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恐れているもの
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私は「何か」から逃げていた。逃げてどこに行こうという考えなど特にはないが、ただ、それから逃げたかったのだ。「何か」が何を意味するのかは分からない。ひょっとするとまだ誰からも名付けを受けていないものかもしれない。すると私の逃避行の音を聞きつけた声が現れた。声は言った。
「あなたが恐れているのは夜ですか?」
観念から朝と昼は消え、夜になった。心なしか空気も冷たく重くなったように感じる。距離は小さく縮こまり元素の感覚を狂わせる。夜の息づかいが耳元でそよめく。しかし、私は怖くなかった。
「違います。」
私は答えた。すると声は再び尋ねた。
「あなたが恐れているのは親ですね?」
私の目の前に私の親が現れた。いくらかの会話をした。私の記憶の中にいた親よりも目の前にいる親は歳をとっているように見えた。しかし、私は逃げなかった。
「違います。」
私はそう、きっぱりと答えた。声は怯むことなく続けた。
「あなたが恐れているのは未来ですね?」
見たことのある顔や知らない顔が浮かんでは消えた。おぼろげに、また不安定に、道の輪郭が揺れていた。天と地の確証さえ定かでなかった。私は少し怖くなった。しかし、そこには光もあった。私は逃げなかった。
「違います。」
私は手を握りしめながら息を発した。ここで初めて、声は少し躊躇いをみせた。だがしばしの間のあとで声はこう聞いた。
「あなたが恐れているのは死ですね?」
何も見えなかった。何も見えなかった。そこには恐怖の色すらなかった。
何も聞こえなかった。何も聞こえなかった。確信を持てる音はどこからも聞こえてこなかった。死には何も無いのに、一体死の何を恐れるというのだろう?
「違います。」
私は息を吸った。声は呆れたような視線を投げかけ、やがてどこかへ消えた。私の恐れているものを当てることはできなかったらしい。私は仕方無しに家に帰った。
家に着くと、大きなガラスのはめ込まれた木製のドアを開けた。木の香りが懐かしかった。階段を上がり私の日常を送っている狭い東向きの部屋に入り、そこに置いてあるベットに座った。世界が倒れたが答えは落ちてこなかった。
しばらくして私は風呂に入った。冷えた手足の先を温め、心を少しでも落ち着けてから風呂を出た。私は身体を拭きながら鏡を見た。
そこに私がいた。私は急いでその場から逃げた。私はいなくなった。
やっと安心して腰を下ろすと椅子が鳴った。そこに私がいた。
怖くなって台所に立った。水道の水を右手で持ったコップに注いで飲んだ。水は私の体温に馴染まないまま私の中を流れる。口から胃に至るまでの神経が過敏に「何か」に反応する。そこに私がいた。
とうとう私はたまらなくなって目を閉じた。まぶたというものは閉じるのには軽いのだが、どういう訳だか開こうとすると途端に重くなってしまう。閉じた瞳の心地よさにいつまでも身を預けていたい気持ちになる。何の苦悩もない。煩いもない。次第に情報は言葉を失う。その過程が私に儚い儚い夢を見させてくれる。
だから、今も私の目は閉じたままである。私をみつけてしまわないように。
「あなたが恐れているのは夜ですか?」
観念から朝と昼は消え、夜になった。心なしか空気も冷たく重くなったように感じる。距離は小さく縮こまり元素の感覚を狂わせる。夜の息づかいが耳元でそよめく。しかし、私は怖くなかった。
「違います。」
私は答えた。すると声は再び尋ねた。
「あなたが恐れているのは親ですね?」
私の目の前に私の親が現れた。いくらかの会話をした。私の記憶の中にいた親よりも目の前にいる親は歳をとっているように見えた。しかし、私は逃げなかった。
「違います。」
私はそう、きっぱりと答えた。声は怯むことなく続けた。
「あなたが恐れているのは未来ですね?」
見たことのある顔や知らない顔が浮かんでは消えた。おぼろげに、また不安定に、道の輪郭が揺れていた。天と地の確証さえ定かでなかった。私は少し怖くなった。しかし、そこには光もあった。私は逃げなかった。
「違います。」
私は手を握りしめながら息を発した。ここで初めて、声は少し躊躇いをみせた。だがしばしの間のあとで声はこう聞いた。
「あなたが恐れているのは死ですね?」
何も見えなかった。何も見えなかった。そこには恐怖の色すらなかった。
何も聞こえなかった。何も聞こえなかった。確信を持てる音はどこからも聞こえてこなかった。死には何も無いのに、一体死の何を恐れるというのだろう?
「違います。」
私は息を吸った。声は呆れたような視線を投げかけ、やがてどこかへ消えた。私の恐れているものを当てることはできなかったらしい。私は仕方無しに家に帰った。
家に着くと、大きなガラスのはめ込まれた木製のドアを開けた。木の香りが懐かしかった。階段を上がり私の日常を送っている狭い東向きの部屋に入り、そこに置いてあるベットに座った。世界が倒れたが答えは落ちてこなかった。
しばらくして私は風呂に入った。冷えた手足の先を温め、心を少しでも落ち着けてから風呂を出た。私は身体を拭きながら鏡を見た。
そこに私がいた。私は急いでその場から逃げた。私はいなくなった。
やっと安心して腰を下ろすと椅子が鳴った。そこに私がいた。
怖くなって台所に立った。水道の水を右手で持ったコップに注いで飲んだ。水は私の体温に馴染まないまま私の中を流れる。口から胃に至るまでの神経が過敏に「何か」に反応する。そこに私がいた。
とうとう私はたまらなくなって目を閉じた。まぶたというものは閉じるのには軽いのだが、どういう訳だか開こうとすると途端に重くなってしまう。閉じた瞳の心地よさにいつまでも身を預けていたい気持ちになる。何の苦悩もない。煩いもない。次第に情報は言葉を失う。その過程が私に儚い儚い夢を見させてくれる。
だから、今も私の目は閉じたままである。私をみつけてしまわないように。
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