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さつまいも

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ベランダの恋人

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 あたりは闇夜に静まり返っている。
 それを壊すように煌々と電気の着いたマンションの一室で、叫び声が響き渡った。

「セッ○スしてー!」

 ここは、渋谷区代々木。
 右手には、謎めいた時計台付きのN○Tビルと、夜でも、華やかな電飾目映い浦和にあるディ○ニーランドを思わせる巨大デパートがそびえ建つ”南新宿”。
 左手には、この地名と同じ名の付いた、ゼミナールやアニメーション学院。他にもビジネススクール、美容、ネイル、ドイツ語等々の専門学校が建ち並ぶ”代々木”。
 二つの街を結ぶ道、大きな通りの一つ先に、車道は二通になっているが、歩行者用の道が狭かった。
 まして、ささくれだった道は、どこからどちら行きの車が飛び出してくるか判らない無秩序な道になっている。
 その道沿いに真っ直ぐ行って新宿駅からなら右、代々木駅なら左。
 地図がないと迷いそうな入り組んだ通りに面した、高級だか、中級だか、住居だか、会社だか、普通に通りがかったものでは、まったくよく判らない、十三階建てのマンションがある。
 そのマンションの七階、元2LDKのスペースを会社用にワンルームに改造した一室。
 煌々と電気の点いた室内からの灯りが、外からもはっきり判るベランダには、エアパッキンのロールや、その他、会社に入り切れない椅子が数個山積みにされている。その横には、申し訳程度の喫煙者用に人が一人立つスペースが開けられていた。
 入り口のある通路を照らす常夜灯には、部屋のドアに掲げられた、どこかのショーで使われた、長方形の発泡スチロール板で”㈱ドリーマー”と社号が掲げられ、この部屋の怪しさを更にかもしだしている。
 そのドアから中に入って、狭い横並びに置かれた男物の靴二足と、女物の靴一足。
 狭い廊下を通って、部屋から隔離するように、ローパーテーションに囲まれた、この会社の社長の机がある。
 その脇に縦長の会議机が二本横並びに置かれた、会議スペースには、乱暴に置かれたバインダークリップで留められた書類と、所狭しと積まれた茶色の模造紙にくるまれた未開封の書籍が存在感を表している。
 中に更に進んで、部屋の周りを囲むように置かれた書棚は、ちょっとした振動でも雪崩を起こしそうなほどのジャンルを問わない書籍。
 その書籍たちに囲まれた四つの事務机は、ローパーテーションで区切られ、その上には乱暴に、裏紙なのか、表紙なのか判らない紙の山と、”私がパソコンです!!” と自己主張をするように置かれている旧型の大きなモニターとタワー型のPC。
 そして、その中であくせくしている人間が男性二人と女性が一人。
 ここの正式名称は、”株式会社ドリーマー”。
 何をしている会社かと云うと、フリーペーパー、経済関係や法律関係のムック本の企画、製作をしている、一般的に云われるところのいわゆる編集プロダクションだった。
 ちなみに、書籍を制作販売するにはサイズにあわせて販売権と、その本を置く書店との契約が必要で、そういう予算を取っていないドリーマーは、企画と製作を生業にしている。 要するに、企画制作、ドリーマーという書籍はあっても、発行元は別出版社の名前が入る。
 そんな会社の机にくくりつけられたローパーテーションには、でん! と入稿のスケジュールと、現在製作中の台割表……、発行予定の書籍の頁に何が掲載されるのか、その構成が書かれた紙が貼られている。


 時刻はまもなく草木も眠る丑三つ時……、午前二時。
 明日の午後は、初校を印刷所に渡す日……。
 今回の予定頁数は、二五六頁。
 経済で有名な大学の学者先生の書いた論文を、今風にPOPにアレンジして、出版するちょっと怪しげなムック本の制作をここでしている。
 今日やっと、遅れ遅れで何とか集まった著者から原稿が到着し、印刷する形にデータを直していく作業中を始められた。
 タイムリミットは明日の昼まで。
 残された時間は夜が明けてあと半日。
 時計の針と戦いながら、必死に赤ペンを片手に大きなバインダークリップで何束もまとめられた書類へ、ひたすら誤字、脱字、文字の表記揺れ、文章の違和感などなどの校正を入れている編集歴八年の吉見 洋文、三一歳。
 その横で、吉見が赤ペンで校正した文章を確認しながら、Macで印刷所に持っていくデータの元のテキストで打たれたデータを、ひたすら訂正しながら、入力している編集歴一年未満の編集アシスタント、遠藤 一之、二五歳。
 そして、この会社で紅一点。Macを使って、吉見や遠藤が用意した文章やテキストデータを元に、販売できる形に、文字や色やレイアウトをデザインするDTPというお仕事をしている村島 美菜(年齢不詳)だった。
 ちなみにここにはいないが、この会社の社長の太田 徹也、四五歳は、今日も打ち合わせと称した接待に行くために、早々に会社から消えていた。

 そんな”ピン”と張りつめている部屋の空気を壊すがごとく、雄叫びを遠藤が上げたのは、そんな時だった……。

「あぁ~! ○ックスしてー!!」

 遠藤は、キーボードを打つ手を止めると、いきなり、何かに取り付かれた獣のように、天井に向かって、叫び声を上げた。
 部屋の中に響きわたる雄叫びに、今まで活字のみに集中していた室内の空気が固まる。
 緊張感が粉々に破壊され、何が起こったのか理解できない驚きに、ただ呆然と正面の遠藤を見つめる村島。
 その叫び声に集中していたものすべてが、吉見の脳から吹き飛んでしまった。
 張りつめていた一本の糸がプチっと切れた瞬間、吉見はあまりに緊張感の無い遠藤の叫びに、思わず手にしていた赤ボールペンが折れるのではないか、と思われるに握りしめた。怒りに肩を震わせ、怒鳴り声を上げる。
「うるせー!」
 遠藤の叫びよりも吉見の声の方が、迷惑なのではないか、と思えるような怒声。
 耳がハウリングを起こしてもおかしくない声と、鬼の形相で睨まれ、遠藤は一瞬たじろいだ。
 だがしかし、次の瞬間には吉見の声にも負けないほどの、獣と化した……、それよりもただのだだをこねている子供の様に更に遠藤は雄叫びを上げる。
「セック○してー!! あぁ、セ○クスしてー!」
 いつまでもこの場をわきまえないことを叫び続け、遠藤は仕事のじゃまをし続ける。
 その遠藤に肩を怒りに震わせながら吉見は再び睨み付け、煽るようにすっくと立った。
「静かにしろー! 仕事が進まないじゃないか!! お前、今、この状況判ってるのか!?」
 あたりに唾を飛ばし、怒りに打ち震える吉見は、手元に有ったバインダークリップで束ねてあったB4の何十枚もの紙を力一杯丸めた。
「吉見さん、それは!」
 手にした書類の束を見て、慌てて止めようとする村島をよそに、吉見は自分よりも十cmも大きな体型もそびえ立つ遠藤を思いっきり、力一杯に殴る。
 それこそ、物凄い音を立て、石頭の遠藤の頭を殴った書類が、見るも無惨な姿になっていくのも気にせずに……。
 そうその様子を例えて云うなら、部屋でばったり”ゴ”の付くカタカナ四文字の黒い物体に出くわしたときの、乙女の半狂乱している姿に似ていた。
 肩で息をしている吉見。
 その刺激を受けてかは定かではないが、紙がボロボロになるまで殴られた遠藤は、まるで電池の切れたロボットの様に、まるで事切れたのではないかと思わせるように、ぴたりと動きを止めた。
 静まり返った部屋。
 これで、やっと落ちついで仕事ができる……、そんな安堵感で呼吸を整え、吉見は席に着こうとした。
 せっかく収まった場を壊すような村島の深く、そして大きな溜息と怒りすら感じる呟きが聞こえてくる。
「吉見さん……。それ……、絶対にもう一度出力しませんからね」
 その冷ややかともとれる村島の口調に、我に返り吉見は手にしていたぼろ雑巾の様になった書類を見つめた。
 あ、これは……。
 そう思ったときにはアフターカーニバル、後の祭り。
 怒りに真っ赤になっていた頬の熱が一気に冷却していくどころか、氷冷していくのを吉見は感じた。
 遠藤への腹立たしさのあまり、自分が何をしたか……。
 否、ネジを飛ばした遠藤を殴ることは全然問題はなかった。
 しかし”何で”殴ったかが問題だった。
 怒りに思わず手にし、遠藤をどついた書類の束。
 それは、さっき村島は自分が赤を入れた……、訂正を赤ペンで入れたゲラ……。書類を、入力し直して、もう一度確認するために出力してくれた新しいゲラ……。
 要するに、吉見が必死になって著者の原稿に、文字や文章の統一はかるために、赤ペンで指示を書き、遠藤が長い文章だけテキストに入力し、最後にそのまま書店で売れるような形にレイアウトしたデータにそれを反映させたものを、プリンターで印刷したものだった。
 村島の痛い視線を避けるように、もう一度今度は手で遠藤を殴ると、その場を取り繕うように、吉見は一回咳払いをした。
 そして、手が止まって何をやっていたのかをもう一度整理するために、机の上を整理しながら低い地をはうような声で呟く。
「そんなに溜まってるんなら、休憩時間とっていいから、歌舞伎町でも行って来い。 ここからなら歩いていける距離なんだから! 三時間もありゃ十分だろ!」
 吉見の冷たく感じる声に、シュンとうつむいてしまった遠藤。
 まるで怒られた子供みたいに、弱々しく項垂れている姿に、吉見はまさか自分が泣かしたのでは? と不安になった。まさかこんなことで……、そう思いながら遠藤の様子を伺うように恐る恐る近づいた。
 そのときだった。
 ネジの切れた玩具のように動きを止めていた遠藤が、どっかのゲームで登場する殺しても殺しても現れるゾンビのようにずんずんと迫ってきたのは……。
 まして自分より一回りもでかい遠藤が、どんどん自分との距離を縮め、窓際の席に座っていた吉見は、獣に追われた小動物のように追いつめられ、後ろに下がることができない。
 遠藤はべそでもかいている様な、涙混じりの声でもう逃げ場の無くなっている吉見に追いつめてくる。
「吉見さん……、今ここで俺とセック○しましょう……」
「はぁ~?」
 あまりの自分の想像力を越えた遠藤の発言に、吉見は脅え、またぼろぼろになった大切なゲラで、力一杯石頭を殴った。
 それこそ、書類がその形をなさないほど、ボロボロになるほどに……。
 しかし、荷物は多く、狭い社内。
 吉見の後ろは窓、もう下がれない……。
 それよりも、村島もいるのに、こんなところで貞操の危機にさらされているなんて吉見には遠藤の考えていることが一向にわからなかった。
 それでも吉見は、必死に何とか自分に襲いかかってくる遠藤を回避しようと考える。何とか……、後ろは窓……。
 窓……、手元の鍵を見てハッとした。
 何とか……、そんな思いで、吉見は慌てて窓を一気に開け、それでもまだ迫ってこようとする遠藤をバスケットの選手の様にかわした。バランスを崩した遠藤の背中を押すと、窓の外に追い出し、慌てて鍵を掛けた。
 何とか危険を回避し、吉見は力を抜いた息をゆっくり吐くと、窓に背を向けたまま叫ぶ。
「少しそこで頭を冷やせ!! ばかもの!」
「中に入れてくださいよ~」
 窓ガラスは遠藤にたたかれ、バンバンと鈍い音を出しながら震えている。
 しかし、小さく溜息を付いて、仕上げに部屋のカーテンを思いっきり閉め、その姿を自分の視界から消すと、吉見は静かに席に着いて咳払いを一回した。
 必死に体裁を取り繕うとする吉見の姿を、にやにや笑いながら見つめている村島の姿が目に映る。
 当事者ではない村島は、吉見と遠藤のやりとりをただ楽しんでいるのだろう。やるせない思いとそれに輪をかけるように机の上にある、既に紙というのもおこがましい、見るも無惨な姿になったゲラ。
 取り返しの付かない物と、遠藤への怒りを抑え、吉見は横目で村島の様子を伺うようにちらりと見る。そして吉見は覚悟を決めたようにゆっくりとその制作者に向き直ると、拝むように手を合わせ、頭を下げる。
「すみません……。ゲラ……、もう一度印刷していただけますか?」
 室内には、遠藤の窓をたたく音と、村島の深い溜息が響き渡っていた。



   *   *   *   *   *



 締め切り間近の時間というのは、早いようで遅い。また、遅いようで早い。
 ただ一つ云えるのは、この部屋が切羽詰まっているときは、焦っているので時間の感覚が普段より”もう”こんな時間と感じたり、”まだ”大丈夫と感じたり起伏が激しい。
 それでも時間は経過する。

 時計の針がちょうど三時を差し、吉見が遠藤をベランダに追い出してから、すでに一時間が経過した。
 あの後吉見は、村島を必死になだめすかし、最終的に代々木にある”金魚カフェ”で一食八〇〇円のランチを一食奢ることで、ずたぼろにしてしまったゲラを再度プリントアウトしてもらった。
 それでもゲラの話はするが、遠藤の奇行に関しては、吉見は触れたくなかったし、村島もそれは同じなのか、いっさい口にしなかった。
 中古のインクジェットプリンターとメモリー不足のMac。それと吉見が直した部分のデータ変更が無ければ、ゲラの再印刷は快くではないが、なだめすかして、ランチをおごらなくても引き受けてくれただろう。
 大事なゲラをぼろぼろにしてしまったのは吉見だったが、なんでここまでしなくてはいけないのか、そう考えると遠藤への腹立たしさが増してくる。
 けれどゲラが無ければ、今、吉見が訂正したものが合っているのかを確認するのにも必要だった。それだけではなく、今回問題ないものの打ち出しが、印刷所から初稿刷りが上がってきたときの確認に使う。だから入稿したデータの打ち出したゲラが無いと、きちんと印刷がなされているかの確認できない。
 その他にも、最終的な印刷所に回したデータと同じ内容のゲラを筆者に送って、著者の校正……、作者がこのまま印刷して良いかを見てもらい、変更箇所を書き込んでもらう作業にも使われる。
 まあそんなこんなで、村島がもう一度ゲラの印刷をしている間、吉見は遠藤の所為で手が止まってしまった作業を再開する。
 だがしかし、これで静かになるはずだった。それなのに、何故だか判らないが時間が気になって、仕事に集中しきれない。
 編集を何年も続け、ましてドリーマーの様な小さな会社では自分が一つでもミスをおかせば、発行物にまで影響が出てしまうこともあった。
 自分の集中力には自身があった吉見だったが、遠藤を外に出してから、時間が気になり、仕事が手に着かない。
 何度目かの時計を眺めると、針は三時をさしていた。
 カーテンはぴっしり閉まっているが、その先にある窓を吉見は見つめてしまった。
 季節は秋の気配が増す、十月末。
 まだコートはいらないにしても、それでもこの時間になると、かなり冷えてくる。元々人数ギリギリでやっているこの編集部で、一人が風邪でも引いて倒れでもしたら、きちきちに決まっている編集スケジュールがこなせなくなっていく。
 そろそろ頭も冷えた頃だろうか……。
 静かになってせいせいしているはずが、いつもうるさいやつがいないと、物足りなく感じるから、吉見は不思議だった。
 そんな自分の思いに苦笑し、小さく溜息を付くと、Macに向かって真剣に仕事をしている村島に隠れるように、静かに吉見は席を立ち上がる。
 吉見のこそこそとしている姿を、手を止め見つめ”やっぱり、遠藤君が心配なのね”と云わんばかりに視線を送っている村島。
 その視線を逃れるように軽く咳払いをし、カーテンをまくると、吉見は窓を開けてベランダへ出た。



   *   *   *   *   *



 ベランダからはいつも、西新宿高層ビル群がそびえ建って見える。
 明け方にはまだほど遠いこの時間でも、いくつものビルを照らすに常夜灯や煌々と付けられた照明が瞬いている。夜空も見えないそんな様子が、眠らないこの街を象徴しているかのようだった。
 吉見は、ベランダの隅っこにある椅子の上でいじけていますと云わんばかりに、体育座りしている遠藤に声をかけず、ポケットから煙草を取り出した。そして火を点けると、紫煙をゆっくりと吐きだす。
 何事も無かったように、吉見はいつも一人で吸うときみたいに、何気なく風景を見上げ、溜息の様な煙草の吸い方だった。
 この会社で唯一の喫煙者の吉見は、いつもヤニが切れるとベランダへ出て、ビル群や空を眺めながら、煙草を吸っていた。

「いつまでそこでさぼってるんだ?」
 ベランダに立ちこめる安い国産煙草の香り。
 遠藤はまるで怒られた子供がいじけているように、すみ置かれた椅子替わりの缶に腰をかけている。
 反省していると云うよりは、ぼーっと夜中だと云うことを思わせないほどの、明るい新宿副都心を遠藤は眺めているかのようだった。
 何も応えないままに遠藤はうつろな視線を、ゆっくり吉見の方に向けている。
 遠藤の視線は、何か、もの云いたげなのか、それともまったく考えていないのかわからない、まるで人類では理解できない宇宙人の様だった。
 それでも少しだけ痛く突き刺さる遠藤の視線。吉見は気付かないように、ただそびえ建つビル群を眺めながら、恐る恐る訊ねてみる。
「お堅い経済学者が書いたムック本の編集していて……、どうしてあんな風に欲情できるんだ? お前は……」
「……」
 自分の言葉に何の反論がないのを確認して、小さく溜息を付いてから、吉見は言葉を続ける。
「ほんとに……。そんなにやりたいんだったら、休憩時間取っていいから、お風呂屋でも、ヘルスでも、下着屋でも、どこでも好きなところいって来いよ。すぐ近くに歌舞伎町があるんだから……」
 今度は同意を求めるように、一呼吸おいてから息を吐いた。
 確かに”編集”なんて仕事はきちきちのスケジュールの中で時間に追われ、人に追われて、目が回るほど忙しいものだから、仕事のやりがいがあるような錯覚を感じる。
 しかし実際は、ただ書籍のスケジュール管理をして、校正しているだけではすまされない。
 やりがいだの充実感を感じる暇もなく、やるべきことが山のようにある。最初に制作したゲラに、著者や発行元の出版社が赤ペンで、記載した訂正内容のデータ制作や、語調の統一を含めたもう一度校正。それを印刷する形に円滑にできるようにフォロー。
 今回の例だと忙しい著者の代わりに冒頭論文の下書きや、対談のテープを聴いて原稿興しや、書籍に必要な写真を実際に写しに行ったり……と、分刻みの戦いだった。
 まあ徹夜や終電帰りが一週間以上続けば遠藤じゃなくても切れるわな……。
 以前勤めていた出版社でも、その忙しさに耐えられずに”さあ、森へ帰ろう……”と訳のわからないことを云って消えて、その後出勤しなかった人物もいたっけ……。
 吉見は紫煙を溜息のように吐き出した。
 そんな時だった、遠藤の声が聞こえてきたのは……。
「俺……、店のおねーちゃんより……、吉見さんがいいっス……」
 今にも消えそうな声で、耳に聞こえてくる。
 店のおねーちゃんより俺の方がいい? 自分の耳に届いた遠藤の言葉を疑い、吉見は煙草をくわえたまま苦笑する。
「お前……、男の方が好きなのか……? それって、今はやりのホモってやつか?」
 吉見の質問に遠藤は微かに息を飲んだだけで、返事は返ってこなかった。
 遠藤が叫び声を上げたときに、村島に向かっていかなかったのは、いくら飛んでも無いことを口走っていたとしても、多少の理性が、その言葉がセクハラになるのをさけたのだと思っていた。
 しかし、男の方がいいのなら話は別だった。
 顔を引きつらせたまま、吉見は言葉を繋げる。
「だったらなおさら、ここで叫ぶよりも、歌舞伎町の方が……」
 その言葉の続きをしゃべろうとした吉見の横から、遠藤の叫び声ともとれる声が聞こえてくる。
「違います! 俺は吉見さんがいいんっス。俺は、俺は、吉見さんとセック○したいっス!!」
「はぁ?」
「今まで……、ずっと我慢できたのに」
 吉見さんがいい? 今までずっと我慢していた?
 頭の中で吉見は、遠藤が嗚咽のような叫びを反芻する。
 自分もおかしくなったのだろうか? 不安になるほど遠藤が云っている言葉が吉見には理解できなかった。
「お前……、自分で何云ってるか解ってる?」
「わかってます! ここ数日の徹夜で疲れている吉見さんが、あまりに色っぽいから、なんか……、誘われてる気がして……」
 誘われてる? 吉見はまったく見に覚えの無い発言に眉間を寄せる。しかし、遠藤は必死な表情で言葉を繋げる。
「俺……。そんな吉見さんを見ていたら、全然仕事にならないんス」
 立ち上がって、遠藤はまた何か物の怪にでも取り付かれた様な、必死な表情をして吉見の腕を力一杯掴む。と、云うよりも吉見に必死に縋り付いてくる……。
 また腕を捕まれ、ただ身の危険だけが感じられた吉見は、その驚きのあまり煙草を吸っていることを忘れて、また怒鳴ろうと口を大きく開く。
「お!!」
 不幸にも、煙草が支えるものがなくなり、落下していく。
 吉見の手の甲を目指して……、それも仕舞ったと気付くよりも先に……。
 触れた瞬間は、何も感じなかった。
 しかし、晩秋の身を引き締めそうな風がベランダに流れた時、手の甲に切れるような痛みが走る。
「ぎゃー、熱つ!」
 思わず涙が滲むほどの痛みに、吉見は悲鳴を上げた。
 遠藤は何が起こったのか確認するよりも、吉見の叫び声に驚き、掴んでいた手を慌てて離す。
 軽いやけどの痛みに手の甲に息を必死に吹きかけている吉見を見つめながら、溜息を付き、遠藤は下に落ちて床を焦がしている煙草を拾い上げた。
 吉見は遠藤のことなど構う余裕も無いほどに、ただだまって、手の甲をさすりながらそれを見つめていた。
 そんな吉見を横目で見ながら、遠藤は、吸い殻入れ代わりの空き缶に、火を消してから煙草を入れた。
 今日は厄日だ。
 吉見はまだひりひりしている手の甲を見つめながら感じていた。
 本来締め切り以外のことは考えられないほど忙しいはずなのに、何でこんな訳のわからないことに巻き込まれなければいけないんだ……。
 吉見は痛みと腹立たしさに渋い顔をしながら溜息を付いた。
 中途で遠藤が入社してまだ数ヶ月だった。
 遠藤は、以前吉見がいた出版社ともつきあいがあった、比較的大きな印刷所で働いていた。遠藤は以前吉見に、印刷所の仕事をしているうちに、編集にあこがれて、転職したといつもの明るさで笑いながら教えてくれたことがあった。
 遠藤は覚えていないかも知れないが、吉見は印刷所で働いていた姿を何度も見たことがあった。
 吉見も前の会社の仕事でその印刷所を尋ねたときに、直接話しはしなかったが、生きがいい元気いっぱいなにーちゃんが技術者にいたのを知っていた。
 あんなに幸せいっぱいに働いていた印刷所を辞めたせいなのか、それともここの加重労働のせいなのか解らないが、遠藤のこの奇行はいったいどこにあるのだろうと疑問を感じた。確かに今まで何度となく、編集という仕事にあこがれ、実際のしんどさから辞めていく人間を何人も見てきた。そのくらいに離職率が高い会社だった。
 今回の仕事もそうだったが、先月までやっていた小冊子風の雑誌の編集をしていた時は、今晩の様に徹夜や終電帰りの続いたときも多かった。
 その時もそうだったが、確かに仕事がテンパリングしてくると遠藤は、今晩ほどひどくはなかったが、いきなり雄叫びを上げたり、モニターに向かってひたすら謝ったり、と変な行動をしていた。
 編集なんて聞こえがいいだけで、安い給料で二四時間働かされ、ただ体力だけの仕事。その中で、遠藤は人間としてしばし変な行動はするし、驚くような脳天気な考え方をとったりするが、いつも元気で、パワーもあって、吉見はずっとうらやましかった。
 仕事の忙しさも、遠藤がいた印刷所と対して変わらないはずだったし……。
 今編集している本も、いつもの事だったが、著者から送られる原稿到着が締め切りよりもかなり遅くなった。そうなると印刷所へ持っていく日が決まっている作業工程として、編集部で著者の確認を行う時間が、パッツンパッツンになっていた。
 ひどいときだと著者が締め切りに間に合わず、発行日程や制作日程を変更したり、ずらす場合もしばしばあった。
 けれども普通、書籍を発行する著者の原稿が遅れないことのほうが不思議な話だった。そんな時程で行う仕事の中で、今回は締め切りを延ばさずに、すべての原稿がそろっているのは、奇跡に近いことだった。
 実際は出来ている原稿の半分くらいは、資料と著者の執筆した何冊もの書籍をまとめて、吉見が変わりに書いてはいるのだか……。

「この仕事が終わったら……」
 声を押し殺すように、遠藤は呟いた。
 その姿は、何かの苦痛に耐えているように感じられた吉見は鸚鵡返しのように、同じ言葉で聞き返す。
「この仕事が終わったら……?」
 息をゆっくり吐きながら、遠藤はうつむいていた顔を上げ、すっくと立ち上がると吉見を真っ直ぐに見つめる。
「この仕事が無事に終わったら……、吉見さん、俺とセッ○スしてください! じゃないと俺、これ以上仕事できません……」
「な、何を云ってるんだ……、え、遠藤……」
 熱を帯びた視線で見つめられ、後ずさりさりながら、まあ落ち着けという風に両掌を遠藤に向けた。
「ま、待て……、落ち着け……」
 吉見が必死になだめようと努力するが、切羽詰まった遠藤はとどまることなど知らないかのように、どんどん近づいてくる。
 半分以上荷物置場と化しているベランダ。
 遠藤は吉見をすぐに追いつめる。
「これ以上……、吉見さんへの思いが俺の中で煮詰まっちゃって、もう仕事になりません! 吉見さん、この仕事が終わったら俺と○ックスしてください!」
「ふ、ふざけるな!! なんで、俺が男と……なんて……」
「俺は、吉見さんとやりたいです……。愛情までは求めません。身体だけの関係でいいっス。だから……」
「や、やりたいって、云われても……」
「お願いします。一回、一回でいいっスからやらせてください!!」
「”お願い”って云われても……。普通そんなんでできるか?」
「いいです。じゃ、俺、もう帰ります、お疲れさまでした……」
 戸惑う吉見。その煮え切らない態度に、遠藤は覚悟を決めたらしく、いきなりきびすを返す。
 今抜けられたら、明日の入稿が……、とそんな言葉が行動と重なり、吉見は慌てて遠藤の腕を掴んで止める。
「帰るってそんな……。お前、仕事どうすんだ! この切羽詰まった時期に……」
「吉見さんがやらせてくれないんなら……、明日から休みます。俺、当分出てきませんから、俺の分の仕事、吉見さんやっておいてください!!」
「お、おい……、そんな勝手な!」
 いきなり遠藤に訳の判らないことを云われ、慌てながら吉見は混乱した。
 遠藤はここに就職して数ヶ月。何で突然こんなことを云い出すのか、吉見には理解できなかった。
 しかし、表情は脳味噌がここ数日の徹夜でどこか遠いところにいってしまったのでも、ふざけているのでも、まして吉見をからかっているのでも無いことは伺えた。
 ただ、だからどうしろ、と云われても吉見には解決策は見つからず、ただ遠藤に冷静さを取り戻してもらうしか、考えられなかった。
 必死にどうしたらいいのか解決策を考えている吉見の肩を、シャツ越しにも汗ばんでいるのがわかるくらいに熱くなった手で力一杯掴んで、遠藤ははっきりした口調をする。
「そのくらい俺、真剣なんス」
 冗談に笑い飛ばせるようなそんな雰囲気を持たない、真剣な表情の遠藤。何とかしようとするが、思考がはたらかない。
 せめて冗談でごまかそうと吉見は、思いっきり左頬が引きつったまま笑みを浮かべる。
「真剣って……、云っても……」
「お願いします、一回でいいです。一回だけやらせてくだい。この通りです」
 ますます思い詰めたように遠藤は、吉見に懇願する。
「この通り、と云われても……」
 言葉を必死に探すが浮かばず、ただ言葉を濁すしかできなかった吉見の気持ちを組んだのか、遠藤は縋っていた手をスッと離した。
「判りました……」
「そ、そうか、判ってくれたか!」
 今まで折れそうなくらいに肩を掴んでいた手が放れ、吉見は安堵の息を吐いた。けれど、遠藤の表情はますます覚悟を決めたものに変化した。
「吉見さんの気持ちは判りました。俺、帰ります、失礼します……」
 脅し文句にもとれる遠藤の言葉だったが、帰ると云ったところで電車も動いていない時間。
 吉見は遠藤の言葉を冗談で笑い飛ばし、引きつった顔の筋肉をこわばらせたまま微笑んだ。
「冗談だろ? 締め切りは……、それ以前に電車も通ってない時間だぞ……」
 遠藤からごくりと唾を飲み込んだ音が聞こえ、そしてその後、窓に両手をかけて、吉見に背を向けたまま応える。
「冗談じゃないですよ……。俺、吉見さんとできないなら……、もうこの会社にいる意味ないし……。帰ります、明日からもう会社来ませんから……、マジに……」
「おい、遠藤。そんなことしたらどうなるか判ってるのか?」
「判ってます。でも吉見さんのことが気になって仕事になりません。電車が無くたって、新宿まで出ればなんとでもなりますから……」
「遠藤……」
 ここで遠藤に帰られたら、明日の印刷所への入稿もできるか自信がなかった。元々ぎりぎりの人数でぎりぎりのスケジュールを組んでやっている仕事だった。
 似て非なりと云う場所からの転職組とはいえ、遠藤と少なくとも数ヶ月一緒に働いて、仕事はしやすいと思っていた。
 それ以上に、締め切り間近で右往左往し、三人でも足りない……と感じている時に、遠藤に抜けられたら……。
 そんなことが脳裏をかすめ、慌てている吉見に、窓の先のから痛く刺すような視線が感じられた。村島だった。
 きっとこの時間のロスで訂正をお願いしていたところが終了してしまったんだろう。
 早く戻って仕事しろ……、視線はそんな言葉を語っていた。
「吉見さん!」
「な、……なんだ」
 鬼気迫る遠藤の言葉への反応に困った吉見は、ただ相づちを打つしかできなかった。しかし、戸惑う吉見に気付いていないのか、遠藤は切羽詰まった表情のまま、熱い言葉を続ける。
「俺とセッ○スするか!」
「え?」
「それとも、俺を今ここで、このまま帰してくれるか!」
「はい?」
「どっちか、選んでください!」
 返事いかんでは遠藤自身の人生を左右して仕舞うんじゃないか、そんな風に思われるような究極の質問に吉見はただ戸惑い言葉を噤むしかなかった。
 確かに原稿の締め切りに追い込まれている。このまま遠藤に帰られれば、明日何時に印刷所どころか、版元に持っていけるか判らない。
 どうしたらいいのだろうか……。
「遠藤……、前はそんなに”俺”と、その……、そんなに……、したいのか……?」
 ゆっくりと、吉見を追いつめるようにうなずく遠藤。
 吉見は眉間に皺を寄せながら、とにかく何とか遠藤を引き留めないと……、そう思う焦りを感じていた。
 しかし、冷静に考えよう、考えようと思うと、遠藤は俺を抱くのか? それとも俺がお前を抱くのか……?
 前者の方は考えたくなかったが、後者はやりたくない……
 そんな馬鹿なことばかり浮かんでくる。あまりのばかげた考えや、生々しい具体的なことを必死に考えないようにしながら、吉見は確認するようにもう一度質問を復唱した。
「はい! 吉見さんと、セ○クスが、したいんです!」
 遠藤切羽詰まってそれ以上考え得られない、と云う表情のまま思いっきり頭を振りかぶる。
「吉見さんを知ってから、俺、ずっと、抱きたかったんです!!」
 軽い目眩を感じながら、抱きたいって……、云われても困るんだけどなぁ……、と心の中では途方に暮れた。しかし、自分でも切羽詰まってると云うように、あまりに追いつめられた遠藤の姿を見ていると、どうしたらいいのか判らなくなった。
 本気なんだろうか?
 どうとっていいのか判らない遠藤の言葉を聞いていると、吉見は地球が明日滅ぶと云うニュースを今見せられても、驚かない気分になってきた。
 要するに何が起こっても今更吉見にはどうでもよく感じられる。そんな投げやりな気分にいったんなると、これ以上拒む理由が見つからなくなってしまった。
 吉見はもうどうにでもなれと云う気分で、深々と溜息を付く。
「あー、わ、判った。ただし! 一回だけ、本当に一回だけだぞ! それでお前がいいならつき合ってやる!!」
 半ばやけ。もう現在の状況回避以外の言葉は吉見にはでてこなかった。
「本当っスか!? マジに一回やらせてくれるんスか?」
 嫌々ながら了承した吉見の言葉に、表情を思いきり明るいものに変え、いつも元気な遠藤に戻る。
 吉見の頭にはとにかく仕事をしないといけないと云う切羽詰まった気持ち。目の前の状況を回避するためなら、もうどうにでもなれ……、と云う投げやりな気分になっていた。
 そして、時間が経てば遠藤だって落ち着きを取り戻し、この約束も無かったことになるだろう。
 そんな楽天的なことを考えながら、まじめに喜んでいる遠藤に吉見は誓う。
「男に二言はない……。ただ、その変わりテキスト打ち早く上げてくれ……」
「判りました!あっ、そうだ!」
 この世の幸せをすべて手にした表情のまま、おもむろにそう叫び、思い出したように遠藤が振り向いた。
 忌々しげに、吉見が満面の笑みを浮かべている人物を見つめる。
「まだなんかあるのか?」
 遠藤は肩を掴み、怪訝な表情をしている吉見の唇に自分の唇を押しつけてきた。
「う……っ、ぐっ……」
 理解も文句も云えず一瞬なすがままに固まる吉見だったが、すぐに遠藤を引き離そうとした。
 しかし、何を喰って育ってきたのか判らないが、遠藤は自分よりも十cmも背がでかく、一回り近く大きい躯に抱きしめられ、どうもがいても身動きができなかった。
 その腕の中でただじたばたしているように見えるかもれなかったが、それでも吉見は必死になって口だけ引き離し、叫ぶ。
「ばかやろー、だ……」
 いつもの口調で大口を開いて罵倒しようとする吉見の唇を、遠藤がまた塞ぎ、開かれた唇から遠藤の舌を挿入される。
 ねっとりと暖かな舌。
 ゆっくりと、吉見の口腔を味わうように舐めていく遠藤は、逃げようと縮こまっていた吉見の舌を、無理矢理舌が絡めてくる。
「う……、ぅ……っ……」
 押さえられた手を動かし、陸に上げられた魚のようにばたつかせて逃れようと暴れてみるが、ただの悪あがき。
 それとは反対に遠藤の舌は縦横無尽に、吉見の口蓋を味わうように貪り、逃げようと必死に縮める舌に絡んでくる。
 吉見はどんどん息が苦しくなってくる。これ以上口付けをしていたら窒息して死ぬんじゃないか……、そんなよく判らない不安が頭によぎった頃に、唇はやっと解放された。
 息苦しさに失神しそうに
なった吉見の身体を、まるで獲物を手に入れた漁師のように満面の笑みの遠藤に支えられている。
 漁師遠藤は、吉見を根性と意地で手にし、微笑む。
「キスは契約書替わりに貰っておきました。この本の入稿が終わったら、絶対に○ックスしますからね!」
 さっきの意気消沈していた様子とは打って変わった元気な姿。遠藤はまるでスキップでもするように部屋の中に戻っていった。
 ベランダに一人取り残された吉見は、ここ数日まともに寝てない所為で悪夢を見たんだと必死に自分に云い聞かせようとした。
 けれど、さっきの濃厚な口づけで、窮屈さを訴えているズボンの中身。
 地球外生物、人間では理解できない思考を持つ遠藤。
 あんなので感じるなよ……、と自分の下腹部に苦笑しながら、”やっぱり抱かれるのかな……”と深々と溜息を付いた。

 目の前に広がる西新宿のビル群。
 その光を見つめながら、入稿まであと数時間……、今は仕事の事だけを考えようと、吉見はもう一服してからベランダを後にした。

「ま、仕事が落ち着けば、自分が云ったことがあまりに不毛だって遠藤も気付くさ……。多分……」



   *   *   *   *   *



 訳のわからない約束を宇宙人遠藤にさせられたものの、その後はそのことすら考える余裕もないほど、ただひたすら仕事に打ち込み、無事に印刷所へ予定通りにデータを持ち込めた。
 印刷所に持っていって仕舞えば後はそう大変な作業ではない。
 数日後に上がってくる校正紙をチェックし、それで大きな問題が無ければそのまま後は本になるのを待つだけだった。
 吉見がいる株式会社ドリーマーは、書籍の編集プロダクション、いわゆる本の装丁から、中身までデータを作るのが仕事だった。
 仕事の仕方は、今回の書籍もそうだったが、企画をドリーマー内で煮詰めてから、それにあった出版社に持っていく。
 この出版社を版元と呼ぶのだが、今回は経済関係の企画だったため、それに強い版元に持ち込み、現在に至った。
 もちろん企画が通る確率もそう多い方ではなかった。
 その中で今回は珍しくすんなり発行日まで決まった。
 だがしかし、発行日まで決まったとしても、すべてが順風満帆にいくわけでは無い。経済学で有名な大学教授に執筆を頼んだ企画だったが、多忙な著者は締め切りの概念があまり多い方ではない。もっとも今回執筆をお願いした大学教授だけではなく、最初に決められた通りに原稿が届くことはまれだった。
 出版という実際の仕事をしていないと判らない感覚なのかもしれないが、最初にできると約束していたスケジュールだけではなく、内容が変更を余儀なくされるが多かった。
 今回も当初すべての論文を書く予定だった執筆が、先週になって前書きの論文が間に合わないと連絡してきた。
 しかしその辺のトラブルは想像できていた吉見は、ぼやきながら南口の大きな書店に行き、筆者の著書を数冊用意し、そこから今回の内容に適した記述を抜粋して論文を作った。それを筆者に検証してもって、訂正事項の入ったゲラが戻ってきたのが昨日の夜遅くだった。
 それでも遠藤がいきなり訳のわからない行動に出て時間のロスが若干あったものの、すべてのデータを完成し、版元で最終確認をもらい、無事に二時間オーバーで印刷所に持ち込めたのだった。

 怒濤の日々を終え、吉見は疲労でぼろぼろになった身体を引きずり戻ってくると、会社は、何かメールをひたすら打っている遠藤だけになっていた。
 吉見は必死に夕べのことを思い出さないように遠藤から顔を背けながら、”お疲れ”と呟いて席に荷物を置くと、煙草を持ってベランダに向かった。
 少しひやりとする空気のベランダからは、靄に煙る西新宿のビル群が見える。
 吉見はそれを見つめながら、煙草に火をつけた。


 真夜中にいきなり遠藤とこのベランダで変な約束をさせられた後、吉見は火傷で痛む手と、あまりに予想しなかった展開に混乱した頭を冷やして部屋に戻った。
 部屋に入るとすぐに、吉見と遠藤が手を止めた所為で時間ができてしまったらしい村島の痛い視線が感じられた。
 しかし、諸悪の根元と云ってもいい、さっきまで雄叫びを上げてたりして意識散漫だった遠藤は、何事もなかったような顔をしていた。
 それどころか、今度は仕事に取り付かれたように訂正個所のデータ作成をしていた。
 普段と変わらない遠藤の姿に、ベランダであったことが嘘では無いかと感じられるほどだった。それでも火傷をした手の甲の痛みと遠藤の唇の感覚、そして股間に残る微熱が真実を物語っていた。
 思い出さないように、思い出さないように、と自分に呪文をかけながら小さく溜息を付き、席に着いて中途半端に投げ出してしまったゲラを見つめる。
 明日になれば遠藤も気分を変えるだろう……。
 吉見は現状を楽天的に考えることで自分自身を納得させ、机の上に積まれた、まだ最終校正の終えていないゲラに集中していった。


 身を引き締める晩秋の風に感じる疲労感と心地よい充実感。
 今日が金曜日でよかった……。
 紫煙を吐き出し、闇に包まれ始める新宿を見つめながら、つくづく吉見はそう思っていた。
 闇の中に立ちこめる紫煙が心地いい。
 今まで何十冊と書籍に関わっていたが、それでも金曜日に入校なんて都合のいい偶然に出逢うチャンスは少なかった。
 今回たまたま販売する出版社の関係もあり、金曜日に入校となった。
 こんな時に吉見は本当に編集は体力勝負だ……、と感じる。
 いつもだったら、スケジュールが押しに押して、徹夜作業の後、二一時だの、二二時だのに頭を下げて印刷所へ持ち込み、翌日は普通に出勤して、きっちり定時まで働き上げる。
 そんなスケジュールがざらだった。
 吉見は悲鳴を上げている身体と靄がかかっている頭を煙草でリフレッシュしようと、短くなった吸い殻を空き缶に押し込み、新しいのをくわえた。
「眠い……。帰って布団で手足を伸ばして、ゆっくり寝たいな」
 印刷所に行ったまま直帰すればよかった……、遠藤との約束をすっかり忘れ、身体が睡眠を求め始めたとき、窓が開き遠藤の声が聞こえてきた。

「吉見さん! もう帰れます?」
 遠藤も徹夜明けのはずだったが、疲労をいっさい感じさせないほどの明るい声がベランダに響き渡る。
 煙草をくわえながら、ボーっと空を仰いでいた吉見とは対照的な、どこか楽しそうに聞こえる声。
 その声に緩慢な動作で振り向くと、満面の笑みを浮かべて遠藤が窓に向かって手を振っている。
 さっきから津波の様に押し寄せてくる眠さに、銜え煙草のまま半分あくびをし、目をしかめる。
「俺……、帰って寝るわ……。眠い……」
「え?」
「お前はまだやってくのか?」
 あまりに元気に働いている遠藤に、吉見はそう尋ねた。
 年の差なのだろうか……、そう感じて仕舞うほどに元気な遠藤。
 吉見はただ眠たい……、以外の言葉が浮かばずに、この時にはもう遠藤との約束すら見事に消え失せてしまうくらいに、あまりの眠気でぼーっとしていた。
 本格的に睡魔に襲われそうになってきた吉見は、さっき火を点けたばかりの煙草を一気に吸うと、帰宅しようと緩慢な動作で部屋に入った。
 しかし、部屋は入った瞬間に、背筋に寒い物を感じそうなほどの、張りつめた空気が感じられた。
 それもそのはず、視界に入ってきたのは、先ほどの質問に答えないまま上目遣いに、物云いたげな視線のまま、口を尖らせる遠藤の姿が飛び込んできた。
 さっきの笑みとは打って変わった遠藤の豹変ぶり。遠藤は吉見に抗議するように口を開く。
「夕べ、約束しましたよね?」
「あん?」
 約束……。
 眠さで思考能力の停止したままの吉見は、遠藤と何の約束をしたかがわからずに、ただ渋い顔をして首を傾げた。
 わざとしらばくれているのかともとれる吉見の態度に、遠藤の表情はますます能面のごとくこわばってくる。
「まさか忘れた、なんて云わせないですからね……」
 いつもは楽しそうなリズムとテンポが感じられる話し方をする遠藤の声。それが怒りと苛立ちを含んだ地をはうような低いものに変わった。
 まるでホラー映画の効果音のごとく、背筋に恐怖すら感じた吉見は、思わず顔を引きつらせる。
「な、何のことだ?」
「知らばっくれようとしてもだめですからね。吉見さん……」
「だから何のことだ?」
 じっと厳しい瞳で見つめる遠藤の視線に耐えられず、吉見は思わず後ずさりをしてしまった。その瞬間、脳裏に夕べの記憶がフラッシュバックしてくる。
「あ……」
 遠藤のいきなりの雄叫び、ゾンビの様に襲いかかる姿、そして口付け……。
 どれをとっても吉見には思い出したくないことだらけだった。
 しかし、当事者はどうやら真剣らしく、約束を忘れてしまった吉見へ抗議の視線を送っている。
「あ、じゃないっスよ、吉見さん。夕べ誓いのキスまでしたでしょう?」
 吉見を見つめる遠藤の視線。それは、夜中にベランダで追いつめられた時と同じ、マジな瞳だった。
 あまりのストレートな感情にしり込みしながら、吉見は大きく溜息を付いた。
「お前さ、本気なの?」
「当然です! 俺はずっと、ずっと、初めて見た瞬間から、吉見さんが好きだったんです!」
 ”ずっと”を強調されようが、”初めて見た瞬間”ときっぱり云われようが、遠藤に抱かれるなんて想像できなかった。それこそ吉見の遺伝子が、生まれたときから同性との交わりを簡単に受け入れられないようになっているのだった。
 吉見はもう一度溜息を付いた。
 夕べと同じ会話を繰り返すつもりは無かったが、それでも遠藤が吉見を抱きたいと云う気持ちだけは理解できなかったからだった。
「好きってさ、男同士でお前、その考え方は不毛だと思わない? それとも本当に男が好きな人種とか……?」
「そ、そんな! いくら吉見さんでも云い過ぎです! 俺ばっかり悪いように云ってるけど、吉見さんにも責任が無い訳じゃないんですよ!」
「は?」
 責任? 遠藤がこんな勘違いなことを云い出した理由すら浮かばない吉見には、責任があると云われてもまったくピンとこなかった。
 確かに、すごい以前……、遠藤とお互いに自己紹介をする前、元気があふれ出している姿を見てうらやましいと感じたことがあった。
 けれどそれはまだ、同僚になる前、吉見が前の会社での最後の書籍の編集をしていた時で、遠藤が自分を知っているはずがない時期だった。
 遠藤は吉見が前の出版社でお願いしていた印刷所の技術者で、信じられないくらい楽しそうに仕事をしている姿を横目に、データの修正をした覚えがあった。
 その後吉見は会社を辞め、今のドリーマーに来てしまい、もう逢わないと思っていた。
 しかし、印刷をする輪転機が友達の様に仕事をしていた遠藤は、それから一年経って同僚になり、初めて挨拶を交わした。
 数カ月前に再会したときも、吉見は遠藤の姿が記憶の片隅にあり、”あっ”とは思いはしたが、普通に挨拶したつもりだった。
 何故責任があるのか吉見が必死に思い当たることを考えていると、うつむき下唇を苦しそうに噛んでいた遠藤が口を開く。
「俺だって……、俺だって、かわいい女の子が今まではずっと好みで、そんな子とつき合ってました……」
「なら……」
 口を挟もうとした吉見の言葉を遮るように、遠藤は言葉を繋げる。
「でも! 吉見さんに逢った瞬間から、今まで好みだった女の子見ても、全然ときめかなくなって……。それが理由で相手してもらえなくなるは、振られるし……」
「それは……」
 それは俺の所為なのか? 吉見はあまりに理不尽な遠藤の言葉に眉間の皺を深くした。
 しかし、吉見の渋い表情に気付かないほど煮詰まりきっている遠藤は、きっぱりと云い切る。
「全部、吉見さんの所為です!」
「そんな……」
「だから、今晩は約束通り責任とってもらいます!!」
 吉見は溜息を付いて天井を仰いだ。



   *   *   *   *   *



「で、なんで沖縄そば屋なんっスか?」
 いささか不満そうに遠藤は、紅生姜を山盛りに入れた大盛りのソーキソバをほおばった。
「え? じゃあ別のところがよかったのか? だったら百円の回転寿司とか……」
「じゃなくて……」
 首を傾げながら、吉見は箸に引っかけたソバを一気に口に入れた。
 遠藤は、旨そうに沖縄ソバを食べている吉見を見つめ、不満げな表情をしながら、その気持ちをぶつけるように、箸で麺をつゆの中でぐるぐるまわす。
「だから~、何で俺が、吉見さんと、沖縄そば喰ってなくちゃいけないんっスか?」
 麺をくわえたまま何をそんなにいらだっているのだ? と云う表情を吉見はする。
「別に他のメニューでもよかったんだぞ? そんなに不満なら、オリオンビールとか、ラフティでも付けりゃいいだろう?」
「いや、そういう意味じゃ……。もういいっス……」
 遠藤は疲れ切ったように、頭をたれながらいささかやけになった様子で、またソバに食らいついた。
 あまりに自分の感情に素直な姿がおかしかった。しかし、そんなことを云おうものなら何を、何を口走られるか判らなかった。
 確かに、遠藤が食べ物に八つ当たりしたくなるほど、納得できない気持ちは、吉見にも理解できた。
 入稿も無事終わり、ほっとしたのもつかの間、夕べ強引にさせられた約束を遠藤は持ち出した。
 しかしその約束に納得できず必死に反論した。しかし、一歩も引かない遠藤。
 最終的には不本意ながら、一度した約束の責任だけをとるべく、遠藤と共に会社を後にすることになった。
 南口、東口、新宿三丁目と移動し、遠藤がガイドマップに載っていた、と云う男同士でも入れるブティックホテルに疲れている身体と重い手足を引きずり向かったところまではよかった。吉見の気分的には、全然よくないのだが……。
 だがしかし、遠藤が云っていた場所はどう見ても飲み屋のテナントばかり入っている建物。どこまで歩いてもそれらしき建物は、一向に見えてこなかった。
 吉見も昔仕事でこの界隈に来たとき、確かブティックホテルがあったのは、何となくだったが覚えていた。けれど、快復の兆しをまったく見せない景気に、吹いて飛びそうなテナントやビル等々。その変わり身の早さが、不景気を乗り切る秘訣とばかりに、変化させるのがこの界隈に特徴だった。
 いくら歩いても見つからないホテル……。
 途方に暮れている遠藤を不審そうに見つめる、ヤンキーなお兄さんと女性。
 不幸にも元ブティックホテル街は、レディスクラブ……、いわゆるホストクラブ街に姿を変え、営業をしているようだった。
 通り過ぎるおねーちゃんと、ヤンキーなおにーちゃんの視線に痛いさを感じ、それ耐えきれず、吉見は立ちつくしている遠藤の腕を引っ張ると、アルタの近くまで連れてきた。
 そして、腹減ったと叫び、てっとり早く、アルタ裏のスタンド形式の沖縄ソバ店に食券を買って入った。
 店の常連とまでは行かないが、埼玉から通っている吉見は、仕事が終わっても、家に帰り着くと日付が変わっていないことの方がなく、ついついこの辺で済ませてしまっていた。
 吉見はいつものお気に入りの、ゴーヤチャンプルと沖縄ソバのセットになったゴーヤ定食を頼んだ。いつもは人間業とは思えないほど物を食う遠藤は、さっきのことでまだ落胆しているのか、珍しくソーキソバの大盛りだけで留めていた。
 今、横で意地、もしくはやけになってる風にソバと格闘している遠藤の姿にいささか呆れつつ追い打ちをかけるように吉見は呟いた。
「お前が悪いんだろう? せっかく俺がつき合ってやったのに……」
「一番新宿駅に近いとこだったのにな……」
「行き先くらい、前もってチェックしておけよ」
「はいはい……、俺が悪いんスよ。でもこの本に書いてあったんっスけどね……」
「何だそりゃ?」
 吉見の言葉に一瞬動きを止め、溜息を付くと、遠藤は鞄から書店のカバーが掛かった、ペーパーブック並の分厚い本を取り出した。A5サイズの本に吉見は眉間に皺を寄せ、箸を置くと奪った。
「あっ……」
 取り上げた本の扉を見ると、太字の達筆な書道の様なD○勘亭流フォントで書かれた書籍のタイトル”男同士の(秘)交流本!!”と有る。文字の脇には大きくマッチョな男同士が、ハートを散らしながらキスをしている挿絵まで添えられていた。
「……」
 その本を見て、吉見は思わず絶句した。
 本を持ったまま固まって動かない吉見から、気恥ずかしそうに本を取り上げると、遠藤はぱらぱらっとページをめくって溜息を付く。
「あーあ、この本には穴場スポットって書いてあったんっスよ……」
「そんな本、どこで手に入れたんだ?」
 中を他人に見られればただ恥ずかしいだけでは済まない本を、遠藤は忌々しそうに箸をくわえたまま、ぺらぺらとめくっていく。
「普通の本屋ですよ、本や! MY CITYの六階の……。発行は二年前か……、でも再版が三回もかかってる……。売れてるんだ、どのくらい刷ったんだろう?」
「……」
 吉見が黙りこくっているのも無視し、遠藤は一人本を見て呟きながらうなずく。
「発行元は講英館……。知らないな……、吉見さん知ってます?」
「え?」
 いきなり話しを振られ、疑問系で言葉を返した吉見に、遠藤は苦笑する。
「え? じゃないっスよ。講英館って版元、吉見さん知ってます?」
 いつまでも本の話題から離れない遠藤に、吉見は表情を引きつらせる。
「さ、さあ……。まあそう云う遊び感覚のムック本は、そんなに大きな版元じゃやらないだろう?」
 吉見の答えに納得できないとばかりに口を尖らせながらうなずく遠藤。それでもその本のことが気になるのか、また最初にページを戻し、目次を開く。
「これの編集者って、絶対にホモっスかね」
「はぁ?」
 突飛な遠藤の発想に吉見は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。しかし、遠藤は最初から今度は丁寧に頁をめくっていく。
「だって、すごく丁寧な紹介の仕方っスよ? これって中途半端な取材で作った記事じゃないっスよ絶対に!!」
「そんなに力入れなくでも……」
「でも~」
 力一杯語る遠藤に渋い顔をしながらも吉見は、別にしなくても云い著書のフォローをする。
「まあ、商業ラインに載せる本なんだから、そんなに中途半端な記事は作れないだろう?」
「そうっスかね~。絶対この本の編集って、ホモですって感じなんだけどな~」
 あまりの思いこみの激しさを感じさせる云い方をされ、吉見はその姿に呆れながら、そこまで云われる筋合いはないとばかりに否定する。
「そ、そんなこと無いだろう?」
「えー、そうっスかね?」
「だってそうだろう? 俺達だって別に経済学者でもないのに、経済本の論文、代筆に近いことまでしてるだろう?」
「まあ、それは、そうっスけど……」
 まだ納得がいかない言葉を発しながら、遠藤はソバがどんどんのびるのを気にせずに、頁をぺらぺらめくっていく。
 気にしないように……、と思いながらも、パラパラとめくられる本からは、同性の恋人の探し方や、男同士の夜の過ごし方や大人の玩具などが見えてくる。あまりに生々しい記事に吉見の表情がどんどん渋い顔に変わっていく。それでも一向に本を遠藤は眺め続けている。
「吉見さんがいうように、編集者がホモじゃなかったら、この取材って大変だったんだろうな……」
「なんで?」
「だって、ホモっスよ? ホモ!」
 そんなでかい声でホモ、ホモと恥ずかしい言葉を連呼する遠藤に、吉見は苦笑した。そして、じゃあ、お前がこれからしようとしていることは、ホモじゃないのか? と真剣にと尋ねたくなった。
 明らかにホモを毛嫌いしている様子なのに、それでも迫ってくる遠藤。もし遠藤に疑問に思ったことを訊ねても、また吉見では理解できない、宇宙語ような理論をとくとくと語られるに違いなかったし、それは避けたかった。
 吉見は渋い顔をしたまま、これ以上会話をしていたらおかしくなりそうな気がし、残りわずかになった定食を食べることに集中した。
 完食し終え、水を一気に飲んで吉見は遠藤に尋ねる。
「で? どうするの? 帰るか? それとも眠気も引けたから飲みに行くか?」
「次候補を探します!!」
 まだソバを口に含んだまま遠藤は、周りを気にせずにはっきりと云い切った。
「次候補って……、お前……」
「この本に載ってるホテルはあそこだけじゃ無いっス。せっかく吉見さんがその気になってくれたのに……。今日はとことんつき合って貰います!!」
 誰もその気になったなんて一言も云ってない。
 吉見は思わず反論しそうになるのを、心の中で叫ぶことで止めた。
 きっとその辺のお嬢さん方だったら、まず一回目で失敗した時点で確実に振られるぞ……。
 頭の中で吉見はそう毒吐きながら、大きく溜息を付いた。
 目的を一向に変更する予定のない遠藤と、貞操の危機にさらされている吉見。
 なんでこんなに遠藤が、自分に固執するのか理解できなかった。
 それ以前に本を読み、ホモを嫌悪する言動をとっている。それでもセッ○スしたいと云う遠藤の感覚が、吉見にはどうしても信じがたかった。
 遠藤が食べ終わるまで、吉見は無言のまま、ポケットから吉見は煙草を取り出すと、火を点け一気に吸い終わった。
 そして遠藤が食べ終わったのを確認すると、小さく溜息を付きながら立ち上がる。
「そんなに云うならしょうがない連れてってやるから、大人しく付いてこい」
「え?」
 遠藤は立ち上がった吉見を、何事か理解できないまま見上げた。
「ごちそうさん」
 面白いくらい不思議そうな表情を浮かべた遠藤を、その場に置き去りにして、吉見は歩き始めた。遠藤は、店の外に出ていく吉見を、慌てて追いかけた。



   *   *   *   *   *



 電車で一駅行ったところに、”新大久保”と云う駅がある。
 煌びやかな新宿駅の隣と云うのが嘘のような、普通に店が広がる街。しかし実際は、新宿駅よりも華やかでピンク色の強い歌舞伎町に近く、駅からもはっきり判るブティックホテル街が広がる。
 沖縄ソバ屋を出て、山手線に乗り、新大久保の駅につくと電車を降りた。そこから韓国料理店がまばらにある道を通過するし、ちょっと奥まったところの建物まで無言で歩いた。自分の姿を見失わないように、必死になってついてくる遠藤。後ろからついてくる姿をなんとなく気にしながらも、それでも気づかわない振りをして歩き続けた。
 そして普通のカップルだったら女性の方が嫌がって絶対はいらないような質素な、一見はビジネスホテルに近い造りのホテルにたどり着いて、吉見は足を止めた。
「あ、あの……、ここって?」
 人通りが少なく、見た目どう見ても普通のホテルの外観に、遠藤は不安そうな表情をしながら、周りをきょろきょろ見渡している。
 そんな遠藤を意識しないように、ポーカーフェイスを作りながら、吉見はホテルを指さす。
「で、どうする?」
「え?」
 まだここがどこだか解らずに、混乱したまま遠藤はキョトンとした表情をしたままだった。吉見自身もここが男同士でも使えるホテルだ、などとはっきり云うのには気恥ずかしさが伴われた。
 ホテル近くで足を止め立ち止まっていると、横を男が二人通り過ぎていく。男達は付かず離れず約一メートルの距離をとって、うつむきがちに歩いていた。しかし、ホテルの前につくやいなや、こっちの寒イボが立ちそうなほど、幸せそうな微笑みを浮かべ、腕を組みホテルの中へ消えていった。
 男達の様子に初めてここが解ったらしく、引きつった顔をした遠藤がホテルを指さす。
「吉見さん……、ここって……」
 ここがそういう場所だと初めて気付き、遠藤は混乱しているのか声を震わせている。吉見はうなずくと、遠藤を見て余裕を見せるように微笑む。
「で、帰るか?」
「えっ……、あの……」
 あれだけ張り切っていた遠藤だったが、実際ホテルを目の前にするとしり込みをしている様子だった。
 吉見はポケットから煙草を取り出すと、火を点け紫煙を吐き出し、遠藤の肩をポンッと叩いた。
「悪いことは云わない、ここで引き返した方がお互いのためだって……。な?」
 また煙草をくわえ駅へ引き返そうとする吉見の腕を慌てて押さえると、遠藤はまるで青年の主張でもするかのように叫ぶ。
「待って下さい!!」
 あまりの声に驚き、吉見は足を止めた。
 まさか……、遠藤は本気でホテルに入る気じゃないだろうな? 自分をこの場につなごうとする遠藤の手に、吉見は不吉な予感を感じた。
 ホテルまでくれば遠藤もあきらめるのではないか……、口では○ックスしたい、セ○クスしたいと叫んでいても、現実が見えてくれば自分がいかに変なことを云っていたか気が付いてくれるだろうと、そう思っていた。
 だがしかし、自分を掴んでいる腕と、背中越しにちらりと見える何か吹っ切れた様な遠藤の清々しい瞳。それは別の意味を語っている。
 吉見は遠藤の腕を思いっきり振り払って、俺が悪かった、勘弁してくれ……、と土下座でもしたい気分になっていた。
 煙草をくわえたまま知らん顔を決めようとしていた吉見の腕をぐっと自分に引き寄せ微笑む。
「解りました、じゃあ入りましょう!!」
 何か踏ん切れたようなすがすがしい表情に、その気持ちが伝わってくるような声で遠藤に、吉見は必死に”STOP”をかけた。
「本気か?」
 吉見にとっては最終確認のような質問だった。
 けれど、鳥でもぴよぴよ楽しそうに舞ってそうな遠藤の頭は、吉見の常識や理性の言葉すら通じない。それどころか、楽しそうにスキップまで始めている。
「やだな……、本気っスよ、本気! 今日は吉見さんと一緒になる記念日っスからね!」
「記念日って……、お前、そんなどっかの乙女みたいなこと云うなよ……」
 頭を抱えて梃子でも動こうとしない吉見に、遠藤は微笑み、更にどさくさに紛れてかすめるように唇を奪う。
「ひどいな、吉見さん。さ、照れてないで行きますからね」
「だけどな……」
 決断をした遠藤とは反対に、ここに来て吉見は往生際の悪さを見せ、手を引かれながらも、その場を動こうとしない。
「吉見さんが案内してくれたんですからね。もう四の五の云わせないっス」
 バックグランドミュージックに、ドナドナのもの悲しい響き。
 晴れた昼下がりでは無かったが、それでも売られていく牛の気分を、吉見は初めてこのとき知った。
 そして、子牛の吉見は、遠藤に引っ張られるようにホテルの中に引き込まれていくのだった。
 なんだかな……。



   *   *   *   *   *



 何故?
 吉見はホテルに入ってすぐに、自分の幸運の少なさを初めて知った。
 遠藤に腕を捕まれ連行されるようにホテルに入ると、すぐ目に飛び込んできたのは部屋の利用状況を知らせるパネルだった。
 今日は花の金曜日。
 いくら男同士でもO.K.よ! と云う特殊なホテルであったとしても、あわよくば満室! これじゃあ入れないな、あきらめて帰ろう、ハハハ、残念だな~。そんな淡い期待が吉見の胸の中では秘められていた。
 だがしかし、絶対に今日は天誅殺だと自分でも云い切れるほど運命は、皮肉にも吉見の意図する方向には進まないものだった。
 入った瞬間のホテルのパネルは、入室済みの真っ暗闇な表示の中に、一際煌びやかな光が輝いている。
 遠藤はうれしそうに”これは運命っスね”と楽しそうに笑うと、まるでマイムマイムか、オクラホマミキサーでも踊ってるような軽快な足取りで、受付に向かい部屋代を払う。
 こちとら江戸っ子でい、こうなったら逃げも隠れもしねーや、とてやんでい調でやけになっている、生まれも育ちも彩の国埼玉の吉見の耳に届く、受付でのやりとりの言葉。
「ご休憩ですか? ご宿泊ですか?」
「あ、宿泊でお願いします」
「はい、前料金で七〇〇〇円に、税・サービス料を含めまして八〇五〇円です」
 金を払いうれしそうに、カギを受け取る遠藤。
 ホテルに入った時点で、自分の貞操はあきらめたものの、それでも往生際が悪いと云われようとも、宿泊までは聞いていないぞ、と眉間に皺を寄せた。しかし、それも所詮空回りの感情に、吉見はただ溜息を付くしかなかった。
 人生絶好調と全身で表すような表情でうれしそうに吉見にキーを振ってエレベータの前で吉見を待つ遠藤。吉見は深々と溜息を付いて、エレベータ前に行く。
 そのタイミングでちょうどエレベータが来、遠藤の軽い足取りとは反対に吉見は重い体を引きずり乗り込んだ。
 遠藤が六階建ての最上階のボタンについで、クローズボタンを押すと、吉見は小さく溜息を付き、口を開く。
「遠藤……、楽しそうだな……」
 自分ではっきり判る緊張感に、極力遠藤と目線を合わさないようしながら、吉見を上に上がっていく表示を見つめる。
「当たり前じゃないっスか。吉見さんと初めての朝を迎えられるんっスよ!」
 云いきると、遠藤は緊張からか冷たくなった手で吉見の手を握った。
 吉見の脳味噌では現実を逃避しようと、何度も会社で泊まって、一緒に朝を迎えただろう、今朝だって……、などと思い浮かべながらも、当然それは口にはしなかった。
「まじに……、泊まるの? つーか、まじにやるの?」
 この期に及んで自分でも呆れるほど、あきらめが悪いな……、と感じながらも吉見はもう一度訊ねると、遠藤は握る手を強める。
「まじっス! 俺……」
 続いて何か云おうとした遠藤の言葉が、エレベータの到着音でかき消される。
「つきましたよ、吉見さん。さ、こっちっスよ」
 エレベータホールに書かれた部屋への案内を見つめ、遠藤は吉見の肩を抱き、右角を曲がった六〇五までエスコートする。
 扉を開けて、部屋靴を脱ぎスリッパに履き替えると、部屋の中は男女が使うブティックホテルとまったく変わらない部屋だった。
 品のいい白と黒で統一された部屋。ラブチェアーにテーブル。テレビの乗っているキャッビネットには備え付けの冷蔵、電子レンジ、ホットドリンク用の飲み物、食器。カラオケに備え付けられたプレートでは湯が沸かせるようになっている。その中でも一際目を引くのは、電飾で目立たせている大人のおもちゃの販売機は、やはりこの手のホテルならではであった。
 そして、当然ながら部屋の中心にあるダブルベッドも、普通の男女で使うブティックホテルと変わらないように見えた。
 どうやら遠藤も男同士で使うホテルの印象は、吉見と同じらしく反対に驚いている様子に見えた。
「男同士っていうから、もっと無骨な作りかと思ってたっス。普通っぽいっスね……」
 まるでお上りさん気分で、遠藤は部屋を入り口から眺め回していた。
 まして男同士で使えると来たら、想像は枠を越えて頭に浮かばなくなってしまうのだろう。
 しかし、モノクロで統一された目の前に広がる部屋は、どこかのシティホテルを思わせる雰囲気に驚いている様子だった。
「まあ、ここは男同士が専用じゃないしな……」
「そうなんスか?」
「そうだろう? まあ男性同士でも使えるって、一部で話題になったホテルだしな……」
「へぇ~、ぼ詳しいっスね」
「ここの周りは全部ブティックホテルだしな……。これだけ乱立しているんだ、ある程度のクオリティを保たないと、競合他店とは競争できないだろう?」
「吉見さん、詳しすぎっス。まるで……」
「まるで?」
「いや、すごいっスね~」
 言葉をごまかした後、遠藤は部屋を眺め回しながら、”へぇ~”とか、云いながら、うなずく姿に思わず吉見は苦笑してしまった。
 入社してまだ一年未満とはいえ、遠藤も経済関係の書籍編集をしているのだから、そのくらいのことは気が付いて欲しい、と思いながら。
「何云ってるんだ。遠藤だって経済の本の編集してるんだから、そのくらい解るだろう?」
「え? あ、そうか……。そっちの方か……」
「そっちの方か……、じゃなだろ? それ以外に何があるんだよ?」
「いや……、それは……まあ……ね。あの~、吉見さんは……」
「俺がなんだ?」
「いや……、何でもないっス。いや、何でも詳しいなって感動してたんっス! さっすが俺の大好きな吉見さんだって!」
 口ごもりながら必死にごまかす遠藤に、吉見は割り切れないものを感じた。
 けれど、これ以上宇宙人を追求するよりも、男二人で部屋の入り口で立ち話もなんだと思えた。もちろん、部屋の中に入って何をすると云うのは、別の話として……。
 吉見は小さく息を吐くと、遠藤の肩をポンと叩く。
「それより入り口で突っ立ってるもの何だから、中に入らないのか? それともここでUターンするか?」
 促され初めて気付いた様に、遠藤はハッとすると、慌てて後ろに立っている吉見に叫ぶ。
「あ、それはだめっス! そうっスね、つーかすごすぎて、何か混乱しそうっスね」
 それでも遠藤はまるで化け物屋敷を探検でもするように、キョロキョロし周りを見回しながら部屋の中に入ろうとした瞬間、足を止める。
「あ、そうだ!」
 急に立ち止まった遠藤の背にしたたかに顔をぶつけた吉見。
「どうしたんだ! 急に立ち止まって!」
 遠藤は振り向くと、にっこり笑って吉見をお姫様だっこしようとする。何をされるのか解らず慌てて吉見は暴れる。
「あぶない、ちょっとだけ暴れないでください!」
「やめろー、こっぱずかしい!」
「こういうのは儀式なんス! ちょっと心棒してください!」
「儀式なんてせんでいい! とにかく中に入れ!」
 吉見の怒りに、遠藤はしゅんとなり、”ちぇ……”と呟きながら渋々中へ入っていった。
 何を考えているんだ、深い溜息を付きながら吉見も遠藤から遅れて少したってから部屋へ進んだ。
 吉見が部屋に入ると、遠藤は入り口近くのカウンターにもたれて、最初は居心地悪そうに立っていた。しかし、電熱器にかけられた小さな作りのやかんに気付くと、洗面台で水を入れ、お茶でも入れる気なのか湯を沸かし始めた。
 部屋で落ち着かないのは、遠藤も吉見と一緒なのかもしれなかった。
 頬を赤くして湯が沸くまで周りを見渡している遠藤の姿は、決してこういう場所に慣れている様子ではなかった。
 むしろ初々しさを感じて、吉見はセッ○ス、セック○と云い張りながらも現実にはすぐに手を出せない遠藤がかわいいとすら感じられた。
 吉見が思うのも変かもしれないが、もし自分が遠藤と同世代の女性だったら、選んだ言葉は別としても、あれだけ熱狂的に口説かれれば、きっと好きになっていたかもしれなかった。
 背が高く、見た目、私はテニスよりバスケットをやっています、そんな風な、百九十近い身長としっかりとした体躯をしている。仕事中の独り言はいささかうるさいが、それでも雰囲気は、コカコー○のCMにでも出てきそうな、スカッとさわやかな好青年だと思う。風邪なんか引いたことありません、と云わんばかりの明るさは、南国のカラッとした陽射しのようだ。見た目は元気はつらつなのに、時々見せるシャイな態度と、好きな人ができたらいちづに相手だけと考えそうな、堅実な雰囲気から伝わる。
 同世代で合コンでもしようなら、人気ナンバーワン間違えなかった。
 なのに何故自分なのだろう?
 ここまで来てこれ以上抵抗する気はないが、それでもあんなに大騒ぎする遠藤がつくづく吉見には地球外生物に感じられた。

「吉見さん! 吉見さん? はい、コーヒーっス。これで目を覚まして下さい」
「あ? ああ……、すまない」
 いきなり元気な声が耳に届き、吉見は慌てて我に返った。その声に、遠藤には中に入らないのかと促しておきながら、入り口に立ちつくしたままだと気付き、慌てて中に進もうとする。
「はい、吉見さん!」
 遠藤の手が目の前にコーヒーカップを渡される。
「あ、すまん……」
 吉見は煎れてくれたコーヒーを取り、カウンターにソーサーを置くと一口口に含む。
 寝不足でボーっとした頭には、コーヒーの苦みが有りがたい。
 部屋に立ちこめるコーヒーの香りは、インスタントではなくドリップならではの心地よいものだった。
 コーヒーのカップを手に、遠藤はコーヒーカップを片手に立ったまま、周りをもう一度じっくり見渡す。
 入り口近くにあるカウンターに寄りかかり二人分の砂糖とミルクを入れたコーヒーを飲む、遠藤。そこからは、洗面台、その先は風呂に続く磨りガラスのドアが見える。
「何か部屋にいると、さすがにどきどきしてきたっスね~」
「そ、そうか?」
 それでもさっきよりも少し落ち着いたのか笑みが現れ、まるで子供のように部屋の中を探検している表情をしている。
 そんな遠藤を横目に、吉見はコーヒーを持ってラブチェアーにどかっと腰掛けると、カップをテーブルに置き、ジャケットを脱いでネクタイを緩め、それから煙草をくわえた。
 目の前をうろちょろしている遠藤に抱かれるのか、と改めて感じさせる部屋。
 その部屋で吸う煙草の味は、緊張からか、部屋が乾燥している所為なのかは判らないが、ぱさぱさしていて、まったく美味く感じなかった。
 不味い煙草の紫煙を、吉見はまるで溜息の様に吐き出したころ、遠藤が近づいてくる。
「吉見さんは、落ち着いてますよね。もしかして、こういうところ慣れてるとか?」
 遠藤には吉見がラブチェアーにどかっと座ってくつろいでいるように見えるらしく、感心しているようだった。
 吉見はせめて余裕あるように見せようと、わざと遠藤に同じ事を訊ねる。
「お前はどうなんだ?」
「え?」
 あれだけ大騒ぎしたのが嘘の様に、物静かになっている遠藤は、緊張からか一瞬声を飲み込んだ。しかしすぐに乾いた笑いをしながら、元気な態度をとろうと、肩を回したり、腕を伸ばしたりして、意味がなさそうなストレッチをする。
「俺っスか? まあ、それなりに……。いや、元気っスよ、元気、元気」
「元気ね~」
 別に意味が有る視線を送ったつもりはなかったが、なめるように見つめる吉見の視線に遠藤は慌てて下半身を押さえる。
 緊張しながらもどうやら本気で下半身は元気らしく、それが何を示すかはっきり判る遠藤の行動に、吉見は頬を赤らめてしまった。
 男相手に屹つだけでもすごいと感心しながらも、遠藤が本気だと吉見に実感させられた。
「恥ずかしいから見ないで下さい。たく吉見さんって、エッチっスよね……。てゆっか、慣れてるのかな……」
「まあな、三十路の男が経験、無かったら変だろう?」
「え? そういうものっスか?」
「そうじゃないのか? それより、遠藤はこういう所は、初めてか?」
 遠藤は予想していなかったらしい吉見の質問に、言葉を一瞬飲み込むが、ハハハと照れ笑いをしながら、頬を染める。
「え? いや……、まあ。俺は男同士って初めてっスけど、他はそれなりには……」
「それなりにね~」
 ちゃかすように云ったつもりだったが、遠藤はうれしそうに笑う。
「あ、もしかして、吉見さん、俺の過去の相手とかに妬いてくれてます?」
 話の流れ的に出た話題かもしれないが、あまりに考えていなかった遠藤の反応に吉見は首を思わず傾げる。
「何で俺が妬かなくちゃいけないのか?」
「えー、だって、俺に恋人がいたって、やっぱり気分悪くないですか?」
「はぁ? 何で? それより、遠藤って今恋人いないの?」
「え? やっぱ気になります?」
「いや、別に」
「まぁいいっスけど……。俺はここずっと吉見さん一筋っス」
 ”吉見さん一筋”、って云われてもどう応えて良いのか判らない。
 こういう感覚が宇宙人なんだよな……、と頭の中でげっそりしながら吉見は、遠藤の質問を冗談の様な反応で流すことに決めた。
「まじ?」
「まじっス!!」
 ”まじ”を思い切り強調した云い方に、反対に胡散臭さを感じた吉見は、思わず疑いのまなざしで遠藤を見つめた。
 遠藤にもそれが伝わったのか、すねた口調で口を尖らす。
「信じてないでしょう? 俺の気持ち。もういっスよ! 俺、風呂沸かしてきます!」
「お、よろしく」
 いささかやけになった云い方で、遠藤はぶつぶつ云いながら風呂へ消えていった。
 遠藤の云う好きだの、セ○クスしたいだのは何度聞いても吉見には理解できなかった。
 疲労で重たい身体を引きずり吉見は、あくびをしながら、ベッドに寝ころんで、天井を見つめた。
 何の飾り気も無いシンプルな白の天井を見ていると眠気が襲ってくる。



   *   *   *   *   *



「吉見さん寝ちゃだめっスよ! 先、シャワー浴びて下さい!!」
 不思議と優しく聞こえる遠藤の声に、吉見はゆっくりと目を開けた。
 シャワー、そんなもの会社に無いけど……。
 ここは会社? 原稿は……、どうなったんだっけ?
「いい……、このまま寝る……。一時間経ったら起こして……」
 吉見はあくびをし、微かに開いた瞳をもう一度閉じ、下に引いていた掛け布団を抱くと、また寝る体制に入った。
 遠藤と一緒にいるってことは会社か……、そうか、まだ校正まだ終わってなかったっけ……。
 眠くて頭が回転しないときは仕事をしない。そんな能率の悪い中でするよりも、休んでから集中してすればその時間は取り戻せる、そんなことをオリンピックのコーチが云っていたっけ。
 だから、まず仮眠をとって、頭をしっかりさせたら、集中して仕事始めないと……。
 はっきりしない頭と疲れからか視点の合わない目でそんなことを吉見が考えていると、また遠藤の声が聞こえ、身体を揺すられる。
「吉見さん? 寝ちゃだめですよ……。そのまま寝たら襲いますよ!」
 襲う? 何云ってるんだ遠藤は? 眠いんだから、後で話しを聞いてやる。
 吉見は寝返りをうつと、まぶしい部屋の灯りを避けるように掛け布団を顔にかける。
「寝ぼけてるんですね、吉見さん! わかったっス、じゃあ遠慮無く、襲わせていただきます」
 遠藤の言葉と同時に身体にかかる重み、強引に布団をはがされ、唇を暖かいもので塞がれる。
 唇に伝わるのは舌で舐められている感覚。
 次に着ていたシャツのボタンが解かれ、今まで自分を締め付けていたズボンが急に楽になっていく。
 さわさわと直接肌に伝わる体温と、両乳首に直接伝わる甘やかなしびれ。
「うーん、くすぐったい……。やめろ……」
「やめませんよー。あ、吉見さんのおち○ちん、かわいー」
「……」
「初めまして、遠藤っス。ほら、なーい無い」
 胸のくすぐったさが消えたと思った瞬間、今度は自分自身の先を撫でられたり、奥に押し込まれたりされ、吉見は慌てて目を開いた。
「ぎゃー。ま、待て、待て。何やってるんだー」
「何って、吉見さんを襲ってるんス。そう云ったでしょ? こんにちは!」
 遠藤はうれしそうにベッドに乗って覆い被さると、まだ形も不定型な吉見自身をプルプルと振って、挨拶をし、それから楽しそうに、つぶして袋の中に押し込んだり、先っぽをいいこ、いいこしたりして遊んでいる。
 体格の良い遠藤に押さえられ、逃げようにも逃げられない吉見は必死にそれを回避しようと叫ぶ。
「襲ってるんス、じゃない!」
「でも……」
「まあ待て、俺はここずっとまともに風呂入ってないんだ。解った、お前の気持ちは解ったから、悪い先に風呂に入ってくる!」
 その叫び声に羽交い締めにしていた腕がほどけた瞬間、吉見は一気にベッドから飛び出る。
「あ、一緒に入ります? せっかくホテルに入ったんだし、洗いっこしましょうか? 吉見さん疲れているみたいだし……。俺、吉見さんを隅々まで洗って上げますよ」
「い、いい……。やめてくれ……」
 吉見はげんなりしながら、首を振って重い足取りでタオルを持って風呂場のドアを閉める。そして、思い出したようにドアを開ける。
「のぞくなよ!」
 そう叫んで思い切りドアを閉めた。



   *   *   *   *   *



 二人はゆうに入れる大きめなジャグジーの付いた風呂にいっぱい張られた湯は、ぶくぶく泡だった入浴剤が入ってマリン色に染まっている。
 それを横目に吉見は深い溜息を付きながら、服を脱ぎ、濡れないところに置いてからシャワーの湯を全身にかぶった。
 男同士でどんな風にするか、少なくとも吉見は遠藤よりよく知っている自信はあった。
 それにしても、遠藤がなんでそんなに自分に固執するんだろうか?
 ホモを嫌悪している様子と、その反対に、吉見との○ックスにあそこまでこだわる理由。結局宇宙人の考えていることは、平凡な吉見には理解できないと云うこと何だろうか?
 頭から全身をフローラルな香り立つボディシャンプーで洗った後、何も考えずに泡だった、ジャグジー風呂に浸かった。
 遠藤の考えていることも解らないが、吉見が理解できないのは拒みきれなかった自分自身だった。
 辞めると脅したとしても、はっきりと拒めば遠藤だって最終的にはあきらめるしかないのだろう。
 それを拒み切れなかったのは、何でなんだろう。
 せっかく仲間になったのだから……、そんな偽善的な言葉ではなかった。
 自分でも解らない行動……、これはもしかして遠藤が云ったように吉見の責任なのだろうか……?
 泡をよけ湯船の湯で顔を洗うと、暖かい、いい気持ちになってくる。そうなると、すべてがどうでもよくなり、瞼がどんどん重くなっていった。


 暖かい……、あの初夏の日の様な……、気持ちよさ……。

 遠藤と初めて逢ったのは、今勤めているドリーマーでは無かった。
 前に勤めていた会社で使っていた印刷所で、遠藤は技術者をしていた。
 もちろん仕事で関わることは無く、話したことはなかったが、それでも覚えていたのは、普通の印刷所なのに、いつもまるで遊園地の子供のように楽しそうにはしゃぎながら仕事をしている姿が、あまりに印象的だったからだった。
 慣れてしまえば比較的単純作業に陥りやすい仕事の中で、遠藤は生き生きしていて、力一杯楽しんで生きているそんな様子だった。
 印刷所に行くといつも遠藤の声と遠藤の上司の怒鳴り声、そんな定番の風景が吉見には少しだけうらやましく感じられた。
 前の吉見が勤めていた出版社は、それこそ社長のワンマン仕事が進み、それに背けずにただ面白くない仕事を、ノルマとして淡々とこなして行くだけのつまらない仕事だった。
 有名ではあまりない大学を出て、普通の企業でほとんど定時で上がれる営業として働きながら、何か手に職を身に着けようと選んだのが、編集の仕事だった。
 仕事をしながら、通信教育で編集の仕事を学んだ吉見だったが、この不景気で有名な出版社になど勤められるはずはなかった。それでも通信教育で紹介されて入社したのが、その会社だった。
 経済の雑誌やムック本を中心に出版をしている会社に二年。何度も社長とぶつかり、玉砕し辞めていった同僚と管を巻いた。
 その出版社でする最後の仕事を印刷所へ最後の校正をしたゲラとデータを持っていったのは、まだそれほど陽射しの厳しくない初夏だった。
 データの最終調整を済ませると、印刷所でお世話になった人達に一通り挨拶をしてまわった。
 その日も、遠藤は上司とディスカッションしながら、楽しそうに仕事をしていた。
 もしかしたら、遠藤みたいに生き生きと働く姿に、影響を受けて、自分も必死にできる仕事を選びたくて会社を辞めたのかもしてない……、後から考えるとそんな風に感じられた。
 それから一年半そんなことが逢ったことすら忘れていた、ある汗ばむ夏に、遠藤は吉見の転職した編集プロダクションに中途入社してきた。
 最初社長に紹介されたときは、気が付かなかったが、うるさい独り言とと、元気いっぱいに仕事をしている姿に、なんとなくどこかで見た気になり、遠藤に前にいた職場を聞き、初めて人物が一致した。
 それを聞いて、あんなに楽しそうに働いていたのに何故転職したしたのか不思議だった。
 しかしそれを尋ねると、遠藤は恥ずかしそうに吉見に告げた。
「え、だって吉見さんと仕事がしたかったんス。俺、吉見さんにあこがれて、転職したんスよ」
 その時、吉見は確か冗談で流したんだった……。


 息苦しさに吉見は、ハッとして目を開けると、湯に沈みかけている自分に気付き、慌てて起き上がった。
 どうやら暖かい湯に浸かり居眠ってしまったらしかった。
「いかん、溺死するところだった……」
 どのくらい経ったのだろう? けれど遠藤が大騒ぎをしていないところを見ると、そう大した時間じゃないのだろう。
 泡の消えたお湯で顔を洗い、一気に出ると、犬のように頭を振り水気を払った。
 もうここまで来たらなるようにしかならかい。
 自分自身に覚悟を決め、両手で頬を思い切り叩く。
「おりゃ!!」
 自分に活を入れるように叫ぶと、用意してあったタオルを巻き、脱いだ服を持つと風呂場のドアを勢いよく開く。
「あぁ!」
 勢いよく開けたドアを開けられ、その横の洗面台で歯磨きをしていた遠藤が、びっくりして固まったまま立っている。
「あ……、すまん」
「……」
 遠藤は一瞬動きを止めた。しかし、動きを止めた所為でこぼれた歯磨粉に、慌てて口をすすぎ、もう一度吉見の方を見るとにっこりと笑う。
「お帰りなさい」
「た、ただいま……」
 遠藤の訳の解らない言葉に、条件反射のように吉見は応えてしまって、首を傾げながら眉間に皺を寄せた。
 いつものことではあるが、予想のまったく付かない遠藤の行動。
 それに翻弄され、自分のペースが乱れるのを感じると、先ほど風呂場で立てた決意が揺らいでいくような気がした。
「あ、お風呂、先、頂いた……」
 吉見は遠藤と目線をなるべく合わさないようにそっぽをき、小さな声でぶつぶつ呟く。「じゃ、俺も入って来ちゃいますね」
「ああ……」
 楽しそうに目の前微笑みながら、服を一気に脱ぐ遠藤。
 恥ずかしいやつだ……、何も考えないかのようにどこも隠さずすっぽんぽんになった遠藤に、吉見は頬を赤らめていた。
 人間の持ち合わせる”羞恥心”と云う感情は、遠藤は超越してしまったらしい……。吉見は遠藤を見つめ、苦笑が思わず漏れてしまった。
 しかし吉見のそんな態度を見て、遠藤はうれしそうに叫び声を上げる。
「あ! 吉見さん、赤くなった! 吉見さん、なんかかわいいっス」
「だ、誰が!!」
 うれしそうに追求している遠藤に、吉見は眉間を更に深く寄せる。自分が恥ずかしいことをしていると云う自覚のない遠藤には、吉見が照れている理由が、解らなかった。それどころか遠藤とのこれからの行うことへの期待感にとれているらしい遠藤は、幸せそうに笑うと、吉見の唇をかすめるように奪う。
 そしてそれに満足している様子で、恋する乙女のように幸せそうな表情で、遠藤はタオルを持つと風呂に消えていった。
「なんだかなぁ~」
 小さくそう漏らすと、濡れた髪を掻き上げ、タオルと一緒に備え付けられた入院患者の様な寝間着を羽織った。そして歯を研こうと洗面台向かった。
 寝間着を羽織はしたが、下着を付けていない所為か下がスースーしてアンバランスな気がした。
 こういう場合って普通下着は着たらまずいよな……? と考えながら、今までのそんなに多くない経験が思い出される。
 確かに、これからベッドインする前に下着なんて付けたら無粋も、無粋だった。
 それでも違和感が拭いきれないのはやっぱり、本意ではないからだろう。
 几帳面に風呂で身体を清めたり、歯磨きしたり、そして下着を付けずにいる自分ってなんて優しい人間なのだろう……、そう自分で自分をほめた。
 実際、そうでも考えなきゃ、この状況に耐えられなかった。
 歯を研き終わり、吉見は今度また寝たら何をされるか判らないと思い、ティーバックのお茶を苦めに煎れた。
 ”う~ん不味い!”と叫びたくなるほどの飲み物に近くなった、ティーバックの濃すぎるぐらい濃い飲み物をのどが焼けるのも無視し一気に飲み干す。
 まな板に見えるベッド。
「俺は鯉か?」
 自分を落ち着かせようとくだらないことを必死に思い浮かべようとするがまったく浮かばず、大きく溜息を付くとラブチェアーにどかっと座り、煙草に火を付けた。
 吉見を優しく包む紫煙。
 やっぱり緊張からか、美味くは感じないが、それでも自分を救ってくれるのは煙草だった。
 一本目を吸い終わり、落ち着かないまま二本目を口にした瞬間、遠藤はまだ背中を濡らしたまま風呂場から出てきた。

「あ、お帰り……」
 編集としてのプライドを捨てたような挨拶に自分で恥ずかしくなりながら、吉見は思わず遠藤にそう告げてしまった。
 しかし遠藤はうれしそうに笑うと”ただいま”と応える。
 この世の幸運をすべて手に入れたような微笑みを浮かべている遠藤。片やそれとは対照的に悪魔にでも魅入られ、世の中の不幸という不幸を背負い込んだような苦笑をしている吉見。
 そんなまったく違う状況の二人の視線が絡まると、自ずと緊張が高まっていく。
 遠藤はにっこりと笑い、腰にタオルを巻いたままの姿で、吉見に少しずつ近づいていく。まるでじりじりと人食い鮫のジョーズでも近づいてくるような、そんな効果音が響きそうなくらいに……。
 無言で見つめ合う二人は恋人同士のスゥイートなものではなく、どちらかと云うと間違えて蛇と遭遇してしまったマングースと云う緊迫感の感じられる視線だった。
 吉見の態度に少しだけ照れたらしい遠藤は、幸せな笑みを照れ笑いに変え、髪をポリっと一回かくと恥ずかしそう口を開く。
「あ、あの、この度は……」
「は?」
 訳のわからない事を口にする遠藤に、吉見は顔をしかめた。普段そんなことに頓着しない遠藤もさすがにその顔に変なことを口走ったと自覚したのか、口ごもりながら、言葉を探す。
「いや……、あの……」
「何だ?」
 弱気な遠藤の口調に、吉見はわざと強気で尋ねた。もちろんこの場におよんで次の行為をごまかすためにだったが……。
 しかしそんな吉見の浅はかな考えも、目の前で何かアイディアが浮かんだ、遠藤の微笑みの前にうたかたと消える。
 遠藤はうれしそうに手を一回ポンと叩いてから吉見に提案です。
「あ、そうだ。えーと、何から行きましょうか?」
「何から?」
「えーと、まず、ベッドに横にでもなりませんか? ね、吉見さん」
 そう云うか云わないか、吉見の返事を待たずに、遠藤は肩を抱くと、あっという間にベッドの上で押し倒される。
 こうなったらもう否とも、すまん俺が悪かった、許してくれ、とも云えずただ流されて行くしか吉見には道は残されていなかった。
「……」
 小さく溜息を付き、覚悟を決めると吉見はベッドに仰向けに横になる。
 広いベッドの横に遠藤はうつぶせになって、明るかった部屋の調光をする。
 薄暗くなって雰囲気のある部屋に、有線放送の甘いジャズが流れ出す。
 恋人達だったらこのまま雰囲気に流され、甘い睦言、そして優しく口づけを交わし合い、お互いの体温を直接確かめ合うんだろう……。
 しかし、吉見の耳に届いてきたのは、睦言とは違って遠藤の深呼吸している音。
 どうやら遠藤も緊張しているらしかった。
 あんなに騒いでる割にはやっぱり緊張するのか……、吉見は少しだけホッとした。あまりに普通っぽい青年の姿。今横で必死に緊張をほぐしている青年が、いつもは何を考えているか判らない宇宙人かと思うと、おかしくなって吹き出してしまった。
 その瞬間、聞こえていた呼吸音が、ピタッと止まる。
「あ、すまん……」
 あまりに真剣だったらしい遠藤に小さく詫びてから、様子が気になり起き上がって、のぞき込む。
 えっ? と思ったときには遠藤に引き寄せられ、バランスを崩すと、吉見は身体を下の男に全て預けるような状態になる。
 直接ふれあう体温。遠藤は吉見を力一杯抱きしめた。耳元で伝わるまだ緊張しているのがはっきりと判る、微かにかすれる遠藤の声。
「ずっとこうなるのを夢見てました。吉見さん……」
「ま、あっ」
 反論を許されず、吉見の口は遠藤の唇によって塞がれる。
 どこまでもマイペースの宇宙人遠藤。しかし、それでもじっとりと汗が滲んでいる体温が感じられる。燃えるように熱くなった身体。今日何度も触れ合っていたが、それでも改めて感じる男の乾いて思ったよりも厚みのある唇に、何か性的な興奮を感じ始める。
 舌で歯列を開かれ、吉見は遠藤との口付けを深くする。
 遠藤とのキスは、不器用で直接的ではあるが、けして下手なわけではない。現に夕べも、今もこの口付けは吉見の股間に新たな予感と期待を与えさせている。
 この雰囲気に酔い、もっと素直に快感を貪りたい気分と、理性なのかは解らなかったが、どこか冷静に判断しようとする自分と両方が頭の中で存在する。
「吉見さんをまずは、気持ちよくさせて下さいね……」
「ぁ……、んっ」
 首から順番に下へと愛撫をしていく唇と、遠藤の大きな手で握られ、吉見は背をしならせるほどの、何とも云えない快感が吉見に走った。
 人によって多少の違いはあるが、それでもどこをどうすればいいか知っている同性同士なのだと吉見は遠藤の愛撫を受けながら身をもって感じた。
 それでもやっぱり冷静な自分がいるのは、普段だったら相手を求めようとする気持ちを押さえようとしたりする感情が、今は必要無いからだった。
 自分から手を出すのは、”嫌々ながら断りきれずにつき合っている”と云うシチュエーション的にもはばかられた吉見は、遠藤が引き出す快感を今は待つしかできなかった。
 ゆっくりと確かめるように遠藤の唇が、吉見が感じそうな部分に落とされていき、緊張で冷たくなっている手が、吉見自信をやわやわともみしだいていく。
 最初はくすぐったさに身体を揺らしていた吉見だったが、だんだんに気持ちよくなり、自身が屹立していくのを自覚する。
 体重をかけないようにのしかかり、吉見の足を開かせると、その間に遠藤の下半身を埋める。
 股間で感じる遠藤の猛っているものの熱さ。
 少しずつ追いつめられるように、身体に感じ始める甘いしびれ。
 遠藤はそんなにテクニックがあるというわけでは無いのだろうが、それでも少しずつけれど確実に吉見を官能の波をもたらしてくる。
「吉見さんが感じてくれてる……、なんかうれしいっス」
 耳元に熱い吐息と共に伝わる遠藤の声。いじられている亀頭からは粘りのある液体が漏れ始めている。
「もう少し、足、開いてくれる? 吉見さん……」
「足……? 開くのか?」
 吉見の質問がおかしかったのか、クスリと笑った遠藤の熱い吐息が股間にかかりくすぐったい。少しだけそれに酔った夢うつつの表情で吉見は身を捩った。
 感じている……、そう伝わる吉見の反応に気をよくしたのか、遠藤は屹立した物に軽く”チュ”と音が立つように唇を寄せる。
 亀頭をかすめた唇は、もどかしい快感を吉見に与える。
「吉見さんかわいいっス」
 うれしそうに笑っている遠藤は吉見の足首を掴み、股間や袋をくすぐりながら、その先にあるまだ硬い蕾の襞を指でなぞった。
 快感と云うよりもくすぐったさに吉見は肌を泡立たせる。ぞくぞくっと震える吉見の姿すら遠藤にはうれしく感じるらしく、まだ開くことの無い秘めたる部分を何度もなぞる。
「やめろ~、くすぐったい……、じゃないか」
「何いってるんスか。そんな嫌がったらここに、○んちん入らないっスよ」
「ち○ちん云うな~!」
 あまりのムードもへったくれもない発言に、思わず上半身を起こし、口を尖らせすねている遠藤を見下ろす。
 しかし遠藤は再チャレンジとばかりに、吉見の足を引っ張り、人差し指をしゃぶり唾液をたっぷり付けると、それを秘めたる部分埋め込もうとする。
「い、痛い~。そんなんじゃ入るわけないだろう!!」
 準備も何もなく無理矢理指を入れられ、吉見は痛みに飛び上がりそうだった。
「でも~」
「でも~、じゃない。たっく……」
 小さく溜息を付き吉見は頭を抱えながら、自分の股の間でカエルみたいな格好をしている遠藤を足でよけた。
「あ、吉見さん!」
 ベッドからどこうとする吉見に縋り付く遠藤。そんな遠藤に吉見は乱れた髪を掻き上げ溜息を付く。
「お前さ。今まで、そんな乱暴なやり方して嫌われてなかったか?」
「そんなことありませんよ~」
 遠藤は子供のように頬を膨らませ、口調をますますすねたものにした。
 あの手の男同士の夜の営みまで書かれた本で研究したなら、どうするかくらい知っているはずだろう?
 まして吉見が記憶するに、あの本にはきちんと”(秘)テクニック”って云う部分にあったはずだった。
 それなのにならしもせずに挿れようなんて、なんでそんな乱暴なことができるんだろうか、吉見はそう疑問に思えた。
「あのな~、いくら何でもそんな乱暴なやり方したら逃げるだろう……。お前さ、今までとかHする時、相手を達かせたこと無いだろう?」
「……」
 応えない遠藤を横目で見ながら、薄暗くした部屋の灯りを明るくすると、ベッドに腰掛けテーブルから煙草を取った。そして火を付け、うんざりするように溜息の様な紫煙を吉見は吐き出した。
「なー、もー止めないか?」
「え?」
「不毛だろ? これ以上……」
「そんな……」
「お前さ、あんな本まで買ってるけど、ちゃんと読んだ?」
「え、まだ……全部は……」
「そうだろうと思ったよ。お前、男同士でどうやるか調べないで、セックスしたいってわめいていたのか? それも、セックスしてくれなきゃ会社辞めるとまで脅して、俺をここまで連れ込んだのか?」
「それは調べましたよ! でも……」
 遠藤は唇を噛んだまま、うつむいてしまい、言葉を止めてしまった。
「でも、何だ?」
 しかしそんな遠藤に呆れながら、溜息混じりに訊ねる。
「でも、まさか……、本当に吉見さんがつきあってくれるなんて……、思って無くて」
「無くて?」
「本は慌てて今日、買いに行って読んだんス」
 ああそうかい。吉見は投げやりにそう叫びたかったが、あまりのことのくだらなさに、そんなことどうでも良くなってきていた。
 嫌悪を感じていた男同士の関係にそれを押しでも約束をしてしまった以上引けないと思っていた。けれど、本気なのかどうなのか判らない遠藤の態度に自分も誠実にする必要を感じなくなっていたからだった。
「ま、何でもいいや……。遠藤も、男同士じゃ簡単に出来ないってわかっただろうし、あきらめるんだな……」
「そんな! せっかくここまで!」
 そっぽを向いている吉見に必死に縋り付く遠藤だったが、性的な関係など一回水をさされれば、恋人同士でも再会するのは難しい。
 吉見は萎えてしまった気分に紫煙を吸い込み、それでも縋ってこようとする遠藤にうんざりするように煙を吐いた。
「でもこれ以上進めないだろう? やり方わかんないんだから……」
「待って下さい! 今から本、読みます! じゃなきゃ、吉見さん教えてください。いつも見たいに、編集のなんたるかもまったく知らなかった俺に教えてくれたように、じゃないと、俺……」
 ベッドで一人取り残されていた遠藤が、スプリングを効かせ立ち上がると、脱いだ物でごしゃごしゃになった中から本を取り出そうとする。
「なあ、何でそんなにこだわるんだ?」
「え?」
 その質問に、遠藤は一旦探す手を止め、反対に不思議そうな瞳で吉見を見つめる。
「それは、吉見さんが好きだからに決まってるじゃないですか。ずっと吉見さんにあこがれて……。俺、印刷の仕事好きだったけど……、でもずっと吉見さんの近くにいたくて」
「俺の近くにいたくて会社を辞めたのか?」
 あたかも当然と云う表情で遠藤はうなずく。
「ずっと、吉見さんのいるドリーマーで求人出すの待ってて、そしたら運良く職安で見つけて、試験受けたんっス」
 お前、それってストーカーだろう? とは思ったが吉見はさすがに口にせず、ただ苦笑した。
「吉見さんは信じてくれないっスけど、冗談でずっと好きっていってたんじゃないっス。俺、印刷所で、吉見さんが前の出版社で働いていた時に何度も見かけて、ずっと仕事できてかっこいいって思ってたんです」
「……」
「吉見さんのことしか考えられなくなって、まじに、彼女より吉見さんのこと気になって、そしたらいても立ってもいられなくなって……。吉見さん、お願いします。一回でいいんです。一回やったらもうあきらめます。だから……」
 吉見は大きく溜息を付いた。
「わかった、一回だけだぞ……、本当に一回だけだからな……」
 火のついた煙草を灰皿に押しつけ、さっき落とされたバスタオルを腰に手早く巻くと、玩具が販売されている自動販売機の前まで行ってのぞく。
「遠藤、二千円」
「え?」
「お前のお願いにつき合うんだから、金ぐらい出せよ」
「玩具でも買うんスか?」
「? まあ、正確には違うが後で説明するから、とにかくやりたいんなら二千円出せ」
 不思議そうに首を傾げながら立ち上がると、ジャケットから財布を取りだした。
「すっぽんぽんで恥ずかしくないのか?」
 裸のまま財布を持ってきた遠藤に吉見が顔をしかめる。しかし、遠藤の興味は吉見が買う物にあり、自分が何も着てないとか、股の間で男の象徴がブラブラ遊んでいるとか、そんなことは些細なことらしかった。
 やっぱり遠藤は宇宙人だ……、と再自覚しながら吉見は遠藤から二千円をもらうと販売機に入れ、この場で必要なものを買う。
 商品の小窓が開き、買った物を遠藤に手渡すと遠藤はまるで初めて文化に触れたターザンのような不思議そうな顔をする。
「ラブローション? なんスか、これ?」
「知らないの? 女性でも潤いが足りなくて、ここを挿れられると痛いってのもあるんだよ。だからそんな時なんかによく使う潤滑剤」
「へぇ~」
「ちんちんに付けて挿れるときの衝撃を減らしたり、これで受け入れる側をほぐして感じさせてやるんだ。もっともこんな場所で使う場合は、ぬるぬるプレイとかでも使ったりするけどな……」
「ぬるぬるプレイって何スか?」
「いいんだよ、おこしゃまは知らなくて……。おし、これで俺のけつの穴をほぐせ。で、さっさと終わらせて、とっとと寝るぞ!」
「解りました。さすが吉見さん! 経験も豊富ですね! 俺、最初の男じゃなくても、吉見さんが別の男とつき合っていてもいいっス。今晩は俺だけの吉見さんになって下さい」
「ちょっと待て、今なんて云った?」
「え? 今晩は……」
「いやその前……」
「経験が豊富?」
「その後……」
「吉見さんの最初の男っスか? それとも好きな男?」
「おい、なんで俺が男とつき合わなくちゃいけないんだ?」
「え? だって……。いや、俺はそんなことにこだわってませんから、いいんス」
「ちょっとまて、お前はいいかもしれないが、俺はこだわる。お前はそういう目で俺のことを見ていたのか?」
 いきなり火のついたように吉見の姿に、遠藤は何事が起こったのか判らずにただ驚いた顔をする。
「は?」
 しかし吉見の不機嫌さはどんどん増していき、立ち上がると苛立ちを隠せない声になっていく。
「わかったぞ、お前には俺が男だったら誰でも楽しむ人種に思えたわけだ?」
「ち、違いますよ!!」
 怒りに任して、腰に巻いていたタオルと外して遠藤へ放るとと、吉見は脱いで畳んであった服を着ていく。
 タオルを顔に勢いよくぶつけられた遠藤はそれを外すと目の前で乱暴に服を着終え、部屋を出ようとする吉見の姿が見える。
「ちょっと吉見さん! 何してるんスか?」
 慌てて吉見を追い掛け、出口を塞ごうとする遠藤。吉見は怒りのあまり、力いっぱいそのでかい身体にラリアートをくらわす。
「帰る、どけ!!」
 何故吉見が急に火がついたように怒りだしたのかわからない遠藤は、戸惑いながらも必死に止めようと吉見の肩を握る。
「何でですか?」
 応えない吉見に、遠藤は声を少しだけ荒げてもう一度訊ねる。
「何でですか? さっきはいいって云ってくれたのに……、なんでいきなり帰るって」
「……」
 そっぽを向いて返事をしない吉見に、遠藤は縋り付いてくる。
「吉見さん説明してください! 俺、変なこと云ったんだったら謝ります。だから、帰るなんて云わないでください!」
 あまりの腹立たしさに、うつむき歯を食いしばっていた吉見は、小さく深呼吸をし、遠藤をまっすぐ見ると、きつい視線のまま訊ねる。
「遠藤はさっき俺が好きだっていったよな?」
「はい云いました。俺、死んでも良いくらいに吉見さんを愛してます!」
「じゃあ、なんで好きから、いきなりセックスに考え方がつながるんだ?」
「え?」
 質問の意図が理解できずに、首を傾げる遠藤。
 冷静に考えたら大人同士の恋愛だとしても、感情より身体の関係を求めるのは相手に対して失礼な感情だと吉見は思っていた。
 それなのに、遠藤は好きだと云いながら、感情よりも身体の関係を求めてきた。
 まして、遠藤は吉見を男性とのつきあいがある、と勝手に思いこんでいる。
 それに気付いてしまうと、ただ遠藤はセックスをしたいと思い、たまたま近くで相手をしれくれそうに思える自分に声をかけたのではないか……、そんな勘繰りをしてもおかしくない状況だった。
 吉見は遠藤を睨み付けながら、小さく呟く。
「結局……、お前は誰でもいいからやれる相手が欲しかっただけじゃないのか?」
 いきなりの怒りと、思ってもいなかった吉見の発言にうろたえながら遠藤は、必死に否定する。
「そんなことありません! 俺は……、ずっと吉見さんに好きですとか、愛してます、とか云ってましたよ? 吉見さんは覚えてないかもしれないけど……」
「どういうことだ?」
「ほら覚えてない、まあ、いいんスけど……。男同士で告白しても本気でとるやつの方があぶないっスよね」
「で?」
「ああ、えーと、実は夕べ騒いだのは……、ちょっと覚悟の上だったんス……。ずっと思っていても本気にしてくれない吉見さんに気持ちを、どうしたら伝えられるかこれでも色々シュミレーションしたんスよ」
「どう云うことだ?」
 まったく言葉の意味が理解できない遠藤の発言に、吉見はもっとわかりやすい説明を求める。
「まあ、でマジにどうせ叶わない思いなら、矢でも鉄砲でももってこい! って気分で、退職覚悟で吉見さんにしかけたんス」
 お前そこまで考えるか? と宇宙人たるゆえんだと再認識させられた。かっとんだ思考に吉見が苦笑しいると、遠藤は寂しそうに言葉を続ける。
「でも……」
「でもなんだ?」
「吉見さんは男の人でも平気な人だってわかって……、ちょっとショックでしたけど……」
「はぁ? 誰が?」
「誰? え? いや……、そんなにかわいくて、かっこいい吉見さんが、他の男の人に奪われちゃっていても、しかたないんスよね……」
 云いずらそうに口ごもる遠藤に、吉見に眉間にはますます深い皺が刻まれる。
「だから、何で俺がお前にホモ扱いされないといけないんだ?」
「え? 違うんスか?」
「当たり前だろう? 何だ俺がホモなんだよ!」
「だって、本も載ってない男同士で使えるホテル知ってたし」
「知ってたし?」
「いや……、あの……、玩具つーか、潤滑剤も詳しいし……。ぬるぬるプレイとか……、男同士のその……Hのやり方も判ってるし……」
 それだけで誤解されていたのか……、そう考えると、驚く気持ちを通り越し、吉見は呆れるしかなかった。
 深い溜息を付いた吉見に、遠藤はまた的を外したことをいったのではないか、と感じたらしく、溜息の意味を尋ねる。
「え? 何スか? 俺、今、変なこと云ったっスか?」
「あんまり云いたく無いが……」
「云って下さい!! じゃないと判らないっス! 俺、吉見さんに男の恋人がいて振られるんでもきちんと聞きたいっス!!」
 まだ誤解したままの遠藤に顔を引きつらせながら、口惜しそうに吉見は告げる。
「そうじゃない」
「そ、そうじゃないってなんなんスか? え? あの……」
 説明を待たずに、矢継ぎ早に訳の変わらないことを言葉。遠藤の口を手で押さえると、小さく息を吐く。
「ちょっとだまっていろ。俺がその辺りを詳しかったのは、お前が持っていたあの本な、編集を俺も手伝ったんだ……」
「へ?」
 すっとんきょうな顔をして、吉見の言葉を理解できない遠藤に、めんどくさそうに大きく溜息を付く。
「だから~、あの本の出版したのが、俺のダチなんだ。で、ちょうど前の会社辞めて、ちょっと暇だったから編集を手伝ったんだ」
「え?」
「このホテル知ってたのは、その時に取材を依頼して断られたんだ。だから本に出てないが、俺は知ってたんだよ……」
「じゃあ、○ックスの仕方は?」
「あんなの……、あれも俺が男のカップルに取材して書いたんだ……」
「え、え~? まじっスか?」
「ああ、そうだ。あの本の取材はホモがやってる訳じゃないんだよ! わかったか、じゃあ、帰るぞ、俺は!」
 もういいだろう? とばかりに遠藤に説明すると、吉見はちらりと時計を見てまだ電車が走っている時刻だと確認する。そして、部屋を出ていこうと目の前に立ちふさがる遠藤を手でよける。
「えー? ちょ、ちょっと、待って下さいよ、吉見さん」
「何だ? もういいだろう? ホモ呼ばわりされて、あの屈辱的な本の説明まで、お前はさせたんだから!」
 目の前に立ちふさがる遠藤をどけて、吐き捨てるようにそう云うと、とにかく部屋から出ようとするが、遠藤はそれを止めようと、意地でも動こうとはしない。
「そんな……、帰るなんて……。ホモ呼ばわりしたのは謝ります。ごめんなさい」
「もういい……、過ぎたことだ……」
 吉見の中では、あの本のことも、今日のことも無かったことにすべてして、早く家に帰って寝たいとすら思っていた。
 ここから一歩でも吉見が外に出てしまえば、もう二度とこんなチャンスは無い。ここで別れれば会社を辞める……その覚悟で、遠藤は吉見の腕を掴んだ。
「でも、俺の気持ちはどうなるんスか?」
「お前の気持ちだ?」
 じゃあ、だまされて、それに乗せられてのこのこ付いてきて、あげくにホモ呼ばわりされた俺の気持ちはどうなるんだ。
 恥ずかしさで、誰にも云いたくなかった屈辱のあの本の説明までした、俺の怒りはどうなるんだ。
 そう思いっきり叫んでやりたかったが、そう叫んだ所で、遠藤のことだからきっと意味が通じないだろう。
 こうやって言葉を飲み込んでいることにも気付かない遠藤は、真剣な表情で吉見の手を両手で握りしめる。、
「やっとここまで来て……。俺は我慢できなくなるくらいに、吉見さんを愛してるんっス!! お願いです、こんなところで見捨てないでください!」
 目線だけは遠藤を向けているがどう応えていいのか返事の浮かばない吉見は、ただ無言のまま動きを止めた。
 止めた瞬間、遠藤はつぶされるのではないかと思える位の馬鹿力で吉見を抱きしめた。
「吉見さん……、お願いです、見捨てないで下さい……」
「え、遠藤……。ちょっと……、おい」
 身動きができなくなるくらいにきつく遠藤に抱きしめられ、思わず驚いてしまった。
 遠藤の巨体が吉見に縋るように抱きついている。
「マジに愛してるんス……。確かに……、俺の気持ち気付いて貰いたくて、もし吉見さんが俺とセックスしてくれれば、俺の気持ちに気付いてもらえるかも……って、そうなこと考えました……」
「お前!」
 あまりにゆがんだ遠藤の思考に、吉見は思わず声を荒立てた。しかしもう逃げ場のないらしかった遠藤には、ただ吉見へ縋り付くしかないようだった。
「でも……、そこまでしても、吉見さんはまったく気付いてくれないだろう? 俺がどんなにつらかったか……」
「遠藤……」
「吉見さんに逢って、好きって自覚する前に彼女とつき合って足りしましたよ。吉見さんが会社辞めて印刷所に来なくなって、気になって、気になって押しつぶされそうになっても、これはなんか勘違いだって思いこもうとしました」
「……」
「でも、忘れられなかった……、ずっと逢いたくて、つらくて。だから前の仕事諦めて、やったこともない編集に転職も吉見さんと一緒に仕事出来るんなら、すれられました。俺、そのくらい吉見さんが好きなんス」
「そ、そう云われても……」
 あまりの重い思いにむげにすることもできず、けれどどうしていいのか戸惑う吉見に、遠藤はもう絶対に離さないとでも云いそうなほどに、抱きしめる手に力を入れた。
「困るんなら……、今日だけでいいっス。吉見さんを俺に貸して下さい。お願いします!!」
「何だ、そ……」
 そりゃと尋ねようとした吉見の唇は、遠藤の熱い唇で塞がれた。
 かさかさした遠藤の唇……、間抜けにもキスをしていると云う感情よりも、そちらの方が先に吉見の頭をよぎった。
 しかし、肩に回された腕に力が入り、布越しにも体温を感じられる。触れている唇の角度が変わると、その先に舌が差し込まれてくる。そうなるともう逃げ出すことを許されないくらいにせっぱ詰まった遠藤の気持ちに、吉見は少しずつその思いを受け入れて行くしかなかった。
 歯列を舐められ、強引に絡めてくる舌。そこからは、今までの緊張を隠しきれず途方に暮れていた姿ではなく、はっきりとして雄だとわかった。
 それでも素直にこの現状を受け入れられない吉見の舌が、狭い口の中で逃げようとしても、思いのはっきりした遠藤の舌は、とらえると、離れることを許さない。
 いつもおどけ何を考えているか判らない宇宙人ではなく、はっきりと吉見を求めてくるそんな恋愛。
 ”マジに愛しているんス”か……、あまりに乱暴すぎる告白と、先に何とかつなぎ止めようと身体の関係を求めてきた遠藤の突飛すぎる行動。
 遠藤の気持ちが舌を通じて伝わってくる。
 どちらが先輩で、どちらが後輩だとか、どちらが年上で、どちらが年下だと云うことなんてきっとこの場に於いてはちっぽけなことなんだ……。
 吉見ははっきりと自分を愛している、と云った遠藤の気持ちそのものの様な熱い口付に、何もかもすべてどうでもよくなってくる。
 見解の相違を”宇宙人”と片づけないで、この青年をここまでさせる思いを少しだけ応えてもいいかもしれない。
 吉見は白旗を揚げるように恐る恐る、だらりと力無く垂れ下がっていた自分の腕を遠藤の首に回す。
 身体が今まで以上に密接し、この口付けが言葉では上手く伝えられない恋人同士の思いのような、そんな優しい暖かい気分になっていった。
 いや、もしかしたら吉見自身云いたいことをはっきり云って、それで満足してすべてどうでも良くなったのかもしれなかったが……。
 そして、さんざん吉見の口腔を蹂躙した舌が離れていく。その瞬間に遠藤の首に回していた吉見の腕も、そっと解く。
 あれだけ嫌悪を感じていたはずが、何故だか離れていく瞬間もの悲しさを覚えている。
 しかし遠藤はそんな思いをまるで判っているように、名残惜しそうに自分の唾液で濡れた吉見の唇を愛おしむように親指で拭うようになぞった。
「あっ……」
 思わず声を発してしまった吉見を、遠藤は首を傾げのぞき込む。
「ごめんなさい……、吉見さんの気持ちを無視してるかもしんないけど……、でも今晩だけ……許して下さい……」
 まるで自分に云い聞かせるようにそう呟くと、ゆっくりと吉見の服を解いていく。
 吉見はそんな遠藤を見守るように手を出さずに、やりたいようにさせたい、そんな気分になっていた。
 確かにここまで来て、逃げるのも男じゃないしな……、そんな云い訳を自分にしながら……。
 服がほどけていくたびに、愛おしむようにされる肌に感じる遠藤の唇。羞恥心を煽るように、じっくりと遠藤は吉見の裸体を確かめていく。
 同じ男の裸のはずが、今は不思議と違う物に感じてくる。
 タオルを巻いていない遠藤と同じ姿になり、抱きしめられ、もう一度今度は一方的な物ではなく、感じ合う口付けを交わしていく。
 愛し合っているというのは嘘だ。けれど、今だけはそんな言葉のマジックにかかったように、この時間を楽しみたかった。
 お互いの舌を絡め合い、唾液が混ざり合い、口蓋を味わうようにゆっくりと焦らずに確かめ合う。
 体温が高まり、熱くたぎっている遠藤自身が身体にそっと目線をやる。
 同じ物が付いている……、そう意識したとたんに溢れる、嫌悪感。それを追い払おうと勇気を振り絞り、吉見は恐る恐るそれに触れる。
 最初は触れるだけ、しかし、次はゆっくりと握る。そして、扱きながら、先端を指の腹で優しく撫でる。
 覚悟はきまったんだから……、もう一度、吉見は自分自身にそう云い聞かせながら。
「よ、吉見さん!」
 いきなり吉見に自身をさわられ遠藤は、驚きと狼狽で唇と慌てて離した。今の状況に流されることはあっても、まさか受け入れてくれるわけがない……そう信じていたらしい遠藤には、その行動は本来喜ぶべきことだったはずが、反対に戸惑いを招いているらしかった。混乱し身動きできずにいる遠藤に吉見は優しく微笑む。
「こんなことでいちいち驚くな。お前、これからもっとすごいことをしたいんだろう?」
「そ、それは……」
 確かに吉見の云う通りだったが、それでも言葉を飲み込んだ遠藤の耳たぶをふざけたように吉見が歯噛んだ後に、まだ少しだけ余裕あるように囁く。
「気持ちよくなりたいんだろ? あれだけ迷惑なほどに○ックス、セ○クスしたい、ってわめいたんだもんな……」
「で、でも……」
 耳を攻められ背筋に感じる寒気をやり過ごそうと、遠藤はきつく目をつむりながら反論しようとする。
 しかし開き直った吉見はそれを楽しむように、遠藤の肩に手を回し、舌で耳を舐った後に、息と一緒に言葉を吹き込む。
「だけど、お前だけ気持ちよくなって終わりなんて許さないからな。せっかくのセ○クスなんだから、一緒に気持ちよくなろう?」
 その言葉に、耳元から背筋に感じる寒気をやり過ごしてから、遠藤は子供のように吉見に縋り付く。
 まるでもう離さない、そんな言葉でも告げるように。
「じゃあ、立ったままってのも疲れるから、ベッドに行こう、なっ」
「はい!」
 遠藤は満面の笑みを浮かべながら、一旦自分自身を握る手を離した吉見をベッドまで優しく案内すると、ゆっくりと横たわらせる。
 幸せを感じている笑みを浮かべながら遠藤は、ベッドに横たわる吉見を見下ろし、もう一度する深い口付け。
 まもなく唇が解放され、遠藤は体重をかけないように吉見の上に覆い被さると、唇を少しずつ下ろし、首筋、鎖骨、そしてまだ快感を知らなかのように隠れている乳首を吸い上げる。
「く、くすぐったい……」
 肌が泡立つ感覚に吉見は身をよじると、遠藤は気をよくして反対側の乳輪を何度か指でなぞった後、乳首を摘んだ。
「あっ……」
 ただのくすぐったさではなく、何とも云えない不思議な感覚に吉見は思わず声を上げてしまい、思わず口を両手で塞いだ。
 声を上げた瞬間、くすぐったいような感じから胸が解放され、吉見はホッとする。
「仕事中はあんなにかっこいいのに、今の吉見さんはかわいいっス」
 遠藤のうれしそうな声に吉見は恥ずかしさを覚え、頬赤らめるとそっぽを向いてしまった。
 しかしそんなささやかな子供っぽい行動が、遠藤にはますます幸福感を感じさせるらしく、吉見を見下ろしながら、うれしそうに身体の至る所をくすぐってくる。
「あ、あ、止めろ~」
 吉見もお返しとばかりに、遠藤の横腹をくすぐる。
「ぎゃー、や、止めてください……、吉見さんをくすぐるのは止めますから~」
 ふざけあう様子は、まるで猫のじゃれあいに似た風景。
 表情に自然と笑みのこぼれ、吉見はこういうのもいい様なそんな気分になっていた。
「もう勘弁、勘弁して下さい~、吉見さん~」
 男二人が横になった狭いベッドで、その中で必死に逃げ回っていた遠藤。子供のじゃれ合いの様な雰囲気。遠藤は吉見をくすぐる手を止めて、ゆっくり頭の上にホールドアップをするように上げた。
 楽しい時間、本気で吉見はそう感じられた。
 吉見は何故だかそんな心が安げる時間を味わいながら、遠藤の脇腹にあった手を、股間でほんのわずかしか力を持っていない部分に回す。
 握り込み、そしてゆっくりと先端を人差し指でなぞりながらしごいて行く。
「あ、よ、吉見さん……、それはちょっと……」
 いきなりさわられ、うろたえている遠藤。
「遠藤も、気持ちよくなれ……」
 自分からセックスがしたいとわめいていたはずなのに、実際には戸惑っている姿が、吉見にはかわいく感じられた。
「あ、い、いいっス。吉見さんも……、気持ちよくさせてください……」
 そう云うか云わないかのうちに遠藤の手が吉見の一物を掴み、擦り上げていく。
 遠藤の体温を帯びた大きな手のひらからもたらされる快感に、思わず吉見の口から熱い吐息が漏れる。
「うっ、いい……、遠藤……」
 感じる部分をよく知り得ている手のひらは、巧みに身体の性感帯探し当て、そして引き出していく。
 このままでは達してしまうそんな不安を感じた吉見は、歯を食いしばって、必死にこみ上げる快感を押さえてる。しかし、遠藤はわざと吉見の後蕾探り当て、逆の手で触れくる。
「え、遠藤……」
 先ほどと同じことが起こるのではないか……、そんな恐怖と驚きを感じた吉見の尻に、自然に力が入ってしまう。堅くなった身体をほぐすように、遠藤は優しく吉見の額にそっと唇を押しつけ、呟く。
「ねぇ、俺、吉見さんの中に入りたいっス……。いいっスか?」
 遠藤は今にも暴発しそうな局部をいじりながら、まだ硬い部分に触れてくる。吉見はベッドの上に転がしてあるさっき買ったラブローションを無言のまま手に取ると、キャップを開けて手渡す。
「吉見さん?」
 何をしているのか見当の付かない遠藤から聞こえる不安そうな声に、吉見は軽い口付けで返す。
「これを塗りこんで、そこを……、ほぐすんだ……」
「え、あ、ああ……」
 吉見の暗号の様な言葉。しかし遠藤は何を云いたいのかを理解し、一瞬驚いたような表情をしたが、すぐにことを察し、吉見の唇に了解を意味する口付けをする。そしてチューブから中の液体を手に取り、ゆっくりとまだ硬い部分をなぞっていく。
「ひ、冷たい……」
 いきなり液を隠された部分に落とされ、吉見は驚きの声が漏れる。
「ご、ごめんなさい」
 詫びながら動きを止める遠藤に、吉見は”大丈夫、大丈夫……”と微笑みながら、遠藤が取った後ベッドヘッドに置かれたチューブを取る。
「ここにも……、いいか……?」
 自分のあまりに大胆な行動に羞恥心を覚えながら、液を手に取ると、体温で少し温めてから遠藤の屹立した自身に塗り込んでいく。
 粘りけのある液体の音をはらんだ行為。遠藤の中指が少しずつ中に入っていく。
 ローションの力を借りて痛みを感じずに進入を果たした指は、どこをどう目指していいのか戸惑いを感じるようだった。
 吉見は異物に掻き回されているような違和感と、身体に少しずつ灯り始める甘いしびれを感じながら、荒くなりつつ息を必死に整え口を開く。
「もう少し中の……、ちょうど、男性器の裏になるあたり……」
「え? ちんち○の裏?」
「ああ、そこをゆっくり探すんだ……」
 遠藤の声が驚きの声に変わる。どうやら吉見が遠藤のように云った言葉にびっくりしたようだった。
 そんな遠藤の姿もなぜだか開き直ってしまえばかわいく感じられる。吉見はそんな暖かい気分で、身体の中で動いている指を追う。
「そ、その当たり……」
「え……、ここでっスか?」
「う……、あぁ……。そ、そこら当たりが前立腺だ……。そこを探して見ろ……」
「は、はい」
 遠藤は素直に吉見に従うと、指を少しずつ動かし、前立腺を探していく。
 まだはっきりとはしなかったが、じわじわと自分を浸食する普段知っていた官能とは別の感覚。口で云いようの無い初めて感じる感覚に吉見は戸惑いながら、身体の中で不安げに動いていく遠藤の指を感じていく。
「うっ……、あ、え、遠藤!!」
 一瞬遠藤の指がかすめた部分に、吉見は目の前が弾けるような衝撃を受けた。吉見の声に、遠藤は動きを止めたが、それが感じる部分だとすぐに理解した手は何度もそこを付いてくる。
「あ、あぁ……、遠藤……。だめだ……、そ、そこは……」
 身悶え、もはや気持ちよくさせることすら出来ない吉見は、その快感をやり過ごそうと遠藤自身を握っている手に知らず知らずに力が入る。
「あっ、よ、吉見さん……」
 思いきり握られ、困惑の声を漏らす遠藤に、吉見は息をどんどん早くなる鼓動を沈めようと、一回ゆっくりと深呼吸してから、その部分から手を離す。
 それでも今まで感じたことのない様な甘いしびれ。衝撃のような快感に混乱している吉見に、優しくそっと口付けると遠藤は囁く。
「ゆ、指を増やして、いいっスね……」
 一旦官能のスイッチの入ってしまった身体を持て余しながら、きつく目を閉じ吉見は言葉もなくただうんうんとうなずく。
 吉見が大丈夫なのを確認し、遠藤は感じる部分の確認しながら、指を二本に増やし、今度は自分が入っても平気なように入り口をゆっくり広げ始めた。
「あ、う……、遠藤……」
 ローションの力を借りても、まだ開いたことの無い身体は、二本の指を飲み込むことは何とか出来たが、広げられると痛みにも似た疼きが感じられる。
 けれど、指がゆっくりと動いていくたびに、最初はほんの一部分だった疼きが、今度はそれだけでは物足りなくなってくる。
 どうしていいのか判らなくなった吉見は、ただ枕を思いっきり握る。背筋では感じる甘いしびれと、遠藤から与えたれる何とも云えない痛みと快感をやり過ごそうと、全身に力を込めた。
 いきなり締め付けられる二本の指。
「吉見さん……、大丈夫だから……」
 そう優しく呟いた後、後蕾を開いているのとは逆の手で、吉見の今にも爆発しそうな屹立した部分をこすり、唇で胸の飾りを吸ってみる。
「あ、え、遠藤……。だ、だめだ……、そんな……」
 訳の判らないほどの快感に吉見の身体から少しずつ力が抜けていく。しかし、快感に身悶え震え、熱い息を吐きながらあえいでいる吉見の扇情的な姿。
 普段の仕事をしているりりしい吉見とは違う色香の漂う姿に、遠藤の猛っている部分が耐えられなくなりそうになる。
「ごめん、きついかもしんないけど、指、増やすよ」
 一瞬吉見自身をしごいていた手を離し、もう一度ローションで蕾を開花させようとしている手に垂らすと、指を三本に増やし自分が入れるかを確認する。
「あ、ああ……、え、遠藤……」
 苦しそうに息を吐く吉見に遠藤は耐えられなくなり、指が三本入ったのを確認するとすぐに指を抜き、手早くスキンを付ける。それからスキンを付けた自身もローションで濡らしてから、吉見を貫く。
「い、いや……、あっ……」
 指とは違う太く熱くたぎるものに、吉見は思わず首をイヤイヤ振りながら、苦しそうな呼吸をする。身体が引き裂かれるような思いだった。
 けれど、それでもまだ開ききっていなかった狭い部分は、亀頭を埋めるのでやっと、でそれ以上動くことができなかった。
 遠藤は吉見自身をやわやわとしごきながら、胸に軽く歯を立てる。
「あぁ、あ……、だ、だめ……」
 全身が快感のつぼになっている吉見は、最初はただくすがりついていたが、どんどん身体を燃える様に熱くし、甘い声を部屋の中に響かせている。
 そうやって少しだけ力が抜けたのを確認すると、遠藤は腰をゆっくり回しさっき感じていた部分を探していく。
 狭い筒は遠藤をきつく締め付けてくる。それでも潤滑剤の力を借り、ゆっくりと抽挿をしていき、確かこの辺……、そう思えた部分に自身をする。
「だ、だめ……、そこ……」
 いきなり声が上がり、吉見が全身を震わせながら、知らず知らずに涙があふれ出し、下腹部が痙攣したように震えている。
 痛いのではなく、自制しきれない感情が涙を流しているのだった。
「ここだね……、吉見さんの感じる部分……」
 その部分を中心に攻めていく遠藤に、吉見は耐えられずに蕾をひくつかせて、もっと快感を求めるように腰を自ら動かしながら、目をきつく閉じ、ただ言葉にうなずくしかない。
 首をがくがくと何度も動かしなら、吉見は全身を震わせている。
「だ、だめ……、そんな……。え、遠藤……。あ、ぁ、あ……」
 吉見の口から漏れる声が痛みから、快感に変わっていく。欲望を受け入れた吉見の熱い筒は遠藤自身をもっと、もっとと云わんばかりに絞まっては、ゆるめていく。
「あ、いいよ……、吉見さん」
 少しずつピッチを早め遠藤は吉見の奥をどんどん開いていき、吉見はそこから更なる快感を受けていく。
「遠藤……、お、俺もいい。い、あっ……」
 吉見は遠藤から与えられた快感で達してしまうと、遠藤も”俺も……”と歯を食いしばりながら吉見の中で精を思いっきり吐き出した。
 乱れた呼吸の中、まだ繋がったままの身体は今まで以上の過ぎる快感に、力を失うように倒れていく。



   *   *   *   *   *



 理性も何もかも忘れて獣のようになっていたことが嘘のように、呼吸を落ち着かせた吉見はサイドテーブルに置いてあった煙草を取ると、一服し始めた。
 疲れ切っているはずなのに、なぜだか吉見はいつも吸う煙草が上手く感じる。
 遠藤は徹夜明けに激しいセックスに脱力しながら、心地よく感じる吉見の紫煙に微睡みながら、薄目を開けた。
 窓が硬く閉められたホテルでは外の様子はわからなかったが、多分明け方には時間があるのはなんとなくだったがそう感じられた。
 吉見はもう一度紫煙を体内に取り込むと、ゆっくりと吐き呟く。
「遠藤……、一つだけ云っておくぞ……」
「何ス……か?」
 寝ぼけているんじゃないかと思えるような声で応える遠藤に、吉見はそれでもまあいいか……、と思いながら言葉を繋げる。
「お前、会社辞めるなんて許さないからな?」
「え?」
「仕事や、その今回のことや……、何にも知らないお前に誰が全部教えたと思うってるんだ……。あげくにホモ呼ばわりまでしたからな……」
「あ、それは……」
 言葉に詰まりながら、何事かと遠藤が身体を動かす。それでももそもそ動く姿に吉見の表情に自然に笑みがこぼれる。
「原稿が来ていないが……、締め切りが一ヶ月後にはあるだろう? お前、自分だけやり逃げは……、その、許さないからな……」
「吉見さん!!」
 寝ぼけた声が歓喜に満ちた声に変わったのが吉見にはすぐに判った。
 本当に単純なやつだ……、そう思いながら吉見は煙草の火を消すと汗と精液で汚れた身体をきれいにしようと立ち上がる。
「わかったら、月曜日には必ず会社に出て来るんだぞ……」
「はい!!」
 いかにもうれしそうな声は、きっと次の機会を期待しているのだろうか……。
 不思議な気分だったが飴と鞭ではないが、次もきちんと仕事をしたらこんなのもまたいいかな? と吉見はそう感じていた。
 ただ一途なだけの男だが、それでもその思いの純粋さは、今まで吉見が味わったことがないほどの思いだと感じられた。
 打算とかではなく、純粋に焦がれる思いに一口だけ乗っても悪くない気がする。
 そう感じながら、吉見はバスルームに入るとあの暑い夏の日を思い出していた。
 もしかしたら、初夏のあの日、囚われたのは遠藤だけではなかったのかもしれない……。



   *   *   *   *   *



 一ヶ月が経ち……、とある書籍の修羅場中の午前二時。
 ここは代々木と南新宿の中間。
 入り組んだ道の途中にあるマンションの七階。
 そして、今夜もここで若い男の奇声が上がる。
「セック○してー、あーセ○クスしてー」
 ボールペンが砕ける音と共に、別の男の叫び声。
「うるせー、騒ぐならベランダに出てけ!! 明日が何の日か判ってるのか! 明日の午後には版元に出来上がった原稿を届けないといけないんだ!!」
「吉見さん、セッ○スしましょう~」
「ふざけるな~」
 更に紙の束で殴る音と共に女性の声。
「きゃ~、それは~」
「吉見さ~ん、この仕事が終わったら○ックスしましょう」
「じゃまだ、ベランダに出て行け!」
 勢いよく窓が開き、何者かが外に出た瞬間、物凄い早さで絞められる。
 そして、今夜も、窓を叩く音が眠れぬ新宿のちょっと近くでは響き渡っていた。


Fine…
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