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取引48件目 急変

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 この人はこの人で、色々と溜め込んでたんだろうな。
 勝手に清楚だとかなんだとか言うやつもいたし、そう言うのが少なからず負担にもなってたんだろうな。

「アタシ、学生の頃からエッチ好きなのに。周りからは清楚だよねぇとか言われるのほんとしんどいの!」
「な、なるほど……?」
「イケメンとイチャイチャしたいの!」

 流石に既婚者はまずいだろ。

 それに、周りの目なんて気にしないでいいのに。なんてことは気軽には言えないよな。不破さんの心の内なんて不破さんしか分からないんだから。気安く踏み込めない。

「俺、不破さんのこと苦手だし、余裕で軽蔑しか出来ないっすけど、不破さんの思考にはぐうの音も出なかったっす」
「はっきり言うんだね」

 ニヤけて俺を揶揄うようにじっと見てくる不破さんに向けて、ありのままの気持ちをぶつける。

「だから、不破さんは別のとこ行ってもクズのままいてくださいよ」
「へぇ? クズな女が好きなんだ」

 そう言って立ち上がる不破さんは俺に近づいてイタズラに笑う。

「そのうち誰かさんに囚われたその心をアタシのテクで寝取ってあげるね♡」
「尻軽には興味ないっす」

 完全にからかってきてるなこの人。

「はいはい、アタシも純粋な子に手を出すほど無粋じゃないですよ」
「アタシみたいなクズに捕まっちゃだめだよ?」

 自虐ネタで俺に注意喚起するこの人のメンタルはどうなってるんだろう。

「でも、ここまで純粋な子だとは思わなかったなぁ。聞き上手だしついボロ出ちゃったじゃない」

 俺の肩に手を置いて顔を近づける不破さんは瞳を閉じて妖艶に俺の頬へ優しく唇を触れる。

「……っ!?」
「これはお仕置きね」

 挑発する様な笑顔で俺を揶揄う不破さんに、俺は少しあっけに取られる。

「気安くそんなことしない方がいいっすよ、クソビッチさん。女性は男よりリスクがクソでかいんすから、もっと自分を大切にしてください」

 頬に口紅がついてそうで今すぐ拭いたいが、その場で拭うのは流石に失礼になりそうで我慢しつつ、どうにかこの人を改心できないかと説得に興じてみる。

「少なくとも親は、不破さんに何かあったら悲しいでしょ」
「悲しむほどアタシを愛してたらこんな娘は育たないわよ」
「屈折したんすね、かわいそうに」

 思わず俺が口に出してしまった言葉に、不破さんは呆れた様に笑っている。

「だったらまぁ。俺が同僚代表として悲しんであげるんで、軽はずみなことはしないように」
「あら、お優しいピュアボーイ」
「うるさ」

 おちゃらけている不破さんだが、内心はまだどこかしこりが残っているのだろう。心なしか不安げな目をしている。

 俺はこれ以上話すことはないし、大人しく去ろうか。

 百鬼さんのコーヒー買い直さねぇと。

「じゃ、俺はこれで」
「ありがとね、色々と」

 感謝を背中に受け、俺は冷めたコーヒーを飲みながら来た道を戻った――
   
「――遅かったな、何かあったか?」
「ちょっと話し込んでました、これコーヒーっす」
「そうか、ありがとう」

 熱々のコーヒーを手渡して、俺は仕事へと取り掛かる。
 百鬼さんは何かを察したのか、特に遅くなった理由を聞くことなく、平然と仕事を続けている。

「幻中くん、少し来てくれるか。緊急の要件だ」
「うす」

 仕事を進め、昼休憩がもうすぐだと言うのに、百鬼さんは心なしか青ざめた顔で俺を呼びつける。

「二番会議室を取ってる」
「承知」

 緊急らしいが、一体何が起きてるんだろう。
 状況を理解できないまま、俺はただついていく。

「――で、何事っすか?」

 緊急とのことで、急ぎの仕事のための会議でもするかと思ったが、百鬼さんはパソコンを持ってきていない。

 かく言う俺もパソコンは自席に置いてきた。

「お兄ちゃん、どうしよ……」
「ん?」

 弱々しく呟く姿は、いつもの威厳を全く感じさせない。

「どうしたんすか百鬼さん。もしかして緊急って仕事じゃなくてプライベートな感じっすか?」
「お兄ちゃんマジでどうしよう!」

 いつもの冷静さはどこへやら、取り乱したように俺の肩を両手で激しく揺さぶる。

「百鬼さんじゃなくて! ガチの妹に戻ったの!! あたし! 幻中唄子なの!」

 言われてみれば、見た目と言動が違和感なく自然に感じる。つまり本当の本当に唄子という訳か?

「お前……戻ったんだな!」

 妹が、正真正銘の妹に戻った。つまり、百鬼さんが目を覚ましたと言うことだろう。

「そろそろ戻れるなぁって漠然と思ってたら戻っちゃったの! どうしようまだ数時間業務残ってるよ!?」
「あー、意図せず戻っちゃったのね。お兄ちゃんに任せとけって」

 幸い、百鬼さんの業務はある程度俺が把握している。

「残りの仕事は俺が引き継ぐから、唄子は帰って。百鬼さんレベルで仕事できるならそのままでいいけど」
「無理帰る、お兄ちゃんよろしく!」

 うちの妹は少し強くなったのかもしれない。なんの迷いもなく俺に頼ってくれた。

「よーし、お兄ちゃん頑張っちゃうぞ」

 会議室を後にしてすぐに、唄子は極力言葉を発さずに早退を完了させる。

「なんか手伝おか?」
「大丈夫っすよ、すぐ終わらせて帰るんで」

 自分の仕事と並行して百鬼さんが抱えていた急ぎの業務を進めていると、いつもは長く感じる就業時間が一瞬で終わりを告げている。

 オフィスでは帰り始める人が続々と現れ、みんなもうウキウキ顔を浮かべていた。

 かく言う俺も、終わりが見え始めたのと、帰りに寄る病院が楽しみできっとにやけている。

「大丈夫ならええわ、無理しなや。お先に失礼するで」

 ことんと缶コーヒを置いて颯爽とさっていくカズさんは、ニヒルに微笑んで見せたが、前を見ず進んだからか棚に激突していた。

「うっし、行くか」
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