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春の章

1 陸のカニと呼ぶなかれ①

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 沸騰した鍋の前で、薄汚れた白衣を身にまとった美人女子大生――猪俣(いのまた)先輩が菜箸を構えている。先輩はコンビニのビニール袋にそれを差し込み、何かを器用に挟んで引き出した。菜箸の先で、しましまの長い脚をワシャワシャと動かしてもがいているのは、大きなアシダカグモ――さっき僕と先輩が廊下で捕獲した、不気味な生き物である。
 なぜ箸で生きたクモをつかむのか? その問いに対する回答が僕の頭の中で弾き出されるより早く、猪俣先輩は「では投入しまーす」と宣言した。
 続いて目の前で起こったことは、僕には衝撃的すぎた。茫然として、顔を背けることもできず、瞬きさえせず、一連の光景に見入ってしまった。
 クモが熱湯へと突っ込まれたのだ。熱湯の中でクモがもがいたように見えたのは、単に対流や気泡のせいかもしれない。先輩はほどなくして箸だけを引き上げた。鍋の中では物言わぬクモの体が浮かんだり沈んだりしながら回っている。相変わらずゴボゴボと沸騰する音だけがしていた。
「あ、あの、これは……なにを……」
 僕はあえぐように尋ねた。
「あ、ごめん、渡辺くん、もしかしてやりたかった!? また私、先走った!?」
 やりたいって何? この人は何を言っているのだろう? この会話、成立してる? ……理解できなかった。
 二人の間の微妙な空気を察してか、この研究室の主――須藤教授が口を挟んだ。
「猪俣さん、やっぱりきちんと説明しないで連れてきたでしょ?」
「え?」
 何のことでしょう? とでも言いたげな猪俣先輩。
「渡辺くん、この先輩になんて言われて付いてきたの?」
「ええと、確か……」
 そもそも大学に入学したばかりの僕が、恐れ多くもこの須藤教授の研究室にお邪魔し、クモをゆでるという儀式めいた行為を目撃するに至ったのは、わけがある。
 あと、ついでに言っておくと、今から僕が語るのは、恋の物語だ。


 静岡大学のメインストリートは、夢と希望にあふれる登山者たちで大変賑わっていた。登山者たちを待ち受けるように通りの左右に並んで立ち、部活やサークルの勧誘チラシを配るのは、みんな先輩たちだ。道行く者は少し照れたような困惑したような愛想笑いを浮かべる気力をとうに失くし、額から流れる汗をぬぐいながら、押し付けられるチラシなんぞろくに見もしないで坂を登っていく。
 登山者こと僕ら新入生たちは人間とチラシの山をかき分けて上を目指す。静岡大学は山の上に建っている。というか山である。どこへ行くにも坂と階段が付き物であり、平らな道は存在しない。創設者は『それが人生だ』とでも言いたかったのだろうか。
 食堂と生協の前の勧誘激戦区を抜け、ひたすらに階段と坂を登り、足がガクガクになった頃、ようやく開けた場所に出た。そこは駐車場になっていて、満開の桜が僕らを祝福しているようだった。
 ああ、素晴らしきキャンパスライフ。
 僕は持参したタオルで額の汗をぬぐう。登ってきた道を振り返ると、静岡の街並みと、茶畑の濃い緑と、悠然とした富士山が見えた。そっと目を閉じ、爽やかな春風を頬に受け、かすかに届く下界の喧騒に耳を澄ませ、思った。
 僕もこの世界の一員になりたい、と。
 いや、なってやる。必ず。
 ここには自由がある。教室に決められた席はない。アパートには何時に帰ってもよい。趣味を楽しんだり、友人とバカ騒ぎをする時間がいくらでもある。勉学や研究に没頭できる環境もある。恋にうつつを抜かしたい年頃の女性があちこち歩いている。法律や道徳に引っかからなければ、何をしてもよし。すべてよし!
 ただ一点、惜しむらくは、僕には大した趣味もないし、友人もいないし、やりたい学問も研究もないし、恋愛の作法をこれっぽっちも知らないということである。本当に惜しい。
 春風がどこか寒々しく感じられるのは、僕がこのキラキラと輝く世界に、まだ真の意味では爪先さえ踏み入れていないからである。世界を見渡せるこの場所に立っていながら、世界の一員になれていないのだ。
 とりあえず両手いっぱいのチラシを肩掛けのカバンにしまう。時間割管理アプリを開いて次の講義を確認。金曜の午後の抗議は……科目『地球科学入門Ⅰ』。場所『理学部B棟202』。ちょうどこの駐車場の向こうに見える建物の側面に、でかでかと『理学部B棟』と書かれている。時間はまだ三十分以上ある。……が、とりあえずいざ参ろう。
 自動ドアを通って建物に入り、二階に上がると目的の202という部屋は目と鼻の先だった。しかし僕は素通りして建物の奥に進む。平均以上の真面目さを持った僕は前のほうの席に座るつもりだけど、それだと一人ぼっちで昼食を食べている姿が目立つ。同じ学科の人たちから『友だちがいない寂しいヤツ』だと思われたら、僕のガラスのメンタルは耐えられそうにない。それに他の人たちにどう思われているか気にしながら食事をするのは消化に悪いだろう。
 僕は穴場を知っている。廊下には各階にちょっとした談話スペースがあり、そこなら一人ぼっちでいても、あまり哀れには見えない。むしろスタバで黙々とノートPCを叩くビジネスマンのように、望んで一人でいるように見えるから、環境というものは不思議だ。
 今日も僕は人がいない手ごろなスペースを見つけて陣取り、カモフラージュのために持ってきたノートPCを開き、何か知的で創造的な活動をしている雰囲気を演出した上で、生協で買ってきた110円のおにぎりに食らいついた。食事しながら、カバンを圧迫しているチラシの束に目を通していく。現在、僕を温かく迎え入れてくれる部活やサークルを絶賛募集中なのである。
 さて、何か向いているものはないだろうか。
 運動系は絶対にダメだ。いわゆる運動音痴だから。必然的に文化系となるが、音楽のセンスはない。イラストを描くのは好きだが、下手くそだし本気でやりたいわけでもない。囲碁将棋……ルールも知らない。文芸……高尚すぎ。英会話……恥ずかしいし外国人怖い! 演劇……悪い意味で笑い者になるだけ。聖書研究……なんか怪しい! みかんクラブ……意味不明! 考えてみれば取り柄がないし、長く継続しているものもない。中学ではパソコン部で、高校では帰宅部だった。
 どのチラシも僕以外の誰かのために作られたもののように思えた。『未経験者歓迎!』だと? 嘘だ! 経験者に囲まれて邪魔者扱いされるに決まっている。『気軽に体験してみませんか?』この世に気軽に叩けるドアなんぞあってたまるものか。
 ……ダメだ。どうしてこんなに多種多様な部活やサークルがあるのに、僕がやっていけそうなものは一つもないのか? 僕はまだ『運命』とやらに出会っていないだけなのか。
 ふと顔を上げて目に映ったのは、談話スペースの壁にかかっている大型モニターだ。
 『しずだいTV』というロゴと、しずっぴー――富士山をモチーフにした、大学のマスコットキャラのようだ――が映し出されている。それが消えて、学内ニュースの映像が流れ始めた。
 スーツ姿の凛々しい女性が表彰を受けている。
『農学部森林学科四年生の猪俣香織(いのまたかおり)さんが、日本森林学会の研究発表会で優秀賞を受賞されました』
 緊張と誇らしさでキラキラと輝く横顔。
 美人だし、頭もいいのだろうし、きっとみんなから好かれていて、熱意や独創性もあって、努力家で、素敵な恋人がいて、卒業したら立派な研究者になるか、一流企業に就職するのだろう。僕とはまるで違う。同じ大学に通う学生なのに、僕とこの人は、どうしてこんなにも違うのだろうか。遠い世界のことのようだ。
 講義の時間が近づいてきたので202の部屋に移動した。長机が黒板に向かって三列に並んでおり、八割がたは学生で埋まっている。まだ入学から二週間ほどしか経っていないというのに、すでに友だちコミュニティができあがりつつある。僕は最前列のあいている席に座った。最前列は不人気なのだ。
 こんなはずじゃなかったのに、と思いながら黙って授業の開始を待つ。「どうもこんにちは。僕の名前は渡辺。君は?」と脳内で百回以上シミュレーションしたのに、なぜ一度も言えないのか? 僕にも分からない。
 たった一人で孤独に四年間を過ごすのは、あまりに寂しい。それを避けるためにはやはり友だちが必要だ。友だちを作るには接点が必要だ。同じ学科なら多くの専門科目を一緒に受講できる。だけどもうこの学科内で僕が入り込めるような隙間はなくなってしまったようだ。ならば部活やサークルにかけるしかないが、困ったことにやりたいことがないし、やれることもない。だから時間だけが過ぎていく。
「もう部活入った?」「サークルの見学、一緒に行かない?」「新歓コンパいつ?」そんな会話が聞こえてくる。「それ、僕も一緒に行っていい? 実はちょっと興味があってさ」これは脳内シミュレーションだ、実際に口に出したことはない。悪くないセリフだな。だが会話に入るタイミングを間違えると変な空気になるかもしれない。みんなに迷惑がかかる。下手に声をかけないほうがいい。
 やはり何かきっかけが必要だ。自然に会話に入れるようなきっかけが。それさえあれば、僕はここぞとばかりに先ほどのセリフを放ち、うまくやれる気がする。
 そのとき一人の男子学生が僕の隣に座った。
「やあ、僕は渡辺! 君は?」実際はまだ言ってない。これもシミュレーションだ。まずは横目で様子をうかがう。彼はすぐに後ろを振り向いて、他の男子学生と話し始めた。現実はそんなものだ。迂闊に話しかけなくて良かったと思う。
 教授が入ってきて、おしゃべりは中断された。
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