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断章 かつて廃王子と呼ばれた獣
19.人族の大陸へ1
◆
長い間放浪生活をしていたクロウクルワッハは、既に王子である時の姿を捨て、獣同然の暮らしを続けていた。
人の姿で誰かと会う事も無くなったので、服を捨てた。
誰かと喋る事も無くなったので、言葉を捨てた。
ただ、そこいらで互いを食い合うモンスターに混じって肉を食らう。
調理されているわけでもない、毛皮もあれば不味い脂もついている生肉を。
しかしそれで獣の本能は満たされ、生きていくのには十分だった。
いや、身に余る幸福と言うものかもしれない。
初めて何者からも感情のこもった眼で見られず、蔑まれ嫌われもせず、ただ自分のやりたいことだけを出来る生活は、クロウクルワッハにとって快適が過ぎた。
時折己が追放されたことを思い出し、暗い洞穴の中で過去の苦しみが蘇ってくる事に発狂することがあったが、それとて誰かを思って我慢するでもない。
誰もクロウクルワッハの事を知らないが、代わりに誰も害することは無いのだ。
……ここには、大事な人など存在しない。
だからもう、大事な人が死ぬ事も無い。
そんな生活は、生まれてからずっと誰かが近くにいた王族のクロウクルワッハにとって、新鮮であり何もかもが別世界のような暮らしだった。
頭の中に存在するのは食欲と睡眠欲だけ。本当に獣のような……いや、生殖機能すら使わない自分は獣以下なのだろうが、それでも獣として生きようとする生活は、様々な物に疲れてしまったクロウクルワッハには心地よかった。
どうせ、家畜以下の畜生に落ちようが、もう誰も自分を気にはしない。
――――心の中に罪悪感はあったが、全てを忘れてしまいたかった。
そんな生活を続けて、何年経ったのか。
最早ヒトの姿すら忘れそうになっていた頃……体にぼろきれを纏った……いや、他の強力なモンスターから命からがら逃げて来たのだろう、みすぼらいいヒトの姿の獣が、クロウクルワッハの棲む洞穴に辿り着いたのだ。
……最初、誰なのか分からなかった。
いや、頭が「だれか」だと理解するのを拒否していたのかも知れない。
追放されてから今まで、クロウクルワッハは人の姿をした獣人と会う事は有っても、彼らには決して獣の姿以外を見せず、言葉も最低限しか交わさなかった。
そうして交流を極限まで立ち、洞穴での生活を続けてきたのだ。
……そうでもしなければ、記憶の中の顔を思い出してしまいそうだったから。
自分に向けられる憎しみの表情など、もう二度と見たくは無かった。
だから、忘れたふりをして本当に記憶の奥底にしまいこもうとしていた。
けれども現実と言うのは残酷なもので。あれだけ忘れたいと思っていた過去の自分を知る人物の姿……みすぼらしい姿になってしまったシーバが洞穴を探し当てた時、クロウクルワッハは無意識に思い出を拒否しようとしたのだ。
しかしそれは許されなかった。
みすぼらしいボロ布を纏った“二つ目”の痩せ狼は、薄汚れた耳と尻尾を嬉しそうに動かしながら、自分に向かって膝を折った。
そうして、まるで「恐悦至極」とでも言わんばかりに頭を下げたのだ。
「やっと……やっと、お会いできた……!」
涙声でそんなことを言われて、クロウクルワッハは何も言えなかった。
そのシーバの言葉だけで、自分がどれほど部下達に心配され探されていたのかを知ってしまったからだ。数年ぶりの部下の顔は、それほどまでに疲れ果てていて、昔の凛々しい顔など嘘のようにくしゃくしゃと顔を歪めて泣いていた。
彼らは、王直属の兵士というせっかくの厚待遇を得られてもなお、クロウクルワッハを隊長と仰ぎ、恩を捨てきれずに報いようとしているのだ。
普通は、会いに来てくれて嬉しいと言うべきなのだろう。
だが、この時のクロウクルワッハの心の中は……部下に申し訳なく思うほどに、今の状況から逃げてしまいたいと言う気持ちしかなかった。
――――私は、またあの場所に戻らなければならないのだろうか?
二度と戻れないと思ってはいたが、呼びだす口実などいくらでもある。部下の善意に付け込んで、クロウクルワッハに再度の制裁を加える可能性は十分にあった。
いや、そうであろうとクロウクルワッハは思い込んでしまっていたのだ。
それほどまでに、心の傷は深いものになっていた。
だが、だからと言ってこんな姿になってまで探しに来た部下を無碍には出来ない。
「ありがた迷惑だ」と言えればまだマシだったのだろうが、クロウクルワッハにはそう言えるほどの度量も勇ましさも無かった。
そんな弱い獣の上司に、シーバは切々と訴えかける。
残った部下達が、ドービエルにクロウクルワッハの追放撤回を申し出たこと。
ドービエルや王妃達は心から心配しており、捜索に協力してくれたこと。
そして今も、スクリープやタオウーといった残りの部下が各地に飛び、国王であるドービエルの任務を行う傍ら、ずっと自分を探し続けていたこと。
……シーバの口は止まらず、私情交じりの言葉で自分達がいかに隊長の帰還を待っているのかということを熱く語った。
彼らのその気持ちは嬉しかったが、しかしクロウクルワッハは既に王宮へと戻って戦う気力すら失われていた。
部下達が不当な扱いを受けていないのなら、もう放っておいてほしかったのだ。
だが、シーバは諦めなかった。
仲間達に伝達したのか、生き残りの部下が次々に洞穴へやって来た。
逃れられない訴えに、また心が追い詰められていく。
しかしそんなクロウクルワッハの姿を見て、スクリープが思ってもみない提案を皆に打ち出したのだ。
それは――――人族の大陸に渡る、という選択肢。
彼らからすれば、クロウクルワッハが洞窟で獣として暮らしているのに耐え切れず、元々の“強い隊長”を取り戻してほしかったらしい。
だが、王宮での扱いを見れば決して獣人の世界に戻るのが適切とは思えない。
それゆえに、人族の大陸で傭兵の仕事でもしないか、と……そういうことだった。
――――人族の大陸。
かつて、母スーリアやドービエルが語っていた、自分達とは異なる種族が支配している広大で豊かな大陸。
「常春、常冬」という四つの気候に別れた国々が集い、特殊技能ではない“曜術”と言うものを使う人々が存在している、不可思議な場所。
大人になってからも、遠くから数度人族の姿を見た事がある。
自分達のように目立った筋肉などは見受けられなかったが、しかし彼らもまた知性が在り、その知識や手腕はどうかすれば獣人よりも上のように見えた。
とはいえ、武力の差で相手を評価する自分達獣人にとって、人族はみな弱く下等な生物であるがゆえ、見下す対象となっていたが……しかしクロウクルワッハからすれば、彼ら人族がモンスターのような下等な存在にはとても思えなかった。
そんな人々がいる大陸への、移住。
誰も自分達の素性を知らない、獣人も少ない場所への移動。
スクリープの最大限の譲歩に、クロウクルワッハは悩んだが……しかし、今のまま生きていても部下達を心配させるだけだと思い、彼らの案に了承した。
……救われたかったのは事実だが、その決断の大部分は、やはり……部下達への贖罪の気持ちが強かった。
彼らを過酷な状況に陥らせたのは自分の責任だ。
その責任から逃れられるはずもなかった。
数年逃げ続けていても、結局のところ逃げ切れなかったのだ。
だから、頷くしかなかった。
追放されても責任を負わねばならないのなら、彼らが望む通りに動かねばならないのだろう。ただただ、クロウクルワッハはそう思っていた。
――――そうして、クロウクルワッハと数人の部下達は秘密裏に移動し、港町から人族大陸へ向かう船に乗った。
初めて乗り込んだ「船」という乗り物の異質さや、異常な強さを誇るモンスター達の根城である「海」を“渡る”という行為は、クロウクルワッハだけでなく部下達をも強く恐怖させ、船に乗ると言う選択肢を今後思いつかぬほどの体験を植え付けた。
海を渡るという行為は、獣人にとってそれほどのものだったのだ。
しかし、そんなクロウクルワッハの新たな心の傷など気にもせず、船は当然のように港へと到着した。人族が働き、人族が暮らす港へ。
…………ついに、ここまで逃げてきてしまった。
スクリープ達の提案とはいえ、そんな気持ちが思い浮かぶ。
だが、クロウクルワッハは内心、自分の都合で人族の大陸にやって来たという思いの方が強かったのかも知れない。
何故なら、あのまま洞穴に居続けたら、もっとまずい状況になるだろうという予感があったからだ。
……部下達に探し当てられたことで、王族との繋がりが復活してしまった。
きっと、シーバの報告は国王だけでなく他の者にも届いているだろう。
だとすれば、兄弟達や他の王族といった“自分を疎んでいる人々”にその話が伝わるのは、そう遅い事ではないはず。
そうなると……また、攻撃されるかもしれない。
クロウクルワッハの心の傷が数年経っても癒えなかったように、彼らの長年の蔑みや憎しみもまた、数年程度で収まるはずもないだろう。
下手をすれば、殺そうとして兵士を差し向けてくるかもしれない。
そんな恐怖と煩わしさがあったからこそ、この大陸に来たのだ。
――――ここならば、少なくとも王族の追手は来ないだろう。
人と付き合う事は未だ難しい行為になってしまっているが、それでも「自分を害そうとする者がいない」と安心できる場所は、クロウクルワッハの心を安らげた。
ここで心機一転、傭兵として生きていく。
まだ獣人達もほとんどいない大陸の地を踏みしめながら、クロウクルワッハは決心を固めて拳を握った。
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