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第一章 変わる世界

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「おお、無事だったかい? 私の天使よ!」

 部屋に入るなりそう大袈裟な身振りでアシミアを歓待したのは一人の小男だった。
  頭頂部から禿げあがった頭に、でっぷりと肥えた腹。短い脚を生やした女性ほどの小柄な体躯は見る者の笑いを誘うに違いない。
  しかしそんな道化染みた風貌の中にあっても、その瞳には幾百の闘争の歴史の跡を感じさせる深い皺が刻み込まれている。

  エスドラス公爵アトラウト――アシミアの父とはそんな奇妙な威容を誇る男だった。

「お父様、この度は大変なご迷惑をお掛け致しました」

 アシミアは簡素に挨拶を終えるなり、実の父親に向かってそう深々と頭を下げた。

  あの騒動から二週間ほどの時間が経った。

  一時は魔物の大侵攻スタンピードにでも遭遇したのかと思われるほど荒れ果てた学院も、あらかたの片付けが終わった今となっては平時の落ち着きを取り戻している。
  しかしそれはあくまでも表面上のことに過ぎなかった。未だ謹慎の解けていない生徒も多数存在し、そうでない者も影ではあの騒動についてあれやこれやと言い争うことが絶えない。
  生徒の間だけでもそうなのだから、最終的な尻拭いをさせられる大人たちはその混乱もひとしおだろう。

  むしろ事態の収拾を図るのはこれからだと言える。

  距離の関係を考えても、貴族子弟の関係者たちが王都に集うのには時間が掛かる。アシミアの父がすでにここにいるのは驚異的な速さに違いなかった。

  ――ここまで移動するだけで一体何頭の馬と魔術師を潰したのか、この後の混乱でどれほどの損失を被るのか。

  労力、金銭、政治。どの側面から考えても頭が痛い。そう思うとアシミアはどうにもいたたまれない気持ちになる。
  騒動それ自体はただ業腹なだけであるが、実家に迷惑を掛けたという一点においてはある程度アシミアの落ち度に違いないのだ。

「何を言ってるんだい! 可愛いお前の身の安全が一番だよ」

 しかし娘を溺愛している父はそんなことはおくびにも出さずにアシミアを抱きしめた。

「しかしお父様。淑女としてあるまじき行いを致しましたし、今更ながらもう少し上手に事態を収めることも出来たのではないかと思うのです」
「そんなことを言って、お前の身に何かあったらどうするんだい? それに過ぎたことをあれこれ言ってもしょうがない。お前はその時に最善を尽くした。ただそれだけで良いんだ」
「お父様……」
「第一、話を聞いた限りではあちらの言いがかりではないか。まったく、平民風情が――。まぁ、父親としては多少おてんばな所を叱らなくてはならないね?」

 冗談めかしてウィンクを飛ばす父に、アシミアは苦笑しながら再度頭を下げた。傍らに立つ執事も強面の顔に薄っすら笑みを浮かべ、部屋の中には弛緩した空気が漂う。

「――しかし殿下にも困ったものだ。まだ諦めていなかったのか」

 しかし一転してその空気を最初に打ち壊したのもまた父だった。

「お父様? 今回のことに何か心当たりがあるのですか?」
「うん? ううむ、そうだな……」

 父は迂闊なことを言った、という顔で暫く唸ると、「お前には知る権利があるか」と言って話を続けた。

「とは言っても、そう大した話でも無い。今回の殿下の『演説』とやらの内容を前から知っていたというだけだよ」
「それは平民と貴族の平等とやらのことですか?」
「それはまぁ、大衆向けの口説き文句というだけだよ。平民を国政に参加させよ、というのが殿下の論の本旨だね。理想の為の運動というより、だよ」
「恥ずかしながらワタクシにはよく違いが分からないのですが……」

 どちらもバカ話という点だけなら同じである。そんな娘の内心を察したのか、父は薄く笑いながら講義をつづけた。

「要するに一度土台を壊すことで国家の統一と中央への集権化をなし崩し的に行いたいのだ。領土が貴族の個人的な所有物である限り、予算や軍備もそれぞれの領という枠組みでしか使えないからね。たとえ王と言えども、他所の家の財布に手を付けて召使いを呼びつけるのは褒められたことでは無い」
「それだけなら個々の貴族を力で従わせた方がまだしも現実的ではありませんか?」
「だがそれだと『枠』は残ったままだ。が出るのを止められない。殿下は金も人も流動化させ、よりに使いたいのさ。各領主に下知を下すのでは時間も掛かるし、必ずが出てしまう」
「無駄、余力、ですか?」
「そうだね。例えば10人領主が居て、それぞれ金貨10枚を持っている。それに一袋金貨8枚の小麦を買ってくるように言ったらどうなるかね」
「それはもちろん、小麦が10袋……ああ、そういうことですか」

 一人一人に自分の財布で買わせたら合計20枚ものおつりが出る。それが一人の財布なら残りのお金もつぎ込んで更に小麦が2袋買えただろう。
  
「理屈は分かりますが、そう目論見通りいくでしょうか? そもそも国家単位で税制を統一して無駄の無い効率的な予算の策定、というだけで大仕事ですし。そんな大きなお金を使わせて懐に入れる人間や、不正な会計処理を行う部署が出るのでは?」

 アシミアの前の人生では、よくニュースで「横領」「裏金」などというワードを耳にしたものだった。

「その通り。そうした組織づくりに、それらを監視する機構も作らねばならん。文官の数も倍では足りんね。それを補う為に平民、だ」
「はぁ……理想論では?」

 最終的には、その結論に落ち着く。
 父もそれに同意見なのか、にっと笑うと頬を掻いた。

「子供の立てた計画だと思うだろう?」
「いえ、それは……不敬ですわ」
「はっは、良い良い。実際これは子供の考えたことなのだ。殿下が十歳ほどのころだったか?」

 それを聞いてアシミアの中でガラリと印象が変わった。真面目な政治談議としたら拙い部分も多いが、それを子供が考えたとなると話は違う。王太子リュークは確かに「神童」と持て囃された人間だったのだ。

  しかしそうした称賛も聞かなくなってきたのは一体いつ頃からだっただろうか。

「それで『まだ諦めて無かったのか』ですか」
「うむ。もっともこれは昔の話だ。さすがに殿下も今はもっと現実的な落としどころをお考えなのだろうが」
「下地の無い平民を国政に参加させる、という時点で現実とは程遠いと思いますが……」
「そこは教養のある平民だけを選ぶのさ。平民、といっても色々いるのだよ。殿下が懐に入れようとしている平民というのは、要するに庶民では無く資産を持った富裕層というやつだ。その人手と、あわよくば人脈と資金源も目的とするところだろうね。殿下は本当のところ、下々の権利云々はどうでも良いんじゃないかな」
「ああ、富裕層――商人などなら確かに人やお金を扱う術も持っているでしょうね」
「それに貴族よりは土地に対する執着は少ない。商売の為に色々なところに顔を出したり、時には拠点を移したりするだろう? ならば個々の故郷のことより、国家の大局の為に働くはず、とかつての殿下は考えた」

 そこまで言われると、アシミアも何だかそれは一定の理がある話に思えてきた。しかし父がまだ薄っすら笑っているところを見ると、それも正しくないのだろう。

「ええと、お父様はそれでもそれは子供の夢物語だと?」
「当たり前じゃないか? だって平民の中の富裕層――それは学院であの騒動を起こした中核だよ」

 そう指摘されてはたと気が付く。あれらが将来国を率いる賢人にはなる姿はどうにも想像が出来ない。

「平民という存在をそこまで見くびる気は無いけどね。それでもやはり大衆というやつは勝手で、怠惰で、そして愚かだよ。領民の為に、誇りの為にと育まれてきた我々とは根本が違う。公の為に私を捨てられる人間はやはり少数だろうし、彼らの能力はあくまで「自分の利となる行為」の為の才覚と経験だ。我々は誇りの為に死なねば存在自体が許されないが、彼らはそうではない。我らは森を育てる術を持つが、彼らは木を育てる術しか持たない」
「結局のところ、『教育』が足りてないんですね」
「……まぁ、そうなるね。他にも色々問題はあるが」

 夢は結局夢でしかない。いくらはっきりと空を飛ぶ夢を見たとしても、現実では例え背中に羽を生やしても人は空を飛べないのだ。サーカスで空を飛ぶ人間はいるが、あれは鋼の糸ワイヤーで吊られている。どんなに辛く、泣きたくなっても必死に笑顔を作っているだけだ。

 しかしそうなると次に分からないのはなぜリュークがそんな夢物語に固執しているか、ということだ。

「誰も殿下にそのことを指摘しなかったのですか?」
「したさ。家庭教師はもちろん、私や陛下も将来の王の教育の一環としてその話に加わった。だからこそここまで詳しく知っているのさ。当時はただ幼くも賢い王子が生まれたのだ、と皆で内心喜びながらね。順当にいけば、ただの幼い日の思い出の一つで終わるはずだったのだ」
「……何かあったのですか?」
「魔物だよ、アシミア。それがすべての元凶だった」

 父はただそうとだけ語り、口を閉ざした。

  それでこの話は終わり、とでも言うかのように部屋の中を静寂が支配した。もうこれ以上は梃でも話す気が無いらしい。

 ただ何か良くないことがあったんだな、としかアシミアには分からない。
 しかしよくよく考えて見れば、今リュークが行っていることは王権の存在すら危ぶまれるだ。騒動の首魁がリュークである以上王権そのものが否定されることはないだろう。だがあくまでただの支配の象徴として実権を奪われ、の都合の良い存在へとなり果てるのではないだろうか。

 そんなことに気が付いて、アシミアは思わずぞっとした。
 自分の権力も、婚約者も、下々のことも。その全てが内心どうでも良い――このサトゥルカ国の時期後継者は、そんな恐ろしいことを考えているのではないか。
 あくまで仮の想像に過ぎないことだが、それは確かに破滅的で、得体が知れない。そんな仄暗い思いがリュークという存在の底の方に蜷局を巻いているのではないか。

 最終的な拘り以外、全てがどうでも良いのなら、竜という破壊と力の象徴を望んだのも頷ける。

「まぁ、とにかく、殿下の真意はそこにあるのだよ。アシミア、お前との婚約破棄宣言はその為の小さな生贄に過ぎないんだ。この話はある程度の貴族ならば誰でも知っている。この国が誇る神童の逸話の一つ、だったからね」

 父は今度は吐き捨てるようにそう笑った。
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