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本編

data38:恋を患い、愛を病む

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 ────,38


 心臓がいくつあっても足りない。
 もしヒナトが死ぬことがあったら、死因のところにはソーヤと書かれることだろう。

 ……などと真剣に考えてしまったくらいにはヒナトは追い詰められていた。

 夕食の時間だと知りつつも胸のドキドキが収まらなかったので自室で休憩していたところ、目下その原因と考えられているソーヤ本人による突撃を受けたのである。
 急にドアを叩かれた上にソーヤの声が聞こえたときのヒナトの心情をちょっとは考えてほしい。
 心臓発作で死んでもおかしくない状況だった、いやほんと。

「な、な、な、ん、で、すか!」

 いっそう鼓動の早まった胸を押えながら、必死で答える。

 まったく状況が呑み込めない。
 どうしてソーヤがヒナトの部屋を訪ねてきたのかもわからないが、そもそもなんで部屋番号を知ってるんだ、教えてもないのに。
 落ち着いて考えたらラボの職員に聞けばすぐわかるのだが、今のヒナトにそんな余裕はない。

「何って、もう夕飯始まってんのに来ねえから……さっきもなんか変だったし、おまえ、どっか調子悪いんじゃねえのか?」
「だ、大丈夫です! ちょっとあの、あれですけどっ、元気です!!」

 ドア越しとはいえそこまで大きな声を出す必要はないのだが、ヒナトは焦りも手伝って、なかば怒鳴るようにして言った。

 扉は施錠されているので、ヒナトが開けなければ彼が入ってくることはない。
 わかっていても早くドアの前から離れてほしかった。
 なぜなら今のヒナトは、そこにソーヤがいると思うだけで頭ががんがんして胸がドキドキして目の前がふわふわしてしまうからである。

 切実に距離が欲しかった。適切な距離が。

 ヒナトの回答の勢いに、ソーヤも多少気圧されてしまったらしい。
 少しの沈黙のあと、どこか不満げではあったが、わかった、という声が返ってきた。

「何かわからんけど落ち着いたら来いよ。しばらくしてもまだ来ないようだったらまた来るからな」

 ……なんだその恐ろしい宣言は。
 ヒナトは震えながら頷いた。そんなことをしても扉の向こうのソーヤには見えないということは、頭から抜け落ちていた。

 最後にコン、と軽いノック音を残し、ソーヤは去っていった。

 少しずつ遠ざかっていく足音を聞きながら、ようやくヒナトは胸を撫で下ろす。
 安堵したところでやっと空腹感を思い出すことができたらしく、お腹がきゅるるとかわいい音を立てたので、自分でそれにちょっと噴出してしまった。
 我ながらなんて呑気な胃袋なのだろう、と思った。

 それにしてもいろいろと異常に思えてならないヒナトは、ドアを開けるのをまだ躊躇う。
 ソーヤのしつこさにも驚いたけれど、それよりなによりヒナト自身の肉体を襲った、突然の体調不良ともつかない怪現象についてだ。

 これは放置してはいけない気がする。
 誰かに相談したいけれど、医務部は嫌だし、とりあえずいつものようにサイネとアツキに話してみようか。
 しかしもしこれが病気だったりしたら、ふたりに心配をかけてしまうことになるだろう。

 先に、別の人の意見を聞くことはできないだろうか。
 それも、勝手に他のソアや職員に話してしまわなさそうな人が好ましい。

 悩んだヒナトの脳裏にひとりの顔が浮かぶ。
 まだのことはよく知らないが、あまり広い範囲と付き合いがなさそうなことだけは確かだ。

 (……とりあえず、ソーヤさんがまた来ないうちにごはん食べにいこ……)

 考えるのは食べながらでもいいや、とヒナトはドアロックを解除した。



・・・・・*



 ノックもせずに、ゴム手袋をした手で扉を開けた。
 鍵が開いていることは知っているし、夕食後に自分が尋ねてくることは中の住民も理解しているのだから、先にわざわざ声などかける必要はない。
 それどころか下手に物音を立てて誰かに見聞きされることのほうが厄介だ。

 部屋に入るとサイネはゴム手袋を脱ぎ、手近な机の上に放った。

 目の前にはベッドの端に腰かけたユウラが、どこか観念したような表情でこちらを見上げている。
 もともと目尻の下がった眼の形をしているからか、その顔には哀愁が漂っていて、サイネは込み上げてきた笑いをなんとかこらえなければならなかった。

 そのまま歩いて行って彼の前までくる。
 両手で頬を包むようにしてやりながら顔を覗き込むと、ユウラは一瞬眼を逸らそうとした。
 窓辺から見える春の若葉のような色をした、外にさえ出れば簡単にそこらの女を虜にできるだけの魅力を備えた瞳はしかし、今はかすかに羞恥の色を萌えさせている。

 それを見るとたまらない気持ちになる。
 そして、それこそが己の病だと、サイネは理解してもいる。

「ねえ、どういう気分?」
「……楽しくはないな」
「そう」
「サイネ、その……怒ってるのか」
「怒ってほしいの?」

 ユウラは答えなかったが、この状況でそれは肯定しているようなものだろう。
 外で他の女に話しかけられているユウラを見て、サイネが嫉妬や怒りを感じてくれていたほうが、彼にとっては都合がいいのだ。

「悪いけど、そういう感情はまったくない」
「わかってる」
「それ、理解はしてるけど納得してない、ってことでしょ。じゃあその顔をもっと見せて」

 ユウラの容貌は優れている。
 それは客観的事実であり、サイネも認めている。

 もともと花園のソアは地域地方を選ばない多国籍の素材から造られているので、その外見は否応なしに混血のそれとなり──突出した特徴が均されることで、標準的な顔になる。
 つまりは顔のバランスがよくなり、それによって多数の人間から親近感を得られやすくなるらしい。
 だからソアはたぶん単一民族の集団よりも美形の発生確率は高くなるのだろう。

 サイネ自身は顔の美醜に拘りはないが、ユウラの顔が美しいのはわかる。
 外に出て街行く一般市民のそれと見比べれば一目瞭然だし、柔らかなアッシュブロンドも、恵まれた長身とそれゆえに長い手足も、外では簡単に見つからない。

 基本的に一緒に外出したことはないが、前回のように行先が重なって外でばったり会うことは何度かあった。
 そのとき、こちらの素性を知らない外の女の視線を感じることは稀ではなかった。
 ユウラ本人が黙っていても、ニノリからアツキを通じて、外界の人間に絡まれたという話を聞いたことだってあったのだ。

 今日の女は服装や所持品から推察するに、プライベートではなく仕事で出歩いている風だった。
 ユウラに声をかけたのは何かの勧誘目的だろう。
 外にはこの美しい容姿を活かせるような仕事も存在している。

 もちろん花園のソアには、そんなところに姿を晒す権利などありはしないが。

「断るのにずいぶん手間どってたけど」
「……かなりしつこかった」
「みたいね。おかげで久しぶりに見たわ、アツキのあの顔。ここ最近は穏やかにしてたのに。
 あ、それについてはどう? としては」
「アツキには言うなよ」
「言わない」
「……怖かった」

 本音らしい一言に、思わず噴出してしまう。
 脱力して手を離していたサイネは、気付いたらそのままユウラにもたれるようにして抱き着いていたが、ユウラがそれに構う気配はない。

 まだ少し笑いながら、ユウラの肩を押す。
 もちろん一回りも二回りも小さい女の力でつついたところで彼はびくともしないが、サイネの意図を察したユウラは、ゆっくり姿勢を崩して背後に手をついた。
 サイネはユウラの膝によじ登るようにして、そのまま彼を押し倒す。

 腰の上に跨るサイネの姿は、ユウラからはどのように見えているのだろうか。

「もう一度聞くけど、どういう気分?」
「……それは、昼間の話か? それとも今この瞬間か?」
「どっちも」

 言いながら、サイネは羽織っていただけのジャケットを脱いで、ベッド脇の椅子に投げた。
 シャツのボタンを自ら外し、白無地の下着を露わにする。

 支給の下着には装飾もなく全員同じものだが、いざ風呂場で顔を合わせると、それぞれ風情がまったく異なって見える。
 体型が違えば肌の色もばらばらで、とりわけ色黒のサイネにこの下着の白は眩しい。
 あまりに清楚ぶっていて、先日のレース地のブラウス同様、自分でも似合わないと感じている。

 だが、今は別だ。
 サイネを恍惚の表情で見上げる男がいるのなら、話はまったく変わるのだ。

「昼間は……最悪の気分だった」
「どうして?」
「知らない人間にしつこく絡まれて、ニノリがひどく怯えていた。疲れた。
 それに、……困ってるところをおまえに見られた……」

 ユウラは苦々しい声でそう言って、いつになく嫌そうに顔をしかめた。
 その表情にサイネの背筋がぞくぞくと痺れる。

 彼にも当然だが矜持というものがあって、下手するとそれはサイネのそれより高い位置にすらある。
 普段は大人しく物静かで、高圧的に振る舞うサイネに対して従順な姿しか周囲には見せていないから、傍目からはわかりにくいかもしれないが。
 それでもユウラが従うのはあくまでサイネひとりだけなのだ。

 彼が愛するのも、従うのも、触れるのも、感情を見せるのも、すべてはサイネだけ。
 そうであるというより、そうでありたいとユウラ自身が考えているらしい。

 サイネ以外に心を動かす己であってはならない、という誰に命じられたわけでもない謎の自己基準で己を縛るユウラにとって、他人に振り回される姿をサイネに見られるのはこの上ない屈辱なのだ。

 その感覚自体はサイネもまったく理解できない。
 だが、それで恥ずかしそうにしているユウラを見るのは楽しいし、彼が外の女にどう対処するのかにも興味はある。
 だから黙って観察していたし、アツキさえ動かなければ最後まで介入はしないつもりだった。

「それで、今この瞬間は?」

 少し屈んでユウラのシャツに手をかける。
 そこで無遠慮な手が伸びてきて脇腹を撫でたので、くすぐったさにサイネは身を捩った。

「……もどかしい」
「それなら先に襟のボタンくらい外しておきなさいよ。こうなるのはわかってたでしょ」
「さすがにここまで期待はしてなかった」
「そんなに私に怒られたかったわけ? 呆れた……」

 キスを落とすと、それを逃すまいとする手に首の裏を押えられた。
 熱を交わしながら次第に酸素を失って、ぼんやりとかすんでいく意識の端で、吐息と衣擦れに混じってファスナーを下ろす音が室内に響く。

 怒りや嫉妬など、サイネの内にはほんとうに毛の先ほども芽生えなかった。
 だってそうだろう、ユウラの感情を揺らしていいのはこの世でサイネだけだとユウラ自身が規定しているのに、見知らぬ行きずりの女にやきもちを焼く必要などどこにあるというのだ。
 ユウラの異常な密着癖の相手をしてやれる女が自分の他にどれほどいるというのか。

 だからむしろ嬉しかった。
 きっとユウラはサイネに見られたことに動揺して恥じ入り困惑するとわかっていたから、そしてその情けない顔を自分にだけ見せると知っていたから。

 寡黙で無表情で、感情の起伏が極めて薄いユウラの、困った顔が好きだ。
 敢えてひどい言いかたをするなら、このきれいな顔をサイネのために歪めて苦しんでいる姿を見るのが、サイネにとってはたまらない幸せなのだ。

 もちろん、これもまっとうな性癖とは言えないだろう。
 だからせめて悦い顔をしてくれるお礼と慰めを兼ねて部屋を訪ねた。
 そしてどんな言葉をかけるよりも効果的な方法はこれしかない──あまりに即物的で乱雑な、しかしふたりにはすっかり慣れてしまったひとつの行為。

 恋は勘違いから始まり思い込みで深まるもの、とどこかの本で読んだ。
 それならこれはなんだろう、とサイネは思う。

 人間以上に思い込みの激しいソアが交わす、執着と依存に満ちたこの感情を、いったい何と呼べばいいのか。
 恋と呼ぶには重く、愛と呼ぶには利己的すぎるこれは。

 もし誰かに問われたならば、ユウラを愛しているのだと、答えてしまっていいものだろうか。


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