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取引16件目 めぐる

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「まずはストレッチからだな」

 更衣室を出て、機器が置かれたスペースに入り、キョロキョロと辺りを見回す。
 このジムでは、トレーナーが二人ほど常駐していて、ストレッチや補助などを手伝ってくれる。

「……」

 トレーナーが二人とも別の人の補助をしていた。今回は一人で出来るストレッチだけにしておこう。

 諦めてアキレス腱を伸ばし始めた時。

「ペアストレッチ手伝おっか?」
「え?」

 声が聞こえたと同時に俺の両腕が引っ張られ、すでにお互いが引っ張り合うペアストレッチが始まっていた。

「久しぶりだなめぐる」
「それこっちのセリフだぜ!?」

 大きく声を上げる人物は、力をグッと強めて俺の腕を引きちぎる勢いで伸ばす。

「痛い痛い痛い」
「なにも言わずにジム通い辞めたば罰だと思って受け入れやがれ」

 少々粗暴な態度が目立つこいつは、俺と同じ会社の広報部に勤める女だ。
 こいつ――福原めぐるとは、大学からの付き合いで、その頃からずっとこのジムに通っている。

「相変わらず乱暴なやつだな」
「逆にお淑やかなワタシって怖くね?」
「確かにすっごい怖いわ」

 短く切られた髪で、肌の露出を極限まで抑えたジャージ姿がデフォルトみたいなこいつのお淑やかな姿なんて、怖さしかない。

 めぐるを知らない人物が見ればまだ許容出来るのだろうが、慣れ親しんだ関係のやつらはきっと慄くだろう。

「だよな、っておい! ワタシだって髪伸ばしてメイクしたらちゃんと綺麗だろうが!」
「めぐるメイクしたことないだろ」
「ね、ねぇけど……したら絶対美人だぜ!」

 こいつのこの自信はどこから来るんだか……。

「お前、サークルで唯一ミスコンに誘われなかったこと忘れたのか?」
「あれは多分陰謀だよな。主催者がワタシのことが好きで、他の男にやらしい目で見られるのが嫌だから――」
「はい現実見ような。腕引っ張るから背中向けて」

 年中ジャージで短髪だったせいか、性別の判断をできない奴が続出し、卒業の頃には両性具有なんてふざけた噂まで出回ってた。

 体型も低身長の男子くらいだし、男に見えないこともないからなぁ……。

「いつになったら男だとか女だとかの括りなくなるんだろうな。ユメもそう思うだろ?」
「思わないし、ユメって呼ぶのやめろ。なんか可愛く聞こえるだろうが」

 昔からこいつは名前を省略して呼ぶ。そのせいで度々面倒なことに巻き込まれたこともあるな。

「何回か勘違いした男に『男じゃねぇか!』ってやじられてたよなそういえば」
「あれほんと不愉快なんだよ。可愛い女かと思って俺を見たら普通に男だからって、そんなこと言う必要ないよな」

 めぐるがユメって呼ぶたびに、下半身でしか思考できない男は可愛い女を連想してしまうのだろう。

 羨望の眼差しを向けた挙句見えるのはこんな俺ってのは少し同情するが、バカは痛い目を見るべきだわ。

「……いつも通りのユメで安心したぜ」
「何がだ?」

 強く俺の背中に負荷をかけるめぐるは、ニヤッとした笑みで俺の顔を覗き込んでさらに笑う。

「だって、営業部の百鬼部長が事故に遭ってから暗かっただろ? ジムもこなかったし」
「目の前で知り合いが意識不明になれば誰だってそうなる」
「それもそっか。大変だったな」

 今度は俺がめぐるの背中を押す。
 痛さのギリギリを攻めるように、慎重に力を加えていく。

「今は別に大変ではないけどな」
「毎日新しい上司と楽しそうにしてるらしいもんな」
「楽しそうにしてるかは知らないが、退屈はしないな」

 ストレッチのあとは有酸素運動。
 二人してランニングマシーンの電源を入れる。

「そういえばユメ、新しい上司の人のこと妹扱いして怒られたんだって?」
「そりゃ妹が急に来たら素でお兄ちゃんの面が出るだろ」

 上司を妹扱いするマヌケとして一躍有名になった俺の噂は、当然広報部まで行き届いているようだ。

「え、まじの妹? 唄子? まだ新部長の顔見たことないんだよね」
「広報部は別の棟だし営業部とあまり関わりないもんな。そ、唄子」

 唄子とめぐるは面識がある。
 俺が大学時代に酔い潰れて家まで送ってもらった時に意気投合したらしい。

 その翌日唄子には、「女の子に送らせるって正気!? まじありえないよ」なんて説教されたっけ。

「かわいそうにユメ」
「え、なんで俺バカにされてんの」

 人を揶揄うようにニヤッと口角を上げるめぐるは、徐々に肩を震わせて全身で笑いを堪えている。

「だって、だって……妹が上司とか面白すぎるだろ。で、妹に怒られて頭下げるんだろ? さすがにユメが哀れ――じゃなくて可哀想だな」
「哀れ言うな」

 だが客観的に見たら妹にキャリアを抜かされて説教される絵面は確かに哀れかもしれない。

「あれ、中身は百鬼さんだからな?」
「ついに脳みそまで筋肉が……」

 俺より速度を上げて走るめぐるは、突飛なことを口走る俺に哀れみの目を向けてくる。

「いや理解できないことかも知れないけど事実なんだって」
「唄子に百鬼部長の魂が入ったとでも言うつもりか? 全く、言い訳でももっとマシなこと言えよな」
「いや信じろよ」

 話しながらのランニングマシーンはしばらくサボった俺にはキツい。

「フィクション過ぎて信じるわけないだろ」

 マシーンのスイッチをオフにする俺に合わせてめぐるもオフにして、二人揃って壁際のベンチに移動する。

 これから説明するために酷使する喉を水で潤していると、めぐるが真剣な目つきと低い声で俺に言葉を発する。

「実は男なんだ、隠してて悪いな。今まで騙してごめん」
「……やっぱそうか。別に性別なんてどうでもいい――」
「おい!? なに信じてんだよ! 否定したお前に「な? 突飛的な嘘すぎたら信じれないだろ?」って言うシーンだろ!」

 ……?

「やっぱってなんだよ! 流石に怒るぞ?」
「怒ってるじゃないかよ」
「まだテンパってるレベルだし」

 なにか騒いでいるが、ジム中の視線をかき集めてしまうので早急に黙らせたい。

「とりあえずプロテイン飲めよ」
「お、ありがと」

 粉を入れたシェイカーとペットボトルの水さえあれば、話しながらでもプロテインが完成し、タンパク質を摂取できる便利な時代で助かった。

「で? 唄子の中身が百鬼部長ってガチなわけ?」
「事故にあった上司に対してこんなこと言う不謹慎なやつだと思うなら疑い続けてていいぞ」

 
 やる気等は幼い時に紛失しているが、モラルは失っていないと信じている。
 これで疑い続けられたら俺は人として終わっていることになるだろう、頼む信じてくれ。

「そう言われたら信じるしかないだろ、百鬼部長への恋心を知ってるんだから」
「あ!? 別に恋なんてしてないが!?」
「入社してから口を開けば百鬼さん、百鬼さんのくせによく言うぜ」

 尊敬してる人の話をしたくなるのはオタクの習性というか、呼吸みたいなものだろ。

「お前だって昔から口を開けばプロテイン、プロテインばっかだろ」
「ジャンルが違くない!?」

 ジャンルは違えどやってることは一緒だろうよ。

「まぁいいや、詳しく聞かせてくれよ」
「汗で気持ち悪いからシャワー浴びながらでいいか?」
「いい――訳ないだろ馬鹿か!? 自然すぎて承諾しかけたわ。ワタシは男子更衣室入れないんだぜ?」

 これがノリツッコミというやつだろうか。
 賑やかなやつだなぁ。

「あ、そっか。生物学上では女だった」
「ガサツなだけで一応心も女なんだぜ? びっくりだろ?」

 そう言うめぐるは豪快にプロテインを飲み干していた。
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