約束

夏月

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約束

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 遠い記憶が呼びかける。待っていると。
どんなに遠く離れても、どれほど月日がながれても、たとえあなたが忘れても変わらずここで待っている。いつか出会えるその日まで、いつまでも何度でもここへ来て、ずっとあなたを待っている。

 人は死んだらどこへゆくのだろう。
たとえば善い行いをした人たちはお花畑の道を通り、輝くひかりに包まれて極楽浄土の世界にゆけると聞いたことがある。そこには一切の苦しみがなく、みな穏やかで幸せな魂にかえることができる。
 そして悪行を重ねた人たちは地獄という暗がりに落ちこみ、いつまでも報われない魂を抱えたまま、闇の世界の住人になってしまうというのだ。地獄にはぐつぐつと煮えたぎる血の池や、鋭い針や氷ばかりで覆われた険しい岩山がそびえ立ち、そこに落ちこむ人々をさらに苦しめるのだという。その上、嘘つきは閻魔さまに舌を抜かれてしまうらしい。
 まさか、そんな話を本気にするわけではないけれど、嘘の一つや二つなら久実だってついたことがある。正直に言えば、百じや足りないくらいの嘘を知っている。子どもの頃には意味もなく小さな生き物の命を奪ったこともある。
 とすると、いずれは私も地獄の住人になる身の上なのだろうか。まあ、いくら甘く見たところで、自分が極楽へゆけるほどの善人だとは思えない。あの世に血の池はなくても、地獄と極楽のさかいめはある気がする。それなら、せめて死んだ後くらいは心穏やかに暮らしたい。
 天国も地獄も信じてなどいないくせに、久実は時々そんなことを考える。人は死んだらそれで終わりだ。物体になって肉体は朽ち果てる。魂など信じない。だからおばけも幽霊も、迷信めいたものは一切信用しない。現代の科学で証明できないものは、はなから存在していないと思っている。それがたとえ神さまであって同じだ。誰かが死んでこの世から消える。ただ、それだけのことだ。

 もし…。遥子が言った。
「私が死んだら、知らせて欲しいの」
杉下久実はコタツに足をつっこんで、テレビを見ているところだった。
 久実は数秒間をおいて目の前の母を見た。
遥子は長い針をせっせと動かして、誰が着るとも知れないセーターを編んでいた。ふと、聞き間違いではないかと思った。何か別のことを言ったのを聞き違えたのかもしれない。そこで久実はなるべくさり気ないふうを装い、
「知らせるって誰に?」と訊いてみた。久実の視線は自然なかたちで遥子からテレビの画面へと移された。ところが、遥子はまるで何ごともなかったように黙ってセーターを編んでいる。
「ねぇ、知らせるって?」
久実がじれたように声を出すと、
「あなたの知らない人よ。もうずっと昔に会った人」
遥子は顔を上げずにそう言った。
「それじゃぁ、私には連絡のしようもないじゃないの」
 久実はとたんに全身から力が抜けていくのを感じた。一瞬、母が呆けてしまったのではないかとも思った。しかし、遥子は忙しく糸を手繰る手を止めずに、ゆっくりとそれでいてきっぱりとした調子でこう言った。
「そうね。でも、もし私が死んだら知らせて欲しいの。できればお別れに来て欲しいと思うわ」
「ふーん。お母さんにもそんな人がいたんだ。いつもはあんまり友だち付き合いとかもしていないみたいなのに…」
久実は毎週欠かさず見ている番組のチェックに余念がなかった。そこでぼっそり答えるとまたテレビに意識を集中させた。
「どう言ったらいいのかしら。あの人は特別なのよ。他の人とはちょっと違うの」
遥子はひとり言のようにそう言って、ふっと久実の顔を見上げた。
「そう、まぁいいけど。とにかく、その時にはその人に連絡すればいいのね」
「そうよ。忘れないでね」
 それだけ言うと、遥子はまた黙って手の中のセーターを編みはじめた。久実は遥子がまた何か言い出すのではないかと、テレビを見ているふりをして待っていた。けれど彼女はそれきり何も言わなかった。「あの人」というのがどんな人で、母にとってどれほどの意味のある人なのか。男なのか、女なのか、本当はとても気になった。しかし、それを直接遥子に訊ねることができなかった。
久実は黙ってテレビの画面を見つめた。そこからは変わらず音が溢れ、次々と鮮やかな映像が流された。ほんの数分前まで確かにその映像をしっかりと見つめていた。けれど、それはもうそこあるというだけで、少しも久実の心を動かさない。
 
「ねぇ、お父さん。自分のお葬式のことって考えたことある?」
「なんだ、いきなり葬式なんて…」
仕事を終えて帰宅したばかりの弘に久実が訊ねた。
「うーん。たとえば、どうしても呼んで欲しい人がいるとかさ、そういうこと考えたりする?」
「いや、それはないな。何なんだ?いったい」弘は怪訝な顔をして久実を見た。
「何ってこともないんだけどさ、お母さんがね、急に自分のお葬式の時には呼んで欲しい人がいるって言い出してさ。だから、みんなそういうことを考えたりするものなのかなぁって、ちょっと思ったのよ」
「お母さんが?」 
「そう」
「それで?」 
「それでも何も、それだけよ」
「そうか」
「そうよ。お母さんたら名前も何も言わないんだもの。それでお葬式に呼んでくれって言われても困っちゃうわよね。ただ、ずっと昔に会った人だって、それだけ。あとは男だか女だか、それも言わない」
「そうか」
 弘は久実の話に適当に相槌をうちながら台所へ入り、鍋におでんがあるのを見つけると冷蔵庫から冷えたビールを取りだして一人で晩酌をはじめた。
そこへ、遥子が湯上りの頬を上気させ、少女のような顔を見せた。
「あら、お父さん帰ってたんですか?」
遥子が声を掛けると、弘は短く
「ああ」と答え、熱々のおでんをさっそく口の中へ入れてはふはふと頬張った。
「てっきり遅いのかと思って、お先にお風呂頂いてしまいました」
「ああ」 
弘がビールを口にふくみ満足そうに頷いたので、遥子は彼の隣りにふんわりと腰を下ろし、そこにいた久実をふり向いた。
「お父さん晩酌はじめてしまったのなら、お風呂はまだしばらく後でしょう。それなら、あなたが先に入ってしまったら?」
久実は弘が遥子に何か訊ねるのではないかと期待した。しかし、父は黙って酒を飲み、母はその脇で編物をはじめた。しばらく待ってみたけれど、先の会話がふたりの間で交わされる気配はどこにも見えなかった。
久実は渋々腰を上げた。そうしていったん二階の自室に戻り、パジャマの用意をしてから風呂場に向かった。その間も居間は変わらず静かだった。
「お葬式かぁ…」
久実は浴槽から顔だけをぽかりと出して、ぼんやり天井を見上げた。正直、自分の親がそんなことを考えるようになったのかと思うと、少し切なくなる。
 そうは言っても、久実の両親はわりに若い方だった。同級生の親がとうに四十代、五十代を迎えている中で、遥子は久実が高校に入ってもまだ三十代後半を保っていた。弘は遥子よりもいくつか年が上だから、その頃はもう四十に手が届いていたと思う。だが、それでも弘は十分に若い父親だった。
 うちの親がそんなことを言いだすということは、他の家でもそんなことが話題になったりしているのだろうか。
 

「おはよう」
久実を駅まで運ぶバスの中で声を掛けてきたのは、幼なじみのゆりだった。
「どう?最近」
「うん。どうもこうもこれと言って何もないって感じかなぁ。毎日が、ただ、ただ過ぎていくって感じ…」
「ふーん。久実って、いっつもそんな感じだよね。少しは焦ったりとかしないの?私たちももうすぐ二十歳だよ。そろそろ、将来のことも考えなきゃいけない時期にきてるじゃない」
「そうなんだけどね。何がやりたいってことも見つからないし、焦っても仕方ないかなぁなんて…。ところでさ、ゆりって自分のお葬式のことなんて考える?」
「お葬式? 何それ」
「うーん。何だかね、うちの母親が急に言い出したんだ。自分が死んだら、知らせて欲しい人がいるって」
「へえ。それって、おばさんの恋人か何か?」
「わからない。ただ、できればお別れに来て欲しいって言うのよ」
「そう。でも、もしそれが昔の恋人だったら、ちょっとロマンチックじゃない?」
「そう?なんか想像できないよ。だって、うちのお母さんだよ」
「だって、おばさんだってずっとおばさんだったわけじゃないもの。久実の知らない世界があっても不思議はないでしょ?」
「まあ、そうだけどね。でも、それはない気がする。うん、それはないな、きっと」
「そんなこと言っちゃって、おばさんが聞いたら気を悪くするよ」
「まあ、ゆりのお母さんだったらわかる気もするけど。美人だもんね。ゆりのとこのお母さん」
「そうでもないよ。でも、自分が死んだらなんて、絶対考えたりするタイプではないね。うちの親は」
「そうか…。何なんだろうね、いったい」
「きっと、特別な意味なんてないんじゃないの?思いついたから言ってみたとか」
「たぶんね。相手の名前も言わなかったくらいだから、意味なんてないのかもしれないけど、何となく気になっちゃってさ」
「だったら、ちゃんと訊いてみればいいのに」
「まあ、そのうちね」
「じゃあ、何かわかったら私にも教えてよ。ちょっと興味あるなぁ、おばさんのもと彼」
「だからそういうのじゃないと思うよ。でも、何かわかったらまた連絡する」
「うん。じゃあ、またね」
 ゆりはそう言って、先にバスを降りて行った。
 その日学校が終わると、久実はそのまま駅前のコンビニに向かった。いろいろとバイトも試したけれど、結局どれも長つづきせず、何とか辞めずに勤まっているのはこのコンビニの仕事だけだった。というよりも、みんな久実よりも先にずっと待遇のいいバイト先を見つけて早々に辞めてしまったから、今は久実だけが置いてきぼりを喰った格好で辞めるに辞められない状況にあるのだった。
「お疲れさまでーす」
 久実が来客を知らせるドアチャイムとともに店内に入ると、レジに立っていた店長が久実を見て声を掛けた。
「おう、久実ちゃん。来たね。じゃあ、さっそく頼むよ」
「はい、すぐ出ます」
 久実は足早に店の奥に引っ込むと、すぐに私服の上にたてじまのユニホームを羽織って店に出た。駅前にしては決して客が多いとは言えないこの店が、久実は気に入っていた。久実はここで平日の数時間を過ごし、必要な小遣いを手にしている。さすがに高校を卒業してまで親に小遣いをせびるわけにもいかずバイトを始めたのだが、汗水垂らして慌しく動き回るのは久実の性には合わなかった。その点、ここなら適当にぼんやりする時間もある。これが昼間だとまた客の流れも変わり、お昼を買い求める人たちでレジに長い列ができてしまうこともあるのだが、幸い、久実が入る夕方からはパラパラと人が入る程度で、さほど混雑することもなかった。それに、久実の通う大学からも遠くない。これは久実にとっては重要なポイントだった。久実は毎日このコンビニのある駅前から歩いて学校ヘ向かう。ここでバイトを始めたきっかけも、毎朝通るコンビニの店先に偶然アルバイト募集の張り紙を見つけたからだ。
店長は久実と入れ替わりに奥へと入って行った。そこで久実はレジの脇にある丸椅子を自分の方へ引き寄せると、ユニホームのポケットから文庫本を取りだしてその丸椅子に腰掛けた。店内に客の姿はなく、そこには久実一人きりだった。
 
「久実ちゃん、そろそろ上がりだよ。」
しばらくして、店長が奥から店へと出てきた。彼は壁の時計を指さした。二十時五分前。交代のバイト要員はまだ顔を見せないが、久実のバイトはいつも二十時までという約束になっていた。
久実は新しいページに栞を移してから手の中の文庫本をポンと閉じ、それを上着のポケットに落として腰を上げた。
「じゃあ、すみません、お先です」
久実が声を掛けると、店長は店の中をぐるりと一周したあとでレジにいる久実のところへやって来た。白いポロシャツにエプロンをつけた彼の姿はやけに板について、彼を家庭人のように見せていた。だが彼は正真正銘、三十代半ばの独身男性なのである。いつも嫁さんが欲しいとぼやいているところを見ると、特定の女性はいないのかもしれない。まるで紳士的ではないが、全身から人の好さがにじみ出ているような彼の朴訥さが、久実は嫌いではなかった。
「ところで、店長は自分が死んだらとかって考えたことあります?」
 不意に思い立って、久実は彼にそんなことを訊いてみた。すると店長は目の玉が飛び出しそうな顔をして、
「何だよ、藪から棒に」と言った。彼は久実の真意を測りかねているようだった。
「実はうちの母がね、急にそんなことを言い出して…。もし自分が死んだら、その時には呼んで欲しい人がいるって言うんですよ。だから、大人になるとみんなそんなことを考えたりするものなのかと思って…」
久実がそう言うと、
「さあ、みんなはわからないけど、俺は考えたことないなぁ。だいたい死んだらって、久実ちゃんのお母さん今いくつなの?」と店長が訊ねた。
「たしか、今年四十五歳になるかならないか、それくらいだと思うけど…」
「それでそんなこと言うなんて、ずいぶん気の早い人だなぁ」
「そうなんですかね。ふだん、あんまりどうしたいとか言わない人なんですけどね、それが急にそんなことを言うものだから、ちょっと気になっちゃて…。でも、いいんです。変なこと言ってすみませんでした」
久実が頭を下げて奥へ引きあげようとした時店長が言った。
「それって、お母さんその人に会いたいんじゃないの?」
「え?」
久実は足を止めて彼をふり返った。
「本当は死んだらじゃなくてさ、生きているうちにその人に会いたいってことなんじゃないのかな。まあわからないけど、俺はそんな気がするよ。じゃ、また明日も頼むよ」
彼はそう言って品物のチェックを始めた。
久実はもう一度店長に頭を下げてから奥へと引きあげた。そして、脱いだユニホームをロッカーにしまうと、カバンを手にして店を出た。時間はすでに予定の二十時をずいぶんと過ぎていた。いつものバスはもう行ってしまったかもしれない。
 

「ただいま」
久実が帰った時、遥子は一人居間にいてテレビを見ていた。相変わらず手には毛糸と編み針を握り、忙しなく動かしている。
「お帰りなさい。あなた、ご飯は?」
遥子が下を向いた姿勢のままで訊ねると、久実は背負っていた荷物をわさわさと床に下ろして
「食べるよ、お腹ぺこぺこだもん」とこたつに足を差し入れた。
そこで遥子は手の中の毛糸をくるくるとまとめて脇に置き、
「そう。じゃあ、すぐに温めるから待っていて」こたつから足を抜いて台所へ立った。その背中に久実が話し掛けた。
「ねぇ、今日さ、バイト先の店長に言われたんだ」
「言われたって、何を?」
「うん、お母さんのこと」
「お母さんのことって何よ?」
遥子はカチャカチャとコンロの火をいじりながら、声だけで久実と話をしていた。居間と台所は長いカウンターで仕切られ、完全に分離してはいない。そのために、久実からは台所で働く母の様子がしっかりと見て取れるのだ。
「例の、もし自分が死んだらって話よ。あれ店長にしたらさ、ずいぶん気の早い人だなぁって」
「そう?」
「そうみたいよ。みな、そんなこと考えもしないってさ」
「そうなの」
「うん。でね、店長が言うのよ。お母さん、本当はその人に会いたいんじゃないのって。そうなの?」
「そうね、どうなのかしら」
「どうなのかしらって、自分のことでしょう?」
久実ははぐらかされた気がして、少し口調を強めた。
すると遥子は突然声の調子を変えて、
「あなた、好きな人とかいないの?」と、久実に訊いてきた。思いがけない問い掛けに、久実は焦って遥子をふり向いた。
「好きな人って、急に何よ…。だいたい、今はお母さんの話をしているんじゃないの」
久実が言うと、遥子は細く息を吐きだした。そして大きな鍋を両手でゆすりながら、
「あの人はね、はじめてお母さんにプロポーズしてくれた人なの。あなたより、もう少し若かったかしらね。あの時はお母さんまだ本当に何もわからなくて、あなたのおじいちゃんにずいぶん叱られたわ」と静かな調子で話し出した。
「それで、会いたいの?」
久実は慌てて立ち上がり、台所にいる遥子に詰め寄った。
「そうね、いつか会いたいわね。でも、それは今じゃなくてもいいのよ。ただ、いつか会いたいと思うわ」
遥子は大ぶりの皿にこんもりと肉じゃがをよそい、
「そろそろお父さんも帰るから、それは二人分ね」そう言って、久実にそれを持たせた。それからご飯と味噌汁をよそい、グリルから焼いた秋刀魚を取り出した。
 久実は空腹の誘惑とたたかいながらそんな遥子を見ていた。こうなってはとても夕飯の心配などしていられない。
「それって、今でもその人を好きだってことなの?」 
久実が肉じゃがの皿を持ったまま訊ねた。
「そうね、広い意味ではそうかもしれないわね。たぶん一生嫌いにはなれない人だから」そう言って動き回る遥子を追いかけて、久実は質問をつづけた。
「じゃあ、お父さんは?だったら何でお父さんと結婚したのよ」久実の声が震えた。ほんの少し、泣きそうな気分だった。
「そんなこと、決まってるじゃないの。お父さんのことが好きだからよ」
「だって…」
 遥子は落ち着いた様子で居間のテーブル(今はふとんが掛けられてこたつになっている)に久実の食事を並べ、それがすむと脇にまとめて置いた毛糸玉を手に取ってそっと言葉をつづけた。
「誤解しないで欲しいの。お父さんもお母さんも、ちゃんとお互いに好きになって結婚したのよ。ただね、彼はお父さんよりも少し早くお母さんのことを好きだって言ってくれただけ。お父さんにとっても、お母さんにとっても、とても大切な人。だから嫌いになんかなれないし、いつか会いたいと思うわ」
「だって、死んじゃったらもう会えないじゃないの」久実は真剣だった。けれど遥子はまるで何でもないことのように、
「言ったでしょう?それは今じゃなくていいのよ。いつか会えれば…。それが、ずっとずっと先でもかまわないの。だからお別れに来て欲しいのよ。あの人が私を忘れてしまわないように。そして、私もあの人を忘れないでいられるように。もちろんお父さんとだってまた会えるって信じてる。たとえ、どちらかが先に死んでしまってもね。だから死ぬことはそんなにこわいことではないのよ」とそんなことを言っている。久実は遥子が何を言い出したのかわからなかった。
「何、言ってるの?死んだらもう会えるはずないじゃないの。そんなこと、あるわけない。お母さんおかしいよ」
けれど、遥子はまるで平気な顔をして、
「あなたがどう思おうとかまわないけれど、お母さんはそう信じてるのよ」と言った。
「バカみたい」
「そうね。でも、信じてるの」
「だったら、私じゃなくてお父さんに頼めばいいじゃないの。何で私なのよ」
久実がたまらず苛立った声を出すと遥子は動かしていた針をとめ、
「それはだって、お父さんには頼めないわよ」と言って、急にくすくすと笑いだした。
久実はやにわに目の前の箸を取ると、肉じゃがの皿に突き立てた。何故だか、猛烈に腹が立った。遥子はまた黙って編物をつづけている。その脇で、久実は怒りに任せて口いっぱいにご飯を掻きこんだ。母親に自分の知らない一面を見せつけられたせいなのか、久実は妙に興奮していた。
 久実の知る限り、遥子はいつも一人だった。毎日、毎日家にいて、ただ家族の帰りを待っている。いったい何が楽しみなのか、部屋を片付け庭の手入れをし、食事の支度をして一日が終わる。誰かと遊びに出る母を久実は見たことがなかった。外に出て働く母も、その友だちも、久実は何一つとして母を知らないのだ。そう言えば、父とはどうして知り合ったのだろう。
 久実ははじめて聞かされる母の過去に、少なからずショックを受けていた。自分がこんなにも退屈した毎日を過ごしているというのに、同じ頃の母はもう誰かに結婚を申し込まれていたと言う。それは今の母からは決して想像できない母の姿だった。
「私の知らないお母さんの世界か…」
 久実は今朝バスで会ったゆりの言葉を思い出していた。まさか、本当に男の話が出てくるとは思わなかった…。もしゆりがこのことを知ったら、きっと面白がってあれこれ訊いてくるに違いない。これが逆の立場だったら、久実だってきっとそうするだろう。
でも、久実はこの状況をそこまで楽しむことができずに落ち込んでいた。何もない自分と、ただ、ただ平凡を絵に描いたような父と母。その父と母にどんな過去があったのか久実には想像もつかないが、少なくとも今の自分よりは数倍充実した時間がそこには流れていたような気がして、虚しくなる。何故、自分には何もないのだろう。そう思うと、自分がどうしようもなくつまらない人間に思えてたまらなくなる。
 
「夏休みはどうするつもりでいるの?」
 日曜の昼下がり、ふとんからぬけ出したばかりの久実に遥子が訊ねた。久実はパジャマの裾をくしゃくしゃにして、ふらふらと二階の自室から居間へと下りたばかりだった。
久実の部屋はこの家の中で最も条件の良い場所にあった。隣り合う二つの壁に大きな窓を持ち、日差しをいっぱいに浴びた二階のベランダにも直接下りることができる。ちょうど、この居間の真上にあたる部屋だ。
「夏休みか、どうしようかなぁ」
久実は大きなあくびをこぼしてぼーっと辺りを見渡した。
「あなた、その若さで何の予定もないの?」
「ないことはないけど、バイトもあるし、そう簡単には決められないのよ」
呆れたように言われ、久実が内心ムッとしながら答えると、
「まあ何でもいいけれど、少しは有意義に使うことね。社会に出たらもうこんな時間は持てなくなるのだから…」遥子がさらに追い討ちをかけた。
「わかってるって、いちいちうるさく言わないでよ。せっかくの休みがだいなしになっちゃうじゃないの」
久実はイライラを抑えきれずに、不機嫌な声を出した。そこへ、
「そうやって、久実は一生をだいなしにするタイプだな」
庭先から弘が顔をのぞかせた。
「なんだ。お父さんいたんだ」
久実が間のぬけた声を出すと、
「ああ、お前なんかよりずっと早起きだ」
弘はそう言って縁側へ腰を下ろした。
「いいのよ私は。休みの時くらいゆっくりすることにしてるんだから」
久実の言葉に弘は何か言いたげな表情を見せたが、思い返したように久実を見て、また黙って庭の手入れを始めた。
 久実は新聞の番組欄だけをチェックし、それからのっそりと台所に立った。そして冷蔵庫でしっかり冷えた麦茶を大きなコップになみなみと注ぎ、それを一気に飲み乾した。
「ぷっハァー」
久実が大きく息をつくと、コップを置くより先に背中から遥子の声がした。
「せめて、自分で使ったものくらい自分で洗ってちょうだいね」
「わかってるって。後でちゃんとやるから」
久実は大きな声で返事だけを残し、自分の部屋へと引きあげた。まったく母親ってやつはいちいちうるさくてかなわない。
「それにしても、夏休みか…」
久実はしわくちゃのベッドに倒れ込み、ぼんやりと壁のカレンダーを見上げた。
 
「私、おばあちゃんのとこに行こうかな」
 ある晩、夕飯の席で久実がそんなことを言い出した。弘は仕事で今日も遅く、夕飯は母娘二人だけということが多かった。居間にはテレビが置かれ、滞りがちな母娘の会話を時に助け、何かしらの話題を提供してくれる。
「おばあちゃんのところって?」
「だから、夏休みの予定よ。ちょっと行ってみようかなって思ってるんだけど、どうかな?来年は卒論の準備とかいろいろありそうだし、就職しちゃったらそれこそなかなか行けなくなっちゃうでしょ?だから今のうちにちょっと行ってみようかなって思ったんだけど」
「それはあなたが行けば歓ぶだろうけど、一人で?」
「そうよ。だって、お父さんはしばらく休めないでしょう?だから私だけ」
「それはかまわないけど、だったら先に連絡して都合を訊いておかないと…」
 久実の突然の申し出に、遥子は戸惑っているようだった。そこで久実が
「大丈夫よ。連絡なら私がしておくから。」と言うと、
「そう?だったら、お父さんとお母さんからもよろしく言ってましたって、ちゃんと伝えてちょうだいね」
遥子はそう言って食事をつづけた。
 久実にはちょっとした計画があった。この前遥子の話を聞いてから、久実はずっと母である遥子の過去が気になっていた。遥子はそのことでずいぶんおじいちゃんに叱られたと言っていた。ということは、当然、彼女の母親であるおばあちゃんも何か知っていることになる。そこで久実はこの機会に遥子の実家を訪ね、こっそり彼女の過去を探ろうと考えていたのだ。どうせ、家にいたところで毎日グチグチと文句を言われるのが関の山。そうかといって、夏の暑い盛りに一日バイトに出るのも面倒だった。それなら、母の知られざる一面に触れるべく、探偵の真似事をしてみるのも悪くないと思った。それに、たとえ何もわからなくても、おばあちゃんとならこの家にいるよりはずっと居心地よく過ごせそうな気がした。何にしても、学生最後の夏休みなのだ。いつもと違ったことをしてみたい。久実はそう考えて、一人横浜行きを決意した。
 翌日、久実が電話を掛けると、二人の祖母は大歓びで待っていると言った。父の弘も、それなら気をつけて行けとだけ言って、いつものように仕事に出掛けて行った。
久実は適当に連絡を取り合い、遥子と弘、両方の実家に泊めてもらうつもりでいた。弘の実家は厚木にあった。横浜市内ではないが、バスと電車を使えば、遥子の実家からも小一時間ほどで移動できる。
計画が具体化してくると、久実は急に夏休みが待ち遠しくてたまらなくなった。ワクワクと胸躍る、こんな感覚は久しぶりだ。
 
 久実は、まず大きな旅行鞄を買いに出掛けた。遥子は家にある物を使えばいいと、押入れから古びたバッグを出してくれた。だが、とてもそれを使う気にはなれなかった。車ならともかく電車で出掛けるのだ。自分の趣味に合わない物を提げて歩くのはどうしても嫌だった。そこで、久実は底にキャスターの付いたショルダーバッグを手に入れた。スーツケースも見たけれど、それではいかにもという感じがして買う気にはなれなかった。
久実が新しい鞄を手にして帰ると、
「それなら、家にある物とそう変わらないじゃないの」遥子はそう言って笑った。
バイト先のコンビニも、しばらく休みをもらえるように話をしてきた。久実がいつまで向こうにいるかわからないと言うと、店長はとても困った顔をしていた。それでも休みが終わったら必ず戻るという約束で、まるまる一ヶ月半の休みを手に入れてきたのだ。これではここへも何かお土産を買って届けなければならないと、久実は出掛ける前からそんな心配をはじめなければならなくなった。
 
茨城にある久実の自宅から神奈川の祖母の家へは、いつも弘の車で出掛けた。もうずいぶん祖父母の顔も見ていないが、久実の記憶にある限り、そこへ電車で向かったという覚えはない。
遥子はそのことをひどく心配し、「本当に一人で大丈夫なの?」と、いく度も同じ質問を繰り返した。そして、
「だって、久実はあまり電車に乗り慣れていないでしょう。それに、人に訊くっていうのも苦手みたいだから」と、いつも必ずそう言った。そこで久実が、
「大丈夫よ。もう子供じゃないんだし、行き先だってちゃんと電車に書いてあるんだから。間違えたら戻ればいいだけの話じゃないの」と答えると、
「それはそうだけど……」
遥子はその度そう言って、口をつぐんでしまうのだ。
 
大学が休みに入ると、久実はその日のうちに大きな荷物を抱えて駅へ向かった。久実の自宅は大きな振興住宅地にある。そのため、駅へ向かうバスなら家の近くから何本も出ているのだ。
「本当に気をつけて行きなさいね。それから、おばあちゃんに甘えてばかりではダメよ。少しはあなたもお家のこと手伝ってね」
「わかってる。大丈夫だって」
 あれこれと細かいことばかり言う母をそっと自分の方へと引き寄せて、
「まあ、事故に遭わないように気をつけて行って来い」
父は早く行けと私にこっそり合図を送った。黙っていると、母の小言はいつまでも終わりそうになかった。本当に、父は母の何がよくて結婚したのだろう。
久実は玄関を出るとすぐに両方の耳にイヤホンを挿し込んで歩いた。イヤホンはポケットのオーディオプレーヤーに繋がれていた。久実はいつもそうして音楽を聴きながら歩くのが好きだった。するとよけいなものが遮断され、自分の世界に入り込むことができるのだ。特に、考えごとをする時には欠かせない。
 駅に着くと、久実はまず窓口で横浜までの切符を買った。それから売店でお菓子とジュースを調達し、新しい文庫本を一冊購入した。祖母への土産は母が用意して、もう鞄の中に入れられていた。
 上野駅までは快適だった。車内は想像以上に空いていて、久実は隣の座席に荷物を置いたまま本を読んでいた。
窓の外は、あまり魅力的な景色とは言えなかった。田畑が広がるガラーンとした空間と、家やビルが建ち並ぶ町の景色が交互に映り、いきなり駅の看板で外の景色が見えなくなったかと思うと、電車は静かに停車する。その繰り返し。それがしだいに田んぼや畑が見えなくなり、家並みとビルだけの町の景色が繰り返されるようになった頃、電車は上野駅に到着した。
 久実は読みかけの本を鞄のポケットに挿し込むと、片耳だけイヤホンを外してホームへ降りた。そして最初の改札を抜けるとそのまま地下の通路を通り、京浜東北線と書いてある乗り場を選んで階段を上った。
さすがに昼間の上野駅は人が多い。久実は向かってくるたくさんの人とぶつかってしまわないように、大きな鞄を手にうろうろしていた。どうかすると、自分の行きたくない方へ足が運ばれてしまう。久実はなるべく人の少ない通路の端を選ぶようにして歩いた。まん中で行き場を失っているよりはずいぶん楽に歩けそうな気がした。だが、大きな鞄はそれでも誰かの邪魔になった。
やっとのことで階段を上りきると、すぐに電車がホームにやってきた。しかし、久実が席を取るほど空いてはいない。そこで久実は大きな鞄を端に寄せ、扉の脇に寄りかかった。
窓の外は細長いビルばかりが目について、何も見えなかった。
 
「今、横浜に着いたから」
 降りたホームのベンチに腰を下ろし、久実は連絡を待つ横浜の祖母と遥子にそれぞれケイタイで連絡を入れた。
遥子はそこまで行けばもう少しだからと、安心したような声を出した。しかし、肝心の久実はあまりの人の多さに圧倒されて、とてもホッとしてなどいられない。自分が幼い子どもに戻ったような気がして、急に不安になった。とにかく間違えずに次の電車に乗ろうと、あちこちきょろきょろと視線を動かした。どんな小さな手掛かりも見逃すことのないように、決して迷子にだけはならないように、久実は必死だった。
遥子は横浜に着いたら駅の西口方面へ向かい、そこから相模鉄道に乗り換えるのだと言った。本当はここからも祖母の家の前を通るバスが出ているのだが、様々な路線が乗り入れているためにその乗り場はとても複雑で、はじめての久実にはとても無理だろうと、遥子は電車で先の駅へ出ることを勧めたのだ。
 久実は遥子の指示に従い、JRから西口方面へとつづく階段を上るとすぐに左へ曲がった。その先に相模鉄道線と書かれた乗り場があった。そこで改めて切符を買うと、「急行」と書いてある電車に乗った。これで最初に停まった駅で電車を降りれば、そこまで祖母が迎えに来てくれているはずであった。
久実は車内に空いている席を見つけると、そっと息をついて周囲を見渡した。ごちゃごちゃと建物が並ぶ町並みと、どこに行っても溢れているたくさんの人の群れ。あの母が、こんなところで普通に生活していたのだと思うと、久実は不思議だった。
 
 改札を抜け、降りた駅でバス乗り場の表示を探していると、
「久実!」
どこかで久実を呼ぶ声がした。見ると、向こうで大柄な女性が久実を手招きで呼んでいる。かなり派手めな装いは、間違いなく遥子の母、章江であった。すでに六十をいくつか超えているはずであったが、彼女は年齢のわりにずっと若く見えた。肉づきのいい顔に皺はなく、髪は栗色に染めて細かにウエーブをかけている。もちろん、化粧も忘れてはいない。たっぷりとプリーツの入ったワンピースを頭からすっぽりとかぶり、かなりヒールのついたサンダルを履いていた。
「すぐにわかった?」
久実が近づくと、章江は遠くからそう声を掛けた。久実は大きく頷いた。そして、
「お母さんがよろしくって。それから、しばらくお世話になります」
 章江の前に立って、軽く頭を下げた。
「何言ってるの。久しぶりだもの。おばあちゃんだって、久実が来るの楽しみにしてたんだから、とにかくゆっくりしていきなさい」
 章江はそう言って、久実を駅前のターミナルへと連れて出た。バス停がいくつも並ぶその向こうに一台の車が見えた。章江はそこを目指しているようだった。途中で久実をふり返り、
「おじいちゃんだよ。久実が来るって言ったら、自分が迎えに行くってきかなくてね」 そう言って助手席のドアを開け、「お待たせ」と車に乗り込んだ。
そこで久実が、
「ご無沙汰してます。久実です」
開いた窓から声を掛けると、
「ああ、よく来たね。疲れたろう。早く乗りなさい」
祖父はそう言って、後ろのドアを開けてくれた。久実は大きなカバンを先に押し込んでから、お尻をシートに載せた。
「それからね、出掛けるのなら、ここまでたくさんバスが出ているからね」
久実が車に乗り込むと、章江はそう言って駅をふり向いた。そして、
「あの一番端のバス停がうちの方へ来るバスだから」と、車の窓から大きく腕をつき出して遠くのバス停を指さした。
「ありがとう。でも、たぶん大丈夫よ。わからなくなったら、また訊くし」
久実がそう答えると、章江は何か言いかけたまま前を向き、「そうだね」と頷いた。
祖父の車はゆっくりと動きはじめた。
 
家に着くと、章江はすぐにたくさんの皿をテーブルに並べた。夕飯前だというのに、茹でたとうもろこしやら、ジャガイモやら、枝豆や冷えたスイカがお盆にいっぱい運ばれてきた。祖父の健二はそれをつまみに自分でビールを開け、
「大人の味だ。お前も少しは飲めるのだろう」と、久実にもグラスに半分ほどのビールを注いでくれた。途中で章江がそれに気づき、慌ててビールの入ったグラスを奪おうとするのを、
「これくらい、かまわないだろう」 
健二はそう言って、久実の手に持たせた。久実はぐいっとそれを飲み乾した。泡を押しのけて入ってくる冷えた感触と、それが通りすぎたあとの苦みが何とも言えず火照った咽喉に心地好かった。久実は手の甲で口もとを拭ってから、「うまい」と言った。
健二の首筋からは汗の雫がいくつも玉になって流れていた。
「まったく、今からお酒なんて覚えなくても」と不満げな章江に、
「まあ、今時の若い者なら、とっくにビールくらい覚えてるだろう」
 健二はそう言って嬉しそうに笑った。
久実は、やっぱりここへ来て良かったと思った。今年の夏は久しぶりに楽しくなりそうだ。
 

 孫娘を相手に健二は上機嫌で酒を飲み、いつになく酔っ払って眠ってしまった。外はすっかり暗くなり、丸い月が軒先にぶら下がるようにして見えていた。
「久実が来るのを本当に楽しみにしていたんだよ、おじいちゃん」
 章江はそう言って、眠っている健二をふり向いた。久実もつられて彼を見た。日に焼けた祖父の顔は以前よりも少しだけ小さくなっているように見えた。
「久実のこと、若い頃の遥子にそっくりだって言ってね」 章江が言うと、
「そんなことないよ。私、お母さんにはあまり似てないと思うけど……」
久実は健二へ向けた視線を章江に戻した。
「それが、意外と似てるんだよ。やっぱり、親子だねぇ。声の感じなんて本当にそっくりで驚いた」
「そう? 何だか複雑だなぁ…」
 感慨深げに頷く章江に、久実は口を曲げて不満の意を示した。
すると章江は、「親子なんだから、似ていたっていいじゃないの。そんなに嫌がることもないだろうに、変な子だね」と言って笑った。
 遥子は久実を生んで少し太った。以前は顎がとがり、短く切った髪が尚のこと彼女のほっそりとした顔を小さく見せていた。色白で手足も細く、ただ腰まわりだけが借り物のように張っているのが悩みの種だった。周囲の大人たちに安産間違いなしだから安心しろと言われても、なんの慰めにもならなかった。
久実は当時の遥子よりもずっとほっそりしていた。手足も長く、現代っ子のスタイルの良さは否定しようもない。中年にさしかかった母親に似ていると言われ、久実が抵抗を感じるのも無理からぬことではあったのだ。
だが、章江には年頃の娘なら誰でも抱くであろう、そんな繊細な心の機微がわからない。彼女は何ごとにつけ、もっとおおらかな性質の人間であった。
「ところで、おばあちゃん。若い頃のお母さんって、どんなふうだったの?」
 久実はずっと気になっていたことを、さっそく章江に訊いてみた。
「どんなって、そうね。あまり自分のことは話さない子だったね。何を考えているんだか、へんに大人でとっつきにくい子だったよ」
「ふーん。それで、モテタの?」
「どうだろうねぇ。とにかく家でペラペラ喋るタイプではなかったからね。でも、何でそんなこと訊くの?」章江が訊ねると、
「うーん。実はね、若い頃のお母さんのこと、ちょっと知りたいなぁと思ってさ、それでここにも来ることにしたんだ。おばあちゃんなら、いろいろ知っていると思って」と久実が答えた。
すると章江は少し困った様子で、
「いろいろって、だったらお母さんに訊くのが一番だよ。おばあちゃんに訊いたって、何もわからない」と下を向いた。
「でも、少しは知ってるんでしょう? だったら教えてよ。どんなことでもいいの。お母さんには何だか訊きづらくてさ、だから、ね、お願い」 久実がそうして何度も顔の前で手を合わせると、章江は観念したように、
「お前はいったい何が訊きたいっていうの?」と言った。
「だから、お母さんが結婚する前のことよ。たとえば、私と同じくらいの時ってお母さん何してたのかな?」 久実が訊ねた。
「何って、あの頃は遥子も学校に行っていたと思うけど。高校を卒業して、それからどうしても短大に入りたいって言ってね、たしか大船の方の短大に通っていたよ」
「それで?」
「そうだね。何だかっていうサークルに入って、毎日飛び歩いていたかね。帰りが遅いって、よくおじいちゃんに叱られていたよ」
 そこで久実は、
「その頃、お母さん好きな人とかっていたのかな。おばあちゃん、何か知らない?」と言ってみた。
すると章江は呆れたような顔をして、
「なんだ。久実の訊きたいことって、そういうことだったの」とため息をついた。そして、少し考えてから、
「まあ、もう昔のことだから、話してもかまわないだろうね」と言った。
「やっぱり、誰かいたんだ」久実が言うと、
「そうみたいだね。とにかく、何も話さない子だから詳しいことはわからないけど、同じサークルの人でね、結婚したいって、いっときは大騒ぎだったんだよ」
章江は遠くを見る目でそう言った。
「それって、お父さんも知っている人だったんでしょう?」たまらず久実が口を挟んだ。
「なんだ。久実も知っているんじゃないの。だったら、もう何も話すことなんてないよ」
 章江はそう言って、話を打ち切ろうとした。久実は慌てた。
「だから知りたいのよ。好きな人がいて、結婚したいって言われて、なのに何でお父さんと結婚することになったのか、それを教えて欲しいの」
 久実があまり熱心に話すのを見て、章江は浮かしかけた腰をもう一度落ち着けて話し出した。
「早い話が、二人は上手くいかなかったってことだよ。おじいちゃんも大反対だったしね」
「おじいちゃん、反対したんだ?」
久実が言った。
「そうだね。あれは反対なんてものじゃなかったね。それは、それはすごい勢いで反対したんだよ。とにかく、遥子もまだ若かったからね、おじいちゃんもとても嫁に出すなんて気にはなれなかったんだろうけど…」
章江は長い息を吐きだすようにしてそう答え、それから眠る健二の顔を見つめた。
「それって」
「お母さんが十八歳の時だったかね。高校を出てすぐだったよ」
「十八歳か」
「でも、結局上手くいかなくてね、しばらくしてから別れたみたいだよ」
「じゃあ、お父さんとは?」久実が訊ねた。
「お父さんとは、その人と出会った頃からもう知り合いだったようだよ。よく電話が掛かってきたりしてたからね」
「そうなんだ。ねぇ、おばあちゃん。その頃の写真か何か残ってないかな? 私、その人がどんな人かすごく興味があるの。若い頃のお父さんやお母さんの顔も見てみたいし、あったら見せて欲しいんだけど…」
久実は期待を込めて章江の顔を覗き込んだ。けれど章江は、
「残念だけど、写真は残ってないね。あるとしたら、お母さんが自分で持ってるはずだよ」と首を横にふった。
「そうか。じゃあさ、その人の名前とか、昔の住所とかってわからないかな?」
 久実はどうしてもその相手がどんな人物か知りたくなった。直接でなくても、せめて相手の顔を見てみたい。章江の話はもう十分すぎるほど久実の好奇心を刺激していた。
「そんなこと訊いて、どうするのさ?」
章江の表情には、はっきりと不安の色が浮かんでいた。孫娘が何を考えているのかわからない。そこで久実が、
「どうもしないけど、興味があるのよ。お母さんが好きになった人っていうか、あのお母さんに結婚なんて言った人の顔が見てみたい」
正直にそう答えると、
「お前も、ずいぶん意地の悪いことを言うんだねぇ。もう、かなり前のことだから今もそこにいるかはわからないけど、当時はたしか山向こうの住宅団地に住んでいるって言っていたね。もしかしたら、一枚くらい昔の年賀状か何か残っているかもしれないけど。まぁ、後で見ておいてあげるよ」
章江はそう言って立って行った。
久実の知らない母の世界。祖母の話は、間違いなく母の言葉を裏打ちするものであった。本当にあの母にそんな人がいたのだと思ったら、久実はたまらなくその人に会いたくなった。たぶん母があんな話をしなければ、久実がここまでその誰かに興味を引かれることもなかったのだろう。でも母は、今もその人を嫌いにはなれないと言う。いつか、また会いたいと言う。その相手がどんな人物か、どうしても知りたい。久実のその思いは、ここへ来てさらに強くなった。
 

数日後、久実は弘の実家を訪ねてみることにした。せっかく横浜まで来ているのに、いつまでも向こうに顔を出さずにいるのは、もう一人の祖母に悪いような気がした。
「じゃあ、今日はあっちに泊まるの?」
章江に訊かれ、
「うーん。そうなるかな」と久実は曖昧な返事をした。それから、
「でも、またすぐこっちにも顔を出すから」と慌てて言い足して、朝ご飯を口に押しこんだ。章江は久実のために鮭を焼き、味噌汁をこしらえてくれた。
「そう。おじいちゃん、きっとがっかりするだろうけど、まあ仕方ないね。いつまでもこっちで引き止めておくわけにもいかないから」と言う章江に、
「うん。おじいちゃんにはよろしく言っておいて。一週間もしたら、また来ますって」 久実は頷いて食器を重ね、台所へ移動した。
 健二は、今朝久実がまだ寝ているうちに仕事に出掛けてしまった。一度は定年を迎えて退職したのだが、隠居をするにはまだ早いと新たなやり甲斐を求めて働きに出ているのだ。久実には健二がどんな仕事をしているのかわからないけれど、帰って久実と晩酌できるのを楽しみにしていたらしい。
「それと、私の荷物なんだけど、しばらくここに置いておいてね。今回は必要な物だけ持って行くことにするから」
 そう言って食器を洗う久実の横で、章江は皮付きの大きな竹の子にザックザックと切れ目を入れて煮物の準備をしていた。
「わかった。大丈夫だよ、そんな心配しなくても」章江が久実をふり返る。
「うん。ありがとう」
久実はそう言って濡れた手をタオルで拭った。
 それから小さめのバッグに数日分の着替えを詰めて久実は弘の家へ向かった。
バス停までは章江がついて見送ってくれた。そこで、章江は思いだしたようにエプロンから古びたハガキを取りだし、
「それから、これ、こないだ言っていたハガキ。一枚だけ見つけたから、持って行きなさい。今さらお母さんも怒らないだろうけど、変なことに使うんじゃないよ」と言って久実に渡してくれた。
「ありがとう。じゃぁ、また来るから」
久実はそう言ってバスに乗り込んだ。今日の久実はTシャツに細身のジーンズを合わせ、着替えの入った荷物とは別に肩からポシェットを提げていた。そこには財布とケイタイが入れられていた。それは現代っ子の久実にとってはお守りみたいなものだった。とりあえず、これさえあれば何とかなる。
 久実は受け取ったハガキをポシェットに入れずに手の中に持っていた。そして席に着くとおもむろに窓を開け、そこに立っている章江に手をふった。バスが走りだすと、章江はゆっくり背を向けて自分の家へと引き返して行った。久実はそこではじめてそのハガキをじっくりと見てみた。角がめくれて、所々黄色く変色している。母宛のハガキ。宛名の脇に小さく丁寧な文字で差出人の名前と住所が添えてある。『蕗澤祥一』それが、母の言う大切な誰かの名前らしかった。
 久実はその名前を何度も口の中で繰り返し、それからハガキをポシェットに挿し込んだ。名前がわかると、彼がどんな人物か久実の興味はいっそう掻き立てられた。少しは父に似ているのだろうか。それとも、まるで違った人物なのだろうか…。
 あの母を好きになったという男の影はいつまでもぼんやりとして、久実の頭の中でハッキリとした形にはならなかった。だいたい、久実は若い頃の両親の顔を想像することさえできずにいるのだ。まだ一度も見たことのない男の顔を想像するのは、とても難しいことのように思えた。
 そこで久実はイヤホンを取りだすとそれを耳につけ、それから視線を窓の外へと動かした。耳から心地好い音楽が流れだすと、久実の頭にあった形にならない影はすっかり姿を消していた。
 
厚木の祖母は、やっぱり大騒ぎで久実を迎えてくれた。けれど年齢のせいか、その姿はずいぶん弱々しく見えた。十年前に祖父を亡くし、今は父の弟である宏二と二人で暮らしているのだが、やはり連れ合いを亡くしてからめっきり老けこんでしまったらしい。母は時々、この祖母のことをとても心配そうに口にした。
「今日、叔父さんは?」
 久実は祖父の仏壇に手を合わせ、それから台所に立った祖母に声を掛けた。
「仕事だけど、久実が来るって言ってあるから、早く帰るんじゃないかしらね」
「そう。叔父さん、相変わらず忙しいんだ」
そして、家から持たされた土産を仏壇の脇にそっと添え、畳の上をいざるようにして座卓のある方へと身体の向きを変えた。
厚木の家はとても狭く、叔父の部屋と台所を除くと、あとは居間と納戸だけという間取りだった。そもそも叔父が一人で住んでいたところに祖母を呼んだのだから無理もない。もちろん、風呂やトイレはあるけれど、余分な部屋は一つもないのだ。だから、仏壇も居間に置いてある。つまり、この部屋は居間兼、仏間兼、祖母の寝室なのである。そして、今日からは久実もここで寝ることになる。
「そうだね。毎日遅くまで仕事してるみたいだね。おかげで、いまだに独身だよ」
祖母はそんなことを言いながら、冷たい麦茶を二つお盆に載せて持ってきた。そしてその一つを久実の前に置くと、もう一つを手に持って座卓の脇に腰を下ろした。
もともと小柄なこの祖母は、年齢を重ねてまた少し小さくなったように見えた。もう七十を過ぎたのだったか…。久実はそんなことを考えながら祖母を見た。そして、
「本当にね。叔父さん、好きな人とかいなかったのかなぁ」
誰に訊くともなくそんなことをつぶやいた。すると、祖母はまるで知らない誰かのことを話すように、
「さあ、そんな話はしたことがないからわからないけど、本当は誰かいたのかもしれないねぇ」と言った。久実は頷いた。
「叔父さん、優しいし、モテそうだもん」
「まあ、今は本当にオジさんになっちゃったからね。今さら来てくれる人もなかなかいないみたいだけど…」
そう言って悪気もなく笑う祖母に、
「そうか…。残念」
久実が大げさにため息をついてみせると、
「そんなこと言っているうちに、久実の方が先にお嫁に行くようになるんじゃないの?」 祖母は言って久実の顔を覗き見た。
「それはないかな。私はしばらくそんなつもりないから。だいたい、まだ相手もいないよ」
 実際、久実は本気でそう思っていた。結婚なんて、とても今の自分には考えられない。すると祖母は急に真面目な顔をして、
「そうなの?それはまたお気の毒だねぇ。いい若い者が」と久実をからかった。
「そんなこと言わないでよ。こっちはまだこれからなんだからさぁ」
そこで、久実が少しふくれてそう言うと、祖母は
「そうか、ごめんよ」と言いながら、今度はコロコロと声をたてて笑うのだ。
「ところでさ、おばあちゃん、蕗澤さんって人知らないかな?お父さんの古い知り合いらしいんだけど…」
 名前もわかった今、久実は少しでも早く『蕗澤』という人物にたどりつきたいと思っていた。そのために今はわずかでも情報が欲しい。貴重な夏休みをわざわざ祖母の家で過ごそうと思ったのもそのためなのだ。すると祖母は、
「蕗澤さん?だったら昔お父さんと同じ学校に通っていた人だと思うけど。若い頃はよく一緒に出掛けたりして、うちにも何回か遊びに来ていたよ」と答えた。
「そうなんだ。じゃあ、やっぱりお父さんのお友だちなんだ?」
「お前の言っている人がその人なら、そうだと思うけど。でも、それもずいぶん昔のことだよ」
「そう。じゃあ、今どうしてるかなんて知らないよね?」
「さあ、最近のことはわからないけど、でも、何で久実がそんなこと訊くんだい?」 祖母が訊ねた。
「うん、ちょっとね。お父さんの若い頃のこと知りたいと思ってさ。それで、その蕗澤さんってどんな人だったの?」
久実に訊かれて祖母は少し黙り込んだ。それから庭先を指さして、
「よく、その辺で話をしていたね」と言った。
「次はどこへ行こうかって、休みのたびに地図を広げてね、お前のお父さんといつもそんな話ばかりしていたよ。とても優しくて穏やかな子だった」
「そうなんだ。でも、そんなに仲がよかったのなら、何で連絡もとらなくなっちゃったんだろう…」
久実が首をかしげると、
「さあ、わからないけど、お前のお父さん、何年かよそに出向に出ていたからね。そんなことで段々離れてしまったのかもしれないね。大人になるといろいろあるからね」と祖母が答えた。
「ふーん。そういうものか」
「そういうものだね」
「そうか、大人って何だかだね」
「まあ、久実は今のうちにたくさん楽しんでおくことだね。友だち、友だちって言っていられるのは、やっぱり学生のうちだけだろうからね」
そう話す祖母の言葉に頷くと、久実は残りのお茶を一口で飲みきった。それからポシェットのハガキをそっと出し、その住所を眺めてみた。やはり一度はここを訪ねてみたい。消印からするとそれはもう二十年以上も前のもので、今も彼がそこに住んでいるとは思えないけれど、それでも父が、母が関わったであろうその人に、今はどうしても会ってみたい。そこで久実は、
「ねぇ、おばあちゃん。神奈川の地図があったら貸して欲しいんだけど。できれば、横浜辺りの詳しいやつがあると嬉しい」と言ってみた。
 すると祖母はすぐに立ち上がり、あちこちガタガタと音をたてて探してくれた。ところが、どこを開けても目的の地図は見えないらしい。宏二なら地図の在り処もわかるはずだと言うので、久実は彼の帰るのを待って改めて訊ねてみることにした。
代わりにポシェットからケイタイを出して、そこに蕗澤の名前と住所を登録した。『蕗澤』という人から母に来たこのハガキを、この家では見せてはいけないような気がした。たぶん、母とその人が知り合いであることは、祖母も叔父も知らないのであろう。
 
 午後の三時を過ぎると、祖母はさっそく夕食の準備に取りかかり、山のように天婦羅を揚げた。それからお刺身と煮物を皿に盛りつけ、食卓に出してくれた。
仕事から帰った宏二は、
「久実のおかげで、今夜はご馳走だ」と言って喜んだ。そして、祖父が亡くなってからというもの、張り合いがないのかめっきり料理もしなくなったと言って、小さく舌打ちをした。独身の叔父は年老いた母を気遣いながらも、やはりひとり身のさびしさが身に染みているのかもしれない。久実は宏二が食卓につくのを待って声を掛けた。
「ねぇ、叔父さん。私ちょっと行ってみたいところがあるんだけど」
「行ってみたいところ?」
宏二が訊ねた。
「そう。でね、県内の地図があったら貸して欲しいんだけど、いいかな?」
久実が宏二の顔を見ながらそう言うと、
「ああ、地図なら俺の部屋にあるからかまわないけど、お前一人で行けるのか?」
今度は宏二が久実を見て訊ねた。
「うん。大丈夫。ちょっとね、いろいろ歩いてみたいんだ」
久実は楽しそうだった。そこで宏二は、
「そうか、それならかまわないけど、急がないなら俺が週末にでも付き合ってやってもいいぞ」と軽い気持ちで言ってみた。
すると久実は、
「本当?そうしてもらえると心強い」と声を上げ、「じゃあ、そうするか?」と宏二が久実を誘った。
「うん。でも、やっぱり地図は貸してね。その前にいろいろ調べたいことがあるの」
久実はそう言って大きく切られた刺身の一切れをぱくっと口に入れた。そこへ、
「この子ったら、弘の若い頃のこと知りたいって言うのよ」
祖母が台所から漬物の皿を持ってそう言った。
「兄貴の?」
宏二は思わず箸を置いて久実を見た。
「そう。何となくね、興味があるの」
久実は今度は出された漬物を口に入れてぽりぽりと音をたて始めた。
「へぇ、久実は変わってるな」
 宏二が一度からにしたグラスに再びビールを注ぎ入れると、
「ほら、お前も会ったことあるでしょう? 蕗澤さんって。あの人のこと訊いたりして」と、二人の脇に座って祖母が話をつづけた。
「蕗澤って、あの?何だか懐かしい名前だなぁ」
すると、宏二は天婦羅を挟んだままの箸をとめ、何か思い出しているような顔をした。
「あれ、叔父さんも知ってるの?その蕗澤って人」
思わず、久実が身をのりだした。
「ああ。だって、俺も一緒に出掛けたことあるし、よく家にも来てたよな?」
宏二が祖母に同意を求めたので、久実はさっそく彼にも質問を始めた。
「そうなんだ。だったらさ、その人が今どうしてるか知らない?私ちょっと会ってみたいんだ。その蕗澤って人に…」
 急に勢い込んでくる久実に戸惑いながらも
「さすがに、今どうしてるかまでは知らないけど、前と同じところに住んでるんじゃないかな。あそこはたしか親父さんの持ち物だったはずだから」と宏二が答えた。そして、
「でも、何で久実が蕗澤さんに会いたいなんて思うんだ?」と久実に訊ねた。
「だから、お父さんの若い頃に興味があるのよ。私が訊いたってお父さん何にも教えてくれないんだもの。だから、お父さんには内緒で、若い頃の友だちとかに会ってみたいと思って…」と久実が答えると、
「そうか、だったら先に電話でもしてみたらいいんだ。きっと、嫌がったりしないで話を聞いてくれると思うけど」
宏二が言った。
「本当?」
直接話ができるなんて思ってもいなかったから、久実は驚いた。しかし、さすがにいきなり自分が出て行くのは気が引ける。
「でも、会ったこともない私がいきなり電話を掛けるっていうのも、どうかと思うけど」 久実が自信なさげにつぶやくと、
「それなら、俺が明日にでも連絡してみるよ。それで、向こうの都合さえよければ、週末にでも一緒に行ってみたらいいじゃないか」と宏二が言った。それを聞いて、久実の顔がほころんだ。
「そうしてもらえると助かる。ありがとう。やっぱり叔父さんは話がわかるよ。なのに、何でお嫁さんが来ないのか不思議だ…」
 久実が胸の前で腕を組み、真剣な表情で首をかしげてみせると、
「おいおい、それを言ってくれるなよ。これでも、けっこう気にしてるんだから」
宏二はそう言って笑った。
久実は急に話が思うように進んで嬉しくなった。これで少しは何かわかるかもしれない。少なくとも、『蕗澤祥一』というその人に、直接会うことができるのだ。そう思うと、それだけで興奮していた。
「でも、このことは家には内緒よ。内緒で会うところに意味があるんだから」
 久実が口の前に人さし指を立ててそう言うと、二人は真面目な顔をして久実に頷いてみせた。
 
 週末、宏二は一日久実につき合ってくれると言った。蕗澤という人には宏二が電話をし、今日会う約束を取りつけてくれた。
その人は、今も変わらず年賀状にあるその場所に住んでいると言った。そこで、二人は早めにお昼をすませ、宏二の車でそこへ向かうことにした。宏二は車でしかその場所へ行ったことがないと言った。そして、
「いつも兄貴の車で一緒だったから場所はわかるけど、どの駅に近いとか、そういうことはよくわからないんだ」
そう言って、久実がその住所と地図とを照らし合わせているのを見ていた。
「いいの。叔父さんのお陰でその人と会えるんだもん。大収穫だよ。私一人だったら、とてもそこまでいかないもの」久実が言うと、
「まあ、少しは俺も久実の役に立てて良かったよ。そのうち、久実にもしっかりお返ししてもらわなくちゃな」と宏二が言ったので、久実は「そのうちね」と繰り返し、顔中にっこりと微笑みを浮かべて宏二に頷いた。
 宏二は、昔から久実には兄のような存在だった。父親の弟なのだから兄というには年齢が離れすぎているが、明るく面倒見のいい彼は、弘よりもずっと身近で話し易い相手であった。小さい頃は、本気で宏二がお父さんだったらどんなにいいだろうと思っていた。
当時は弘一家も厚木の駅前にアパートを借りて住んでいたのだが、互いに家が近いことも手伝って、久実が生まれてからはいっそう杉下の家族とも行き来が頻繁になっていた。とうの弘が仕事、仕事で家庭を空ける機会が多いほど、よく遊び相手をしてくれる宏二の存在は久実にはより大きく感じられたのだ。
 
「着いたよ」
 宏二はある一軒の家の前で車を停めた。すると、中から待ちかねたように一人の男性が姿を現した。その人は車の前で宏二が降りて来るのを待っていた。そして、とても懐かしそうに宏二を見つめ、
「久し振り。よく来たね」と言った。
宏二もとても懐かしそうに彼を見て、
「元気そうだね」と笑った。それから久実をふり返り、
「これが電話で話した姪っ子の久実。兄貴のとこの娘なんだ」と、久実を紹介した。そこで久実は、
「はじめまして。杉下久実です。今日は変なことお願いしてしまって、すみません」
言ってそっと頭を下げた。するとその人は、
「杉下の娘さんか。あいつにこんなに大きな娘がいるとは驚きだな」と言い、それから久実と宏二を中へと招き入れた。
家の中はきちんと整理されていて、とても静かだった。
「今日は、うちの奥さん仕事でいないんだ」 蕗澤はそう言うと、自分で久実と宏二にグラスとジュースを出してくれた。そして、
「本当はいっぱい飲みたいところだけど、車じゃ勧められないな」と言って笑った。二人が再会するのは、二十数年ぶりのことだった。
「何なら、泊まっていってもかまわないけど」と言う蕗澤に、
「せっかくだけど、俺仕事休めないんだ」 宏二はそう言って自分でグラスにジュースを注ぎ、久実のグラスにもいっぱいにジュースを注いでくれた。
「ところで、宏二はまだ結婚してないの?」いきなり訊かれて、宏二は苦笑した。
「それが、なかなかね。思ったようにはいかなくて…」宏二が言うと、
「そうか。杉下より、お前の方がずっと結婚に向いていると思ったんだけどな」
蕗澤は笑いもせずにそう言った。
「それなら自分だって。蕗澤さん子供作らないの?」
宏二が遠慮もなくそんなことを訊ねた。すると蕗澤は、
「まあね。欲しかったんだけど、やっぱりなかなか上手くいかなくてね」と、静かな調子でそう言った。
「お互い、なかなか思うようにはいかないね」
宏二はそっと彼から視線を外した。その時、庭先でさわさわと木々の葉が揺れて音をたてた。
「そうだな」
蕗澤はかすかに笑って窓の外へと視線を送り、
「結局、万事上手くいっているのは杉下だけか」と言った。
「どうかなあ。でも、結婚もして、こんなに大きな娘までいるんだから、やっぱり兄貴は幸せなんじゃないかなぁ」
 宏二がそうして久実に視線を移すと、
「ところで、久実ちゃんって今いくつなの?」
 蕗澤はそう言って久実を見た。それから、急に思い出したように、
「ああ、レディーに年を訊くのは失礼だったかな」と言い、
「ここはやっぱり、久実さんと呼ぶべきか…」と言って悩んだ。
 蕗澤は久実の想像とはちょっと違っていた。久実はその名前から、すっと背が高く、いかにもスポーツマンというような男性を想像していた。ところが目の前にいる蕗澤は、痩せているせいか思っていたよりもずっと小柄で華奢に見えた。身長も160センチほどしかない久実とそう変わらない。逞しいというよりは繊細な感じのする男だった。温和で穏やかな、そんな印象を与える。
「今年で二十歳になります。名前は、ちゃんでも、さんでも好きに呼んで下さい」
久実が答えると、蕗澤は感慨深げに頷いて、「二十歳かぁ」とつぶやいた。
「これじゃ、俺たちも年を取るわけだな。あの頃、宏二がちょうど二十歳くらいだっただろう?」
蕗澤が訊ねた。すると宏二は、
「いや、俺はまだ十八だったかな。高校出たばかりだったから」と答え、
「あの頃は、蕗澤さんもよく兄貴とあちこち出掛けてたよね。俺も何回か一緒に連れて行ってもらったけど…」と懐かしそうにそう言った。それから少し間を置いて、
「まだ、よく車で遠出するの?」
宏二が訊ねた。すると蕗澤は、
「最近は、あまり遠出はしてないなあ」と言った後で庭に目をやり、
「結婚してから、なかなかね」と少しだけさびしそうに笑った。
やはり、それぞれ幸せと引き換えに何かしら失うものがあるのかもしれない。大人って、やっぱりなかなか大変らしい。久実はこっそりそんなことを考えながら、二人の話を聞いていた。
 
 気がつくと、宏二はすっかり寛いで、和室のまん中に転がって眠っていた。すると蕗澤はゆっくり久実の方へ向き直り、
「ところで、久実ちゃんはおじさんに何か訊きたいことがあったんじゃないの?」と言って久実を見た。それは、これまで久実が見たことのないほど優しく穏やかな視線だった。
 そこで、久実はずっと肩に掛けていたポシェットから一枚のハガキを取りだして、そっと蕗澤の方へ差しだした。そして、
「母なんです」
蕗澤の顔を正面から見つめてそう告げた。
すると蕗澤は小さく頷いて、
「やっぱり、遥子さんの娘さんなんだね。お母さんにどことなく似ているよ」
そう言ってしげしげと久実を見つめた。
「そうですか?祖母にも同じことを言われました。私は、あまり母に似ているとは思わないんですけど…」
久実がそうして目を伏せると、
「それで、君は何が訊きたいの?」
蕗澤は静かな声でそう言った。
「若い頃の父のこと、母のこと、それから蕗澤さんのこと。三人はどんな関係だったんですか?」
 久実は胸にあった疑問をそのまま蕗澤に投げ掛けた。何故か、今はそうすべきだと思った。すると蕗澤は落ち着いた様子で頷いて、
「君のお父さんとはね、学生の頃からずっと友だちだったんだ。先も聞いていただろう? そのことは宏二もよく知っている」とそう言った。そこで久実は、
「じゃあ、母とは?蕗澤さん、母にプロポーズしたんですよね」
思い切って、そう訊いてみた。
すると蕗澤は一瞬大きく目を見張り、
「そんなことまで知ってるんだ。ちょっと驚いたな」と言って、そこで寝ている宏二をふり向いた。それからゆっくり久実を見て、
「少し、散歩にでも出ようか」
久実を外へといざなった。
久実は眠っている宏二を起こしてしまわないように、「散歩に出てきます」と走り書きしたメモを宏二の腕の下に挟みこみ、それから外へと出て行った。蕗澤は玄関の外で待っていた。
「それで、君はどこまで知っているの?」
 家の垣根に沿ってある細い路地を通り抜け、向こうに見える河岸を目指しながら蕗澤が訊ねた。
「何も。母は何も教えてくれないから、私が知っているのはそれだけなんです。だから、ここへ来たんです。蕗澤さんにはご迷惑でしょうけど、私どうしても知りたくて。母が何故あなたではなく、父と結婚したのか…」
すると蕗澤は少しの間黙り込み、それから、
「君は残酷なことを訊くんだなぁ」と言った。
「実は、私母に頼まれたんです。もし母が死んだら、その時にはあなたに知らせて欲しいって。できれば、お別れに来て欲しいって言ってました。母はあなたのこと、今でも好きだって言うんです。たぶん一生嫌いにはなれない人だって…。だから、私どうしてもその人に会いたくて、それで両親には内緒でここへ連れて来てもらったんです。叔父もそのことは知りません。全部私が勝手に考えてしたことです」
久実は一気にそこまで話した。
すると蕗澤は静かに頷いて「そう」とだけ答え、何か考えているようだった。それから少し間を置いて、
「それで、お母さんはお元気?」と訊ねた。
「はい」
久実がしっかりと頷くと、
「なら、よかった。最初君が僕に会いたがっているって聞いた時には、君の身の周りで何か起きたんじゃないかって心配したんだ。そうでなければ、君が僕に会いに来るはずなんてないからね」
 蕗澤はそう言って河岸を見つめ、足を止めた。まだ日は高かったけれど、そこを流れる風はそよそよと辺りを揺らし、周囲よりはいくぶん空気も涼しく感じられた。
久実も蕗澤の隣りに並んで足を止めた。並ぶと、蕗澤の肩は久実よりいくらか高い位置にあった。蕗澤は前を見つめたまま、ゆっくりと話しだした。
「君のお母さんとはね、僕が二十歳の時に知り合ったんだ。その時、彼女はまだ十六歳だったかな、たしか高校に入ったばかりだった。あの頃は僕もいろいろなサークルに参加していてね、そのうちの一つに彼女もいたんだ。それからはずっと、友だちっていうよりも妹みたいな存在だった。特別な気持ちなんてなかったんだよ。はじめはね…。それが、君のお母さんが高校を卒業する頃かな、何かが少しづつ変わりはじめていた。君のお母さん、早くに進路が決まってね、それでよく僕たちについて遊びに出るようになった。僕と君のお父さんと、いつも三人で出歩くようになったのがその頃だ。
遥子さんは本当にかわいらしい人でね、あの頃はよく笑ってた。いつも楽しそうにニコニコして、まるでそれがあたり前のようにそばにいた。本当に、自然に僕らの中に入り込んでいたんだ。君のお父さんはそんな彼女をすぐに気に入ってね、口には出さなかったけど、僕にはすぐにわかったよ」
「でも、母は好きだって言ってくれたのは蕗澤さんの方が先だったって…」
「そうなんだ。杉下が彼女に惹かれていることは知っていた。でも、気がついたら僕も彼女のことが好きになっていたんだね。本当はあきらめようと思っていたんだよ。自分では気がついていなかったようだけど、君のお母さんははじめから君のお父さんのことが好きだったんだ。だけど、君のお母さんに励まされてね。今思い出しても笑えるよ。何も知らないものだから、彼女一生懸命僕を励ましてくれた。好きな人がいるならあきらめちゃダメだって、何度もそう言ってくれたんだ。だから、あの時一番驚いたのは遥子さんだったんじゃないかな。僕なんかに告白されて、ずいぶん困っていたよ」
「けど、母は蕗澤さんのこと、今でも好きだって言ったんですよ。たとえ死んでしまっても、いつかまた会いたいって。蕗澤さんとはまた会える。だから、お別れに来て欲しいんだって、母はそう言うんです。おかしいですよね? 死んでしまったあとにまた会いたいなんて…」久実が言うと、
「じゃあ、久実ちゃんは輪廻(生まれ変わり)って信じないの?」蕗澤が言った。
「え?」
久実は驚いて蕗澤を見上げた。すると蕗澤は、
「お母さんにその話をしたのは僕なんだよ」と言った。
「昔、そんな夢を見たんだ。たぶん、それは前世の僕の姿だったと思う。その時代には君のお父さんとお母さんもいてね、その世界の遥子さんはどこかのお姫さまのようだった。僕は、その頃から遥子さんのことが好きだったんだ。だけど、当時の僕は彼女と自由に話ができるような身分じゃなかった。悲しいけど、遠くで見ているしかなかった。そんな時代だったんだ。結局、僕と遥子さんは一度も結ばれることのないままにその時代を生きた。遥子さんは、僕が言ったその夢の話を覚えていたのかもしれない。僕たちはずっと昔からめぐり会うように運命づけられているんだって、僕がそう言ったんだ。たとえ、この世で結ばれることはなくてもね。
 僕はね、本当に君のお母さんのことが好きだったんだよ。だから、ずっと一緒にいて欲しいと思ったし、結婚したいとも思った。でも、本当はわかっていたんだ。彼女の気持ちが僕じゃないところへ向かっているって。だけど君のお母さんは優しい人だから、僕の気持ちを知って、それを受け容れようと努力してくれたんだ。結婚の約束もしてくれた。僕は今もそこに嘘があったとは思わない。でもね、君のお母さん、段々笑わなくなってしまったんだ。出会った頃はいつだって楽しそうに笑っていたのに、僕といるようになってから笑わなくなってしまった。いつも自分を隠すようにして、何も言わなくなった。だから別れたんだ。とても好きだったけど、彼女と一緒に生きる相手は僕じゃないと思った。
君のお父さんとはずっと会っていなかったけど、二人がいつか結婚するだろうとは思っていたよ。だから、君の話を聞いても、そんなに驚かなかった」
 久実は蕗澤の言葉が途切れるのを待って訊ねた。
「蕗澤さんは、やっぱり今も母が好きなんですか?」
「そうだね。大切な人だよ。たとえ会えなくても、嫌いにはなれない」
「母と同じことを言うんですね」
久実が言うと、
「そうか。君のお母さんもそんなふうに思ってくれているのなら、嬉しいよ」
蕗澤は静かな調子でそう言った。
「母も、あなたも、ちゃんと結婚して家庭があるのに…」
久実が思わずつぶやくと、蕗澤はゆっくり久実をふり返り、
「うーん、それとはまた別なんだよ。久実ちゃんにはわからないかもしれないけど、好きとか嫌いとか、それだけじゃ割り切れない何かがあるんだ。もちろん、奥さんのことは好きだよ。一緒に生きていく人だからね、愛情だってあるし、とても大切に思っている。
たぶん、君のお母さんも同じなんじゃないかな。君や君のお父さんのことをとても大切に思っている。でも、それとこれとは違うんだ。また別の気持ちなんだよ」
そう言って、また視線を前に向けた。
「それで、蕗澤さんは母が死んだらお別れに来てくれるんですか?私、あなたに連絡してもかまわないのでしょうか?」
久実はかすかに彼の奥さんのことが気になった。すると蕗澤は、
「さあ、約束はできないけど、何かあったら連絡してくれてかまわないよ。それが君のお母さんの望みなら、そうしてあげた方がいい」
そう言って頷いた。そして、
「さてと、それじゃぁ、そろそろ帰ろうか。宏二もいい加減目を覚ます頃だろうから」と言って河岸を歩きはじめた。そうして今来た道をゆっくりと戻りながら、蕗澤が言った。
「今日はありがとう。久しぶりに遥子さんと話ができたみたいで、嬉しかったよ」
久実は蕗澤について歩きながら、この人を好きになろうとした母の気持ちが少しだけわかるような気がした。父とは違う男の背中。突然やって来た久実に、正直に母を愛したと話してくれた静かな背中。久実には今の蕗澤の姿から当時の情熱を窺い知ることはできなかった。それでも、今日ここへ来てよかったと、それだけは本当にそう思っていた。
 
 久実は二人の祖母にたくさんの土産を詰め込まれて家に帰った。重い荷物を引き摺るようにして玄関を開けると、母はいつもと同じ調子で「お帰り」と言った。
久実は大きな荷物を何日もそのままにして学校ヘ戻った。学校から帰ると、久実の大きな鞄は片付けられ、かわりに大量の洗濯物が部屋の隅に畳まれていた。久実は慌ててポシェットを探した。財布とケイタイは出して使っていたけれど、ハガキだけはずっとそのままになっていたことを、今になって思いだしたのだ。
 ポシェットはクローゼットに掛けられていた。そして、ハガキはちゃんとそこにあった。久実は大きく息を吐きだしてベッドへ倒れ込んだ。母は気づかなかった。久実はハガキをもう一度ポシェットに戻してから、それをクローゼットにしまった。
 あれきり、母は例の話をしない。私が『蕗澤祥一』という人に会ったことを知るはずはないから、母が私に彼の名前を告げる気は今のところないのだろう。母は淡々と日々を過ごし、何もない毎日を面白くもなさそうに生きている。だけど、そんな母はけっこう今の生活に満足しているらしい。
「ねえ、何か欲しい物とかないの?」
久実は時々皮肉を込めて遥子にそんな質問を投げ掛ける。すると、遥子は決まって黙り込んでしまう。考えても、何も思いつかないのだと言う。
「お金もね、べつに生活に困っているってわけでもないし、何が欲しいっていうほどの物はないわね」
遥子はいつもそう言って、ただ家にいる。
母のようにはなりたくない。久実はいつもそう思ってこの母を見てきた。誰かに愛されて、楽しそうに笑っている。そんな母を知っているのは、父とあの彼だけなのかもしれない。
 
 休みが明けるとすぐに、久実は熱を出して学校を早退した。家に帰ると、いつもいるはずの母がいない。久実は仕方なく救急箱にあった薬を口の中に放り込み、部屋に戻って眠っていた。
 夕方になって目を覚ますと、台所からサクサクと包丁を使う音が聞こえてくる。そこで久実はふとんを出てのっそりと台所を覗いた。扉の影から顔を出すと、いつもと同じように台所に立っている遥子の姿が見えた。
「あなた、今日は早かったのね。何かあったの?」
遥子は向こうを向いたまま、動かす手をとめずにそう訊いた。
「うん、ちょっとね。何だか熱っぽくて…」
久実がそうして遥子のそばまですり寄って行くと、遥子は久実の額に手を当てた。遥子の掌は指先までひんやりと冷たかった。久実は思わず目を閉じた。
「ご飯、食べられる?」
遥子の声が優しく訊ねた。こんなふうに遥子に触れられるのは久しぶりだった。そこで久実はちょっと甘えた素振りで遥子に絡みつき、鍋の中を覗こうとした。すると遥子は、
「食欲があるなら大丈夫ね。それで、何かお薬は飲んだの?」
早口にそう言って、久実を居間の方へと押しやった。久実は急に邪魔にされて悲しくなった。
「薬だったら、帰った時にそこら辺にあったやつを飲んだよ」ぼそぼそと答えると、
「そこら辺って、何を飲んだのかわからないんじゃ困るのよ」
遥子は久実の具合がさして悪くないのを見てとって、さっそくいつもの小言をはじめた。久実は甘え心を出した自分が決まり悪くもあり、
「だって、お母さんが家にいなかったからじゃないの。いったいどこに行ってたのよ」と突然遥子を責めだした。すると遥子は、
「どこって、ちょっとその辺よ。だいたい、二十歳にもなろうって人が、親がいないとまともに薬も飲めないって言うのじゃ困るじゃないの。お母さんだって、いつまでもあなたの世話ばかり焼いていられないのよ。いい加減、しっかりしてもらわないと困るわね」とポンポン言葉を投げだした。久実はぼーっとした頭に母の逆襲を受けて、すっかりヘソを曲げてしまった。
「何も人の具合の悪い時にそこまで言うことないじゃない。まったく、母親ってやつは…」
久実は悪態をつきながら部屋に引き返し、ふとんにもぐり込んだ。腹が立ったせいで、よけいに熱が上がっている気がした。
「もう、いつも家にいるくせに、肝心の時だけいないんだから。親だったら、もう少し私の心配をしてくれたっていいじゃないの」
そんな思いが、久実の怒りをよけいに増幅させていた。本当に、お母さんは勝手だ。
それでも食事ができたと知らされると、久実はそそくさと部屋を出て台所に下りて行った。そして、食卓に皿を並べる遥子の姿を見て安心してしまう。
遥子のいない家は何となく空気の流れが止まったようで、ちょっとぞっとしない。まるで、まったく同じ形のニセモノの世界に足を踏み入れたような気になる。一日中家にいる母をつまらない女だと思いながらも、自分の都合で家を空ける彼女を恨めしく思ってしまう自分は、実は母よりもずっと勝手なのかもしれない。
「ちょっと、そんなところに突っ立っていないで、座るなり手伝うなり、もう少しどうにかならないの?」
言われて久実は渋々動き出す。遥子はそんな久実の手に漬物の皿を持たせると、
「はい。これでおしまい」と言って台所の電気を落とした。
「本当にね、もう少し考えてくれないと、先が思いやられるわね。あなた、そんな調子ではお嫁に行って困るわよ」
遥子は自分も居間に移ると、そう言って食卓についた。久実はさっそく食卓のご飯を掻きこみながら、
「大丈夫よ。私は結婚なんてしないから」と答えてテレビを見ていた。
「だって、結婚なんてしなくてもご飯は食べるでしょう?久実もそろそろ料理くらい覚えてもいいんじゃないかしら。今は困らなくても、覚えて損はないと思うけど…」
遥子がいつまでもそんな話をしているので、久実はさっさと食事を終えてこの場を切上げることにした。それで、
「いいの、私は全部買ってすますから。いまどきいちいち作らなくたって、何だって売っているじゃないの。それでいいのよ」
すましてそう答えると、キンピラを口の中に押しこんで皿を重ねた。そして、まだ何か言いたそうにしている遥子を尻目に、「ごちそうさま」と席を立った。これ以上、お小言を喰らう前に撤退してしまおう。久実がちょうど腰を上げた時、
「ただいま」
弘が帰ってきた。
遥子は食事の手をとめて彼を迎えに立つと、そのまま台所に入って鍋を使いはじめた。久実は母親の注意がそれたのをいいことに、また居間に戻ってテレビの前に陣取った。これでしばらくは安心してテレビが見られる。
帰宅した弘が風呂から上がる頃、食卓は彼のためにすっかり温かに整えられていた。遥子はいつも弘がお湯を使う十分ほどの間に料理を仕上げて食卓に出す。温かい物は温かく、冷たいものは冷たく冷やして、それが専業主婦である彼女には誇りでもあるらしい。
さすがに、これだけは久実も遥子を認めないわけにはいかないと思う。電子レンジもあるこの時代、何もできたてにこだわらなくても温かい食事は出せるのに、遥子はいつも弘の顔を見てから最後の仕上げをする。やはり、焼きたて揚げたてが一番美味しいと母は言う。
父は出された物をただ食べるだけ。母のこだわりが父に通じているのか、それはわからない。ただ、彼は時々「これは美味しくない」と言う。父が自分からこれが美味しいと言ったのを聞いた覚えはないけれど、父は時々美味しくないと口にする。それだけだ。
 

 久実は黒いワンピースを身につけてそこにいた。つまらなそうにすましている母の写真の前で、父が泣いている。葬儀は一通りすんで、父の職場の人たちも今はすっかり帰ってしまった。がっくりと肩を落とし、力なく座り込んでいる父の背中を久実は黙って見つめていた。父は抜け殻のように見えた。
何を訊いても虚ろな父に代わって、叔父や祖父母が葬儀を取り仕切ってくれた。母の知り合いは少なかった。もともと人づき合いの苦手な人であったが、母と古くから親交のあった人は大半が今も横浜近辺に残っていた。一人郷里から遠く離れた母は、久実が思っていたよりもずっとさびしい思いを抱えていたのかもしれない。蕗澤は葬儀には現われなかった。
初七日も過ぎて、祖父母や叔父が自分の家へと引きあげてしまうと、久実の家は火が消えたようにさびしくなった。
結局、遥子は久実の卒業を待たずに逝ってしまった。前日まで何ということもなく過ごし、朝になって具合が悪いと言い出したかと思ったら、たちまち様子がおかしくなった。それきりだった。久実も弘もどうすることもできなかった。
 はじめて過ごす父と二人だけの週末を、久実は重い気持ちで迎えていた。遥子が逝ってしまってから、弘は口を利かない。もちろん、訊けば答える。その程度の話はする。けれど、それ以上の会話にはならない。
食事は久実が見よう見まねで用意をするのだが、いかんせん美味しくない。ただでさえ落ち込んでいるところへ、まずい食事は咽喉を通らず、二人の表情はますます暗くなった。
 蕗澤が訪ねて来たのはその頃だった。
「久実ちゃんに連絡をもらったんだ。遥子さん、残念だよ」
玄関で立ったまま話しだす彼を弘は黙って迎え、蕗澤は遥子の写真に手を合わせてお線香を立てた。
「本当はもっと早くに来たかったんだけど、悪いな」という蕗澤に、
「いいんだ。遠いのに、よく来てくれた」 
弘はそう言い、冷蔵庫から缶のビールを出すと一本を蕗澤に渡し、もう一本を自分で開けた。
「本当はずっと具合が悪かったらしい。俺には言わなかった。あいつ、前からちょこちょこ病院に掛かっていたから、俺も特別気にしてなかったんだ。いつものことだと思ってた」
「前からって、彼女どこか悪かったのか?」
「いや。悪いってほどのことじゃなかったんだ。ただ、薬さえ飲んでいれば問題なかった。久実が生まれた頃からだから、もうずいぶんになる。でも、俺もあいつもふだんは病気なんてことも忘れてた。幸い、他に大きな病気をしたこともなかった。だから、油断していたのかな…」
弘はそこまで言うと、ビールをくっと口に入れた。
「自分では気づいていたらしい。あとで俺や久実が困らないように、あちこちしっかり整理してあったよ」
「遥子さんらしいな」蕗澤が言った。
「そうだな、肝心なことはいつも最後まで話さない」
「ああ」
蕗澤が答えると、弘が言った。
「あいつが、お前を呼んだんだ。お別れに来て欲しいって久実に言ったらしい」
「ああ。でも、それはおまえのためだろう」 蕗澤が言った。
「遥子さん、きっと心配だったんだ。お前を後に残して、これからどうなってしまうのか。だから俺を呼んだんじゃないか」
「そうか」
「そうだろう」
蕗澤がそう言うと、弘は
「そうだな」と言い、
「お前、今日は泊まって行けるんだろう」と言った。
久実はそんな二人の会話を隣りの部屋で聞いていた。そして、急にゆりに会いに行こうと思い立った。今なら、全部素直に話せそうな気がした。母のことも、父のことも、それから蕗澤のことも…。
遥子は蕗澤を父にとっても大切な人だと言った。本当は自分のために彼らの交流が途絶えてしまったことを、母はひどく気にしていたのかもしれない。蕗澤もまた、今になって遥子の両親と顔を合わせることを避け、あえて葬儀へは顔を出さずに直接父を訪ねたのだろう。久実はそんな気がした。
 
「それで、お前、今もひとりか?」
ひとしきりして弘が訊ねた。
「いや、あれからもう三十年近くも経つんだ。俺もいちおう家庭を持って、落ち着いたよ」
「そうか」
「ああ、でも子供だけは持てなかったなぁ。お前が羨ましいよ。いつの間にかあんなに大きな娘を持って…」
そう言って頷く蕗澤に、
「そうだな」と弘が低く答えた。
「そうさ。あの子、これからもっと遥子さんに似てくるだろう。じきに結婚なんて話も出てくる。さびしいなんて言っていられなくなるぞ」
「ああ」
 蕗澤が来てから、父は自然と言葉を発している。久実は弘がこのままどうにかなってしまうのではないかと心配していた。けれど蕗澤との再会が、父の気持ちに何らかの作用を及ぼしていることは確かだった。母は、やはり父のために彼を呼び寄せたのだと思った。
もう一度蕗澤に会いたい。そう言った母の言葉に嘘はないとしても、母は自分の死をきっかけに、父と彼との間に再び友情が通い合うことを誰よりも願っていたのかもしれない。
母の幸せは、たぶんこの男たちの中にあるのだ。あの日の母がいつも楽しげに笑っていられたのは、父と蕗澤の笑顔がすぐ近くにあったからなのだろう。きっと、母は今も彼らのそばにいる。父と蕗澤と、三人で過ごした時間を誰よりも愛し、今もその時がつづくことを誰よりも願っているに違いない。
 久実はふと母の写真をふり返った。一瞬、つまらなそうな母の顔が笑ったような気がした。弘はまだ蕗澤ととりとめのないお喋りをつづけている。久実はそっと玄関をぬけ出してゆりの家へ向かった。ゆりはきっと面白がって久実の話を聞くだろう。もしかしたら、蕗澤に会いたいと言い出すかもしれない。そうしたら、ゆりにも彼を会わせてあげようと思った。
ずっとつまらないと思っていた母の人生も、今はそう悪くないような気がしていた。二人の男に愛されて笑っている母を久実は想像してみた。父と蕗澤の間で笑っている母の顔は、久実と重なって見えた。
いつか、私にもそんな誰かが現われるのだろうか。死んでも尚、その先に再び出会えると信じあえるような、もう一度めぐり会いたいと思えるような誰か。そんな誰かと私も出会いたい。
久実は何だか清々しい気持ちでゆりの家を目指していた。
―完ー
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