上 下
1 / 1

本文

しおりを挟む
 八月三十一日、二十三時五十分。
 高校二年の夏休みがあと十分で終わる。
 テレビのモニターには「YOU WIN!!」の文字が輝いて、俺の夏の間の努力を祝福していた。オンラインの対戦ゲームにハマりすぎた俺は、毎日寝る時間も惜しんでゲームにい没頭し、ついにランキング100位以内に食い込んだ。
「あー、マジ頑張った俺。すげえよ俺。やればできる子じゃん」
 喜びと達成感に包まれて、大きく伸びをする。そのときにふと目に映ったのが、机の上のデジタル時計の 8/31 23:50 という表示だったのだ。
「夏休みも終わりかー。宿題、なんもやってねえや」
 今からやったところで、朝までにひと科目も終わらないだろう。それが分かっていたから、俺はマットレスにごろりと横になった。置きっぱなしになっていた読みかけのマンガ本を手に取って開く。
「めんどくせえ。学校行きたくねえ」
 来年は高校三年生――受験生だ。遊んでいられる夏は、今年まで。その大変貴重な、人生で一度切りの高二の夏休みが終わってしまうわけだ。ほぼゲームのせいで。
 俺はやりたいこともはっきりしないまま、なんとなく入れそうな大学に入って、卒業したら適当な会社に勤めて、平凡な人生を歩むのだろう。
「あー、行きたくねえ。学校、マジで行きたくねえ」
 担任の小畑(おばた)の辛気臭い顔が脳裏をかすめた。小畑は英語の担当で、自分はほぼカタカナみたいな英語しか話せない三流教師のくせに、小テストの点数が悪かったり課題を出さなかったりする生徒にはネチネチと嫌味を言ってくる。
 せめて英語の課題だけでもやったほうが傷が浅くて済むと思ったが、すでに時刻は二十三時五十五分を回っている。夏休みの寿命は残り五分。シャーペンを握るエネルギーはこれっぽっちも湧いてこない。
「夏休み、終わらないでくれ。九月一日、来るんじゃねえ」
 マンガを置いてごろごろしながら、バカげたことをつぶやく。
「マジで九月一日来るな。九月一日消えろ」
 マットレスの上で大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。小畑の嫌味、受験勉強、つまらない人生、何もかもが面倒になった。
 23:59と表示しているデジタル時計が恨めしい。
「嫌だ。九月一日、来ないでくれ」
 願いも虚しく、ついにディスプレイには 9/1 00:00 と表示された。


***


 はっとして目を覚ました。
「やべえっ。なんで俺、寝てるんだ!?」
 自分の部屋の、ベッドの上。とっくに昇った太陽がまぶしい光を投げている。
 慌てて机の上のデジタル時計に目をやると、8/31 10:17 と表示されていた。
「八月三十一日? 十時? 壊れてんのか!?」
 そばの棚の上にあったスマホを取り、画面をつけると、同じ日時が表示された。
「こっちも八月三十一日? どうなってんだ?」
 窓の外には陽が高く昇っていて、今日が登校日なら大遅刻になっている時間だ。それなのに親がまったく起こしに来ないのはおかしい。
 リビングにいた両親に今日は何日かと尋ねると、八月三十一日だという答えが返ってきた。
 俺は必死で笑いを堪えながら自分の部屋に戻り、叫んだ。
「八月三十一日の朝に戻ったんだ! 九月一日は来なかった! 夏休み続行だ、ひゃっほう!!」
 しかし残念なことがひとつあった。せっかく圏外から100位以内に入ったゲームのランキングまで巻き戻されていたのだ。八月三十一日は起きてから食事とトイレ以外、ずっとそのゲームをやっていたが、同じことをもう一度再現するのは大変すぎてやる気が起きない。
「せっかく一日の猶予をもらったんだし、宿題でもやるか。俺という人間は元来マジメだからな」
 そういうわけで俺は宿題に取りかかった。
 今までの人生で一番勉強したと言っても過言ではない。必死で問題を解き、プリントの穴を埋め、作文をでっち上げた。
 集中して取り組んだ結果、宿題が全部片づいたのは夜中のこと。
 デジタル時計には、8/31 23:54 と表示されていた。
「なんとか間に合ったな。これで小畑(おばた)にイヤミ言われることもねえぜ」
 俺はなんとも言えない充実感を噛みしめて、ノートを閉じた。
 あとは寝るだけだ。
 八月三十一日がもう一度来てくれたおかげで助かった、とベッドに寝転がりながら思う。
 そして、デジタル時計に 9/1 00:00 と表示された。


***


 はっとして目を覚ました。
「やべえっ。今何時だ!?」
 自分の部屋の、ベッドの上。とっくに昇った太陽がまぶしい光を投げている。
 慌てて机の上のデジタル時計に目をやると、8/31 10:17 と表示されていた。
「八月三十一日? 十時? 壊れてんのか!?」
 そばの棚の上にあったスマホを取り、画面をつけると、同じ日時が表示された。
「こっちも八月三十一日? って昨日もこんなことしたような」
 その昨日っていうのは、つまり八月三十一日で。
 自分で何を言っているのか分からなくなる。
「また戻ってるじゃねえか!」
 ゲームを起動してランキングを確認すると、圏外になっているし、昨日丸一日かけてやっつけた宿題がすべて白紙に戻っている。
 つまり状況は昨日の八月三十一日の朝とまったく同じで、俺の記憶だけが持ち越されているらしい。
「なんてことしてくれたんだよ! また宿題やり直しじゃねえか」
 同じ宿題をまた丸一日かけてやるのは、たまらなく嫌だったが、白紙で新学期を迎えるのはそれ以上に嫌なのでやり直すことにした。
 二回目なので、ある程度は答えを覚えていて昨日よりもサクサク宿題が進んでいく。
 二十二時くらいには全部終わったので、あとは部屋でジュースを飲みながらだらだらとマンガを読んで過ごした。
 そろそろ寝ようかと思って時計を見ると、8/31 23:57 と表示されていた。
 振り返ってみれば、充実した夏休みだったなと思う。充実した夏休みだったということにしておく。最終日だけは。
 マンガを閉じてどこかにいる神様に祈る。
「明日の準備は万全だ、九月一日来い。夏休み終われ。さあ」
 そしてデジタル時計の表示が 9/1 00:00 に切り替わった。


***


 はっとして目を覚ました。
「やべえっ。遅刻だ!」
 自分の部屋の、ベッドの上。とっくに昇った太陽がまぶしい光を投げている。
 慌てて机の上のデジタル時計に目をやると、8/31 10:17 と表示されていた。
「おいふざけんじゃねえぞ! またかよ! もう宿題なんてやらねえからな。絶対にやらねえからな」
 四回目の八月三十一日の朝、俺は軽くキレた。
「どこの誰がこんなことしやがったのか知らねえが、次また八月三十一日にしやがったら殴るからな、おい」
 誰に言っているのか自分でも分からなかったが、叫ばずにはいられるだろうか。
 ムカついたので宿題は放置して、割り切って夏休み最終日を楽しむことにしよう。
 部屋にジュースやお菓子を持ち込んで、一日中だらだらとマンガを読んで過ごした。
 そして深夜になり、デジタル時計は 8/31 23:59 という文字を映し出している。
「九月一日、来い来い来い来い来い」
 俺は確かに 9/1 00:00 という文字を見た。


***


 はっとして目を覚ました。
「やべえっ。ってなんでだよ!」
 自分の部屋の、ベッドの上。とっくに昇った太陽がまぶしい光を投げている。
「ふざけんな! 誰だか知らねえけど、これ以上同じ日に戻すとぶん殴るぞ! おい、出てこい! 九月一日を返せ!」
 俺はベッドの上で暴れてみたが、夏休み最終日の十時過ぎは穏やかで牧歌的だった。
 その日、俺は自分の部屋のマンガを読み尽くした。


***


 はっとして目を覚ました。
「また八月三十一日なんだろ? もういいわ。マンガアプリで全部のマンガ読破してやるよ」
 俺はスマホでマンガアプリを起動した。


***


 はっとして目を覚ました。
「さて、続きでも読むか」
 俺はマンガアプリを起動して昨日の続きの話数を探す。


***


 はっとして目を覚ました。
「新しいアプリ入れるか」
 何十回目かの八月三十一日。俺は最初のマンガアプリの全作品を読破したため、次のアプリをインストールした。


***


 はっとして目を覚ました。
「あー、ついに読む物なくなった」
 何百回目かの八月三十一日。有名どころのマンガアプリはすべて読破して、手持無沙汰になった。
「本屋にでも行ってみるかー」
 気乗りしないが、気分転換に本屋へ行ってみた。久しぶりの外出だ。
 マンガコーナーをぶらぶらしてみたが、アプリでマンガを読みすぎたせいか、あまり興味をそそられない。
 何気なく小説のコーナーに行って、立ち読みしてみたら、意外にもハマってしまった。今まで読書なんてほとんどしてこなかったのに。
「へえー、小説も案外面白いんだなー。次はこれにするかー」
 一冊だけ買って帰って、その日のうちに読み切った。


***


 はっとして目を覚ました。
「さて本屋行くか」
 小説を数冊買ってきて読んだ。


***


 はっとして目を覚ました。
「…………」
 何千回目かの八月三十一日。俺は読書家になっていた。読めない漢字や知らない単語を調べまくったし、様々なジャンルの本に触れたことで、自分が賢くなったように感じる。
 世界が広がり、解像度も上がったような気がするのは、たぶん気のせいではない。
 俺はずっと八月三十一日に閉じ込められていたが。


***


 はっとして目を覚ました。
「今日はいよいよ量子論を勉強していくわけだが、この夏休み最終日無限ループ現象が現代物理学で解けるのかどうか……」
 気が遠くなるほど繰り返した八月三十一日。俺は読書好きが高じて学問全般に強く興味を持つようになっていた。
 すでに高校までの内容はすべて独学で理解し、大学レベルの参考書や専門書も手当たり次第に読んでいる。
「勉強って案外楽しいんだなぁ」
 夕方の暮れてゆく空を眺めながら、そんなことをつぶやいた。
 もしも明日、大学入試の試験があったら、どこでも合格できる自信がある。
 しかし明日は来ない。
「あんた、何を言ってるの」
 部屋のドアが開いていて、母が心配そうに俺を見ていた。
「勉強? あんた、昨日まで毎日ゲームゲームだったじゃない」
「そうだっけ? だいぶ前から勉強しかしてないけど」
「わけが分からないよ。勉強するのはいいけど、ちょっと医者に診てもらったほうがいいんじゃないの」
「俺、どこかおかしいのかな……」
 明日もどうせ八月三十一日なんだし、その翌日もどうせ八月三十一日だ。
 時間は無限にある。
 確かに一度くらい医者に診てもらってもいいなと思った。


***


 はっとして目を覚ました。
 俺は身支度を済ませて自転車に乗り、かかりつけ医の佐藤医院に行った。小さい頃から何度も来ている内科。
 佐藤医院の医院長は、ケンタッキーのじいさんに似た、愛想と恰幅の良いじいさんだ。
「問診票には、『時間の感覚がおかしい』と書いてありますが」
 佐藤じいさんはメガネを直して、手元のバインダーを鼻にくっつきそうなほど近づけた。
 症状および来院理由の欄にどう書いていいか分からなかったので、俺がそう書いたわけだが。
「こんなこと言うとバカみたいだとか、ふざけてるとか思われるかもしれないですが、俺、八月三十一日をずっとずっと繰り返しているんです。何千回、いや何万回も。なぜか九月一日が来なくて、だからといって特別に困っているというわけでもないんですけど、いい加減、もう夏休みも終わってくれていいかなっていう気がして。母は俺のこと、変だって言うし、そういうわけで来ました」
「なるほどねえ」
 佐藤じいさんはそう言ってカルテにメモをとった。
 ……このじいさん、本当に分かったのか?
「君、ループしてるんだ」
「そうです。それです、たぶん」
「じゃあ飲み薬を出しておくから、寝る前に一錠飲んでね」
「あー、はい」
 何か言ったほうがいいような気がしたけれど、なんと言ったらいいか分からない。
「ええと、ありがとうございました」
 とりあえずお礼を言って、診察室を出た。
 処方されたのは白くて丸い錠剤がひとつ。
「これで、長かった夏も終わりか」
 寂しいような、嬉しいような、なんとも言いがたい気持ちだった。
 俺は言われた通り、それを麦茶で飲み下してから眠りについた。


***


 はっとして目を覚ました。
「ああ、ようやく終わったんだな」
 自分の部屋の、ベッドの上。カーテンを開けると、空は遠くのほうがかすかに明るみ始めている。綺麗だった。
 机の上のデジタル時計の 9/1 05:19 という表示を見て、俺は安堵した。
 念のためスマホを見ると、こちらも日時が九月一日に変わっていた。
 人生で初めて迎える、高校二年の九月一日。二学期の始まりの朝。
 なんてすがすがしい気分だろう。
 俺は窓を開けて、まだ寝静まっている町の、静謐な空気を吸い込んだ。
「かかりつけ医、すげえ。決めた。医学部に入ろう」
 今日もわくわくする一日が始まる。


おわり
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...