半分ずつの愛

赤崎火凛(吉田定理)

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半分ずつの愛 本文

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 ナナミは、惚れ薬を売っている老婆がいる、といううわさを耳にして、繁華街に足を運んだ。
 うわさ通り、怪しげな老婆が、路上に御座(ござ)を広げて露店をやっていた。
「あの、すみません」
 ナナミは勇気を出して、うつむいている老婆に声をかけた。
 老婆が顔を上げると、首にいくつもぶら下がっている石のネックレスがジャラリと鳴った。ぎょろぎょろとした二つの目玉がナナミを見る。
「惚れ薬、ありますか」
 ちょっと怖いなと思いつつ、ナナミが尋ねた。
 老婆はナナミの心をのぞくようにじっと目を見据えたまま、
「何か、お困りかい?」
「まあ、ちょっと、旦那とうまくいっていなくて」
「ほう? それで?」
 事情を話さないと売ってもらえないのだろうか。
 正直、あまり話したくはないが、隠したところで状況が変わるわけでもないな、と思う。振り返って、そばに通行人がいないのを確かめてから話し始めた。
「どちらが悪いとかではなく、お互いに熱が冷めてしまったといいますか。たぶん、むこうは離婚を考えていて、私も離婚について考えてみたんですけど、でもやっぱり、もう一度やり直せるなら、やり直したいと思って、ここに来ました」
 何か嬉しくないアドバイスでもされるのではないだろうか、とナナミは身構えたが、そんなことはなく、老婆は懐から茶色の小瓶を取り出した。
 半信半疑だったナナミは少し動揺してそれを受け取った。
「あの、お代は」
 老婆はナナミの質問を遮って、
「誰も彼もが愛し、愛されたい。そうだろう?」
「……ええ」
「自分に半分、相手に半分。それで二人は出会った頃の熱を取り戻す」
「飲めばいいんですか」
 老婆がうなずき、石のネックレスが音を立てた。
「ただし、決してそれ以上は飲まないように。過剰な愛が毒であるように、それを丸々飲み干せば、たちまち死に至る」
「全部飲ませて相手を殺すこともできる、っていうことですか」
 ナナミは小瓶を持つ手が震えた。
 老婆はその問いには答えず、再び元のようにうつむいた。
「お代はいらないよ」


***


 いい雰囲気のレストランなのに、二人の間の空気は重苦しかった。
 ナナミと旦那のトモヤは、料理を待つ間、ほとんど会話らしい会話もなく、料理が来てからもすでに10分ほど、黙々とパスタを口に運んだり、ワインを飲んだりしている。この半年は、自宅で顔を合わせてもこんな調子だ。
 今日は結婚記念日。夫婦関係がうまくいっていれば、特別な日。
 老婆にもらった惚れ薬は、足元のカゴの中の鞄に忍ばせてある。
「こんなふうに、二人で外で食べるの、久しぶりだよね」
 ナナミはフォークを持った手を止めて、やっと話を切り出す。トモヤを誘ったのは、わざわざ時間とお金をかけて無言の栄養補給をするためではない。二人の将来について、話さなければならないのだ。
「初めてこのお店に来たときのこと、覚えてる?」
「確か、つき合い始めて、一年目か、二年目か」
 トモヤが抑揚のない声で答えた。
 ナナミの記憶では、つき合い始めて一年目のことだ。結婚から五年が経った今でも、トモヤの中に自分の記憶がちゃんと残っていることが嬉しかった。
「そうそう、あの頃は、よく二人で出かけたよね」
「そう、だったな」
 トモヤも昔を思い出しているのか、赤ワインのグラスに添えた手を止めて遠い目をした。
「あの頃は、よかった。ナナミといれば、何をするのも楽しかった」
「私も。今だって、もちろん、トモヤのことが嫌いになったわけじゃない。ただ、なんだか……」
 そこでナナミは口ごもった。
 続きをトモヤが答えた。
「熱が……冷めた?」
「言い方は悪いけど、そうなのかもしれない」
 ナナミがそう認めても、トモヤは怒りも呆れもしなかった。熱が冷めたのはお互い様だ。
 トモヤは静かに慎重に言葉を選ぶように、話し始める。
「正直に言うよ。僕もナナミのことは嫌いじゃない。尊敬もしている。だけど、このまま一生、夫婦としてやっていくことが正しいのかどうか、できるのかどうか、僕にはわからない」
「たぶん、私も、そういう気持ち。同じだと思う」
 想像していた最悪よりも、かなりマシだとナナミには思えた。トモヤの言葉が本音であれば、まだ二人は終わったわけではない。自信や覚悟が足りないだけだ。
 今は、たまたま二人に倦怠期が訪れていて、この辛い時期を乗りこえれば、またあの頃のような、カラフルな日常が戻ってくるのではないか。絶望するには早すぎる、とナナミは思う。
「正直、離婚とかも考えたんだ。そうしたほうが、お互いにとっていいんじゃないかって。今日、ナナミが食事に誘ってくれたから、改めて考えてみた」
「私も離婚については考えてみた。でも、やっぱり、トモヤの気持ちをちゃんと確かめなきゃって思って、今日、誘ったの」
「実際、僕らはもう半年も、こんな状態だろう? 自力で元どおりにするのは、難しいんじゃないかって思うんだ。それに、子供を作るなら、あまりこうやってぐずぐずしているわけにも、いかないだろうし」
 それにはナナミも同意見だった。
 結婚当初、ナナミはトモヤに、急がなくてもいいからいずれは子供がほしいと伝えていた。トモヤもそれを受け入れたが、なかなか妊娠には至らず、だんだんと夜の営みも減り、この半年は一度もしていない。ナナミはもう三十歳。トモヤの言う通り、あまりぐずぐずはしていられない、とわかっている。
 この流れだと、やっぱりトモヤは離婚を提案してくるかもしれない、とナナミは思った。それはたぶん、トモヤなりの優しさだ。
「ごめん、ちょっとトイレ」
 ナナミは足元の鞄をすくい上げて、トイレに向かった。
 手洗い台の前に立つ。鏡に映る自分の顔は、どこか自信がなさそうで、特別な美しさや魅力も感じられない。だがそれでも、見慣れたその顔には、愛着も親近感もあるし、見ているとなんだか安心する。慰めたり、応援したくなる。
 自分に問う。
 このまま離婚を切り出されてもいいのか?
 私はどうしたいのか?
 答えは決まっている。
 二人はまだ完全には終わっていない。心がすっかり離れてしまったわけではない。だったら、またやり直せる。きっかけさえあれば。やり直せる可能性があるとわかった以上、賭けたいと思った。
 ナナミは鞄から老婆にもらった茶色の小瓶を取り出し、なんのラベルも貼られていないつやつやしたガラスの表面を見つめた。瓶の中でかすかに液体が動くのが見える。
 惚れ薬。
 これを自分とトモヤに半分ずつ飲ませれば、二人には出会った頃のような熱が灯る。薬の効果がどのくらいの期間、続くかわからないが、効果が切れるまでには、二人はまたうまくいっていたときのような、キラキラした二人に戻っているはずだ。
 気をつけるべきは、小瓶の中身をひとりで全部飲んでしまわないこと。きちんと自分のグラスとトモヤのグラスに、半分ずつ薬を入れる必要がある。
 もちろん、他人のグラスに薬を盛るなんてことは、道徳や倫理に照らせば、許されることではない。
 だが、自分たちだけではどうにもならない以上、これを使うしかない、とナナミは心を決めた。
「お待たせ」
「ああ」
 小瓶を右手に隠してテーブルに戻った。お互いのワイングラスにはまだワインが残っている。トモヤが席を立ってくれれば、すぐに実行できる。
 一度会話が途切れたためか、お互いに黙って残り少ない料理やワインを口に運ぶ。
 五分ほど経って、トモヤのケータイが鳴った。
 ナナミはドキッとしたが、できるだけ顔に出さないようにした。
「申し訳ないけど、ちょっと電話出てくる」
「うん」
 トモヤは何も疑わない様子で席を立ち、店の出入口のほうへ歩いていく。
 実はナナミは、さっきトイレに立ったとき、共通の友人に、トモヤに電話をかけてくれるよう頼んでおいたのだ。
 だが特に用事もないとわかれば、すぐに電話を切って戻ってくるかもしれない。急がなければ。
 トモヤが店の外に出たのを見届けると、ナナミは震えそうになる手で小瓶のふたを回して開けた。隣のテーブルは空いているし、店員はむこうでオーダーをとっているから、今なら見られずにすむ。腰を浮かせてトモヤのグラスに手を伸ばす。一滴、二滴、ぽたり、ぽたりと瓶のすぼまった口から惚れ薬が垂れ、ワインの真紅の水面に波紋を作った。半分以上入れてしまわないように最新の注意を払い、きっちり半分を垂らし終わると、自分のワイングラスに残りを全部入れる。一滴ずつぽつぽつと垂れるので、もどかしい。今にもトモヤが電話を終えて店に入ってくるのではないか。もしもこんな怪しい行動を目撃されたら、関係を修復するどころではなくなる。
 瓶がからになった。
 ナナミは急いでふたを閉めて、瓶を足元の鞄のポケットに押し込む。そしてちょうどナナミが顔を上げたとき、入り口のドアが開いて、トモヤが戻ってきた。
「シノだった。なんか、ただの間違いだって。もう何年も、連絡なんて取ってないのに」
「そうなんだ」
 不審に思われていないだろうか。ナナミは気が気でなく、まだ心臓がバクバクしていた。自分が普通の顔を装えているのか、わからない。
 トモヤがワイングラスに手を伸ばした。何かを気にする様子もなく、口をつけ、残りを一気に流し込んだ。そしてからになったグラスを元の位置に置く。パスタを口に運ぶ。
 ナナミはその様子を見て、どうやら気づかれなかったらしい、と安堵した。自分のワイングラスを持ち、残りを一気に飲んだ。味も風味も変わっていなかった。
 これで二人とも、あの薬をちょうど半分の量ずつ飲んだことになる。
 あとは効果が出てくれればいい。効果はすぐに出るのだろうか。
「ああ、その、なんというか」
 トモヤが歯切れ悪く何かを言おうとしている。
「離婚について、なんだけど」
 やっぱり来た、とナナミは思い、身構えた。
 離婚を提案されるのは避けられそうにない。そうであっても、惚れ薬が効いてくるまでの時間さえ稼げれば、離婚はやめてやり直そうという話になるはず。
「あのね、離婚については、もうちょっと考えない? 私たち、お互いに大嫌いというわけじゃないんだし。それに今日は結論を出すために誘ったわけじゃないの」
 ナナミは結論を引き延ばそうと、早口でまくし立てた。お願いだから、早く惚れ薬が効いてほしい。
「ああ、うん、僕もすぐに離婚しようとは思わない。今日、ナナミと話して、まだお互いに気持ちがあるってわかったから」
 トモヤはそこでシャツの胸のあたりを手でぎゅっと握った。
「だけど、さっき言ったように、自力で元どおりにするのは難しいだろ?」
「うん、そうだね」
 ナナミはほっとしたが、同時に違和感もあった。トモヤが何を言いたいのか、今ひとつわからない。
 なんだか嫌な予感がした。心なしか動悸が早く、胸が苦しいような気がするのは、惚れ薬が効いている証だろうか。
「何か……私に隠してる?」
 ナナミは直感的に尋ねた。
 トモヤは視線を外し、少し思案してから、またナナミを見た。トモヤの額には汗が浮かび、苦しげに見えた。
「怒らないで聞いてほしいのだけど」
「うん」
「ちょっとした薬を入れたんだ。ごめん」
「え?」
 ナナミは背中に真冬の風が吹きつけたように、ゾクッとした。
「単なる、おまじないだ。僕は本当に効果があるなんて思っていないけど」
 トモヤがズボンのポケットから茶色の小瓶を取り出す。
 ナナミはその瓶に見覚えがあった。
「その薬って……」
 なんとなく呼吸もしにくくて、ナナミは喘ぐように尋ねた。背中がぞくぞくして、寒気がして、身体中から汗が止まらない。
 トモヤの額から汗がぽつりとテーブルに落ちた。
「SNSでうわさになってる、惚れ薬なんだ。ナナミがトイレに行ったとき、僕とナナミのワインに、半分ずつ入れた。今日、ナナミと話して、僕らは同じ気持ちだとわかった。だから、僕らに必要なのは、あの頃みたいな情熱だけだ」
 ナナミの目から涙があふれた。
「ごめん、トモヤ。ごめん」
「ど、どうしたんだ?」
 トモヤは急に泣き出したナナミを見て動揺している。シャツの胸元をぎゅっと握り締めたまま。
「私も、トモヤと、あの頃みたいに戻りたいと思って、さっき、トモヤが電話してるとき、入れちゃったのよ」
「え? 何を?」
 まだ気づいていないの?
「私も、同じ薬をお互いのワインに入れたのよ……!」
 ナナミは心臓に強い痛みを感じて、胸を押さえた。
「じゃあ、僕らは……」
 トモヤが苦痛に耐えるように、片目をひどくしかめた。
「そうよ、半分と半分だから……」
 ナナミはもう身体が辛くなって、テーブルの上に突っ伏してしまった。ガシャン、と食器が音を立て、ワイングラスが落ちて割れた。直後、トモヤも同じようにテーブルに倒れた。
 周りの客が悲鳴をあげ、店内は騒然となった。
 ナナミとトモヤは朦朧とする意識の中、手を伸ばす。
 二人の手はテーブルの中央で触れ合い、熱く求め合うように指を絡ませ、動かなくなった。


おわり
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