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第三話 人懐っこい男
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「あ、ええと、ありがとうございます」
男の人からキーケースを受け取って立ちあがり、ハートの水晶を隅々まで見つめる。
水晶は太陽の光を反射し、キラキラと輝く。
よかった。割れてもいないし、傷ついてもいない。
安心から小さく息をつくと、キーケースを拾ってくれた男の人も立ちあがり、にこりと笑った。
「大事なものなんですね」
「え?」
「さっきまで不安そうな顔をされていたので」
「ええ、まぁ……」
なんなんだ、この人。
色素の薄い髪は柔らかそうな猫っ毛なのに、その表情と雰囲気は人間大好きな柴犬みたいに見える。
黒のチェスターコートの下にくるっと丸まった尻尾が生えていてもおかしくはない。
それくらいに人懐っこいというか、慣れ慣れしい人に感じた。
そんな彼はなぜか、はたと気づいたような顔をし、上がりきった両の口角を緩めて、口を開いた。
「あ、そうそう。お姉さん、今ってお暇ですか?」
今、暇? ってこの人、ナンパ目的だったの?
猫っ毛な柴犬に、私は眉を寄せていく。
「暇じゃな」……いです、と言おうとしたところで、私は言葉を止めた。
視界の端に走ってくるオジサンの姿を捉え、その人はこちらに向かって大声で叫んできたのだ。
「おーつか! 鍵忘れてんぞ」
「え、あホントだ。松木さんありがとうございます」
柴犬男はコートのポケットに手を突っ込んでごそごそと漁り、振り返って呑気な声を出した。
「おうおう。仕事サボってナンパかぁ~?」
鍵を渡したオジサンは、にやにやとした笑みを浮かべて、大塚と呼ばれた男を肘で小突いた。
大塚さんは、松木さんと呼ばれたオジサンの言葉に反抗するかのように、口を尖らせていく。
「違いますよ、宣伝です。お客さんいないと仕事できないですもん」
「しごと?」
ナンパじゃなかったんだ、と安心する一方で、誤解してしまってなんだか申し訳ない気持ちになった。
大塚さんは私の言葉に、きょとんとした顔を浮かべている。
そしてようやく、松木さんからだけでなく、私からもナンパ男だと勘違いされていたことに気付いたのだろう。
人懐っこい笑顔が、次第に気まずそうなものへと変わっていった。
「ええと、そうですよね。びっくりさせてすみません。僕、静川町役場の事務員をしていまして。ここのプラネタリウムの解説員も兼業しているんです」
「え、嘘! 閉館したんじゃ……」
聞き捨てならない台詞に耳を動かした私は、思わず声をあげた。
「残念ながら閉館はしますけど、来月の二月二十五日までやっていますよ。ほら、ここにも書かれているでしょう?」
大塚さんが、さっきの張り紙を指差していく。
確かによくよく読みこんでいくと、ちゃんと閉館日が書かれていた。
「でも、誰もいないですよね」
二十年近く前、ここはいつも子どもたちでにぎわっていたように思う。
だが今は、ガラス扉の向こうに見える待機場所のロビーには、人っ子ひとりいない。
さらには電気すら付いておらず、薄暗い室内は閉館しているようにしか見えなかった。
「まぁ、人がいないのも当然です。鍵、開けてませんし」
松木さんから受け取った鍵を、大塚さんは見せびらかすように左右に振っていく。
鍵が、開いてない……?
全くもって意味不明なんだけど。
わけもわからないまま立ち尽くしていると、オジサンの松木さんが察してくれたのか、困ったような顔で解説をしてくれた。
「あー。このプラネタリウム、ここ何年も採算全く取れねーんですよ。それで、解説員は町役場職員と兼業になってましてなぁ。そういうわけで、ずっと開けるわけにもいかなくて。こうやって投影四十分前に扉を開けに来る、ってわけです」
「なるほど……」
さすがにおじいちゃん先生が現役で解説を続けているわけはないか、と少しばかり落胆する。
「ま、開けたところで平日はほとんど人いないし、客が来ずに投影しないまま終わるってこともざらだったり……って、お前はそんな顔すんなよ」
松木さんはそう言って、しょんぼりとする大塚さんの肩を元気づけるように叩いた。
「なのでお姉さん、お暇でしたらどうです……? なかなかいいもんですよ、プラネタリウム。大人三百円です」
寂しげな顔で、呟くように大塚さんは言う。
さっきまでは天をつくように上がり、左右に振られていた柴犬の尻尾が、だらりと垂れさがっている幻覚が見えたような気がした。
「はぁ、いい加減にしろよ。すみませんね、コイツが」
呆れたような顔をした松木さんは、大塚さんの首を腕でロックし、ぐりぐりと頭にこぶしを押し付けていく。
「うわっ、ギブ! だからギブですって。松木さん、ああもう、痛いから!」
来月で閉館、か。
一月も始まったばかりだから、二月の二十五日まであと一カ月ちょっとしかない。
涙目になりながら必死にげんこつから逃れようとする大塚さんに、私は思い切って声をかけた。
「あの、今日の投影は何時からです?」
その言葉に大塚さんの顔は、花開いたかのように明るくなっていく。
「一回目は十一時半、あと四十分くらいです。二回目は十五時半になります!」
「な、ちょっとお姉さん! 無理しなくて良いんですよ」
松木さんは、そう言ってくれるけれど、プラネタリウムがまだ閉館していなくて喜んだのも事実。
ひょっとしたら、懐かしいプラネタリウムを一人で占領できるかも、なんて淡い期待を抱いたのもまた、事実。
私は首を横に振って、抑揚をつけずに淡々と語った。
「無理なんかしてません。実は私、ここに思い出があって。閉館前にもう一度観てみたいんです」
男の人からキーケースを受け取って立ちあがり、ハートの水晶を隅々まで見つめる。
水晶は太陽の光を反射し、キラキラと輝く。
よかった。割れてもいないし、傷ついてもいない。
安心から小さく息をつくと、キーケースを拾ってくれた男の人も立ちあがり、にこりと笑った。
「大事なものなんですね」
「え?」
「さっきまで不安そうな顔をされていたので」
「ええ、まぁ……」
なんなんだ、この人。
色素の薄い髪は柔らかそうな猫っ毛なのに、その表情と雰囲気は人間大好きな柴犬みたいに見える。
黒のチェスターコートの下にくるっと丸まった尻尾が生えていてもおかしくはない。
それくらいに人懐っこいというか、慣れ慣れしい人に感じた。
そんな彼はなぜか、はたと気づいたような顔をし、上がりきった両の口角を緩めて、口を開いた。
「あ、そうそう。お姉さん、今ってお暇ですか?」
今、暇? ってこの人、ナンパ目的だったの?
猫っ毛な柴犬に、私は眉を寄せていく。
「暇じゃな」……いです、と言おうとしたところで、私は言葉を止めた。
視界の端に走ってくるオジサンの姿を捉え、その人はこちらに向かって大声で叫んできたのだ。
「おーつか! 鍵忘れてんぞ」
「え、あホントだ。松木さんありがとうございます」
柴犬男はコートのポケットに手を突っ込んでごそごそと漁り、振り返って呑気な声を出した。
「おうおう。仕事サボってナンパかぁ~?」
鍵を渡したオジサンは、にやにやとした笑みを浮かべて、大塚と呼ばれた男を肘で小突いた。
大塚さんは、松木さんと呼ばれたオジサンの言葉に反抗するかのように、口を尖らせていく。
「違いますよ、宣伝です。お客さんいないと仕事できないですもん」
「しごと?」
ナンパじゃなかったんだ、と安心する一方で、誤解してしまってなんだか申し訳ない気持ちになった。
大塚さんは私の言葉に、きょとんとした顔を浮かべている。
そしてようやく、松木さんからだけでなく、私からもナンパ男だと勘違いされていたことに気付いたのだろう。
人懐っこい笑顔が、次第に気まずそうなものへと変わっていった。
「ええと、そうですよね。びっくりさせてすみません。僕、静川町役場の事務員をしていまして。ここのプラネタリウムの解説員も兼業しているんです」
「え、嘘! 閉館したんじゃ……」
聞き捨てならない台詞に耳を動かした私は、思わず声をあげた。
「残念ながら閉館はしますけど、来月の二月二十五日までやっていますよ。ほら、ここにも書かれているでしょう?」
大塚さんが、さっきの張り紙を指差していく。
確かによくよく読みこんでいくと、ちゃんと閉館日が書かれていた。
「でも、誰もいないですよね」
二十年近く前、ここはいつも子どもたちでにぎわっていたように思う。
だが今は、ガラス扉の向こうに見える待機場所のロビーには、人っ子ひとりいない。
さらには電気すら付いておらず、薄暗い室内は閉館しているようにしか見えなかった。
「まぁ、人がいないのも当然です。鍵、開けてませんし」
松木さんから受け取った鍵を、大塚さんは見せびらかすように左右に振っていく。
鍵が、開いてない……?
全くもって意味不明なんだけど。
わけもわからないまま立ち尽くしていると、オジサンの松木さんが察してくれたのか、困ったような顔で解説をしてくれた。
「あー。このプラネタリウム、ここ何年も採算全く取れねーんですよ。それで、解説員は町役場職員と兼業になってましてなぁ。そういうわけで、ずっと開けるわけにもいかなくて。こうやって投影四十分前に扉を開けに来る、ってわけです」
「なるほど……」
さすがにおじいちゃん先生が現役で解説を続けているわけはないか、と少しばかり落胆する。
「ま、開けたところで平日はほとんど人いないし、客が来ずに投影しないまま終わるってこともざらだったり……って、お前はそんな顔すんなよ」
松木さんはそう言って、しょんぼりとする大塚さんの肩を元気づけるように叩いた。
「なのでお姉さん、お暇でしたらどうです……? なかなかいいもんですよ、プラネタリウム。大人三百円です」
寂しげな顔で、呟くように大塚さんは言う。
さっきまでは天をつくように上がり、左右に振られていた柴犬の尻尾が、だらりと垂れさがっている幻覚が見えたような気がした。
「はぁ、いい加減にしろよ。すみませんね、コイツが」
呆れたような顔をした松木さんは、大塚さんの首を腕でロックし、ぐりぐりと頭にこぶしを押し付けていく。
「うわっ、ギブ! だからギブですって。松木さん、ああもう、痛いから!」
来月で閉館、か。
一月も始まったばかりだから、二月の二十五日まであと一カ月ちょっとしかない。
涙目になりながら必死にげんこつから逃れようとする大塚さんに、私は思い切って声をかけた。
「あの、今日の投影は何時からです?」
その言葉に大塚さんの顔は、花開いたかのように明るくなっていく。
「一回目は十一時半、あと四十分くらいです。二回目は十五時半になります!」
「な、ちょっとお姉さん! 無理しなくて良いんですよ」
松木さんは、そう言ってくれるけれど、プラネタリウムがまだ閉館していなくて喜んだのも事実。
ひょっとしたら、懐かしいプラネタリウムを一人で占領できるかも、なんて淡い期待を抱いたのもまた、事実。
私は首を横に振って、抑揚をつけずに淡々と語った。
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