君の瞳に囚われて

ビスケット

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母の話

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私は、忽然と現れた人影に言葉を失いましたが、それでもたらいを取り落とさずにいられました。
夫のタオルを早く変えるほうが大切だったからです。たたずむ人影がまとう空気が穏やかだったからかもしれません。
落ち着いてベッドサイドまで歩いて行って、盥をテーブルの上に置くと、もう熱くなってしまった夫のタオルを取り換えました。
そして、ようやく人影をまじまじと見上げたのです。
そして気付きました。私たちの結婚式に来てくれていた夫の友人だと言うことに。
近くで見上げる 夫の友人の横顔は、豪奢な金色の髪を後ろに無造作に撫でつけているだけだというのに、同じ人とは思えない、まるで美神がそこに降り立ったような美しさでした。

彼は、紙のように白くなった夫の顔にひたりと視線を当てたまま、
「突然の訪問を許してくれ。」
と平坦な声で私に言ったのです。
私は首を緩く振ると、
「来て下さって良かったです。今夜が最後になるかもしれないと、治癒師が申しておりました。」
どうやってこの部屋に入ったのか不問にして、私はそう答えました。

「なぜこんな・・・」グラン侯爵家当主であるゼビウス様はそんな言葉をつぶやきました。

そんなとき、ゼビウス様の目が見開かれるのを見たのです。
この方の瞳はいつも温度がなくて、真っ青なガラス玉のようだと思っておりましたが、人形に命が吹き込まれた瞬間のようでした。

「目を覚ましたのか、ロイド。」
ゼビウス様の声に、慌てて夫に目を向けますと、うっすらとまぶたを開けて、愛しい夫がこちらを見ておりました。
「ロイド様、ああ、あなた…。」
ですが私は これ以上言葉を続けることはできませんでした。
こちらを力なく見る瞳に、まもなく命の火が消えることが分かってしまったからです。
そしてその眼差しは、泣きたくなるくらい優しかったのです。
熱に潤んだ紫色の瞳は、まるで雨に濡れた藤の花のような儚さで、私はその美しさを忘れたくないと思いました。
「・・・メアリー。カインは?」
夫のかすかな声が聞こえました。
「部屋で寝ております。ミルクもたっぷり飲んでご機嫌でしたわ」
耳元でそうささやきました。
ふと、夫が、黙って立っていたままのゼビウス様に気付いて可笑しそうに微笑みました。
「ゼビウス・・・。いつも君は急だな・・・」

それに対し、ゼビウス様は夫を見つめたまま、呆然と言葉をこぼされました。
「どうやっても、治癒魔法がかからないんだ。」

ああ、この方は、夫を助けに来たのだと、私はこの時理解したのです。
誰にも知られぬようにこの場に来たのは、おそらくグラン侯爵家の門外不出とされる再生魔法を夫にかけるためだったのでしょう。
王家の承認無しで使うことは許されていない魔法だったはずです。

「・・・そうか。」
夫は慰めるような声音でそう言うと、そんな事はとっくに知っていたのに、とでもいうようにふわりと微笑みを浮かべたのです。
悲しくなるほどさやしい笑みでした。

ゼビウス様の眼差しは、夫の様子の何もかもをらすまいとするかのような、猛禽類のそれに似ていましたけれど、死にゆく友を助けられない哀切が滲み出ておりました。

「・・・頼む」
夫が力を振り絞って体を起こそうとしました。
私がそれを助けようと動くより先に、ゼビウス様が夫を支えてくださいました。

夫は震える腕を伸ばすと、ゼビウス様のお手を取りました。
「どうか、メアリーとカインを守ってくれ」
ゼビウス様の手を両手で握りしめるその姿は、祈りを捧げているかのようでしたが、力を入れて握りしめた手の白さが痛々しい光景でした。

そのとき、急にグラリと夫が崩れました。
ゼビウス様が夫の肩に手を回し、夫の名を呼びました。
私は、ついに来たそのときに、両手を口元にやって体を震わせるばかりでした。

急速に夫の瞳から光が失われていくのが分かりました。それでも、私達のことを頼むと、必死にゼビウス様を見つめて伝えていることが分かりました。
夫の瞳からポロリと涙が一粒こぼれ落ちる瞬間、

「分かった」
ゼビウス様の重たい声が聞こえたのです。
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