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刹那

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 海岸線を走っていた車は進路を変えて狭い山道に入った。事故の多そうな、不規則なカーブが続く上下二車線しかない道を、更に登っていく。

 やがて鬱蒼とした森林の木々が消えると、拓けた山間に、別荘らしき邸宅が道路の両脇に並ぶ景色に変わった。
 それらはよくあるカジュアルなログハウスから、奥に進むにつれアーリー、スパニッシュ、チューダー様式の格調高い洋館に変わっていく。

 車は進みその一帯の果て、側端と思しき一角に行く手を遮る塀が現れた。その先にはもう舗装された道路はない。行き止まりだ。
 人の背を越す程度の黄土色の石塀に焦げ茶の門扉と、あきらかにご近所の西洋館とは趣の違う入り口だった。
 そしてリモコンで門を開ければさぞかし荘厳な屋敷が姿を覗かせると思いきや、質素とも思える生成り色をしたモルタル外壁の、門と同じくアースカラーで統一されたシンプルなアメリカンハウスが鎮座しているだけだった。

 洋館というより、ニ家族ほどが泊まれるペンションといった感じだが東京の自宅と同じく、二人で過ごすには充分すぎる大きさだ。
 玄関までの道は石張りだが、前庭には芝生が敷き詰められることもなく、門の中にまで林をそのまま切り取ったような樹木が乱立している。

 見覚えのある高さのハナミズキは、自宅の庭にある樹の兄弟かもしれない。雑草が生い茂っているわけではないので、これで手入れはされているのだろう。
 榊という男は車から降りることもなく、二人を置いてすぐに東京へ戻って行った。



 窓を広く取ったリビングは広々としていて、慧は勝手知ったる別邸、という体でカウンター向こうの対面キッチンや冷蔵庫をチェックする。
 和馬は木目も優しいフローリングを突っ切り、落日の見える窓辺から初めて目にする伊豆の景色を見下ろした。

 視界を遮るような建物等はないが、かなり距離を隔てた眼下に、黄金色に燃え立つような水平線と海が見えた。大きく空に広がる楕円の雲は、赤から黒にグラデーションしている。夜の闇はすぐそこだ。

 東京で生活している普段は空を見上げて夕陽を見ることなど滅多にない。海を見たのすら数えるほどだ。その時は思いもしなかったが、よく聞くフレーズは本当だと思った。

 夕陽は切ない。
 赤に橙に濃紅色と温かみのある暖色なのに、紅色に染まって落ちていく太陽を見ると胸が締め付けられるようだ。炎に巻かれて燃え尽きていくようにも見える。
 落涙を堪えるように鼻筋を歪めた和馬の背後から、慧の温もりが抱きすくめた。

「やめなよ。黄昏時のお化けに魂、持って行かれるよ?」

 逢魔が時なら悪魔が定説だろう。だが和馬は小学校の図書室で読んだ、黄昏時に出没する寂しがり屋のお化けが出てくる物語を覚えていた。
 振り返る視線で問うたわけでもないが、和馬の腰を抱き直す慧は唇を寄せて語る。

「小学校の時さ…図書室で俺は、読みたい本よりも最後のページにあった貸出人カードを漁ってたんだよ。宝探しみたいにね。…兄貴の名前だけ探してた」

 慧が図書室に出入りする学年になる頃はもう、接触を避けて会話もしなかった。

「頼んだ食材、全部揃ってた。夕飯もデザートも期待してね」
「…ほんと、凄ぇなお前。ありがと」

 和馬が背を向けた落陽を受けて、眩しく輝く端正な顔立ちの少年が嬉しそうに笑う。
 ほんの些細な話で自分の胸を幸せで満たしてしまうのだから、恐ろしいお化けなどとはほど遠い。なんて思いながら和馬は寂しがり屋の万能お化けの首筋に抱きついた。

「ほんとに二人きりだよ」
「うん」
「もう…あいつには会わないよ」

 義父のことだろう。声に出さず身体を強張らせる和馬をきつめに抱き締める腕は力強い。

「あと、バイトも断ったからね」

 目を上げると目を逸らす。子供っぽく閉じた口の下唇を尖らせるのは、覚えてしまった慧の癖だ。

「もう行かないで」
「行かねーよ」

 仰向いてちゅ、と音を立てて下唇を吸ってやると、くすぐったそうに目を細める。

「ヤバい。――もうシたい」
「若いな、お前」
「全然変わらないじゃん」
「変わるだろ」
「クソガキ、とか思ってる?」

 ひと月前まで中学生だった完全無欠の少年が、頼りなく眉を垂れて年相応の顔を見せてくれるのが嬉しい。

「思ってないよ」
「笑ってるじゃん」
「これはぁ、『二人きり』なのが嬉しいから」
「…俺も」

 うなじを撫で上げられて固定され、施される口付けは和馬からしたら立派に大人、だ。
 ちゅ、くちゅ、と淫らな音が耳に入る度にぞくぞくと心地良い快感が背筋を駆け昇る。

「ん…ふ、ん……んっ」
「夜まで我慢するね」
「……充分大人じゃねーか」

 物足りなさから思わず洩れた皮肉に気付いたのか気付かないのか、慧の手に引かれてリビングから移動した。

「部屋、見に行こ」








 煮魚メインの和食の後は、できたてのふわふわチョコレートスフレに舌鼓を打った。

「美味いコレ!…こんなん初めて食った」
「これってね、出来たてじゃないと出せないんだよ。時間が経つと潰れちゃうの。いつか兄貴に食べて欲しかったんだよね」

 頬杖を付く幸せそうな顔は新妻の如きだ。
 同じ家に暮らしながらまるで別世界に生きてきたような慧と、これまでの十年を取り戻すように濃密な時を過ごすのは楽しかった。
 自宅ではないこともあって現実離れした空間と時の流れが、胸に抱えた重大な問題を忘れさせてくれたのかもしれない。

「一時間だけね」

 と、慧がリビングの大きなテーブルに英語の教材を広げるまでは。

「テレビ見てていいよ?」

 ヘッドフォンを手にしたまま、向かいのソファに寝そべりマガジンラックにあった(何故か最新の)ゴシップ雑誌を広げる和馬を気遣うあたりが慧らしい。

「いいよ」
「あと三十分待ってね」
「いいよ、好きなだけやれ」

 無言でいると意識の隅に追いやった不安が頭を擡げて胸が苦しくなったが、それを慧に言うわけにはいかない。
 目の前でデジタルプレイヤーを使い、英語のリスニングに集中する真剣な眼差しを盗み見て気を紛らわせた。

――ブブブ

 タイミング良く振動した携帯電話のバイブに、雪人とメッセージの遣り取りでもして時間を潰そうと思う。
 後ろポケットから取り出したスマホの液晶を表示させた。

「――――」

 登録されていない番号からのショートメールにタイトルはなく、本文は一行。


『窓辺においで』


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