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雨の中の別離
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降り続く雨の中…
野生の馬の群れが颯爽と駆けて行く…
私は、テーブルの上に置いた小箱を開けた。
そこには、小さなダイヤの付いた指輪が収まっている。
指輪は私を遠い過去に誘う…
お気に入りのレストランで、私は静かな雨音を聞いていた。
それはなによりも心の落ち着く魔法の旋律…
「美香、俺と結婚してくれ!」
その静けさを破ったのは、唐突な信也の言葉。
信也は、混乱する私の目の前に、この指輪を差し出した。
あの時…どれほど嬉しかったことか…
まさに世の中が薔薇色に輝いて見えた瞬間だった。
信也とのお付き合いは順調だったし、いつかこんな日が来るだろうとは思っていたけれど、いざ、それが現実になると、その感動は予想を遥かに超えるものだった。
(信也……)
本当に幸せで…私は、その幸せがずっと続くものだと思ってた。
結婚してもしばらくは二人で一生懸命働いて、郊外に小さな中古の一軒家でも買って…
それから、子供が少し大きくなったら、その子を連れてまたこのレストランに来よう…
そんなことをあれこれ考えて、その晩はほとんど眠れない程だった。
だけど、次の日…
私のそんな甘い想像は、脆くも崩れ去った。
先週受けた検査の結果が出たのだ。
度々痛みはあったものの、まさかそれほど悪いなんて思ってもみなかった。
「残念ですが……」
「先生…私あとどのくらい生きられるんですか?」
「……約半年でしょうか…」
目の前が真っ暗になった。
今、告知されたことがとても信じられなかった。
私は次の日、別の病院を訪ねた。
そこでも同じような検査を受け…出た結果はやはり同じものだった。
私の思い描いた夢は、叶えられることはないんだということが、はっきりと理解出来た。
泣いて泣いて、一晩中、泣いて…
私はある決意をした。
それは、この町を離れ、故郷の近くにあるホスピスに入ること。
私に付き付けられた事実を信也に話したら…
彼は絶対にすぐに結婚しようっていうに決まってる。
結婚して、すぐにいなくなってしまう私を、彼ならきっと最期まで献身的に看てくれるだろう。
そうなれば、彼にいろんな面で迷惑をかけてしまう。
私は信也に何もしてあげられないのに、彼には深い傷を付けてこの世を去らなければならないなんて、そんなこと、とても耐えられない。
だから、私は彼に何も言わずに彼の元から姿を消した。
指輪だけは返すことが出来なかった。
指輪をつけていると、彼とどこかで繋がっていられるような気がして…
心細い気持ちを支えてもらった。
数か月もすると、指輪は私の細くなった指から外れてしまうようになった。
それからは、指輪を小箱に入れて、それを毎日眺めるのが私の唯一の楽しみとなった。
私に残された時間は刻一刻とすり減って行き…
紫陽花の花が美しい花を咲かせる季節に、私はこの世を去った。
医師の診立ては正確だった。
死んでから、私はずっと信也の傍にいた。
だけど、彼は何も気付かない。
六年もの間…彼は私を探し続けてくれた。
それはとても嬉しかったけど、信也に申し訳なくて、私はずっと彼の傍で言い続けた。
私のことは早く忘れて…って。
ようやく彼が結婚した時、私はそのことを心の底から良かったと思えた。
彼が幸せになることが、私にとっては一番嬉しいことだから。
だけど、彼はまだ心の中で私を想ってくれていた。
そのことが辛くて、私は天に上ることが出来なかった。
「信也…私のことは早く忘れて、弥生さんと子供達だけを愛してあげて。」
何度、彼の傍でそう言い続けたことだろう?
ある日、彼はあのレストランに向かった。
久しぶりのレストランは、まるで時が止まったかのように、少しも変っていなかった。
マスターは代替わりをしていたけれど、私のお気に入りのあの席も、あの庭の眺めも、そして静かな雨音も少しも変わっていなかった。
私は紫陽花の傍に立ち、静かな雨を感じた。
「信也…お願いだから私のことは早く忘れて。」
信也は、昔の私のように、目を閉じ、優しい雨音に耳を傾けていた。
その時だった。
「さようなら、美香…俺、もうおまえのことは忘れるよ…」
信也の心の声がはっきりと聞こえた。
切ないけれど、私の願いがついに聞き入れられたのだ。
「ありがとう、信也…」
優しい雨の降り続く中、私はゆっくりと空に昇って行った。
(これからも、あなたの幸せを祈ってる…)
優しい雨が私の涙を洗い流してくれた。
~fin.
野生の馬の群れが颯爽と駆けて行く…
私は、テーブルの上に置いた小箱を開けた。
そこには、小さなダイヤの付いた指輪が収まっている。
指輪は私を遠い過去に誘う…
お気に入りのレストランで、私は静かな雨音を聞いていた。
それはなによりも心の落ち着く魔法の旋律…
「美香、俺と結婚してくれ!」
その静けさを破ったのは、唐突な信也の言葉。
信也は、混乱する私の目の前に、この指輪を差し出した。
あの時…どれほど嬉しかったことか…
まさに世の中が薔薇色に輝いて見えた瞬間だった。
信也とのお付き合いは順調だったし、いつかこんな日が来るだろうとは思っていたけれど、いざ、それが現実になると、その感動は予想を遥かに超えるものだった。
(信也……)
本当に幸せで…私は、その幸せがずっと続くものだと思ってた。
結婚してもしばらくは二人で一生懸命働いて、郊外に小さな中古の一軒家でも買って…
それから、子供が少し大きくなったら、その子を連れてまたこのレストランに来よう…
そんなことをあれこれ考えて、その晩はほとんど眠れない程だった。
だけど、次の日…
私のそんな甘い想像は、脆くも崩れ去った。
先週受けた検査の結果が出たのだ。
度々痛みはあったものの、まさかそれほど悪いなんて思ってもみなかった。
「残念ですが……」
「先生…私あとどのくらい生きられるんですか?」
「……約半年でしょうか…」
目の前が真っ暗になった。
今、告知されたことがとても信じられなかった。
私は次の日、別の病院を訪ねた。
そこでも同じような検査を受け…出た結果はやはり同じものだった。
私の思い描いた夢は、叶えられることはないんだということが、はっきりと理解出来た。
泣いて泣いて、一晩中、泣いて…
私はある決意をした。
それは、この町を離れ、故郷の近くにあるホスピスに入ること。
私に付き付けられた事実を信也に話したら…
彼は絶対にすぐに結婚しようっていうに決まってる。
結婚して、すぐにいなくなってしまう私を、彼ならきっと最期まで献身的に看てくれるだろう。
そうなれば、彼にいろんな面で迷惑をかけてしまう。
私は信也に何もしてあげられないのに、彼には深い傷を付けてこの世を去らなければならないなんて、そんなこと、とても耐えられない。
だから、私は彼に何も言わずに彼の元から姿を消した。
指輪だけは返すことが出来なかった。
指輪をつけていると、彼とどこかで繋がっていられるような気がして…
心細い気持ちを支えてもらった。
数か月もすると、指輪は私の細くなった指から外れてしまうようになった。
それからは、指輪を小箱に入れて、それを毎日眺めるのが私の唯一の楽しみとなった。
私に残された時間は刻一刻とすり減って行き…
紫陽花の花が美しい花を咲かせる季節に、私はこの世を去った。
医師の診立ては正確だった。
死んでから、私はずっと信也の傍にいた。
だけど、彼は何も気付かない。
六年もの間…彼は私を探し続けてくれた。
それはとても嬉しかったけど、信也に申し訳なくて、私はずっと彼の傍で言い続けた。
私のことは早く忘れて…って。
ようやく彼が結婚した時、私はそのことを心の底から良かったと思えた。
彼が幸せになることが、私にとっては一番嬉しいことだから。
だけど、彼はまだ心の中で私を想ってくれていた。
そのことが辛くて、私は天に上ることが出来なかった。
「信也…私のことは早く忘れて、弥生さんと子供達だけを愛してあげて。」
何度、彼の傍でそう言い続けたことだろう?
ある日、彼はあのレストランに向かった。
久しぶりのレストランは、まるで時が止まったかのように、少しも変っていなかった。
マスターは代替わりをしていたけれど、私のお気に入りのあの席も、あの庭の眺めも、そして静かな雨音も少しも変わっていなかった。
私は紫陽花の傍に立ち、静かな雨を感じた。
「信也…お願いだから私のことは早く忘れて。」
信也は、昔の私のように、目を閉じ、優しい雨音に耳を傾けていた。
その時だった。
「さようなら、美香…俺、もうおまえのことは忘れるよ…」
信也の心の声がはっきりと聞こえた。
切ないけれど、私の願いがついに聞き入れられたのだ。
「ありがとう、信也…」
優しい雨の降り続く中、私はゆっくりと空に昇って行った。
(これからも、あなたの幸せを祈ってる…)
優しい雨が私の涙を洗い流してくれた。
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