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プロローグ

05 父と母

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 なんとなく気まずい空気が流れたまま、律は帰宅する。帰るや否や、異質なスマートフォンが鳴動する。電話だ。ツノじい・・・枝角若草の名前が表示されている。

「もしもし」
『お帰りのようですね』
「なっ・・・監視してたの?」
 律は背筋が凍る。今朝もバスに若草が乗ったいたのは偶然なんかじゃない。監視している。律はそう思った。
 その通りであった。若草が渡したその端末はプライバシーなど関係なく、律の位置情報を彼に提供していた。

『今朝の話の続きをと思いまして』
「な、なんだよツノじい・・・つーかこのスマホ、全然操作出来ないよ」
『その端末の操作は後ほど・・・これから話す内容によっては、それは不要になりますから』

 律はベッドの上で正座する。そして若草の声に耳を傾けた。その優しい言葉で彼は改めてお願いをする。昨日は律が眠っていて、聞いていなかったであろうそのお願いを。それが全てだった。

『小姫お嬢様のボディガードになって欲しいのです』

 律は全く想像していなかったその言葉に慌てる。ボディガード。それは映画でしか見た事のないような存在だ。警護対象を守る、黒服でサングラスしてて、屈強な肉体を持つような仕事。
 敵が向けた銃弾にその身を盾にしても守る仕事。それが彼のイメージである。自分とは程遠い。

「なっ、何言ってんだよ」

 そして、枝角若草は爽奏律へ、無責任にもその言葉を投げかける。

 投げかけてしまったのだ。

『小姫お嬢様をお守りできるのは、律さん。あなたしかいません』

 その言葉に、律は鳥肌が立つ。

(俺にしか出来ない事・・・)

 鹿美華小姫は得意な体質故にその身体を狙われている。そして、その体質等関係なく触れる事の出来る律。
 昨日の雨の日だってそうだった。律が小姫を何事もなく、抱えたり、安心させる為に手を握った事、それが出来るのは、爽奏律。ただひとりだけなのだ。
 律は自分が適任である事について改めて認識する。それでもボディガードなどという言葉を使われるとそれは重荷であった。
 彼は律は良くも悪くもただの男子高校生である。そんな判断を直ぐにすることは出来ない。

「ん、んなこと出来ないよ」

『返事は急ぎません。けれども、決断は早いに越した事はありません。要件を書いた書類を郵送済みです。今晩には届くでしょう』

 そう言って、電話が切れる。

(ボディガード?俺が?)

 鹿美華小姫の姿が律の頭の中に映し出される。それはいつかの学校の日。誰にも触れてほしくない、肌の露出を抑えた年中ジャージ姿。
 雨の日に彼女を助けた。綺麗な顔をしていた。律は思い出す。どことなく〝静けさ〟を感じる、その姿。



 その書類は、電話の後にすぐに奏爽律宛に届いていた。週刊少年漫画誌を半分ぐらいにした厚みのA4の書類が〝S3〟というロゴが記された封筒に入っていた。
 S3エスキューブはS鹿美華SシークレットSサービスの3つの頭文字エスの略である。律はその封筒を開ける。

 そこには律への依頼文と題された書類が1枚、最初に入っていた。
 爽奏律宛であり、その文章には鹿美華琥太郎・・・つまり小姫の父の名前と判子が押されていた。

〝鹿美華家の警護人とし従事する事を依頼する〟そして、雇用条件等詳細は別紙参照、とだけ書かれた紙。分厚い別紙の小冊子がある。律は大人の文章を読むのが面倒だったが、なんとなく興味を持ちながら読み始めた。

 雇用条件の年収750万円。この額がまず目に入る。律はこの額が多大な数字に見えるが、常々命を狙われる可能性があるこの職業に見合っているのかまでは判断できなかった。
 勤務形態は条件による、と書かれている。律は自分がわかる情報だけを読み進んでいった。魅力的ではあるが、果たしてこれが自分の進むべき道なのか?どちらかといえば断りたい気持ちの方が大きかった。



 翌日。土曜日の朝。
 抱え込むのが嫌な律は、リビングでゴルフ中継を見ている父親に語りかけた。

「父さんの年収っていくつなの」その突拍子もない質問に、父は漫画のように吹き出す。
「ど、どうした!急に」
「いや、どんなもんなのかなって・・・」
「人並みには、貰ってるな」
「400万は貰ってるって事?」
 この数字は律が調べ上げたサラリーマンの平均年収である。
「ま、まぁ、それよりは少し上だ」

 律の父は平凡なサラリーマンである。社会全体で言えば中流寄りの下位にいる。棲家のマンションも定年までの長い長いローンを組んでやっと買えたぐらいだ。車も家具も家電も、特段なにか豪華なものを買える生活は出来ていない。ただ、律がひとりっ子と言うことも有り、律本人も両親もお金に不安を抱くことなく、生活出来ていた。

「じゃ、じゃあさ、年収750万円ってどう思う?」
 律の父は、律が回りくどい道を通って、質問したい事がある事を知っている。年収の話、そういうところからおそらく息子は職業や夢の話をするのだろう、そう感じ取りながら会話を重ねた。父というものは母よりも察しが良いものである。

「で、聞きたい事があるんだろ?」痺れを切らした父は話を切り出した。律は回り道をして、呼吸を整え、父に話をしてみる。

「ボディガード」

「え?」思いがけない言葉に驚く父。
「ボディガードにならないか、って・・・色々あって誘われている」
「な、何じゃそりゃ・・・」
 父はテレビを消した。ゴルフの結果よりも気になる事がある。

 律はゆっくりと話を始めた。

 2日前の事、自分が助けた女の子の事。守秘義務があると言われつつも、律は信頼できる父親には、その体質の事を話した。小姫の近くにいれるのは、自分しかいない、その事実も話す。

「話はわかった」
 父は今まで見た事のないその律の姿に真剣に親として向き合うことにした。息を呑んでその反応を伺う律。

「律。お前はボディガードをやりたいかどうか・・・迷っているのか?」
「うん」
「でも、俺は分かるぞ」
「えっ?」
「答えは出てる。ボディガードをやる、やらないの話じゃ無い」
「じゃあ何?」


「守りたい女の子がいる。それが答えだ」


 律は確信を突かれた気がした。
 あの日、確かに怖かった。律は命の危険を感じた。それでも、小姫を助けなきゃ、守らなきゃと思っていた。その日初めて言葉を交わしたというのに、律は勝手に運命を感じていたのだ。

「母さんには俺から話をしてみる。ただ、最後に決めるのはお前だ」



「入るわよ」
 その日の夕方。母親が律の部屋に入ってくる。父の姿は無い。母は無言のまま立っていて、しばらく言葉を発しない。なんだよ、と律が語りかけ、ここで初めて母は口を開いた。

「今日ほど、アンタが男に産まれたことに後悔した日は無い」

 母の懺悔のような一言を律は理解していない。母は思い出していた。妊娠し、十月十日、胎内で一緒に過ごし、一生忘れないような痛みと共に彼を産み出したこと。夫には申し訳ないが、律を世界で一番愛するようになった事。でもそれが年齢を重ねるうちに片思いだと気が付いたこと。

「愛する人を守りたいんでしょ?」

「あっ!愛する人!?」律は困惑する。
 小姫に対して、恋愛感情は無い。律の母は父から聞いたその話を勝手に解釈し、勘違いをしていた。ただ、律の前に運命を左右する女の子が現れたのは間違いなく、その為に人生の決断をしなければならない事は確かだった。


「時代錯誤で構わない。男が守るのよ、女の子を。愛する人なら尚更」


「う、うん」

「シャキッとしなさいよ」
「うん」

 母はそれだけ言って、部屋から出た。そして律が言葉を喋れるようになった日の事を思い出した。歩けるようになった日の事を思い出した。律が漫画の真似をして、お母さんを守る!と言っていた日の事を思い出していた。



 どこか、自分の意思とは裏腹に、何かの流れに身を任せるように、律は決意を決めていた。

 日曜日の朝。

 思い出すのは、小姫の横顔。

(鹿美華小姫・・・)

 割って入る様にやってくるリコの顔。想像の彼女が律に問いかける。

ー〝律は将来どうするの?〟ー

(将来か・・・)

 流れを切る様に、あの日の恐怖が蘇る。

 大男に殴られた肩の痛み。爆弾の爆発。窓ガラスに撃ち込まれる銃弾。

(私、狙われてるの)

 律は若草に電話をかけていた。

『こんにちは、律さん』
「決めた。親とも話し合った」
『ボディガードになるという事ですね?』

「うん」

『随分とお早いものですね』
「ツノじいが言ったんだろ、判断は早い方が良いって」

『分かりました。では、出発の準備をしてください。そちらへ向かいます』

「えっ?」

 その日。爽奏律はボディガードになった。


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