と共にいった未来を。
庭師としてどこかの貴族の家に働きに出る彼を、エレナは家であたたかい食事を作って待つ。彼のために洗濯をし、繕いものをし、家を整える。彼となら、もしかすると子供だって授かるかも知れない。
だがそこまで考えた所で、エレナはすっと頭の一部が冷えていくのを感じた。
エレナは少し沈黙し、視線を彷徨わせてから、再び口を開いた。
「……ねえ、トマ。あなたは、私のどこを好きになったの?」
互いの指を擦り合わせて遊びながら訊ねる。
トマは照れくさそうに指で頬をかきながら答えた。
「……手を」
「手?」
「奥さまの手を、とても綺麗だと思ったんです。奥さまのように綺麗な手をした女性を、オレは見たことがありません」
それは、彼に初めて会った時にも言われた言葉だ。
エレナは目を瞬かせて、彼と繋ぎ合わせた自分の手を見つめた。
絹のように滑らかな白い手。そこには赤ぎれはもちろん、シミひとつない。
「オレは、ずっと奥さまに憧れていました。オレは……、奥さまのように綺麗な方をみたことがありません」
「……私が、綺麗?」
「はい! いつも凜としておられて、高貴で、まるで女神のようだと……、オレはいつも……」
そこまで聞いた所で、エレナは思わずふっと笑ってしまった。
トマが、その反応に首を傾げる。エレナは何と返したものか――、少し悩んでから、やはり微笑んだ。
「……ありがとう、嬉しいわ」
「では……」
ぱっと顔を輝かせるトマに、エレナは首を横に振った。
繋いだ手を、そのまま胸のあたりまで持ち上げ、もう片方の手をそこに添えた。
「私はあなたとは行けないわ。……あなたにはきっと、私より良い人がいくらでもいる。幸せになって頂戴」
「そんな……!」
「トマ、私も……あなたの手に惹かれたのよ」
トマは、エレナの言葉の意味が分からない様子で首を傾げた。
「奥さま……、だけど、旦那さまは……」
「私なら大丈夫よ」
トマの視線が、エレナの頬に刺さる。
エレナは、やはり少し考えてから、彼には夫の暴力の理由は話さないでおこうと決めた。
「心配してくれてありがとう。私は……、あなたが一緒に行こうと言ってくれた、その言葉で十分よ」
「だけど、そんな……」
トマが、諦めきれないとばかりに下唇を噛む。
「奥さま……、オレは、三日後の早朝にこの街を発ちます。それまでに、もしも気が変わったら……」
縋るような言葉を、エレナは素直に嬉しいと感じた。
これがひとつの舞台なら、なかなか満足のいく幕引きだ。
エレナは微笑み、頷いた。
「ええ、考えておくわ」
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