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chapter2.

09

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「雨降らないね。あんなに重たそうな雲なのに」
「雨は、恵みですから。俺も森で久しぶりに雨に当たりました」

 淡々と言葉を返す翠雨はセレナに地図を確認させながら、既に回ったらしい人里に当たりをつけ、進路から除外していく。一日で歩ける距離じゃないが、そこを突っ込む程馬鹿ではない。詰め込まれた情報を組み合わせれば、自分も神体であればできるようだと予想もついている。そこに感じる違和感は追々容認するとして、翠雨の胸にあるのは自分もはやく役に立つ従神にならなければという使命感であり、決意だ。
 従者が変われどそれを理由にセレナの足を止めるわけにはいかない。また、セレナが従神受け入れについて消極的かつ罪悪感を感じているらしいことは、あの提案時の念の入れようから翠雨にも予想はついた。後悔させないように振る舞いたいと思うのは、魂が服従しているせいか別な感情か。翠雨にとっては、どちらでもよかった。どうせ理由がなんであれ翠雨の考えは変わらない。
 従神となってすぐ擬態はしたが、もとよりこの世界の者であった翠雨にとってそれはデメリットでもなんでもなく、むしろかなり調子がいいといえる。今はいわば新参従神だが、セレナからこの世界には従神を探しに来たのだと聞かされていた翠雨は、アインとしてなんとしても強くならねばとあらゆる覚悟を決めていた。

 既に翠雨が弟と共に隠れていた深い森を抜け出し、二人が歩いているのは木々に囲まれてはいるものの街道らしき、土のむき出しになった通りである。とはいっても大地は荒れていて、決して人が頻繁に行き来している道ではないだろう。そもそも人が寄り付かぬからこそ翠雨たちはこの近くの森に身を潜めていたのだから。

「なるべく人が多いところがいいかな、無事な魂が多いなら従神契約じゃなかったとしてもなんとかできないか主君に相談したいし。星喰いがいそうな場所とかの噂があれば排除にもいけるし」
「わかりました」
「あとは、んー。情報じゃ冒険者ギルドとかは無さそうだけど。旅人装えばいいのかな」
「それが無難かと。冒険者ギルド、というのはどのようなものですか」
「ああ。ウィンドウの別世界のデータにはあるから暇な時に目を通してみて、大した情報はないけど従神としては役に立つと思う。他の世界にちらほらあるんだ。冒険者の組合でね、ランクを分けて魔物討伐とか採取なんかの依頼が掲示されてたりして、できるもの選んで昇級していくの。人のふりして潜入が長期の時とか結構お世話になるんだ、面白いよ」
 へえ、と翠雨が僅かに表情を変える程度には興味を持ったことに気づいたセレナは楽しげに笑う。
「この世界を出たらどこかギルドある世界に冒険でもしに行こうか。従神と経験を上げたいからって言えば主君がちょうど良さそうなとこ選んでくれるだろうし」
「経験ですか。それならお願いしたいですね」
「先の話が決まったところで話は戻るけど、旅人って多いのかな。目立つと面倒だよね、翠雨に会うまでに救いをくださいーって何回か絡まれちゃって」
「……ローブ、深く被っといてください」

 つまり、今は擬態してそこそこに人間離れした雰囲気は収まっているようだが、神として相応に美しい容姿をしたセレナにただの旅人のフリは無理だろうと翠雨は悟ってしまった。
 触れてもいいですか、と遠慮なく問う翠雨に、あっさりどうぞと不思議そうなセレナが許可を出せば、美しい髪はさっさと翠雨に後ろで括られフードを深く被せられた。ローブの前も徹底的に留められ、これはいわゆるてるてる坊主ってやつだねとセレナはどこかで伝え聞いたまじないの話をする。

「雨が降らないよう、晴天を望むまじないでしたか」
「この世界にもあるんだ。私は雨を降らせるほうが得意なのだけど」
「だからそれ秘密なんでしょう。軽々しく口にしないでください」

 表情にこそ出ないが己の主に振り回される翠雨を、セレナは楽しそうに見つめる。出会ったときの絶望がちらつく嘆きの声音より、今の方が余程いい。

 そんな楽し気な空気を裂くように、群れの魔物が背後から二人へと忍び寄る。セレナは何も気にせず前を歩き、ちらりと翠雨は横目で背後を確認した。つまりこれは、自分がやっていいということだろうと翠雨の指先が腰へとのびる。

 次の瞬間には吼え声をあげながら襲い掛かって来た十匹ほどの狼の魔物を、セレナが振り返るまでもなく次々と翠雨が斬り伏せていく。その手に在るのは祖母の形見である『刀』と称される剣の一振りだ。
 最後の一匹に刃が届いたところで漸くくるりと片足を軸に踊るように回って振り返ったセレナは、うっとりとさすがだねと呟いた。見ていないようだったが、見えてはいたらしいと翠雨は刃を振り下ろす。

「その刀、お祖母様の故郷の武器って言ってたっけ?」
「はい、そうです。魔族の祖父が武器コレクターで、祖母の記憶から術で再現したのだとか。といっても使い方を教えてくれたのは父で、祖父がどう作ったのかはあまり知らないんですが」
「そっかそっか。故郷、ねぇ」
 何か考える素振りを見せるセレナに、翠雨は首を傾げる。祖母の故郷は、とても遠くなんらかの術で辿り着くようなところだとしか言えないのだ。それより気になることができた翠雨は視線だけをさりげなく動かしていく。
「その、ディア。先ほどから何か……」
「ああ、気づいた? 誰か見ているね、たぶん私がこの世界にきた初日から感じてる視線かな」

 あっさりとしたセレナの物言いに翠雨はぎょっとしたが、さてどうするかなと首を傾げるセレナは笑みを浮かべたままだ。

「……泳がせているのですか?」
「うーん、初めは敵かわからなかったけど、放っておけば出てくるかなと思ったんだ。追ってもいいけどヌルにすら気配を気づかせなかった相手だし、ここまで視線に敏感なのは私たちだからこそでしょ? 相手はまだ私たちたちが気付いてるってわかってないかもしれない。私たちがか知らずに見てるのなら、様子見ようかなって」

 笑みを浮かべたままのセレナは、ちょっとからかおうか、と首を傾げた。

「は?」
「速度は私に合わせて、距離を取らず、飛行ではなく跳んで駆ける。私があの森であなたを連れて小屋に戻った時と同じように」
「何をする気で」
「コツは足に神力……魔力を集めて、足場を蹴ると同時に少しだけ噴出させる。ほんとに少しだけだよ、それで十分。加減を間違えば体が吹っ飛ぶし左右ずれていればバランスを崩しやすい。次の足場を見据えて威力の調整、あとは風の抵抗を全体的に和らげる」
「ちょ、待って」
「慣れれば足に直接風の術を施して、飛べるようになる。羽ばたいたり空中浮遊するより安定してて、いろんな世界で使いやすい。さぁいくよ!」

 びゅ、とセレナの姿が視線のある方角とは逆、左の生い茂る木々の中へと掻き消えた。ぎょっとした翠雨が足を踏み出し、早速バランスを崩して木の幹に衝突しかけて、咄嗟に手の平に魔力を溜めて弾き返したことで回避し、次の瞬間には跳んだ。数歩の間体がぐらついたが、その後は安定しだし、一歩の飛距離を伸ばしていく。既に主の姿は見えないが、その気配を見失ったりはしていない。

「くっ、俺の主は随分お転婆であらせられるっ!」

 これでは視線の持ち主をからかうというより己の力試しだと翠雨は唇を引き結び集中する。気にしていた視線も既に剥がれ、ぎょっとしたように動きを止める魔物の合間すらすり抜けて後を追っていた翠雨は、ふと一瞬でセレナの気配を見失い、頭から冷や水を被ったかのごとく血の気が引く。まるで心の臓が凍り付いたように感じて、無意識に翠雨は胸元を探った。指先に当たるのは、衣服の下で首から下げた青い石だ。

「ディア!」
「お転婆なんてひどいなぁ」

 突如上から降って来た気配に咄嗟に天を見上げた翠雨の肩に、指先が振れる。先ほどと変わらぬ笑みを浮かべたままのセレナがふわりと背後に降りてきたことに翠雨が混乱している間に、セレナは足に地面をつけるとくるりと回って見せた。ローブが広がって、神の意匠であろう美しい布地がちらりと覗く。

「合格。視線は引きはがせたね」
「……ディア」
「ふふ、翠雨は器用だね。私も弱体化はしたけど、今走ってみた感じ多少は動けそうかな」

 得意なんだよね、高速移動。そう呟きながらさてと周囲を見回したセレナに、額を手で押さえて安堵から激しい鼓動を繰り返す胸の内を誤魔化していた翠雨は、ああ、とつられて周囲を見回した。
 魔物が獲物だと認識して集まりだしているのだ。

「一掃します」
「じゃあお願い、と言いたいところだけど、ここからそっち、半分よろしくね」
「わかりました」

 翠雨とセレナの間には、セレナのつま先が土を削って引いた一本のラインがある。もう半分をセレナが相手するのだろうと翠雨が刀に手を伸ばした瞬間。
「浄輝光縛陣」
 翠雨の目の前、己の主が担当する筈だったラインの向こう側に迫っていた獣たちが、地面から立ち上った光に一瞬で捕らわれた。
「魔陣術……」
 それも恐らく高難易度だ。両手を翳すセレナは目を細め、ぺろりと赤い舌を覗かせ上唇を舐めとる。その姿に、翠雨ははっとした。遅れをとるわけには行かない。圧倒されるのも魅了されるのも後回しだ。

 刀の柄を撫でた翠雨はそのまま疾走し、襲い掛かる植物の魔物を抜刀し切り伏せ、返す刀で宙から迫る魔鳥を斬り落とす。先ほどセレナに教えられた移動の基本を応用し縦横無尽に駆け回り敵をおびき寄せながら、翠雨は胸の奥が熱くなるのを感じる。
 これまでも刀は使っていた。そうでなければ魔族の血を引いていても、魔物蔓延るあの森では生きられなかったのだ。だがこれまでの『技』が、より洗練されたものに昇華できるような気がする。今は片方だけの瞳が、普段より余程周りがよく見えるのだ。
 おそらく使いこなせるかは己の努力次第。試さなければ。
 翠雨の口角が僅かに持ちあがる。枝を蹴って浮いたその足で小物を蹴り飛ばし、感知できる魔物を大小強弱問わず一箇所に誘導しつつ集め終わった翠雨は、するりと己の愛刀の峰を魔力を纏わせた指で撫でた。

「纏刃・風斬」

 ごう、と風が舞い上がる。いや、翠雨の持つ刃に風の魔力が纏わりついたのだ。それが振り下ろされた時、刀は敵の数をものともせず、一太刀ですべての敵を両断する。

「お見事、翠雨」
 
 翠雨が刀を鞘に納めると、甘やかな声でセレナがうっとりとその術を褒める。辺りには既に二人以外の存在は感知されなかった。
 これまでの何倍もの威力を放った刀から手を放した翠雨はその手の平を見つめ、ぐっと一度強く握りしめたのだった。


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