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取引37件目 高級ホテルの豪華ディナー

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「……これ、絡んでいいやつ? 演出だよな?」
「待てお兄ちゃん、テーマパークに疲れた休日のお父さんかもしれない。無闇に近付くのは危険だ」

 その壁には、今にも毒を撒き散らしそうな雰囲気の暗い男が潜んでいた。おそらくこの人がスタンプを持っているのだろうが、疲れ果てた一般人という可能性も捨てきれない。

「とりあえず話だけでも聞いてみる」

 恐る恐る、俺はスタンプカードを男の目の前に差し出しておずおずと言葉を発した。

「あの……」
「あぁ……スタンプね、ここにあるよ。今押すから待っててね……」

 無理に笑ったであろう男の表情は、なぜか心が痛むような気がした。

「あの、お兄さんってなんでそんななんですか?」
「はは……直球だね」

 お兄さんはニヒルに笑った。

 どんな答えが返ってくるのか……、少しの恐怖心といっぱいの好奇心で聞いてしまった。

「これはキャラ付けさ……次のスタンプの場所がここに隠されてるからね……」
「あー、なるほど?」

 渡された問題にはまたマップが記載されている。
 問題文には、ビターフォレストでカカオと向き合え。と書かれている。

 ビターフォレストとは、もなクマたちとは対立関係にある設定のキャラたちの住居らしい。

「行けばすぐに分かると思うよ……」

 ジメジメと暗い雰囲気を発しながらも見送ってくれるお兄さんを背に、俺たちはビターフォレストへと向かった。

 ***

   
 スタンプラリー、人気のアトラクションにライド、パレードも堪能。色々してたらもう十八時半で、ホテルでのディナーの時間が近付いていた。

「ホテルに戻るかお兄ちゃん」
「そだな、十九時からだったよな?」
「ああ、上空からパークを一望できるなんて素敵だよな」

 そう。俺たちがもらったチケットは、スイートの宿泊だけではなく、豪華ディナーもセットでついている超ビップなものだった。

「ドレスコードとかいらないって言われて助かったよな」
「そうだな、私もお兄ちゃんも知らなかったとはいえ持ってきてないもんな」
「チケットに書いてなかったからしゃーない」

 ホテルのフロントで言われた際には心臓飛び出るかと思った。
 だがこの夢のある空間ではキャラのシャツがもはや一周回って正装じゃないだろうか? 流石に恥ずかしいからカチューシャとサングラスは取り外しておこう。

「幻中様、お待ちしておりました。パーク内はご堪能いただけましたか?」
「ええ、楽しかったです」

 タキシードを着た男は優雅な立ち居振る舞いで俺たちを、パークが一望できる席へと案内する。

 一面ガラスに沿うように配置されたテーブルに百鬼さんと向き合って座る。
 その際に、ウェイターが行動を先読みして椅子に座る動きをサポートする。

 さすが高級ホテルの豪華ディナー。
 ファミレスでは味わえない高揚感だ。

「くそほど緊張する」
「飲食店には変わりないだろ」

 慣れない雰囲気、大人びて落ち着いた空気感。
 すべてが新鮮できょろきょろしている俺とは正反対に落ち着いてドリンクを選んでいる百鬼さん。

「お飲み物はどうなさいますか?」

 ワインやシャンパン。
 メニューには雰囲気を彩るお洒落なドリンクが多数記載されている。

「オレンジジュースを」
「あ、俺もそれで」

 だが俺たちに酒を飲む気なんてない。

 意外そうな顔をしながらも瞬時に笑顔で取り繕うウェイターは、素早くオレンジジュースを用意してくれた。

 少しでも雰囲気を味わえるようにと考えてくれたのか、ワイングラスに瓶のオレンジジュースを注いでくれた。

「合わせなくてよかったんだぞ?」
「百鬼さんと酒飲むのは、その姿より百鬼さんそのままの姿がいいと思ったんでね」

 ニヒルに微笑み、俺はグラスを傾けた。

「随分言うじゃないか」
「まぁね」

 微笑む百鬼さんと乾杯して一口、オレンジジュースを口に含んだ。

「甘くない……!?」
「ふむ。皮の渋みか? いい味だな」

 深く味わうように目を瞑る百鬼さんは、このオレンジュジュースがお気に召したようだ。

「お待たせいたしました、こちら前菜になります」

 大きな皿にちょこんと乗った料理と、カトラリーを机に置き料理の説明をしてくれるウェイターだが、さっぱり何を言ってるか分からない。

「うん、話は理解できなかったけど美味いってことは分かった。とりあえずシェフ呼べばいいんだな?」
「やめておけ。あれが許されるのはフィクションのみだ、忙しいシェフを邪魔するな。それに大体前菜で呼び出すやつはいないぞ?」

 恥ずかしいからやめろと言わんばかりに俺を止める百鬼さん。仕方ない、帰り際にそこら辺のウェイターに感謝を伝えよう。

「俺こんな美味い飯初めて食ったかもしれない……」

 サラダ、スープ、よく分からないオシャレなやつ。どれを食べても感涙しそうになる。
 語尾のバリエーションが『美味しい』しかないことが教養のなさを実感させてきて、それに関しても泣きそうになる。勉強しよ。

「美味しそうに食べるな。仕事の時もこれほど感情豊かに過ごせばいいのに」
「それは唄子もだろ?」

 百鬼さんだって飯食ってる時とかゲームしてる時とかは、オフィスでは想像できないほどニコニコ嬉しそうにしている。

「仕事とプライベートは切り離す主義なんだ私は」
「物は言いよう」

 百鬼さんは視線を燦々と光り輝くパークに向けて、物理的に話題を逸らした。

「見てみろお兄ちゃん、パークってこんなにも大きいんだな」
「そだな、デカいな」

 カラフルに光って存在を主張するパークは、今にもにぎやかな音が聞こえてきそうなくらい楽しさを視覚に訴えかけている。

 さっきまでいたからだろう、それをひしひしと感じる。

「明日もパークを回れるなんて楽しみだ。アトラクションは一通り乗れたが、パレードも観たいな」
「明日はパレードメインに回るか。月曜は祝日だし閉園までいるだろ?」
「あぁ、もちろんだ。遊び尽くそう」

 翌日のことを考えずに遅くまで遊べるのは歳をとっても嬉しいものだな。

「こちらメインディッシュでございます。お熱くなっておりますのでご注意ください」

 食事はメインディッシュが運ばれてきた。
 分厚く、きめ細かい脂が輝くステーキは、周りにソースやら薬味やらを纏い、今までに見たことのないほど美しい見た目をしていた。

「お飲み物の追加はいかがしましょう?」
「同じものをお願いします」

 スッとグラスをウェイターの方へ動かす百鬼さんに倣って、俺もスッとテーブルの端にグラスを持っていく。

 こうするとオレンジュースがおかわり出来るってことだろ?

「かしこまりました」

深々と頭を下げるウェイターは、新しいオレンジュースを持ってきて「ごゆっくりどうぞ」と微笑んでからバックヤードへと姿を消した。

 リッチなサービスに、豪勢な食事に、綺麗な景色。
 楽しいひと時は一瞬にして終わりを告げ、俺の人生の一ページに貴重な体験を刻んでくれた。
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