１ページのあいうえお

蔵

２

＊



少し寂しい気はするものの、却って良い事なのかもしれない。



私は蔵の扉をゆっくりと開いた。
中のものは、母家と同様にもうすでに片付けられがらんとして、私の記憶とは少し違う場所のように感じられた。
しかし、この湿った冷たい空気と蔵独特のにおいは少しも変わらず、それは私にある女性を思い出させた。



もう何十年も昔……私がまだ１８のある夏の時だった。
父が町の病院に入院し、母がそれに付き添い、私と弟達で過ごしていた時のことだ。
私は、以前から、この蔵の二階の小窓から見る星空が好きだった。
年の離れた弟達を寝かし付けると、私はそっと母家を抜け出し、蔵の二階に上って星空と涼やかな風を堪能した。



「誰だ！？」



ある時、不意に感じた気配に、私は身構え声を上げた。
そこには浴衣を着た見知らぬ若い女性が立っており、私に向かってほんの少し口角を上げてみせた。
透き通るように白い肌に真っ黒な長い髪が際立ち、どこか落ち着いた雰囲気をしたその女性は、なにを訊ねても答えることはなく、ただ、表情やちょっとした仕草ではっきりしない返事をする。
きっと、この女性は声が出せないんだ。
そう思った時、私の心に邪な考えが芽生えた。
いや、こんな時間に他所の蔵に入って来ること自体、女性もそのつもりなのかもしれない。
そんな都合の良い事を考えて、私は女性を押し倒した。
私の推測通りだったのか、女性は少しも抵抗することはなく、自然に私を受け入れた。

それまで女性を知らなかった私は有頂天になり、次の夜も同じように蔵で彼女を待った。
約束をしたわけではない。
彼女は私が眠っている間にいなくなっていたのだから。
だが、彼女は私の期待を裏切ることはなく、また私の元へやって来た。
次の日も、そしてまた次の日も……
私は名前さえ知らないその女性とただただ身体を重ね合った。

しかし、そんな日々は長くは続かなかった。
一週間程が経った時、父は早々と退院し、母と共に戻って来た。
それは、彼女との密会が終わるということ。
両親は、私が用もなく蔵に立ち入ることさえいやがっているのに、まだ学生の身である私がどこの誰とも知らない女性と淫らなことをしているなんて知られたら、どんなことになってしまうかは想像するに難くない……
どうか彼女がもうここへはやって来ないようにと勝手なことを考えて、私はその後蔵に近寄ることはなかった。
女性も両親が戻ったことに気付いたのか、家の付近に来た様子はなく、私はそのことにほっとしながらも、次の年の春には都会の大学へ進学した。
地元を離れた理由には、やはりその女性のこともあった。
後ろめたさと…そして、どういう素性の者かがまるでわからなかったから。
問題が起きる事を、まだ若かった私は酷く怖れていたのだ。