たとえ愛がなくても、あなたのそばにいられるのなら

魚谷

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 マグウェル王国王都ガルムハイム。
 その貴族街にある屋敷にて、二十歳のハイネ・ゼム・ヴェルンハイムは自分の部屋で、帳簿の数字を追っていた。
 腰まで届く麗しい銀髪に、形のいい眉、ぱっちりとした二重の瞳には金色の虹彩。
 ハイネが真剣な顔で見ているのは帳簿だ。
 一年前、父が投資で失敗をしたせいで多額の借金を負った。
 酒に逃げて無気力になった父に代わり、借金返済のための方策を練るためにここ一年近く、領地経営を行っていた。
 領地管理人との連絡を密に行い、不必要な土地を整理し、新しい作物の導入など少しずつ進め、借金の返済に目処が立ちそうなところまできていた。

(タウンハウスを処分しなきゃいけないけど、それをお父様やお義母様が許容できるかどうか)

 絶対にしてもらわなければならない。
 さもなければ、伯爵家はおしまいだ。
 その時、ノックの音が聞こえた。

「はい」

 執事が顔を出す。

「ハイネ様。旦那様がお呼びでございます。応接間へいらしてください
「分かったわ」

 どうして応接間なのだろうと思いつつも腰を上げた。
 窓ごし、屋敷の敷地内に見馴れぬ馬車が停まっているのが見える。
 心の中で不安が過ぎるのを意識しつつ、一階に降りると応接室に入る。

「お父様、失礼いたします」

 父は珍しくワイシャツにベスト、ジャケットにスラックス姿。
 その右隣には化粧をして穏やかな顔の母。
 そして両親と向かいあうように座っているのは、下膨れの顔をした初老の男性。
 男性の値踏みするような不躾な眼差しに、不快感がこみあげる。

「お父様、お呼びとうかがいました」
「座れ」
「失礼します」

 父の左隣に座る。

「侯爵様。娘のハイネです」

 侯爵と父に呼ばれた男は、下品な微笑を浮かべた。

「さすがはヴェルンハイム伯爵家の白銀と呼ばれただけのことはある。やはり美しい」
「……お父様、こちらの方は」
「エッケン・ヴァン・ドラウム侯爵だ。お前も名前くらい聞いたことがあるだろう」
「え、ええ」

 ハイネは小さく頷く。
 それは決していいとは言えない噂と共に。
 鐘にがめつく、貪欲。金を得るためには手段を選ばず、貴族でありながら裏社会との繋がりが噂される曰く付きの人物。
 まともな貴族は決して彼には近づかない。
 つまり、父はそういう男を家に引き入れたのだ。
 膝に乗せた手の平がじっとりと汗で湿る。
 エッケンは家主の断りもなく、葉巻に火を付ければ、甘ったるい香りが部屋に満ちていく。
 灰は何の躊躇いもなく、無造作に床へ落とした。

「侯爵様が我が家の借金を肩代わりしてくださると言うんだ」
「私生児であるお前がようやく役に立つ時がきたのよ。あぁ、素晴らしいわ。これでようやくお金の苦労から解放されるんのよぉ!」

 二人は目を爛々と輝かせ、頬を上気させる。

「……条件は何ですか? まさかまったくの善意という訳ではないですよね」
「お前だよ」
「あなたよ」

 両親は当然のように言った。
 全身から血の気が引く。

「……ど、どういうことですか」
「儂の愛人になる。それが条件だ」

 エッケンがにたりと笑う。

「侯爵様は素晴らしい方だ。きっと大切にしてくださる」
「そもそも、お前に卑しい女の血が流れていながら愛人として受け入れて下さるだけ幸せなことよ。侯爵様の広い心に感謝しないと!」
「そろそろ新しい愛人が欲しいと思っていたところでね、ほうぼうで物色していたところなんだ。本当にちょうど良かった」

 ゲヘヘと、侯爵は濁声の笑みを滲ませた。

「ありがとうございます、侯爵様。本当にありがとうございます」
「これで我が家は安泰。娘は世界一の果報者ですわっ」

 この二人は娘を笑顔で、何の躊躇もなく娘を売ろうとしている。
 所詮、自分は父が気まぐれに作った私生児にすぎないのだと痛感してしまう。
 彼らに肉親の情など求めることだけ無駄だった。
 ここ一年、母から罵詈雑言を浴びせられ、酒に酔った父からは暴力を振るわれながらも、幼い頃に引き取ってもらい、ここまで育ててきてもらった恩を返すためにあくせく働いてきたこともなにも、この人たちには響いてなかったのだ。
 彼らの頭にあったのは、楽に借金を帳消しにすることだけ。
 そのためには、ハイネがどうなろうとどうでもいいのだ。
 頭がぐらぐらと揺れ、鼓動がドクドクと嫌な音をたてながら脈打つ。
 両足を踏ん張っていなければ、倒れてしまいそうだ。

「おい、何をぼけっとしてるんだ。侯爵様に感謝するんだ」

 父が目を吊り上げた。
 侯爵を見つめる。
 彼は当たり前のように、ハイネからの言葉を待っている。

「……っ」

 口を開くが、喉が見えない手で締め上げられでもしたみたいに声は出ない。
 変わって、視界が滲む。

「ハイネ! いつまで黙っているんだ!?」

 激昂した父が頭を掴み、無理矢理にでも頭を下げさせようとする。
 刹那、ハイネの中で何かが切れた。

「やめてっ!」

 父の手を振り払い、部屋を飛び出した。
 使用人が呼び止める声も無視して、曇天の空模様の下、飛び出した。
 すでに生みの母のいないハイネには、行き場などない。
 いや、昔はあった。しかしそれはもうなくなってしまった。
 頼れる人ももうどこにもいない。
 どれだけ街を彷徨い続けたのか分からない。
 やがて、ぽつぽつと雨が降りはじめる。
 針のような小雨から、肌を叩く雨粒に変わるのはあっという間。

「――ハイネ様……?」

 ぼんやり空を見上げているところにかけられた声にはっとし、そちらを見る。
 それは、公爵家の執事だった。
 慌てたように駆け寄る。

「どうなされたのですかっ!」

 どうやら無意識のうちに、公爵家に来てしまったらしい。

「……アーサーは、いますか」
「いえ、公爵様は今、任務に出ておられます」
「アーサーに、お願いがあって……」

 自分でも耳触りと思ってしまうほど声はざらついていた。
 しかし心身ともに疲弊した今のハイネにはそんな声しか出せなかった。

「承りました。とにかく雨も降っておりますから屋敷へお入りくださいっ」
「いえ、ここで待ちます。ご迷惑はおかけしませんから」
「いけません。風邪を召してしまいます!」
「そういう訳にはいきません。アーサーの許しもなく、屋敷に入るわけにはいきません。私なら大丈夫です。お願いです。待たせてください」
「ハイネ様」

 頑ななハイネの態度に説得を諦めた執事は、メイドに言って傘を持ってこさせた。
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