異世界日帰り漫遊記

御結頂戴

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アコール卿国、波瀾万丈人助け編

2.術の訓練と植物?採取

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 村の宿屋の食事は最低限のもので、パンはお馴染みの穀物パン、スープはお馴染みの塩味ロコンスープだ。おかずは何だかよく解らないけど、柔らかくてほんのり肉の味がするかまぼこのような物だった。

 ムルカちゃんの話によると、この正体不明のおかずはカマテリという保存食で、アコール卿国の村でよく食べられているんだそうな。かまぼこなんだけど何か肉の風味……つくねっぽくもあるが形容しがたい……。
 煮物にしたらうまそうだとは思うけど、例によって調味料は無いんだよなあ。
 まあ、無い物ねだりは仕方ない。

 そうして食事を終えた俺達は部屋に戻って、持ってきて貰ったお湯で手早く体を清めた。基本的に宿には風呂は無いからな。あとは寝るだけなのだが、俺はベッドに入っても眠らずに百科事典をめくっていた。
 無論、ブラックに飲ませる為の睡眠薬かしびれ薬を調べるためだ。
 備えあれば憂いなし。

 しっかし、本当ファンタジー世界の図鑑って面白いよな。
 馬脅かし薬とか何に使うのか解らない薬が結構あるし、材料の項目を見てても飽きない。植物図鑑もすぐ開けるから実にストレスフリーだ。
 ぺらぺらと図鑑を見ていたら、ふと気になる植物を見つけた。

「これは……」


【ハニーターネペント】
 温暖な気候の地域に分布しているネペント種。
 コルメナ種の中でも蜂蜜を体内に持つハニビー・ハニルバーなどの
 ハニー族を好んで捕える。食虫植物で人間に危害を加える事は無い。
 害虫となるハニビーを駆除する為、花卉農家が農地に植える事も有る。
 この植物の中には蜂蜜が蓄えられており、モノによっては非常に上質。
 ハニー族の巣を探すよりもこちらを刈って蜂蜜を採る者が多い。


 この世界のハチは、でっかい。三歳児レベルのでかさだ。
 コルメナ種っていうのはその異世界バチのことで、蜜蜂のように蜂蜜を蓄えるのはハニーと名の付いたものに限られるのだという。
 そんなデカさで花の受粉の手伝いとか出来るのか……? と疑問に思うが、異世界なんだからどうにかなってるんだろうな。
 温暖な気候ってことは、多分この地域にもいるはずだ。

「なあブラック、この辺って蜜蜂はいるのか?」

 隣のベッドでゴロゴロしているブラックの方を向くと、相手は眠そうな目をしながら頬を掻いた。

「んーと……確か…………ヒュカ村の近くには……花畑があったような……」

 そう言いつつ中年はベッドに沈む。俺より疲れてないってのに、もう寝息を立て始めてしまった。なんだろ、冒険者って早寝早起きが身についてるのかな。じゃあ俺も寝た方がいいか。明日も歩くんだもんな。
 図鑑を閉じて、ベッドに潜り込む。
 水琅石の明かりを消すと、俺は枕の横でとぐろを巻いているロクを見つめた。

「おやすみ、ロク」
「ゥ……キュ……キュゥ」

 眠っていても俺の声には反応するらしい。離れ離れになったりしたけど、本当俺の事好きでいてくれてるんだなあ。
 優しく頭を撫でて、俺も目を閉じた。
 良い夢見れますように。







 翌日、筋肉痛の俺は体を引き摺りつつ、ヒュカ村の近くの花畑へと向かった。
 ヒュカ村の近くには川が流れていて、その川を取り囲むように野草が綺麗な花を咲かせているらしい。宿屋の親父さんの話によると、その辺りにならハニーターネペントが居るかもしれないとの事だった。

「ハニーターネペント狙いって事は、蜂蜜が欲しいのかい? 確かに売ればそこそこの収入になるけど……もしハニビーとかが沢山居たら危険だよ」

 俺の横でごちゃごちゃ言いながら、ブラックは寝癖が付きまくった頭を掻く。俺より早く寝たのに、どうして俺より起きるのが遅いんだろうか。そのくせ筋肉痛とか全然なってないんだから本当ムカツク。経験か、やっぱり経験の差なのか。
 くそー俺もこの旅で足腰強くなってやる。
 いや、違う。そうじゃなかったな。今はモンスターの話だ。
 確かに今の俺じゃあ、素早く動き回る蜂の相手は無理だろうけど。

「ちょっと見てムリだと思ったら引き返すよ、無茶はしないって。……まあ、ダメだったら川で水の曜術の練習しようと思ってたし」
「そう言えば曜術自体は全然練習してなかったね。……うん、そうか。良い機会かもしれない。少し練習しようか」

 とりあえず当面の目標はプレイン共和国で【永遠の氷河の保冷缶】を入手する事なんだけど、別にすぐ手に入れたいって訳じゃない。なにより、本当の目的は俺が災厄の力を制御できるようになる事だ。何処かへ行くってのは旅の指針に過ぎないのである。
 だから、術を練習できる暇が有るのならそっちに時間を費やした方がいい。

 本来の曜術の方を鍛錬して行けば、俺の【創造】の術も自然と扱えるようになる可能性もあるからな。
 それに、流石に中級曜術くらいは使えるようにならないと。これから何が有るか分かったもんじゃないし。

「えーと……あっ、花畑ってあそこかな」
「キュー」

 肩に乗っていたロクが嬉しそうな声を出す。確かに、その光景は綺麗だった。
 穏やかな流れの川を挟んで、桃色の花畑が広がっている。
 すっごくほのぼのとした光景だ。
 だけど、その周囲には不自然にでっかくて黄色い瓜のような植物が生えていて、俺はちょっと慄いてしまった。おう、あんな堂々と生えてるのかよ、ハニーターネペントってのは。俺を搾り取ろうとしたアンプネペントの色違いにしか見えないけど、本当に人間を襲わないんだろうなアレ。

「ええと……周囲にモンスターはいないようだね。……うん、丁度いい。ツカサ君、あの植物を使って練習してみようか。まずは初級術からね」
「それは望むところだけど……アンタ、月の曜術師なのによく水や木の曜術の使い方知ってるよな」
「まあ、いらない知識だったけどね。……でも、今はこうしてツカサ君の役に立ててるから嬉しいよ」
「何言ってんの、いらない訳ねーじゃん。こんだけ色々知ってて便利なのに、ムダとか言う奴の気が知れねっつの」

 この世界に来た時なんて、手探りで滅茶苦茶怖かったんだからな。
 物は迂闊に口に出来ないし、動物もどういう生態か解らなくてビクビクしてたし、今思い返してもよく死ななかったなと思う程だ。
 だから、俺は物を知る事が大事だと痛感した。特にこの世界では、物を知る事が重要だと思い知ったんだ。

 日本に居た頃は、本なんて漫画か雑誌か娯楽小説しか読まなかったし、教科書開いたらすぐ寝るタイプだったんだけどな~、俺って。人間、死ぬかもしれないとなると思わぬ力が開花するものだ。

 いやまあ、俺の場合そもそもがファンタジーが好きだったから、図鑑だって娯楽として喜んで読んでたんだけどね。うん。
 ……ともかく、だから、知識は大事だと思うのだ。
 そんな実体験に基づく考えを述べただけなのだが、なんだかブラックは感動しているような顔をして目を潤ませていて。

「…………ツカサくーん……やっぱ好きだぁ……」
「なんだかよく解らんけど抱き着くのやめて」

 このオッサンの泣きどころが未だによくわからん。
 俺の立派な思考に感動したって事なんだろうか。そういう事にしとこう。

「よし、ツカサ君にこれだけ期待して貰ってるんだから、僕もバンバン教えちゃうよ! じゃあ早速木の曜術の初級から始めようか!」

 なんだこいつ、いきなり元気になりやがって。
 訳が分からなくてイラッとしたけど、コーチしてくれるのはありがたいのだ。我慢して説明を拝聴しよう。俺はこれから忍耐も学ぼう。

「で、まずは何をすればいいんだ?」
「そうだね……超初歩であるグロウはもう使えるんだから、今度は攻撃系を覚えてみようか」

 そう言ってブラックが説明してくれた術は、木の曜術の中でも実践に使えると言う【メッサー・ブラット】と言うもの。一言で説明するなら葉っぱカッターだ。
 初級術【グロウ】で手の中の植物を硬化させ尖鋭にし、風の術で対象に突き刺してダメージを与える術で、使いこなせばミニ台風巻き起こしながら無数の葉っぱカッターを出す事が出来る。忍術か。忍術なのか。

 木の曜術師は基本的に直接攻撃する術が少ない、言ってみれば後衛型の術師なので、このメッサー・ブラットも初級術とは言え中級に届く程度の難しさだ。んなもんを俺にいきなりやれっていうんだから、ブラックもわりとスパルタだよな。
 でもやらないとしゃーない。文句を言う前に実践だ。
 とりあえず、やった事のなかった風の術から練習してみる事にした。
 ……何気に【気】を使った術って初めてだな。

「それじゃ、まずは【フロート】……物体を浮かせてみようか。この小石を立った自分の目線まで引き上げる練習だ。操力と集中力を途切れさせずに、気で小石を持ち上げるのを想像して」
「わ、わかった」

 目の大きな石の上に置かれた小石をじっとみて、指をさす。
 【気】で小石を持ち上げるってことは、やっぱり一旦【気】を取り込んで指から流すイメージなのかな。指からビームが出てる感じで行くか。

 あの光の粒が指先に集まるのを想像しつつ、俺は目の前の小石をじっと見つめる。そして、集まった気を小石の下に滑らせて、ゆっくりと持ち上げ……。

「おっと、出来た! うわっ、ちょ、むずいっ落ちそう!」
「持ち上げるんじゃなくて、包もうと思って安定させてごらん」
「あーそっか、包んで上げるって感じね!」

 婆ちゃんがやってたようにあんを皮で軽く包む。これだ。
 小石を気で包んで浮かべる。まだちょっと覚束ないが、それだけで小石はだいぶ安定した。やっぱイメージって大事だな。
 暫くそれを続けていると、俺は自在に小石を動かせるようになった。と言っても指をさしてなきゃ駄目だし、一個が限度だけどね。

「無言で持ち上げるのって大変だろう? ……だから、発声して術を発動するっていうのは、とても大事なんだよ。声を出さずに意識だけで動かそうとすると、意識を解放させる行動がない分、多大な精神力が居るんだ。どんな上級曜術師だって、無言じゃナイフ一本浮かせるのが精いっぱいさ」
「えっ、じゃあ俺の無言修行は無駄って事?」
「そうでもないよ。こんなに早く石を動かせるようになるなんて、そう出来る事じゃない。これならきっとすぐに他の曜術も覚えられる。……さあ、小石を動かすのはやめて、今度はグロウで葉を鋭利にする練習をしよう」

 なるほど、分かったぞ。
 ブラックは俺に一個ずつ術を教えて感覚を慣らしてから、葉っぱカッターを教えるつもりなんだ。確かにそうすると完成形を掴みやすいし、他の術も慌てずにちゃんと使えるようになる。

 でも、グロウで葉っぱを成長させるイメージはなかなか大変だった。
 なんせ想像する葉っぱカッターは、三日月状の鋭いなにかだ。実際作ってみるとなると中々難しい。結局、刃の様に真っ直ぐな形にするのが精一杯だった。
 このあたりはただ単に俺の曜術が未熟なせいだろう。

 でもちゃんと鋭い葉っぱは作れたもんな! 一歩前進!

「よし、これをもっと早く作り上げて、風の術で飛ばすんだ。そうすれば【メッサー・ブラット】の完成だよ」
「まさかフロートとグロウも叫ばなきゃだめなの」
「あはは、そんな事したら頭がこんがらがっちゃうよ。そうならない為に、別の名前が作られたんだからね。この術の名前一つで、フロートとグロウを行えるように想像するんだ」
「うええ……むずい……それって複合曜術って言わない?」
「気の力で使う術は曜術じゃないからねえ。これでも、ただの曜術だよ」

 そんな面倒な。俺にとっては複合曜術と同じ位難しいんだけどお……。
 でもやってみなきゃしゃーないか。気合入れて、もう一度。

「めっさー……ぶらっと……ん? 違うな。メッサーで、グロウして……ブラットでフロート……メッサーでグロウ、ブラットでフロート……」

 とにかく体で覚える、意識しないぐらいにイメージを固める。
 口で言うのは簡単なんだけど、刃にする葉っぱに集中すると、次の行程に意識が行かない。この世界って【術】自体に力が有る訳じゃないし、あくまでも【術】を作って発動するのは本人のイメージだから、貧弱な想像だと上手くいかないんだよな……。でも段々精度は上がって来たぞ。

「もう昼過ぎか……。うん、丁度ツカサくんも【メッサー・ブラット】を使えるようになってきたし、実戦練習してみようか」

 えっ、俺達が花畑に来たのは朝だったのに。
 それだけ集中してやってたのか……凄いな俺、授業なんか殆ど寝てたくらい勉強嫌いだったのに。いや、まあ、これは勉強って言っても魔法の勉強だもんな。自分の熟練度も目に見えて解るし、その分熱中できたのかも。
 しかし実践かあ。大丈夫かなあ……。

 ちょっと不安だけど、まあ相手は人間には危害を加えないモンスターだ。
 ……それをモンスターって言っていいのかは謎だけど、うん、まあ、許せ。俺の為にお前が蓄えている蜂蜜が必要なんだ。無駄にしないから斃させてくれ。

「充分距離を取って……さ、やってみよう」
「……よし」

 気合を入れて、深呼吸をする。
 真正面にハニーターネペントを捉えて、俺は相手を見据えた。

「葉っぱの刃…………風を巻き起こして……圧縮した風で……突き刺す」

 一つ一つ間違わないように、言葉でイメージを固める。
 すると先程よりスムーズに行って、俺の手の中には数枚の葉っぱの刃が出来上がった。それをゆっくりと浮かび上がらせて、視界で標的を絞る。
 そうして、勢いをつけて……。

「行けっ、メッサー・ブラット!」

 発破をかけるように、指さした場所に一直線に刃が飛ばされるように――
 風で押し出す!

「おおっ」

 ブラックの感心したような言葉が隣で聞こえたと同時、勢いよく飛び出した葉の刃がハニーターネペントの下部に突き刺さった。
 よっし狙いはばっちり!
 壺の部分を傷つけたら蜂蜜がこぼれちゃうからな。
 だけどまだまだ丈夫な相手は、少し小さな傷を付けられただけでは倒れない。
 ぼいんぼいんと跳ねながらも体勢を戻す。俺はその辺の草をむしって、第二弾を用意した。取り込んだ曜気を掌全体に溜めてから、草を握って素早く刃を作る……なんとなく解って来たぞ。

 曜気を凝縮して、言葉でイメージを固定。そして術名で発射。
 詠唱とかってただの中二病かと思ってたけど、あれはイメージをちゃんと脳内で作る為でもあったんだろうな。今なら解るぞ。呪文を使うのはちょっと恥ずかしいけど、まあここはファンタジー世界だから許されるだろう!

 五度目のメッサー・ブラットで、ついにハニーターネペントが倒れる。
 集中的に根っこに近い部分を攻撃していたので、壺は無事だ。この世界にレベルの概念はないけど、俺ってばこれで絶対レベル上がってるだろ。ふふん。
 周囲にモンスターがいない事を確認し、俺達はハニーターネペントに近付いた。黄色いネペントは、森に居た奴と比べると小ぶりだ。
 大きさ的には、俺の背丈とあまり変わらない。

 でも、倒れた壺の部分を起こしてみるとだいぶん重くてかなりの重量だった。
 本当ならこの場で中から蜂蜜を採り出すんだけど、今の俺にはそれは必要ない。
 デカブツを収納できる【スクナビ・ナッツ】というカプセルが有るからな!

 ナッツをかざして気を送ると、ハニーターネペントは瞬時に消え去った。
 これも曜術師にしか使えない曜具らしく、こんなに使い勝手がいいのに普及していないってのが悔やまれる。
 普及してたら多分魚も生臭くなかったんだろうになあ……。
 閑話休題。解体は宿に帰ってからにしよう。

「それにしてもツカサ君、よく補助呪文の使い方を知ってたね」
「え? ……ああ、あの、術を発動する前にブツブツ言ってた独り言?」
「そうそう、曜術師は術の威力を高めたり安定させるときに、自分だけの補助呪文を詠唱するんだよ。特に決まった文言はないし、人によっては記述拒否されるような言葉を使う事も有るから……決まった文言のある曜術以外は、指南の本とかには載ってないんだけどね」

 記述拒否される呪文って、どういう言葉を使ってんだろうか。
 ちょっと気になったけど、俺もロクなこと言ってなかったような気がするから何も言わない。でも補助呪文か。慣れない内は積極的に使って行こうかな。
 ともかく、宿に帰ったら蜂蜜瓜を捌いて調合や加工するぞ!








 
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